2017/05/20

液体と容器

……「理」と「利」の話の続きを書く。このふたつは、ずっと自分の中でせめぎ合っていて、たぶん、一生、決着しないような気がしている。
 今のわたしは妻と共働きで子どもがいない。郷里の親も年金でどうにか暮している。扶養者がいない気楽な立場である。稼ぎが減っても、蔵書を売ったり、アルバイトしたり、そんなかんじでやってきた。

 仮に、自分が従業員が二十人くらいいる中小企業の経営者だとしたら、「理」と「利」のせめぎ合いは、もっともシビアなものになるだろう。

 いっぽう「理」と「利」は相反しない。すこし意味は変わるかもしれないけど、理想主義と現実主義の融合が、さまざまな発明や作品を生むというのは、珍しい話ではない。理想主義のアイデアマンと実務能力の高いプロデューサーがコンビを組むことで、形になりにくいものが形になる……ということもある。

 すこし前に、「今、ある本(ノンフィクション系の邦訳書)を時間をかけて読んでいる」と書いた(四月二十四日のブログ)。ジョシュア・ウルフ・シュンク著『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(矢羽野薫訳、英治出版)という本で、たとえば、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、あるいはC・S・ルイスとJ・R・R・トールキンの関係など、さまざまな才能がかけあわせって、化学反応を起こし、偉大な作品、発明、成果を生み出していくという話だ。

 おもしろすぎて読み終わるのが惜しい。三、四十頁くらいずつ読んで、しばらく考える。考える時間が楽しい。そんな本だった。

 才能の型には「天才型」と「努力型」など、対比によって語られることが多い。
 この本の著者のジョシュア・ウルフ・シュンクは「液体と容器」という表現を選んでいる。

《液体は自然な状態だと分散しやすい。液体的な創造は、線の連続というより横の広がりで、刺激に満ち、無限に広がろうとする。リスクがはらむ可能性と危険性を体現しているのだ。(中略)
 一方の容器は、秩序と明確さを放ち、空洞が何かに埋められるのを待っている。移動しやすくする受け皿となり、中身の特徴を自らの特徴に取り込む》

 自由奔放な「液体」の才能と形を作ることに秀でた「容器」の才能がある。
 ビートルズでいえば、ジョンが「液体」、ポールが「容器」で、それぞれが刺激し合うことで、お互いに才能を引き出している。

 ひとりの人間の中にも「液体」の部分、「容器」の部分があるかもしれない。

(……続く)

2017/05/13

「理」と「利」の話

『フライの雑誌』の堀内さんの「あさ川日記」を読んでいたら、同誌が創刊三十周年を迎えたと書いてあった。
 行政や業界におもねることなく、釣り人としての矜恃を保ちながらの三十年——簡単にできることではない。

 わたしはフライの雑誌社の刊行物をすべて読んでいるわけではないのだが、一冊一冊に「利」よりも「理」を優先しているようにおもえる。
 もっとも、まったく「利」を無視していたら、会社は立ち行かなくなるだろう。
 自分の筋を通そうとすれば、余計な摩擦が生じる。
 理不尽とおもえるような要求を突きつけらるたびに「話がちがう」と食ってかかっていたら、仮にこちら側の言い分が通ったとしても、面倒くさい奴とおもわれ、次から仕事を頼まれなくなる。
 おもいだしたくないが、そんな経験を何十回とくりかえしてきた。
 衝突を避けながら、譲歩しながら、妥協しながら、すこしずつ自分のやりたいことをやれるような状況を作っていく。それが賢いやり方なのかもしれない。
 ただし、その賢いやり方をしていれば、安定した収入が得られるとはかぎらない。

「理」よりも「利」を優先すれば、一時は儲かるかもしれない。仕事において、儲けることはわるいことではない。誰だって、ただ働きはしたくない。しかし「利」を優先しすぎた働き方はつまらない。かといって「理」が正しいわけでもない。いつだって勘違いやおもいこみと紙一重だ。

 出版の仕事だけでなく、飲食店でもそうだろう。客の回転率や原価計算は、商売を続けていくためには疎かにはできない。でもわたしは客をただの「数字」としか考えていないような店には行きたくない。しかし採算度外視のやり方は続けたくても続けられない。そのあたりの按配やさじ加減、あるいはやせ我慢に商売の醍醐味があるのではないか……と、零細自由業者であるわたしは考えている。

2017/05/10

喫茶店の話

 山川直人さんの『珈琲桟敷の人々 シリーズ 小さな喫茶店』を読む。既刊の『一杯の珈琲から』『珈琲色に夜は更けて』に続くシリーズ三巻目。絵を眺めているだけでも楽しい。
 喫茶店が舞台。登場人物はみんなちょっと不器用。さりげなく「すこし不思議」な要素も入っている。

 両親がコーヒー好きだったので、わたしは子どものころから喫茶店に通っていた。
 日曜日は、父とふたりで近所のドライバーという喫茶店によく行った。最初はミルク。小学校の高学年くらいからコーヒーを飲むようになった。ドライバーは卵焼きをはさんだトーストサンド、チャーハンもうまかった。無口な父とは、行きも帰りもほとんど話をせず、喫茶店でもお互い漫画雑誌を読みふけった。

 あの店がいつまであったのか、おもいだせない。東京で暮すようになってからは、帰省するたびに寄っていたのだが、いつの間にかなくなっていた。
 今でもドライバーのチャーハンが食べたいとおもうときがある。たぶん、トーストと同じバターをつかっていたのではないか。わたしは家でチャーハンをつくると、どうしても味が和風になってしまう(醤油を入れるからなのだが)。

 父はその後、ときどきほかの喫茶店に通っていたようだが、わたしはその店にはほとんど行っていない。

『珈琲桟敷の人々』の「消えていく店」は、コーヒーが旨くて、雰囲気もいい、すこし無愛想なマスターが営んでいる店の話。読み終わったあともずっと考えてこんでしまった。

2017/05/09

ここ数日

 五月六日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭。岡崎武志さん、山本善行さんも来ていた。夕方、西荻ブックマークの岡崎さんの還暦祝いイベントに出席するため、電車に乗ると、NEGIさんとバッタリ。さらに西荻窪駅から会場に向かう途中、夏葉社の島田さんとも会う。今日はそういう日なのか。

 岡崎さんの還暦の会は大盛況。わたしも岡崎さんとはじめて会ったときの話を喋る。世田谷ピンポンズさんの歌があって、プレゼント大会。二次会〜カラオケと続いて、帰りに西荻窪駅のホームで立っていたら、二次会のあと分かれたグループと再び合流し、ペリカン時代に……。

 最近、道で知り合いとよく会うことが続いている。自分の行く場所が決まっていて、単に同じ行動をくりかえしているからだろう。
 還暦まで十二年。五十歳まで二年。五十代なんてずっと先のことだとおもっていたのに、気がつくと、けっこう間近に迫っている。
 現状に満足しているわけではないが、四十代後半まで好きな仕事をして、読みたい本を読んで、聴きたい音楽を聴いて、楽しい酒も飲めている。文句をいったらバチが当たる。
 二十代半ばから三十代にかけて、あんまり仕事をしてなくて、ふらふらしていた時期に知り合った人のおかげで、なんとかなっている。
 もしずっと仕事が順調だったら、毎日古本屋に行ったり、公園で酒を飲んだりするひまはなかった。

……ここまで書いて、八日(月)、夕方、阿佐ケ谷の杉並郵便局に荷物の受け取りに行く。コンコ堂に寄る。お店を出た途端、夏葉社の島田さん、山本善行さんと道で会う。夏葉社は、先月、木版画家の山高登さんの『東京の編集者』を刊行したばかり。山高さんは、関口良雄著『昔日の客』をつくった編集者でもある。
 そのあと山本さんが岡崎さんと高円寺で会うというのでついていく。お好み焼き、食べる。楽しかった。「郵便局に行くの、面倒くさいな」とおもいながら出かけたのだが、行ってよかった。

 夜、後藤明生『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】【座談会篇】』(つかだま書房)を出版する塚田さん(飲み友だち)と待ち合わせ。岡崎さん、山本さんを紹介する。
 二巻本。函入り。五月十七日発売予定——。

《この度、弊社より「内向の世代」を代表する小説家である故・後藤明生氏の「対談集」と「座談集」を刊行することとなりました。【対談篇】は約7割、【座談篇】は全てが「単行本初収録」となっており、近現代の文学史を検証する上でも貴重な証言が再録されております》(つかだま書房 新刊書籍案内)

 塚田さんがずっと作りたいといっていた本だ。刊行おめでとう。

 本の内容については後日また。

2017/05/05

十年一昔

 はじめての単行本の『古本暮らし』の刊行は二〇〇七年五月五日(書店に並んだのは四月二十八日)。十年。早い。

 本が出たとき、担当編集者の中川六平さんに「最初の一年は来た仕事をぜんぶ受けろ」といわれた。その教えを守ろうとしたのだが、神保町のラーメン店を三日で二十軒取材してほしい……という仕事は断った。

 長い人生、気合をいれて無理をしないといけない時期はある。しかし、無理は長く続かない。体力に自信がない身としては、持久戦の構えでいくしかない。そのことがわかったのは大きな収穫だった。

 本が出たのは十年前だが、ライターの仕事をはじめたのは、それより十八年前の一九八九年の五月の連休明けだ。そのころから荻原魚雷というペンネームで書評やコラムを書いている。
 かれこれ二十八年。時が経つのは早い。

 それはさておき、最初の単行本が出る前後、神経がひりひりしていた。なんてことのない言葉にも過敏に反応し、苛立った。以来、どんなに期日がせまっても、余裕をもって、のんびり作業することを心がけるようになった。それがいいのかどうかはわからないのだが……。

 十年単位でふりかえると、低迷や停滞をくりかえしつつも、昔と比べると、気持の切り替え方や力の抜き方はうまくなった気がする。

 火を絶やさないように、そして燃え尽きないように……地道に気長に根気よくやっていこうとおもっています。

三重と京都

 二日(火)、新幹線で名古屋。近鉄に乗りかえ、四日市駅。四日市あすなろう鉄道(内部線)で内部駅に。わたしが乗った車両は座席が前向に一列(そうでない車両もある)でバスみたい。
 あすなろう鉄道は、軌幅が762mmのナローゲージの鉄道で五月一日が開業762日目で記念列車を運行中だった(五月七日まで)。
 昨年、あすなろう鉄道の終点の内部駅から平田町駅までのバスがあることを知り、いちど四日市駅〜内部駅〜平田町駅というルートで帰省してみたいとおもっていた。
 内部駅からのバスは一時間に一本。三十分待ち。十五分遅れでバスが到着する。バス停でひとり。心細かった。
 バスの乗客は三人くらい。終点に着くころには、わたしひとりになっていた。三交バス、大丈夫なのか。
 鈴鹿ハンターでゑびすやで天もりうどんを食う。二階の衣服店で靴下を買う。

 とりあえず、郷里の家に顔を出し荷物を置いて、夕方、港屋珈琲で一息。

 三日(水)、近鉄で京都へ。白子駅で特急に乗ろうとしたら満席。急行で伊勢中川駅まで行って、賢島駅発の特急の乗る(こちらは空いていた)。大和八木からは再び急行で丹波橋まで。けっこう時間がかかった。

 徳正寺の岡崎武志さんの還暦記念イベント。開始前から岡崎さんと山本善行さんの話が止まらない。事前に六十問のアンケートがあって、冊子にまとめていた。世田谷ピンポンズさんが、岡崎さんの詩の曲を歌う。さらに吉田拓郎の曲を急にリクエストされるも、堂々と歌いきる(大変だったとおもう)。
 ペリカン時代で知り合った詩が好きなS君も来ていた。最近、見かけないとおもっていたら、今年のはじめ、大阪に転勤していたことを知る。
 打ち上げは、CAFEすずなり。
 すずなりは昨年六月に行われた『些末事研究』の座談会以来。座談会に参加した東賢次郎さんも来ていて、再び「親子問題」の話に……。
 夜、扉野家に泊る。

 四日(木)、朝から扉野家の子どもとカードゲーム、将棋で遊ぶ。こんぶをのせたおかゆがおいしかった。
 みやこめっせの春の古書大即売会。春の古本市に行くのは六年ぶり。ここ数年、ゴールデンウィーク中はずっと仕事をしていた。
 高橋義孝著『随筆 大名の酒盛り』(新潮社、一九五五年刊)は、表紙に魚拓がつかわれている。新書サイズのきれいな本だ。
「名人一夕語」という随筆では「君が釣りの名人だといううわさが立つているぞと一友人が教えてくれた」という文章からはじまる。

 高橋義孝は友人と「やまべ」を釣りに行った。四人で二百尾ばかり釣った。そのうち高橋義孝が釣ったのは五匹——。

《この話が人から人に伝わつて、よく、『やまめを釣りに行つたんですつてね』といわれる。そういう場合、私は大抵『いや、どうも』とか何とかいつて済ませている。相手が、『やまめは人の影が水にうつると釣れないから、姿を隠して岩の上から』などといい出す時に限つて、『私の釣つたのはやまべです』と訂正するのである》

「やまべ」と「やまめ」は、わたしも釣りに興味を持つまではごっちゃになっていた。

 あと佐藤垢石著『垢石飄談』(文藝春秋新社、一九五一年刊)も買う。安かった。一九五〇年代の随筆ののんびりした味わいが好きだ。

 みやこめっせから京阪三条まで歩いて、篠田屋でうどんを食う。六曜社でアイスコーヒー。ここで体力の限界を痛感し、午後の新幹線で東京に帰る。
 夜、ペリカン時代で、世田谷ピンポンズさんと待ち合わせ。飲みすぎる。

2017/05/02

手探り

 野見山暁治の『うつろうかたち』(平凡社)に「手探りが終わったとき絵が終わる」という言葉が出てくるのだが、なんとなく、「絵が終わる」の「終わる」を「ダメになる」みたいな意味かと一瞬勘違いしてしまった。

 別に野見山さんはそんなことはいっていない。

《ぼくの中に、何かはっきりあって、これを描こうと思うんだけれども、それはこういうものじゃなかろうか、ああいうものじゃなかろうかと思いながら追いかけていっている。絵を描くというのは、そういうことだろうと思う。
 じゃあ、これは完成と言われたら、完成ということはないので、手探りの状態で、いま、この絵についてはこれ以上手探りできないんですというところでもって、終わりにしている》

 手探りできないところまで描いたら、いちおう終わりということにする。
 ものを作ることにキリがない。何をもって「完成」とするか。文章だと、直そうとおもえば、あとからいくらでも直せる。どこかで「これでいい」という決断をしないといけない。二十代のころは、なかなかそういう決断ができなかった。短い原稿を一本書くのに、ものすごく時間がかかった。

 手探りせず、ぱっと書けたらいいのだが、そうなったらつまらないのかもしれない。ただ、ずっと手探りを続けるよりは、どこかでけりをつけて、どんどん次の作品にとりかかったほうがいいのではないか。

 今のわたしはそう考えている。