2017/04/08

「整えない」こと

 ここ数日、ぼんやりと考えていたことを書いてみる。

 どんな競技にも難易度みたいなものがある。見ている分にはその細かなちがいは素人目にはわからない。
 難しいことを簡単そうにやるのはむずかしい。そのむずかしさは伝わりにくい。
 いっぽう今の自分の力でギリギリのことをやろうとすると、余裕がなくて、ぎこちなくなる。どうしても必死なかんじになる。でもぎこちなくても必死になってやってみることは、すごく大切なのではないか……と、万事においてあんまり無理をしなくなった四十代後半のおっさんはおもうわけだ。

 齢をとって、気力や体力が衰えて、はじめてわかることがたくさんある。
 若いころ、基本や手順を無視して強引にやっていたことがことごとくできなくなる。勢いで乗りきるという方法が使えない。

 今のわたしは手順や基本を無視して、いきなりD難度やE難度の技に挑むようなことはしなくなった。
 現段階では三回に一回くらいしかうまくいかないような技は封印し、確実にできる技の精度で勝負することが増えた。いわば、「守り」に入っている。ところが、「守り」とおもっていたこともやってみると意外と奥が深い。まとめすぎずに、適度な雑さ、いい加減さを残す。その匙加減でよく悩む。

 最近、藤井青銅著『幸せな裏方』(新潮社)を読んでいたら、その中に「整えない」というエッセイがあった。

 藤井さんがあるミュージシャンのために作詞したときの話だ。ミュージシャンは藤井さんの前のギター一本でデモ曲を作り、ラフに歌った。
「これがとてもよかったのだ!」
 後日レコーディングの現場で「立派に編曲された伴奏」といっしょにその曲を聴いた。ところが、編曲された曲は最初のデモ曲のときにあった魅力を感じられなかった。
 音楽の世界では、よくあることらしい。

「整えない」というエッセイでは、藤井さんがものすごく過密な日程で小説を書いたときのエピソードも綴られている。文章を吟味せず、語句も統一せず、《書き飛ばす》かんじで原稿用紙に文字を埋め続ける。ゲラを見ると、あちこちに乱れがある。しかし、そこに「気迫」のようなものがこもっている。そして「整えない」ことの意味を問いかける。

《音楽も小説も、おそらく他のジャンルも……、上手に作り上げていくことが必ずしもいい結果を生むとは限らない》

 整えたくても整えられない……という時期を経て、それなりに整ったものが作れるようになってから、ぶつかる壁がある。

 近所の飲み屋で三十歳前後の会社員兼ミュージシャンが「今の若い人はみんなうまいですよ。うまいことが前提になっているですよ」みたいな話をしていた。難しい曲もさらっと弾きこなす。でもうまいことが前提になると、そのうまさは武器にならない。
 一昔前と比べると、あらゆるジャンルにおいて、その道のプロとして食っていくことの難易度が格段に上がっている。

 だったら、うまさを目指さないという道もあるのではないか。
 それはそれで茨の道かもしれないが。