2017/08/23

学習性無力感

 以前、このブログで中村光夫著『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)所収の文章を引用した。

《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。
 それも勝つために乏しさに堪えるという積極的な気持でなく、なんとなく生活とはこんなものという感じで、自由とか豊富などという言葉は、現実性のない死語のようでした。
 そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》(「窮乏のなかで」/同書)

 戦時下の窮乏生活を送るうちに、やる気をなくし、「怠ける算段」ばかりするようになる。言論の自由もない。戦争は負けそうだ。どうにもなりそうにないから、できるだけ何もしない「努力」をする。つまり、無気力になるのも「学習」の成果なのだ。
 心理学用語の「学習性無力感(無気力)」の典型例といってもいい。長期にわたってストレスを回避できない環境に置かれると、その状況を改善するために行動する気力を失う。人にかぎらず、動物もそうだ(電気ショックを与え続ける犬の実験がある)。「何をやっても無駄」とおもうと、何もしたくなくなる。

「学習性無力感」から抜け出すには「何をやっても無駄」とおもわされている自分の状況を把握する必要がある。
 希望を持つこと。希望に向けて行動すること。

 わたしも二十代のころ、ずっと貧乏でいつも「怠ける算段」ばかりしていた。無気力だった。
 いまだに気をぬくとすぐそうなる。

2017/08/19

道徳

《近ごろ道徳教育の復活などといわれていますが、戦前には道徳教育があったと考えるような安手な回顧趣味からは、何も生まれる筈はありません。
 わが国に道徳教育が存在したのは、漢学塾や寺子屋のあった時代までで、明治五年の学制公布は、それを滅ぼす第一歩だったのです》(「虚像と実像」/中村光夫著『文學の囘歸』筑摩書房、一九五九年刊)

 久しぶり中村光夫の本を再読していたらこんな文章があった。他の本でも、子どものころ、修身の授業をくだらないとおもっていた……みたいなことを書いていた。
 昔はよかった話を読むたび、多少は疑うように気をつけている(たまに忘れる)。中村光夫にいわせると、明治期の教育は「知的技能者の大量生産」が目的で道徳の要素は稀薄だったらしい。

2017/08/12

秋花粉報告

 ここ数年、首都圏はブタクサが減少傾向にあるらしく、秋の花粉症はずいぶん楽になった。ひょっとしたら体質が改善されたのかも……とおもっていたのだが、そうではなかった。
 今月八日、三重に帰省した。近鉄沿線の最寄り駅を降りた途端、くしゃみが止まらず、目がかゆくなる。持参した漢方を飲んだが、急には効かない。幸い、家にあった市販の鼻炎薬が効いた。

 秋の花粉症であることが判明したのは、二十五歳のときだ。たぶん、小学校の高学年くらいから症状はあった。ずっと夏風邪だとおもっていた。
 ブタクサのアレルギーの人は、バナナ、メロン、スイカなどの果物にも反応することもある。

 内田百閒著『戻り道 新方丈記』(旺文社文庫)に「寿命」というエッセイがある。吉行淳之介の「百閒の喘息」でも取り上げられている作品である。

《今年の夏は喘息で大分永い間閉口した》

 先月、このブログで「おそらく百閒の喘息は、夏型過敏性肺炎か秋の花粉症だろう」と書いたが、「寿命」には「寒くなると一冬に何度も寝ついた事がある様に思ふ」という記述もあった。秋花粉説はちがうかもしれない。

2017/08/11

傑出感

 子どものころ、手塚治虫、石ノ森章太郎、松本零士の漫画に熱中した。彼らの作品には、その時代における「傑出感」があった。今、過去の名作漫画のリメイクが流行している。オリジナルと比べて、絵が緻密かつ綺麗になっても「傑出感」までは再現できない。

 ジャンル全体のレベルが上がってくると、抜きん出た表現が登場しにくい。これは漫画に限った話ではない。
 その時代にどれだけ傑出していたかということは、リメイクやカバーでは、伝わりにくいのだ。

 スポーツ統計学では「傑出度(傑出値)」という指標がある。その時代その時代の突出した成績というのは、後から選手ひとりひとりの数字だけ見てもピンとこないことがよくある。

2017/08/07

醤油か塩か

 ラーメン屋で醤油と塩、二種類のスープを出すところがある。さらに味噌やとんこつが加わる場合もあるが、今回は醤油と塩の話を書きたい。
 わたしは醤油ラーメンが好きなので、醤油と塩の二択であれば、醤油を選ぶことが多い。ところが、あくまでも自分の好みなのだが、醤油と塩の二択で醤油を選ぶと「ハズレ」率が高い。いつも何か物足りない。
 わたしが醤油ラーメン好きだから、醤油に厳しいということもあるだろう。さらにいうと、自分の理想の醤油ラーメンというものがあって、それと比べてしまうからかもしれない。

 ここ数年、醤油と塩なら塩を選ぶことが増えた。以前、醤油を注文してダメだった店でも、塩はだいたいおいしい。
 逆の意見や感覚もあるだろう。塩ラーメン派の人であれば、塩に厳しくなる。たまに醤油を食べたら、たいていおいしいとおもうのではないか。

 そういうことって批評の世界にもよくある気がする。自分の好きなジャンルにはどうしても厳しくなる。

2017/08/06

二ノ橋 柳亭

 神吉拓郎著『二ノ橋 柳亭』(光文社文庫)の見本が届いた。帯に「解説:色川武大/荻原魚雷」。ライターになってよかった。三十歳くらいのころの自分に「いつか神吉拓郎の文庫に解説を書く日がくる」と教えてあげたい。たぶん、信じないとおもう。直木賞候補になった『ブラックバス』の改題作ですね。八月八日刊行。

 ほんの数年前まで、神吉拓郎の作品は新刊書店で買えなかった。昨年秋に刊行された大竹聡編『神吉拓郎傑作選』(国書刊行会)の効果は大きい。わたしは二十代のころから一九二〇年代の生まれの作家を軸に本を読んできたのだが、神吉拓郎の文章は、際立ってうまいとおもっている。大好きな短篇作家だ。
 色川武大の解説「室内楽的文学」は、人物スケッチの最高峰といってもいい。神吉拓郎や色川武大は「都会の大人」というかんじがする。ふたりとも、遊び人として人生をまっとうした人でもある。

2017/08/05

語り口

 部屋の掃除中、田辺聖子著『死なないで』(文春文庫)を探すも見つからず、インターネットの古本屋で注文する。八〇年代前半のエッセイなのだが、男女の平等意識が新しい。「原発についてのソボクな疑問」や「カンボジアに何が起こったか」も内容がまったく古びていない。今読んでもすごい。

《もし大事故がおこったとしたらどうなるのであろうか、日本は地震の多い国なのに、地震が原子炉を襲ったらそのときは》

 反対意見だけでなく、おかしいとおもうことにたいし「ソボクの疑問」を表明していくこと。田辺聖子の「語り口」は、学ぶところが多い。はじめからケンカ腰では、反対あるいは中立の立場の人には言葉が届かない。疑問を提示しつつ、考えさせる——そういう「語り口」を会得したい。

2017/08/02

掃除の途中

 もう八月。本読んで酒飲んで寝ているうちに一年がすぎてしまいそうだ。毎年のことだが。

 仕事が一段落したら、見えないところの掃除をしたいとおもっていた。洗濯機の裏とか。埃がすごい。あと二、三年放置してある資料のコピーの整理もしたい。夕方からはじめて午前三時。まだ終わらない。

 掃除の合間に『フライの雑誌』最新号を読む。この号はオイカワとカワムツの特集。身近な川魚だけど、奥が深い。座談会が異様な盛り上がり。みんなおかしい。堀内正徳さんの「オイカワ釣りが好きすぎて②」を読んでいたら「珍しくも何ともないオイカワ/カワムツだからこそ、釣りたいのに釣れなかったときのショックは大きい」という文章があった。

 さらに釣れなかったとき「言い訳をしづらい」。ベテランの釣り師でも釣れない日もある。
 ただ魚を釣るだけなら、フライフィッシングより、もっと簡単な釣り方はいくらでもある。体長十センチ前後の小さな魚を釣るために、毛鉤の種類に悩み、ロッドを振るタイミングを試行錯誤する。誰に頼まれたわけでもないのに……。ものすごく暇なのかといえば、そうでもない。不思議だ。

 わたしはポール・クイネット著『パブロフの鱒』(森田義信訳、角川書店)という本について書いた。わたしは「魚」よりも「釣り人」の生態に関心があるようだ。
 釣りという入り口から深く広く細かく世界を考える人たちがいる。そういう人たちの言葉がおもしろい。

 資料整理の途中、二〇一四年五月一日付の情報誌『地方小出版 アクセス』が出てきた。巻頭に『フライの雑誌』の記事。「商業誌でありながら商業主義を否定するという、矛盾した編集方針を掲げています。」って……。

 やっぱり、おかしい。