2017/07/21

雑記

 十九日(水)、東京堂書店の岡崎武志さんとのトークショー、無事終了した。今回も助けられっぱなし。いつもちゃんと準備して、時間を考えながら、話をすすめてくれる。どうすれば、そんなことができるのかわからない。
 たどたどしくてもいいから、じっくり考えて話そうと心がけている。ところが、人前に出ると、考えがとっちらかってまとまらない。むずかしい。
 新刊が出て一週間。昨日は西荻窪の音羽館に行って『日常学事始』にサインしてきました。十冊。

 すこし先の話だけど、九月五日(火)に仙台で岡崎さんとのトークショーも決まりました。仙台は二〇一五年の六月以来。

 今、青森県近代文学館で「葛西善蔵130年特別展」が開催中(七月八日〜九月十八日)。遠回りになるが、仙台行きの前に青森に寄るかどうか検討中。『葛西善蔵感想集』(改造文庫)は好きな本でときどき読み返す。青森に行ったのは十六年前。弘前城で花見をした。すごく行きたくなってきた。温泉に入りたい。

《僕はたんと金ももうけたくないし、たんと小説も書きたくないし、だもんだから短くなる。といふと、さうのやうでもあるんだが、ほんとは書けないんですよ。僕だつて、どんなに金が欲しいか、どんなに長くて立派な小説が書きたいか——それはわかりきつてゐることぢやありませんか》(歳暮酒話)

 葛西善蔵の随筆、ぐだぐだ感が素晴らしく、ずっと書き写したくなる。愚痴とぼやきが芸になっている。

2017/07/18

人生散歩術

 雨の中、岡崎さんの担当者が新刊『人生散歩術 こんなガンバラナイ生き方もある』(芸術新聞社)の見本を届けてくれた。明日の東京堂書店のトークショーにギリギリ間に合う。

 この本に登場する「人生散歩」の名人は、井伏鱒二、高田渡、吉田健一、木山捷平、田村隆一、古今亭志ん生、佐野洋子。

 高田渡と木山捷平の回が好きですね。生活水準が似ているからかも。「これぞ、純文学ならぬ、『純散歩』」という言葉に付箋を貼る。わたしも高田渡の回で“カメラマン”として登場している。

 目的のない散歩ができる能力というのは、ある種の才能だろう。

 吉田健一と田村隆一の回を読むと酒を飲みたくなる。

 詳しい感想は明日喋る予定(ちゃんと喋れるかどうかは未定)。

2017/07/17

百閒の喘息

 吉行淳之介の年譜、昭和四十七年(一九七二)、四十八歳——。

《前年末より、ふたたび心身ともに不調に陥る。極度のアレルギー症状で、気分の上では半死半生で暮す。一年間の執筆枚数三十枚》

 旧著の改装本などによって、何とか生計は立っていたが、年間三十枚というのは不安だったのではないか。ちなみに、この年譜は『私の文学放浪』(角川文庫)のものだ。

 不調は一九七三年の秋くらいまで続いた。原稿用紙を見るのが怖くて、口述したものに手を入れていた。
『わが文学生活』(講談社)では、四十七歳から四十八歳にかけて体調が最悪だったころの話を回想している。

《この二年のブランクのころからかな、「小説家のふりをする」ということを言い出したんだ、ぼくは》

 吉行淳之介著『目玉』(新潮文庫)に「百閒の喘息」というエッセイのような小説がある。吉行淳之介は、内田百閒の「壽命」という作品を読み、百閒も喘息だったことを知る。
 百閒は自身の病気の話を何度となく書いているが、喘息の話はほとんど書いていないらしい。

《最初、百閒は喘息という症状が気に入らず、心臓神経症というタイプをヒイキにしているのか、と私は邪推した。ところが、話はもっと簡単だったようだ。百閒の喘息は青年期を過ぎる頃から軽くなって、『私には夏型の喘息がある』などと書いている。それがどういうものか私は知らないが、大きな咳やくしゃみがつづくようである》

 おそらく百閒の喘息は夏型過敏性肺炎か秋の花粉症だろう。前者はカビ、後者はブタクサなどの花粉が原因である。

2017/07/16

モンテーニュと新居格

 今年の春、新居格の本の序文を読み返していたとき、毎回、自分は平凡な人間だから特別なことは書くつもりはない——というようなことが綴られているのに気づいた。モンテーニュの『随想録』のまえがきに「わたしはこの本を書くにあたって、自分のことわたしのことよりほかには何も目ざしませんでした」「どうか皆さん、この本の中に、わたしの自然の・日常の・堅くもならなければ取りつくろってもいない、ありのままの姿を見てください」(関根秀雄訳)といった文章がある。

 新居格はモンテーニュを意識していたのかもしれない。大いにありうる。

調整

『ハズリット箴言集 人さまざま』(中川誠訳、彩流社)を読んでいたら、「よく調整された魂」「よく調えられた精神」という言葉があった。

 訳者の解説によると、モンテーニュの『随想録』に頻出する用語らしい。

2017/07/15

適量

「適」という字を辞書で調べると「目的に向かってまっすぐゆく」「よくあてはまる。ふさわしい」「心にかなう」といった意味が記されている。

 料理をする場合、「適量」さえ守れば、大きくまちがえることはない。「適量」の感覚を掴めば、あとは「適当」にやっても何とかなる。
 むずかしいのが酒の「適量」だ。ちょっと油断すると、ほろ酔いが、泥酔になる。昨日はいい酒だった。
 さらにむずかしいのが仕事の「適量」かもしれない。仕事がないのはすごく困るし、そうはなりたくないのだが、「適量」をこえると、かならずどこかで反動がくる。
 
「快適」な暮らしは「適量」にあり。

2017/07/14

「日常学」発売中

『日常学事始』(本の雑誌社)が本日発売になります。高円寺の文禄堂の入口付近の台で平積になっていた。嬉しい。

 UCLAのバスケットボールのコーチだったジョン・ウッデンの教え(厳密にはウッデンの父の教え)に「自分がどうにもできないことに惑わされると、自分がどうにかできることに悪影響を及ぼす」というものがある。

 わたしはこの考え方が気にいっている。

 他人の思惑、あるいは運不運に左右されることはなるべく気にしないことだ。
 試合であれば、自分がどんなに頑張っても相手がもっと強ければ負ける。勝ち負けはどうでもいいという話ではないが、勝負の中には「どうにもできない」部分がある。

 他人に左右されず、自分の力で「どうにかなる」ことに最善を尽くす。体調を整え、(なるべく)しめきりを守る。仕事にかんしては、いつもそれが目標だ。よく「自己完結している」といわれるが、気にしない。

2017/07/11

ヒョウ柄

 高円寺のペリカン時代で今日七月十一日(火)から石丸澄子写真展「1990年 道東」が開催。七月二十九日(土)まで。

 先月からとりかかっている仕事、あともうすこし。なんとかゴールが見えてきた。

 星野博美さんの新刊『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)が届く。仕事の息抜きに読みはじめて、止まらなくなる。おもしろい。怖い。おもしろい。頭がガーン。おもしろい。呆然。ぐるんぐるん振り回される。連載中は気楽に読んでいたのだが、一気に読むとすごい衝撃だ。星野さんのエッセイはいつもそうなのだが……。

 一区切りついたら、星野さんの本をいろいろ読み返したい。旅行中の読書にも合うのである。ものすごく考えさせられた後に、身も心も軽くなるかんじがする。

2017/07/10

かくて行動経済学は生まれり

 まもなく、マイケル・ルイスの新刊『かくて行動経済学は生まれり』(渡会圭子訳、文藝春秋)が刊行。ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーというイスラエルの天才(変人)心理学者の本ですね。

 今年刊行された海外ノンフィクションの(わたしの)ベスト1候補のジョシュア・ウルフ・シェンク著『二人で一人の天才』(矢羽野薫訳、英治出版)にも、カーネマン&トヴェルスキーの話がすこし出てくる。ダニエル・カーネマンは『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)が日本でも話題になったけど、トヴェルスキーが生きていたころは、その影に隠れていた時期もあった。

 行動経済学は、経済のみならず、政治、スポーツや芸術などの分野にも大きな影響を与えている。人間は間違える――なぜ間違えるのか。正確な判断を鈍らせる「認知バイアス」を解き明かそうとしたのが、カーネマン&トヴェルスキーのコンビである。早く読みたい。

2017/07/07

見本

 昨日、『日常学事始』(本の雑誌社)の見本を受け取る。帯に「怠け者のための快適生活コラム集」とある。ずっと「コラム」を意識して書いてきたので嬉しい。
 発売は十三日(木)の予定です。カバー・本文イラストは、山川直人さん、デザインは戸塚泰雄さんです。四六判の単行本よりスリムな判型も気にいっている。自画自賛になるけど、いい本になったとおもいます。

 本を作っているあいだ、体重が三、四キロ減って、おなかがすこし引っ込んでよかったのだが、ここ数日ふらふらしていた。本の見本ができたことを記念し、ステーキハウス KYOYAで肉を食べる。うまい。ひさびさの満腹感だ。肉、大事だ。復活。

 仕事、五合目。あともうすこし。

2017/07/06

編集者

 同世代ですごいとおもう編集者は、山口県のみずのわ出版の柳原一徳さん(猫社長)とフライの雑誌社の堀内正徳さんだ。今、気づいたのだが、どちらも「徳」の字が入っている。
 気さくなのに、過激。文章に熱がある。
 わたしは、いつかこのふたりが会ってほしい。
 喧嘩するか、仲良くなるか。採算度外視の本を作る感覚が似ているとおもっている。

2017/07/05

知らない町

 子どものころ、永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」は、当時、誰が作って、誰が歌っているのかは知らなかったが、何となく好きな曲だった。
 大人になって、自分が聴いていたのは、デューク・エイセスのバージョンであることを知った。ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」は違和感があった。

 それはさておき、昔のわたしは、遠くに行くことより、知らない町に行きたい——そこで暮らすことが夢だった。知らない町に行けば、知らない自分になれるような気がしたからだ。
 一日か二日か、ふらっとひとりで知らない町に行く。心細いが自由な気分になる。

 仕事をして、自分の稼いだお金で旅がしたかった。これも子どものころの小さな夢だ。

 今は、あんまり仕事をせず、知らない町をふらふら旅したい。

 先日、東海道新幹線に乗っていて、窓の外を見たら、浜松駅を通過し、浜名湖くらいまでのあいだに、ものすごい数のソーラー発電があった。ソーラー畑のようだ。いつの間に。
 三重に住んでいたころ、浜松には二、三回行っているのだが、いずれも小学生のときだ。移動手段はバスか車だ。
 そのせいか、ずっと浜松駅で降りたことがあるとおもいこんでいた。もし降りていたとしたら、青春18きっぷで途中下車しながら、旅をしていたときだろう。駅を出て、うなぎを食べたような気がする。電車に乗っていて「うなぎを食べたい」とおもっただけなのかもしれない。

 どっちの記憶が正しいのか。

 そのことを確かめるために浜松に行きたいのだが、仕事が終わらない。

2017/07/01

七月

 三重に帰省(一泊)。東京駅からの新幹線で偶然世田谷ピンポンズさんと同じ車両になる。

 七月発売の単行本『日常学事始』(本の雑誌社)に取りかかっていて、一カ月くらい部屋にこもりがちだった。東京堂書店の岡崎武志さんとのトークショーも七月十九日(水)に決まりました。『人生散歩術』(芸術新聞社)も岡崎さんの手を離れたみたいですね。あとは刊行を待つのみ。
 そもそも『日常学事始』の連載は岡崎さんの『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)の巻末対談がきっかけではじまった。この対談でちまちました(貧乏)生活術を酔っぱらって喋ったのが、ほとんどカットされずに掲載され、それを読んだ編集者の宮里潤さんが、WEB連載の話を企画してくれた。

 自分の単行本の作業中、南陀楼綾繁さんの『町を歩いて本のなかへ』(原書房)と蟲文庫の田中美穂さんの『星とくらす』(WAVE出版)が届く。

 南陀楼さんは『sumus』の同人で、ずっとメルマガの「早稲田古本村通信」で連載していた。第3章の「早稲田で読む」がそうなのだが、読みごたえがある。
 BIGBOXの古本市の話もすでに記憶があやふやになっている。ボリューム満点。
 七月九日(日)、十日(月)には古書ほうろうで「ナンダロウアヤシゲの7回目のみせばん」という企画もあるそうです。
 蟲文庫の田中さんも同じころの「早稲田古本村通信」連載仲間ですね。
 小学生のとき、わたしは天文好きで岡山の天文台や木曽の天文台は憧れの場所だった。『星とくらす』には、岡山在住の「カメラマンの藤井くん」も登場。わたしも「藤井くん」に岡山の天文台に連れていってもらった。

……七月中旬くらいまで身動きがとれない。どうにか乗りきりたい。乗りきってガクっとこないように気をつけたい。