2017/11/13

 わたしは十一月生まれなので、今月四十八歳になる。中年になると、一歳二歳年をとろうが、たいした変化はない。先日、東賢次郎さんに会ったら、「一夏ごとに老いを感じる」といっていた。たしかに、体力と気力は徐々にだが確実に衰えている。

 十九歳で上京して、その年の秋に高円寺に引っ越して二十八年。同じ町に住み続けている理由は、半分は無精、もう半分は意地である。二十代後半、ほとんど仕事をしていなかったころ、三十代になっても四十代になっても、週末に高円寺の古書会館に行ったり、高円寺で酒を飲んだりしながら、ふらふら暮らしたいとおもっていた。ようするに、中央線界隈によくいる定職についていない変なおっさんになりたかった。

 わたしは子どもがいないし、妻と共働きなので、学生時代の延長のような生活レベルでもどうにかなってしまう。食事はほぼ自炊だし、古本は百円二百円で買える。あと飲み代と旅費くらい。計画性はないが老後の心配さえしなければ、わりと気楽な生活である。

 吉行淳之介は、マイナーポエットとして大成したいというようなことを書いていた。
 わたしは、大成しなくてもいいから、どうにか自分が生きていける隙間を見つけたい。これも昔の自分がぼんやりと抱いていた夢のひとつだ。

……ええっと、ここまで「夢」という言葉をつかってきたが、自分の中のニュアンスとしては「方向性」という言葉のほうが近い。たどりつくかどうかは不明だが、だいたいの方向さえ大きく間違えなければいい。

 なるべく時間をかけてのんびり寄り道したり後戻りしながら、わけのわからない中年になりたいものだ。