2017/10/31

雑記

 先週、コタツ布団を出す。貼るカイロも隔日くらいのペースで使いはじめている。
 気分は、もう冬だ。

 先週の日曜日、新幹線で博多に。帰りの飛行機は、ひと月前にとっていたのだが、行きは決めずにぐずぐずしていた。そしたら台風である。もし飛行機だったら、運休になっていた。
 福岡ではブックスキューブリック箱崎で木下弦二さんとトークショー&ライブ。打ち上げも楽しかった。福岡滞在中、三泊四日で博多うどんを三食(ラーメンはゼロ食)。空港内のうどんのつゆが好みの味だった。
 大濠公園を散歩。梅崎春生の生家のあたりをぶらつく。西公園の階段にすこしひるんだが、登る。たぶん、ここから梅崎春生も博多湾を眺めていた。
 十年ぶりの博多。中洲の屋台が減っていたのがちょっと残念。たまたま通りかかった屋台のバーでハイボールを飲む。いい店だった。

 東京に帰り、ひきこもり。仕事&プロ野球のドラフト情報収集に明け暮れる。野球と竜王戦(羽生善治さんの永世七冠がかかっている)で忙しい。羽生さん、四十七歳か。
 野球の「松坂世代」や将棋の「羽生世代」の衰えはいろいろ考えさせられる。

 当たり前だが、メシもロクに食わず、酒ばっかり飲んでいたら、体調を崩し、ぐだぐだになる。若いころは、けっこう気力や勢いでどうにかこうにか乗り切ってしまえる……でもそんな生活は続かない。

 食事や睡眠をきちんととる。酒を飲んだり遊んだりするにも、それなりに体調管理は欠かせない。

 羽生さんは、二十代のころから、齢をとって、体力その他が衰えたとき、どう補うかというようなことを書いている。ほぼ「羽生世代」のわたしは、そのことに感銘を受けた。

 将棋界は五十代以上の棋士のタイトル戦を作ったらおもしろいのではないか。ゴルフの「シニアオープン」みたいなかんじで。

2017/10/29

高松の本屋ルヌガンガで

 来月、香川県高松市の本屋ルヌガンガにて、荻原魚雷×東賢次郎 トーク&ミニライブ「働き方怠け方改革」というイベント(司会 福田賢治「些末事研究」発行人)があります。
 東さんは元編集者で京都に移住。小説『レフトオーバー・スクラップ』(冬花社)の著者でミュージシャン(バンド「つれづれ」)で謎の覆面替え歌シンガーです。自由気ままな暮らしぶりには憧れています。
 司会の福田さんは高円寺の飲み屋で知り合い、二〇一四年に高松に移住。東さん、福田さんとも、定職につかず、ふらふらしているという共通点があるのですが、当日は、東京からの移住話をふたりに聞いてみたいとおもっています。

日時 11月27日(月) 19:00 open 19:30 start
場所 香川県高松市亀井町11番地13 中村第二ビル1F
(コトデン瓦町駅から徒歩3分)

詳細は、
https://www.lunuganga-books.com/
にて。

お問い合わせてメールアドレス
info@samatsuji.com(@=半角)

2017/10/22

コスモス忌

 今週月曜日からヒートテック、水曜日から貼るカイロの世話になっている。気温下がりすぎ。雨降りすぎ。急に寒くなると、からだがついていかない。

 土曜日、築地本願寺。秋山清のコスモス忌。秋山清はアナキスト詩人。わたしは自伝が好きでしょっちゅう読み返している。コスモス忌は二十数年ぶり(以前、中野で開催されていたころ、参加したことがある)。
 一部は、林聖子さんと森まゆみさんの講演。林聖子さんは、大杉栄や辻潤の肖像画を描いていた林倭衛の長女でバー風紋の現役女主人。
 久しぶりにコスモス忌に参加したのは、今年ペリカン時代で石丸澄子さんの写真展をやっているときに関係者の人と会ったのがきっかけだった。行ってよかった。いい会だった。学生時代以来に会った人もいた。小沢信男さんともすこし話をした。

 会場で新居格の『杉並区長日記 地方自治の先駆者』(虹霓社)を刊行した古屋淳二さんに話しかけられる。虹霓社のホームページを見て、つげ義春の公式グッズの制作販売していることを知る。

2017/10/14

政治家がしてはならないこと

 ジョージ・マイクス著『偽善の季節 豊かさにどう耐えるか』(加藤秀俊訳、ダイヤモンド社、一九七二年刊)という本がある。ジョージ・ミケシュは、ジョージ・マイクス名義になっている本が何冊かあって、ややこしい。わたしはミケシュで通す。
 この本で、ミケシュは「政治家であるかぎり、してはならないことのいくつか」をあげている。

(1)「すみませんでした」ということばをけっして口にしてはならない。
(2)いったん決めたことは、変えてはならない。
(3)選挙に失敗してはならない。

 ミケシュは「およそ歴史というものは、長い間にわたる数えきれない多くの政治的失敗の連続である」という。だが、政治家は謝罪しない。
 その例として、オーストラリアの国務大臣だったデビッド・セシルが、野党から攻撃を受けたときの答弁を紹介している。

《あなたがたの質問のすべてに対して、わたしは完全な答えを用意しております。しかし残念なことに書類を紛失してしまったので、このさいどうお答えしてよいかわかりません》

 また「いったん決めたことは、変えては変えてはならない」にたいして、ミケシュはこんな感想をいう。

《もしも議席に立ち上がって「わたしはこの問題に関してわたしの政敵のおっしゃっていることはまったく正しく、われわれがまちがっていることがよくわかったからであります」などと述べることのできる国会議員がいたとしたら、わたしはただただ敬服し、そういう人物を深く愛するのみである。いうまでもないことだが、こういう人物が現われることは絶対ありえない》

 選挙に失敗しない方法はいくらでもある。仮に、選挙で惨敗したとしても「自分は自分の言いたいことを全部演説で述べた」と開き直ればいい。「自分が考えていたよりはるかに多い得票数であったといえば、これも勝利である」とも……。
 日常生活と政治における美徳は一致しない。

 長いあいだ、わたしは政治に無関心だったが、ミケシュのコラムによって、政治家の生態を研究するおもしろさを知った。彼らにできないことを期待するのではなく、できることだけを望む。そのくらいのスタンスでいいのではないかとおもうようになった。

2017/10/10

わたしにはわからない

 臼井吉見著『自分をつくる』(ちくま文庫)を読む。忘れられた作家というほど、無名ではないが、もうすこし読まれてほしい。大事な提言をたくさん残している。

 この本の第三部の「人間と文学」という講演の中でこんなエピソードを紹介している。

 小学校四年生の作文に、子どもが自分の家の話を書いた文章があった。
 うちでは、お父さんがあたたかいご飯を食べ、お母さんは冷やご飯を食べる。いつもお父さんが先にお風呂に入り、お母さんと自分は後から入る。
 その後、「ほうけんてき(封建的)」という言葉が出てくる。
 先生はこの問題を取り上げ、他の生徒にも「みんなのうちではどうか」と作文を書かせた。
 すると、ほとんどの生徒が、判で押したように「私のうちも、ほうけんてきだ」と書いてきた。
 臼井吉見は、そのことを薄気味悪くおもう。いっぽう、クラスでひとりだけ「わたしにはわからない」という文章を書いてきた女の子がいた。

《お父さんは外に出て働いているのだから、おふろをわかしても、お父さんに先に入ってもらうことは、自分はうれしい。そして、お母さんがいつも冷たいご飯を食べなければならないというきまりはない。たくさん残っているときは、チャーハンにしてみんなで食べる。しかし、たいていは、お母さんがひやご飯を食べ、おふろにはお父さんが先に入る。それがどうしていけないのか、わたしにはわからない》

 臼井吉見は「ぼくはこの作文をよんでほっとしました」という。他の生徒は「ほうけんてき(封建的)」という言葉をトランプのジョーカーのようにつかっている。

《それをちょいと出すと、みんなまいっちまう。(中略)これを一度使い出すとこたえられない。信州ことばでいうとコテエサレナイのです。そういうコテエサレナイことを覚えたら、もう、ものなんか考えようとしなくなる》

「封建的」という言葉でわかったような気になったり、相手を黙らせたりする——そういう癖がついてしまうと人はものを考えなくなる。臼井吉見は、わからないまま、考え続けることの大切さを語る。

《封建社会には、いろいろの点で、不合理きわまるもので、いまそんなものが残っていたのでは、こまるわけだけれど、しかし、封建社会というものがあったからこそ、これをジャンプ台にして、ヨーロッパも日本も近代的な社会に飛躍することができました》

 この作文の授業の前に、臼井吉見はタイを訪れ、政治家で作家のククリット・プラーモートに会っている。彼は、日本には徳川三百年という封建社会の蓄積があったが、タイにはそれがないといった。
 封建社会を経ずに近代社会を作る。そんな困難な課題に取り組んでいる国の人たちがいる。

「封建的」のような符牒、レッテルは使い続けているうちに効力を失ってしまう。気をつけたい。

2017/10/09

竹槍事件

 阿川弘之著『大人の見識』(新潮新書)は、最初、タイトルを見たとき、ものすごく説教臭そうな本だとおもって敬遠していた。不覚だった。
 フライフィッシングに関する著作もある英国の外務大臣のエドワード・グレイの話が出てくると知って入手したのだが、阿川弘之の印象がずいぶん変わった。こんなに反骨の人だったのかと……。「瞬間湯沸かし器」というあだ名をつけられるような、短気で頑固な人だとおもっていた。

 戦時中の適性語廃止みたいなことを「滑稽なことが大まじめで通用していたのです」と一刀両断。

《ある学校の、校名に「英」の字が入っているのはよくないというので「英」を「永」に変えさせられた事例があるそうですが、そんなら東條首相の名前も「永機」に変えなきゃいかんだろうにね。それはしなかった》

 それから不勉強で知らなかったのだが、阿川弘之のエッセイで「竹槍事件」を知った。

 昭和十九年二月二十三日、毎日新聞の新名丈夫記者が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」といった記事を書いたところ、東條が激怒し、「四十歳に近い新名記者を一兵卒として懲罰召集」した。さらに後に、東海大学創立者の松前重義(当時四十二歳)も東條を批判し、二等兵で召集されている。

《口では名誉の入営、栄えある出征といいながら、実のところ軍隊に取られるのは懲役に処せられるのと同じだと証明しているんですよ》

 それにしても反戦でも何でもなく、「精神論では勝てない、大切なのは科学だ」みたいな意見ですら、懲罰の対象になってしまうくらい戦争末期の日本の言論状況はひどかった。
 阿川弘之は「憲兵を使っての言論の弾圧ぶりはすさまじいものがあった」と回想している。

 戦中の日本は言論弾圧と暗殺がはびこっていた国だった。どんなに戦前を美化しようにもこうした史実は消せない。

2017/10/07

珍プレー・好プレー

 子どものころ、プロ野球の「珍プレー・好プレー」番組が好きだった。シーズンごとに印象に残ったエラーや乱闘、ファインプレーなどを集めて一気に見せる。
 ほとんどのプロの選手は守備範囲にきた球は堅実にアウトにする。そうした平凡なプレーが番組でとりあげられることはない。

 最近、日本の近現代史の本を手当たり次第に読んでいるのだが、しょっちゅう「珍プレー・好プレー」番組みたいな本に出くわす。

 かくいうわたしも「珍プレー・好プレー」番組のような書き方をよくしてしまう。資料を読んでいるときも、自分好みのエピソードを追いかけてしまいがちだ。

 二十代のころ、ノンフィクションライターを目指していた。当時のわたしは、まず企画ありきで取材をはじめることが多かった。しかし、取材を重ねていくうちに、企画の趣旨からずれた話がどんどん出てくる。それをそのまま書くと、わかりにくい文章になり、たいていリライトかボツになる。

「珍プレー・好プレー」にとりあげられる選手は、毎試合、エラーをしたり、ファインプレーをしたりしているわけではない。乱闘もしない。そんなことは一々説明してなくてもプロ野球ファンはわかっている。わかっていて「珍プレー・好プレー」を楽しんでいる。

 ノンフィクションや歴史の場合、そういうわけにはいかない。

 資料を読めば読むほど、自分の導きたい結論にとって不都合なデータはいくらでも出てくる。
 そうした不都合なデータを考慮していくと、いくら字数があっても足りない。で、わかりやすくするために、企画の趣旨に合わない部分をカットする。その結果、珍プレーか好プレーか、そのどちらかに偏った内容になる。そうではないものを書いてみたいのだが、その書き方がわからない。

2017/10/06

ブックスキューブリックで

 十月二十三日(月) 福岡・ブックスキューブリック(箱崎店)で『日常学事始』刊行記念「荻原魚雷&木下弦二 トーク&弾き語りライブ」というイベントがあります。

http://bookskubrick.jp/event/10-23

 福岡は十年ぶり。『古本暮らし』(晶文社)が出た年の秋、ブックオカを見に行くために博多に行った。一箱古本市のときに、南陀楼綾繁さんがちょうどブックスキューブリックの前で出品していて、途中、店番を変わった。ブックスキューブリックは、東京の本好きのあいだでも「町の本屋の理想」と噂になっていた店でいつか行ってみたいとおもっていた。

 東京ローカル・ホンクの木下弦二さんと知り合ったとき、二十代後半だった。お金がなくて、週三日くらいアルバイトしながら、ふらふらしていたころだ。ときどき、ミニコミに文章を書いていた。
 そのころ、よく遊んでいた(同じように暇だった)中央線界隈のミュージシャンが口を揃えて「すごいバンドがあるんだよ」といっていたのが、弦二さんのバンドだった。たしか、ライブを見る前にドラムのクニさんとは会っていた。

 その後、東京ローカル・ホンクのライブを追いかけるようになった。知り合ったばかりのころ、夕方くらいから飲み出して、翌日の昼くらいまで、ずっと弦二さんと喋り続けたことがあった。内田百閒のファンだと聞いて、それで意気投合した記憶がある。

 当日、どんな話をするかは未定ですが、本の話だけでなく、わたし自身が弦二に教えてもらいたいことをいろいろ聞いてみたいとおもっている。博多、楽しみだ。

2017/10/05

アメリカの鏡・日本(四)

『アメリカの鏡・日本 完全版』読了。註釈も含め、読み飛ばしたくなる頁がまったくなかった。
 当時、どれだけ読まれたのかはわからないが、一九五三年にこの本が、原百代訳『アメリカの反省』として刊行されていたこともあらためてすごいとおもった。

 GHQの占領政策で日本人は「洗脳」された——という通説があるが、もしそうなら占領期が終わった途端、なぜ『アメリカの反省』と題したアメリカの占領政策を批判する本を刊行できたのか。

「GHQ洗脳論」に出くわすたびに、違和感をおぼえていた。どうすれば、これほど識字率が高く、出版産業が盛んで、世界屈指の古本文化を誇る国の人間を「洗脳」することができるのか。

 戦前の日本人は、アメリカの音楽や映画が好きだった。そもそも近代以降、「戦勝国」の文化や技術や制度を学び続けてきた国でもあった。何にもかも欧米が正しいと信じていたわけではないはずだ。
 戦時中は、日本を批判するような本はなかなか出版できなかった。だから、戦後になって、そうした言論が噴出した。ある種の反動にすぎない。わたしはそう考えている。

『アメリカの鏡・日本 完全版』の話に戻る。

 明治以前の日本人は、資源の少ない地震や台風の多い小さな国に暮らし、自己規律と節約を美徳としていた。資源に恵まれ、自由と浪費を愛するアメリカ人にはなかなか理解できない価値観ではないかとヘレン・ミアーズは問いかける。
 平和な日本を軍艦で脅し「開国」させたのは欧米列強だった。日本は、植民地化か近代化かの二択を突きつけられ、後者を選んだ。
 日本人は、健気なまでに忠実に西洋の教えを学んだ。法律を整備し、学校を作り、工業化を進め、軍隊を創設した。
 それでも不平等条約は解消されなかった。
 日清戦争と日露戦争に勝って、日本はようやく関税自主権を手に入れることができた。
 日本人は、自由や民主主義の教えは建前にすぎず、軍事大国になって、力をつけないかぎり、何一つ自分たちの要求が通らないこと——この世界のルールは、パワーポリティクス(武力政治)であることを学んだ。

《十九世紀末、欧米列強はアメとムチで日本を「指導」した。西洋の基準を逸脱すれば、厳しく折檻し、おとなしくしていれば褒めてやった。日本人が好戦的国民になるのに、ほとんど訓練は必要なかった》

 さらに日本人は、欧米列強が自分たちに教えた原則を彼ら自身はしょっちゅう無視していることを学習した。それでも領土の拡張するさい、日本は欧米列強のどの国よりも慎重に手続きをした。
 ヘレン・ミアーズは、当時の日本の状況を次のように指摘する。

《日本は近代的工業・軍事大国に必要な天然資源をほとんどもたない島国だから経済封鎖にもろい。資源的に脆弱な日本は、イギリスとの軍事同盟に意のままにされる操り人形だった》

 多くのアメリカ人が「貪欲で凶暴」とおもっていた日本は、「経済封鎖」の一手で詰んでしまう国だった(たぶん、今もですね)。
 というか、今の世界の大半の国は「経済封鎖」の一手で詰んでしまう構造になっている。日本の場合、「軍事同盟の意のままにされる」ことを防ぐ最善手は何か——を考えることは大きな課題だとおもうが、わたしには荷が重い。まあ、現状維持でいいかな。

(……いちおう完)

2017/10/04

アメリカの鏡・日本(三)

『アメリカの鏡・日本 完全版』を読み進めていくにつれ、もっとも感心したのは、ヘレン・ミアーズの論理の強度だった。

 その論理を支える軸は、西洋が許されるなら、日本も許されるべきだ——日本に罪があるというのなら、西洋には罪がないのかという考え方である。

《私たちは最初の占領軍指令で、日本の国教である国家神道を本来侵略的であるとして禁止した。私たちより極東の歴史に詳しいアジア人は、この皮肉に気づくだろう。なぜなら、私たちが神道を告発につかっている論理を証拠につかえば、キリスト教を侵略的で好戦的な宗教として裁くほうがやさしいからだ》

 日本をアメリカの「鏡」として見る。日本に向けた批判はほとんど西洋に跳ね返る。
 戦時中のプロパガンダの影響もあるが、多くのアメリカ人は、日本のことを有史以来、野蛮な国だとおもっていた。
 その例に、豊臣秀吉のキリスト教迫害と朝鮮出兵を挙げている。

 ヘレン・ミアーズは同じ時代に西洋はどうだったかと問いかえす。
 十六世紀のスペインが南米で何をしたか。ヨーロッパのキリスト教の国家は、どれだけ殺し合いをしていたか。
 さらに日本に訪れたキリスト教徒は、カトリックとプロテスタントで「内紛」状態だった。また日本人の指導者は、キリスト教の布教が、西欧列強の領土拡張に大きな役割を果たしていることも見抜いていた。

 アメリカや西洋に向けた痛烈な批判に、溜飲を下げたくなるのだが、この本はそういう目的で書かれた本ではない。他国の文化を誤解と無理解に基づいて批判することの愚かさとプロパガンダの危うさを教えてくれる本なのだ。

《私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名のもとに犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか》

(……続く)

アメリカの鏡・日本(二)

 日本は近代の一歩目から「危機の時代」にいた。ゆっくり近代化することが許されない状況だった。ヘレン・ミアーズは、日本の「悪条件」を同情している。

 ヘレン・ミアーズは、日本にたいする批判を「鏡」で反射させるかのように、アメリカに向ける。マッカーサーが日本語版の刊行を禁止するのもわかる。ものすごい「毒」をはらんだ危険な本なのだ。わたしはアメリカの文学やコラム、音楽が好きだ。日本人の平均以上に「親米」かもしれない。そんなわたしですら「アメリカ許すまじ!」と憎悪を抱きかねないような「正直な記述」が頻出する。

 当時、日本の支配下だった南洋の島の話。
 現地の日本人と朝鮮人は、島の住民と結婚し、いっしょに働き、本土とも盛んに貿易していた。
 彼らは、島民を肌の色で差別することはなかった。島民は、安価な値段で衣類や日用品を購入することができた。島の子どもたちは、朝八時から十一時まで学校に行くことを義務づけた。
 日本人は、魚の養殖や農業技術を島民に教えた。それまで富を独占していた上流階級の島民には恨まれていたが、それ以外の島民との関係は良好だった。

 アメリカが支配していた南洋の島よりも、日本の支配下の島民ははるかに自由だった。アメリカの支配していた島は「白人」と「それ以外」という厳然たる「差別」があった。白人と原住民の学校を区別した。英語以外の言葉を禁じ、若い海軍行政官は、現地人の辞書を焼いた。

 敗戦後、アメリカ人はその島の新たな統治者になった。アメリカ人は「日本人と朝鮮人(島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで)」を島から追い出し、日本語を禁じ、円を取り上げ、英語とドルに変えた。日本との貿易を禁じた。
 仕事を失った島民は、米軍施設での日雇いか、軍の売店の土産作りしか経済活動ができなくなった。
 ヘレン・ミアーズは、アメリカは島民に「災い」しかもたらしていないと批判する。
 アメリカにとって、それらの島は、海軍の補給所、戦略基地以外の利用価値がなかったのである。

《この事実は、占領国日本との関係で考えると、新たな重要性を帯びてくる。なぜなら、日本人もアジア人もこの事実を知っているからだ。私たちは日本人を「再教育」して、私たちの理想を実践させようとしている。しかし、私たち自身がその理想を実践してみなければ、再教育はむずかしい》

(……続く)

アメリカの鏡・日本(一)

 臼井吉見の書評で紹介していた『アメリカの反省』——ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫)を読む。マッカーサーは「プロパガンダだ」といって、占領中、日本語に訳すことを禁じた。
 GHQのメンバーで日本の「改革者」のひとりであるヘレン・ミアーズは、日本が軍事大国化していく過程を分析し、アメリカに「反省」を促す。いや、「反省」なんて生ぬるいものではない。

 占領期のことに興味を持ったとき、この時代のことを掘り下げていけば、自分の知らないとんでもない本があるのではないか——そんな漠然とした予感があった。この本がそうだ。ヘレン・ミアーズくらい論理の強度を持つ文筆家は、今の日本にいるのだろうか。

 外国人の書いた日本に関する文章は、それなりに読んできたつもりだが、『アメリカの鏡・日本 完全版』に匹敵するような本は、ほとんど記憶にない。ジョージ・ミケシュの日本論を読んだとき以来の衝撃かもしれない。日本の近代史に関心のある人だけでなく、アメリカ人にも読んでほしい。というか、読ませたい。

 伊藤延司訳の『アメリカの鏡・日本』は、一九九六年に単行本、二〇〇五年に新版と抄訳版が刊行されている。
 文庫化でようやく知ることができた。臼井吉見の書評を読み返したおかげだ。

 ヘレン・ミアーズは一九〇〇年生まれ。北京に滞在中の一九二五年、それから一九三五年に日本を訪れている。
 一九三五年のころ、日々、ラジオや新聞で「危機意識」を植えつけるための「根拠のない」「事実をねじ曲げた」プロパガンダが流れていた。彼女が会った日本国民のほとんどがそれを信じていた。

《日本人の頭に詰まっているのは脳ではなく、同じレコードを繰り返す蓄音機だった》

 ところが、一九三八年にアメリカに帰国すると、アメリカ人も同じ状態だったという。アメリカでは「枢軸国は世界を征服し、奴隷化しようとしている」という戦争プロパガンダが吹き荒れていた。そして議論らしい議論もなく、膨大な国防予算が議会を通過した。

《アメリカ人も日本人と同様、頭の中にもっているのは脳味噌ではなく蓄音機であることを知って驚いた》

 かかっているレコードはちがうが、危機感を煽る宣伝を浴び続けていると、脳味噌が蓄音機のようになる。日本人だから、アメリカ人だから——というわけではない。

 そしてヘレン・ミアーズは、日本の近代史を次のようにまとめる。

《近代に入ってわずかな間に、平和な鎖国主義から軍事大国主義へ急転換した日本の歴史は、四世紀にわたる西洋世界の歴史の縮図なのである》

(……続く)

2017/10/03

臼井吉見の書評

 古い本を読むときは、本の刊行時の時代背景を考慮する。あとこれは古本にかぎった話ではないが、とりあえず、書かれていることが正しいかどうかはなるべく保留する。
 そう心がけているつもりなのだが、よく忘れてしまう。

 ここのところ、占領期に関する本を読んでいるが、今さらながら時代背景が不明瞭であることに気づいた。

 臼井吉見著『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)は、わたしの愛読書でこれまでも何度か引用してきた。
 この本には「時評的書評」という章がある。その中に「アメリカ論」と題し、二冊の本を紹介している。
 初出は一九五三年七月。一九五二年四月二十八日に、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が主権を回復——それから一年ちょっと後に発表された書評である。
 ヘレン・ミアズの『アメリカ人の鏡としての日本』は日本占領下の一九四八年に出た本で『アメリカの反省』(原百代訳)として出版された。版元は文藝春秋新社。一九五三年刊。二〇一五年にヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫)として復刊している。キンドル版もあり。
 臼井吉見は、ヘレン・ミアズの主張を次のようにまとめている。

《極東において、暴力と貪欲は、日本がそれを行った時のみ、問題になり、民主主義列強が暴力をふるい、貪欲ぶりを発揮するときには、後進地域に秩序と文明をもたらすためであり、共産主義の脅威を排撃することになる》

 そして今のアメリカは、かつての日本の軍閥のような「危険な一事業」に向かっていると警告する。
 たしかに、不平等条約を突きつけたり、自国に都合のいい「傀儡」政権を作ったり、自作自演の「事件」を起こしてから戦争を仕掛けたり、日本とアメリカは似たようなことをしている。
 だから日本だけがわるいわけではないという話ではなく、一九四八年にアメリカでは、自国を厳しく批判する本が存在したことがすごいとおもった。日本では、それで占領期が終わってしばらくして邦訳が刊行された。
 ヘレン・ミアーズは、GHQの労働諮問委員会の一員として来日した女性だが、この本はマッカーサーが「日本語訳を禁じていた」そうだ。

 もう一冊は、サルトルの『アメリカ論』(サルトル全集、人文書院)で一九四五年にアメリカが日本と戦争中に書かれた訪米の感想。
 サルトルがアメリカの画一主義と個人主義についてを論じていることに触れ、臼井吉見は「一時的にせよ、徳川夢声を危険視するような空気さえ出てきている今日のアメリカにも、相変らずサルトルは個人主義の現代的形式を見出しているのであろうか」と疑問を投げてかけている。

 占領期、吉川英治の『宮本武蔵』の六興出版版がGHQの検閲で改変されたという有名な話があるが、徳川夢声は何で危険視されたのだろう。