2017/12/27

掃除中

 二十三日、今年の最後の西部古書会館。久々の初日に行く。午後二時すぎだが。ここ数年、西部古書会館には二日目、日曜日に行くことが多かった。「いい本を安く買いたい」「掘り出し物を見つけたい」といった欲求よりも「ゆっくり棚を眺めたい」という気持のほうが強くなったからだ。初日に行くと、本を買いすぎてしまう。今のわたしはそんなに買っても読む時間はないとブレーキを踏んでしまう。本の置き場所もない。

 今、大掃除の途中である。四日目。年中、本の整理はしているのだが、それでも増える。あと紙の資料(雑誌のコピー)が増える。
「自分はこれから何をしたいのだろう」と考えながら、取捨選択をする。時間がかかる。それをしないと先に進めない。

 小野博著『日本の本日』(orangoro)を読んだとき、このエッセイを気にいるだろうとおもう本好きの岡山出身の友人のことをおもいだした。すこし外出して家に戻ると、小野博著『Line on the Earth』(エディマン)が届いていた。掃除の途中、読みふけってしまう。学生時代、阿佐ヶ谷に住んでいたこともあるのか。読後、もういちど『日本の本日』を読み返した。掃除が終わらない。

2017/12/23

レエン・コオト事件

 はじめて読んだ小沼丹の本は『小さな手袋』だったか。単行本の『小さな手袋』(小澤書店)は、古本屋の目録で買った気がする。そのあと講談社文芸文庫で買い直した。今、単行本は手元にない。

「大先輩」という随筆はこんな一文からはじまる。

《青野季吉氏はたいへん怒りっぽかった》

 青野季吉はどうでもいいようなことで立腹する。面倒くさい人だ。

《しかし、青野さんが一番怒られたのは、或る会合の席である。妙な事情があって会が荒れて、青野さんは憤然として席を立った。僕は幹事だったから、出口まで送って行ったら青野さんはレエン・コオトを忘れたと仰言る。レエン・コオトを探して持って行くと、青野さんは今度は僕に食って掛った。
——先輩が帰るときは、黙っていても後輩はレエン・コオトぐらい持って来て着せ掛けるべきだ。それがヒユウマニズムだ。
 大体、そんな意味のことを云われた》

『藁屋根』の「竹の会」にも書かれていた「レエン・コオト事件」である。小沼丹は青野季吉に「そんなヒユウマニズムは御免蒙る」といって、自分の席に戻る。それからしばらく酒場で会っても、お互い、顔を合わせないような関係が続いた。

 小沼丹のエッセイを読むと、青野さんは怒りんぼうで酒癖のわるい厄介な人のようにおもえるのだが、昔からわたしは青野季吉の文章が好きである。名文家だとおもっている。

《誰でもさうであらうが、朝々にはまへの日やまへの夜にやつたこと、言つたことが、いろいろ氣になつたり、省みられたりするものだ。そして私など、どんな一日でも、美しく、滿足に、ひとに誇れるやうな生き方をしたことがないので、今日こそは祈るやうな氣持になるが、やはり駄目だ》

 青野季吉著『經堂襍記』(筑摩書房、一九四一年刊)の一節。この文章を書いていたころ、青野季吉は夜型から朝型に切り替えようとしていた。

《讀む時間、考へる時間、書く時間、遊ぶ時間、眠る時間を、どう割り當てていいか當惑して、結局は出鱈目になつて仕舞ふ。私にもひと並に釣をしたり、畑仕事をやつたり、碁將棋に費す時間があつていい筈なのだが、まるでそれが無い。不思議なやうな本當の話である。自分でも不思議でたまらない》

『經堂襍記』は、身辺雑記と本の感想をとりとめもなく綴ったかんじの本で、そのぐだぐだ感が素晴らしい。

『小さな手袋』の「お墓の字」は、谷崎精二が井伏鱒二に墓の字を書いてほしいとごねる話。このエピソードも「竹の会」に書いている。

2017/12/21

日本の本日

 年内の仕事が終わった。といっても、校正が残っていたり、年明けすぐのしめきりもあるのだが、とにかく一年乗りきった。「どうにかしのいだ」といったかんじだ。毎年同じような一年のくりかえしのようで、同じ一年にあらず。

 夕方、新宿のち神保町。神田伯剌西爾で、新刊の小野博著『日本の本日』(orangoro)を読みはじめる。この題名は無視できない。大当たりだ。エッセイと写真——どちらも素晴らしい。一九七一年生まれ(たぶん、早生まれ)でほぼ同世代ということもあって、読んでいるうちに、いろいろ記憶がよみがえってくる。ものの見方、考え方に共感するところも多かった。
 小野さんは岡山出身の写真家でオランダに十五年住んでいる。
 東日本大震災後、日本中を旅行するようになった。子どものころから今に至るまでの「日本」と「自分」の回想――観察と洞察も深い。
「小野さん、幸せ?」というエッセイは東京で会社勤めをしていたころの話である。

《残業なしでは到底処理できない仕事量を任され、予算がないからという理由で人手が増やされることはなく、納期だけは必ず守るように言われる。日本人の誠実さ、忍耐強さが、不景気による経営不振の埋め合わせに利用されていた。
 電車に揺られながら、「あと四〇数年、こんなこと続けられるだろうか?」と自分に問いかけてみる。その答えは、「無理」だった》

 数年後、小野さんは「仕事=人生」ではない生き方を求めてオランダに移住した。
 わたしも「仕事=人生」とはおもっていない。若いころから、なるべく働かずに食べていくことばかり考えてきた。いちども定職に就いたことはないし、その選択に悔いはない。それでも「仕事=人生」という価値観の呪縛はおもいのほかきつい。

「あの時、壊されたもの」というエッセイは、会社を辞め、派遣社員として働いていたときのことをこんなふうに綴っている。

《ある日、一年分の収入と支出を計算してみた。僕は家賃のために五ヶ月、食費のために二ヶ月、国民年金と交通費と通信費のためにそれぞれ一ヶ月働いていることがわかった。ただ生きていくためだけに、収入一〇ヶ月分が消えてなくなっている事実に愕然とした》

 ほかにも「ヤンキーと僕」がよかった。中学時代に親しかったヤンキーの級友の話なのだが……内容は手にとって読んでほしい。

 家に帰って、すぐ小野さんの『ライン・オン・ジ・アース』(エディマン)と『世界は小さな祝祭であふれている(新装版)』(モ・クシュラ)を注文した。早く読みたい。

2017/12/14

竹の会

 小沼丹著『藁屋根』(講談社文芸文庫)所収の「竹の会」を読む。小説なのか、エッセイなのか。ありし日のことをおもいだすままに書いた(ようにおもえる)文章である。

《高円寺にいた何とかさんが今度新宿に店を出した、井伏さんからそんな話を聞いたので、誰か友人と一緒に「高野」の横の汚い路地に入って、それらしいちっぽけな店を覗いた。茲は井伏さんの見える店かい? と訊くと眼玉の丸いお上が、
——はい、左様でございます。
 と神妙に返事をした》

 ハモニカ横丁の「みちくさ」という店の話。
 村上護著『阿佐ヶ谷文士村』(春陽堂)の「ハモニカ横丁から」にも「みちくさ」が出てくる(「道草」「みち草」など、表記はまちまち)。当時の「みちくさ」は朝四時ごろまで客がいた。井伏鱒二も「遅い組」だった。

 上林曉も常連のひとりだった。『阿佐ヶ谷文士村』によれば、「上林を『みち草』に紹介したのは新居格であった」そうだ。

《彼は文化人ではじめての公選杉並区長になっていた。そんな肩書きをもつ新居が、中央沿線に住む文士たちに、「みち草」を紹介する。彼は酒を飲まなかったが、次々酒飲みを連れていったのだからおもしろい。(中略)その後、「みち草」は高円寺から新宿に出て、ハモニカ横丁に店を開いた。昭和二十三年だったという》

 小沼丹は一九一八年生まれ。ハモニカ横丁に移った「みちくさ」で飲んでいたのは三十歳くらい。
 小沼丹の「竹の会」は「早稲田文学」の主幹だった谷崎精二の話が軸になっている。小沼丹は谷崎精二の教え子である。戦中から戦後にかけての文学者の様子が装飾のない文章で描かれている。
 谷崎精二から同人誌の「奇蹟」のことや葛西善蔵のことを訊く場面があるのだが、「どこかで蟋蟀の鳴く声が聞えて来たりして」といったかんじで、話題が変わってしまう。

 青野季吉も登場する。青野季吉は短気でわがままな人物として描かれる。あまり怒らなさそうな小沼丹が青野季吉と喧嘩している。すくなくとも「竹の会」を読むかぎり、青野季吉のほうがひどすぎて、弁護のしようもない。晩年の谷崎精二も面倒くさい。齢をとって、頑固になる。小沼丹は困ってばかりいる。困り役が似合う。

 かつての谷崎先生は飲み屋で学校の話をするのを嫌ったが、学長になってからは学校の話ばかりするようになった——というようなことも書いている。地位を得てか、齢をとってかはわからないが、人が変わっていく様子を見事にとらえている。

2017/12/13

貼るカイロ

 睡眠時間がズレる周期に入った。毎日、寝る時間と起きる時間がズレる。原因は寝過ぎか運動不足かその両方かだろう。

 すこし前に毎日新聞の日曜版のコラムで「温活」に関する雑誌記事を紹介した。どの雑誌もショウガの効用を説いている。わたしも毎回、汁ものにはすりおろしのショウガを入れる。炒め物にも入れる。
 数年前から、たまにジンジャーハイボールを飲むようになった。

 ヤセ気味の人と小太りの人など、体質によって、からだの冷え方がちがう。
 わたしは三十代のはじめから四十代後半にかけて、体重が十二、三キロ増えた。あいかわらず、寒いのは苦手だが、太って楽になった。以前は、全身がだるくなる冷えだったが、ここ数年は、手足に冷えをかんじる。専門用語(?)では「末端冷え」というらしい。ちなみに、ヤセ気味の人は「全身冷え」が多い。
 梅崎春生や古山高麗雄の随筆を読んでいると、しょっちゅう寒がりであることを書いている。「冬眠居」を名のっていた尾崎一雄もそうだ。だからというわけではないが、冬になると、この三人の作家の本を読みたくなる。

 室内にいるときも貼るカイロを腰につけている。いまやカイロはからだの一部だ。三十袋入りの箱を買っていて、一袋あたり十五円前後——毎日使っても一ヶ月ワンコイン以下である。
 毎年、貼るカイロの話を書いている気がする。ほんとうに助かっている。

2017/12/08

次の一手

『フライの雑誌』の最新号、ワイド特集「釣り人エッセイ 次の一手」は読ませる。人生を棒にふるくらい釣りに特化した生き方をしている人、マイペースに釣りを楽しむ人——それぞれの気持のこもった素晴らしいエッセイばかりだった。言葉の端々からフライフィッシングの楽しさを伝えたい、広めたいというおもいが溢れている。マニアックだけど、閉じていない。
 フライフィッシングショップなごみの遠藤早都治さんの文章(「なるほど、そうやるのか」)は自分の経験を通して掴みとってきた言葉がいい。

《理屈抜きで楽しみたい。そういう気持ちもわかりますが、ある程度の段階になると、この趣味には地道な努力が必要なんだろうと気づくと思います》

 わたしが『フライの雑誌』を知るきっかけになった真柄慎一さんも久しぶりに執筆している。誠実さが、そのまま面白さになる。あらためて稀有な書き手だとおもった。小学生になったばかりの息子と釣りをする話で……真柄さんが無職のころから読み続けてきたので感慨深い。ずっと書き続けてほしい。

 中年になって、何か新しいことをはじめるのが億劫になっている。とくに人生の残り時間を考えると、年季がものをいう世界には、おいそれとは入っていけない。
 今から釣りをはじめても初心者のまま一生終わっちゃうな、と。でも初心者から何かをはじめるというのは、いい経験になるのではないか。そんなことを五年くらいぐだぐだと考えているわけだ。考えているひまがあるなら、やれよ(という自分つっこみもマンネリ化してきた)。
 どんな趣味でも「ある程度の段階」まで行くのは大変だ。その大変さを知れば知るほど、腰が重くなる。

 来年こそはきっと。いやはや、一年経つのは早いなあ。

2017/12/05

まだまだ何も

 竜王戦第五局が気になって仕事が手につかない。一日目、羽生善治さんの封じ手で終了。なんとなく羽生さんの手に勢いがあるようにおもう(形勢判断できるほどの棋力はないのだが)。

 わたしが将棋に興味を持ちはじめたのは一九九六年の羽生善治さんの七冠フィーバーのときだ。そのころ、大盤解説会の会場に棋譜を送るアルバイトをしていた。
 当時、定跡も何も知らず、対局を見ていても何もわからない。何を考えているのかもわからない。こんなにわからないことを真剣に考えている人たちがいる。その姿に心を打たれた。

 序盤から中盤にかけて、その場にいた観戦記者(アマチュア四、五段の人)が予想外の手を羽生さんが指す。その一手が終盤に効いてくる。そんな場面が何度もあった。

 二十五、六歳のころ、ライターの仕事が行き詰まって、何かを変える必要があると考えていた。毎日、古本屋に通い、本を読んで酒を飲んで寝る生活は楽しかったが、仕事につながらなかった。当たり前だが。

 集中とリラックス、休息のとり方……将棋の本から教わったことはたくさんあった(実践できているかどうかは別だ)。
 その後、海外のスポーツコラムやスポーツ心理学の本を読み漁るようになったのも将棋がきっかけだ。

 五日、夕方。羽生さんが竜王位奪取。永世七冠達成。NHKに速報のテロップが流れる。

 対局後の記者会見で、挑戦者になることもむずかしかった、次があるのかどうかもわからない、最後のチャンスだという気持もあった——と語っていた。「そうですねえ」といいながら、言葉を慎重に選ぶ。受け答えの姿勢がまったく変わらない。(二十代三十代のころと比べて)四十代は足し算だけでなく、引き算で考えられるようになったことが強みになっているという答えも羽生さんらしい。

 永世七冠という偉業を達成し、今後の抱負を訊かれ「(将棋のことは)まだまだ何もわかっていない」。重い言葉だ。

2017/12/03

伊勢・志摩の文学

 日曜日、西部古書会館。来年の「古書即売店一覧」(半年ごとに配布)をもらい、年末を実感する。
 二十代のころは、古書会館に行くとき「五冊まで」「二千円以内」といったかんじで買いすぎに気をつけていた。最近は「五冊以上買う」「二千円以上買う」と心に決めて古書会館に行く。冊数と値段は、そのときどきによって変わるのだが、目標を設定したほうが棚を真剣に見る。
 どういうわけか、今回、三重県関係の本がたくさん出ていた。郷土史の研究をする予定はないが、見たことのない本がけっこうあったので、三冊買う。橋爪博著『伊勢・志摩の文学』(伊勢郷土会、一九八〇年)もそのうちの一冊。
 目次を見ると「尾崎一雄『父祖の地』と伊勢」や「庄野潤三『浮き燈臺』と安乗」といった項目がある。

 尾崎一雄は、三重の生まれ(宇治山田町)。父の尾崎八束は、神宮皇学館の教授だった。四歳で下曽我に引っ越すが、七歳のときに再び宇治山田に移る(翌年、沼津へ)。

《尾崎一雄氏は、私の「宇治山田のどこで生まれたのでしょうか。」という質問に、たいへん親切丁寧にお答えいただいた。昭和五十三年二月十一日の私に宛てた書簡によれば、生まれた場所は「宇治の浦田町五十番屋敷といふ所(当時の呼稱)です、別紙に略図します……」とあり(以下略)》

 この文章のあと「尾崎一雄氏の著者宛の書簡」という写真が載っている。尾崎一雄の筆跡の現住所がそのまま出ている。尾崎一雄が世を去ったのは一九八三年三月。亡くなる五年前の手紙ですね。

 庄野潤三の『浮き燈臺』の舞台の志摩郡阿児町安乗(あのり)——わたしの母の郷里の浜島と同じ現在は志摩市なのだが、行ったことがない(交通の便があまりよくない)。『浮き燈臺』は、一九六一年の作品である。

 庄野潤三は伊良子清白の「安乗の稚児」という詩で安乗という地名を知った。この詩を教えてくれたのは、恩師の伊東静雄である。

《その時から二十年後に私は安乗へ行き、そこへ行ったことを小説に書いた》(「志摩の安乗」/『週刊読書人』一九六二年一月十五日)

 橋爪さんは『浮き燈臺』に登場する「小安ばあさん」のモデルを訪ねる。すでに亡くなっていたが、庄野潤三と小安さんがいっしょに撮った写真が残っている。
 また庄野潤三と文学の話をした安乗の山本光男さんは「庄野氏は、人間は目に見えない糸のようなものがあって、たえずたぐり合っている。」というような話をしたそうだ。

 ちなみに、伊良子清白の「安乗の稚児」は『孔雀船』(岩波文庫)に所収。伊良子清白は、安乗へ行かずに「安乗の稚児」を書いた。

2017/11/30

高松遊行

 日曜日、新幹線で岡山、それから宇野港に行き、宇高フェリーで高松。六時間半。東京から神戸、三ノ宮からフェリーで行くルートより二時間くらい早い。船に乗るのは楽しい。高松港に福田さんが迎えに来てくれて仏生山。温泉のち家飲み(鍋)。ハマチの刺身、タコもうまかった。
 翌日、自転車でうどんを食いに行く。量が多い。福田さんの畑を見せてもらう。里芋の話などを聞く。夕方くらいまで福田家でくつろぐ。旅先でだらだらできるのはありがたい。夕方、琴電でルヌガンガ。棚も雰囲気も素晴らしい。京都から東賢次郎さんが合流。トークショーでは、行き詰ったときにどうしているのかという話で、頭があまりまわらないときは、掃除やスクラップ、本のパラフィンがけなどの手作業をするというようなことを喋った。

 一日の中で調子のいい時間帯に仕事をすることを心掛けている。わたしの場合、稼ぐことより、からだがつらくない生活がしたい。経験上、調子がよくないときに無理をしてもあまりいい結果が出ない。

 火曜日、午前中に高速バスで高松から大阪。大阪から近鉄で三重に。六時間ちょっと。鳴門大橋、明石海峡大橋を渡り、長いトンネルを何度も抜ける。

 大阪から近鉄特急で鈴鹿に。高速バスで神戸や大阪の街並を見た後、三重に来ると「土地、余ってるなあ」と……。海を埋め立てまくっている場所があり、草木がはえまくっている場所があり、半日のあいだに都会と田舎を通過して、いろいろ考えすぎてちょっと疲れた。

 目的のあるなし関係なく、移動は楽しい。ルヌガンガの打ち上げで東京・徳島間の船便があることを教えてもらった。

 三泊四日。翌日、腕が筋肉痛になる(鞄が重かったせいかも)。高松では朝型の生活をしていたのだが、東京に帰ったら一日で朝寝夜起の生活に戻った。

2017/11/24

土鍋の蓋

 炊飯用の土鍋の蓋のつまみの部分が取れてしまった。上京して最初に仕事したPR誌の編集部でもらった。ラーメンの丼や小鉢もいっしょに。丼と小鉢は今も使っている。
 土鍋はふつうの鍋やおでんのときにも重宝していた。

「土鍋 蓋 修理」で検索したら、蓋が壊れて困っている人がけっこういる。道具は使い続けていると愛着がわいてくる。今の感情に名前をつけるとすれば、「土鍋ロス」だ。なんとか修理できないかと考えたのだが(ガラス蓋で代用することも考えた)、三日悩んだ末、新しいものを購入することにした。

 新しい土鍋の火加減、水加減が把握できず、おもいどおりに炊けない。火をかけて蒸気口が吹いてきたら十分、火を止めて十分——同じようにやってみても炊き上がりのかんじがちがう。味もちがう。慣れるしかないのか。

2017/11/21

ミケシュのこと

 週末しめきりの仕事がもたついてしまい、週明けに。仕事の合間、肉や野菜の冷凍作業に励む(小分けにして凍らせる)。この作業をしておくと料理が楽だ。この方式を何とか仕事にも応用できないものか。

 集英社の『kotoba』の特集「わが理想の本棚」を読んでいたら、ピーター・バラカンが、ジョージ・ミケシュの『How To Be A Brit』(イギリス人になる方法)を「皮肉とユーモアにあふれた10冊」の一冊にあげていた。

《ジョージ・ミケシュはすごく皮肉のきいた面白い文章を書く人です》

《イギリス人のどうしようもないところや、恥ずかしいところをうまく観察して面白おかしくエッセイにしています》

 わたしはジョージ・ミケシュを浅倉久志編・訳『ユーモア・スケッチ傑作展』(全三巻、早川書房)で知った。『ユーモア・スケッチ傑作展』は一九七八年八月、『傑作展2』が一九八〇年八月、『傑作展3』が一九八三年二月に刊行されている。ほかにも浅倉久志編・訳『すべてはイブからはじまった ユーモア・スケッチブック』(早川書房、一九九一年)もある。『傑作展2』にミケシュの「英国人入門」が入っている(浅倉久志編・訳『忘れられたバッハ ユーモア・スケッチ絶倒篇』ハヤカワ文庫にも所収)。

《大陸の人間は敏感で怒りっぽい。英国人はあらゆる物事を洗練されたユーモアのセンスでうけとめる——彼らが腹を立てるのは、おまえにはユーモアのセンスがない、といわれたときだけだ》(英国人入門)

 ミケシュの邦訳本では『没落のすすめ 「英国病」讃歌』(倉谷直臣訳編、講談社現代新書、一九七八年)、『ふだん着のアーサー・ケストラー』(小野寺健訳、晶文社、一九八六年)もおすすめだ。

2017/11/18

ちいさな本と店

 冬に備えて、体力温存モードに切り替え中。仕事をして、メシを作って、古本を読んで、プロ野球のドラフトや戦力外の情報を追いかけているうちに、あっという間に一日がすぎてゆく。

 南陀楼綾繁さんの『編む人 ちいさな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)、『新版 谷根千ちいさなお店散歩』(WAVE出版)が届く。どちらも題名に「ちいさな」という言葉が入っている。
『編む人』は、『雲遊天下』のインタビューをまとめた本。徳島でミニコミ『ハードスタッフ』を発行している小西昌幸さんのインタビューは、雑誌作りの「業」とでもいうべき言葉が溢れている。

《——小西さんの好きになり方というのが、ちょっと見て「これ面白いな」と思う程度じゃなくて、好きになると、とことんですよね。
 小西 一生付き合うべきだというのが信条です。もう二十年以上前にミーハーとかそういうものについて考えたことがあって、たとえばジャニーズに熱中している十代後半とかの女の子たちが、一生彼らを応援するのか。一方で、六十歳になってもジャニーズ追っかけるのはおかしいことなのか、そんなことも思うんです。ようするに一種の熱病のような感じで何かに接して、あとはサバサバして「卒業しました」みたいなことはどうもおかしいのではないかなという気持ちがずっとあって、それでずっとこだわり続けているところがありますね》

『ハードスタッフ』の刊行ペースは、のんびり……というか、十年くらい出ないこともある(十一号から最新十二号は十五年の間隔が空いている)。

《小西 「死ぬまでつくります」と云ってしまった以上は、やらざるを得ないわけですよ。云ったことはやる、と。ただ、休憩時間がとても長い》

 竹熊健太郎さんのインタビューでは、マンガ家の条件として、絵のうまさを含めた技術以外の「十分条件」について次のように語っている。

《竹熊 やっぱり納期に間に合わせること。百点を目指しちゃうのはアマチュアなんですよ。七十点、八十点でも妥協できるかどうか、それがプロとしてマンガでごはんを食べるということですね。逆にいえば、百点を目指したい人はプロになっちゃダメだとぼくは思います》

 もちろん、プロがよくて、アマチュアがよくないという話ではない。マンガにかぎった話ではないが、様々な制約がある中で、最善を尽くすのがプロ。いっぽう、妥協せず、理想を追求できるのがアマチュアの強みだ。

 少部数のミニコミ、同人誌を作り続ける。その目的や志はそれぞれちがう。お金にならない、否、やればやるほど赤字になっても、そこでしかやれないことがある。

『新版 谷根千ちいさなお店散歩』も、古書信天翁、ブックス&カフェBOUSINGOT(ブーザンゴ)、古書ほうろう、タナカホンヤ、ひるねこBOOKS、古書バンゴブックス、弥生坂 緑の本棚など、古本屋さんの話を読んでいると、自分のペースで暮らしたいという意志みたいなものが伝わっている。

 タナカホンヤの田中さんが、お店の定休日にインドレストランでアルバイトしているという話はぐっときた。

2017/11/13

 わたしは十一月生まれなので、今月四十八歳になる。中年になると、一歳二歳年をとろうが、たいした変化はない。先日、東賢次郎さんに会ったら、「一夏ごとに老いを感じる」といっていた。たしかに、体力と気力は徐々にだが確実に衰えている。

 十九歳で上京して、その年の秋に高円寺に引っ越して二十八年。同じ町に住み続けている理由は、半分は無精、もう半分は意地である。二十代後半、ほとんど仕事をしていなかったころ、三十代になっても四十代になっても、週末に高円寺の古書会館に行ったり、高円寺で酒を飲んだりしながら、ふらふら暮らしたいとおもっていた。ようするに、中央線界隈によくいる定職についていない変なおっさんになりたかった。

 わたしは子どもがいないし、妻と共働きなので、学生時代の延長のような生活レベルでもどうにかなってしまう。食事はほぼ自炊だし、古本は百円二百円で買える。あと飲み代と旅費くらい。計画性はないが老後の心配さえしなければ、わりと気楽な生活である。

 吉行淳之介は、マイナーポエットとして大成したいというようなことを書いていた。
 わたしは、大成しなくてもいいから、どうにか自分が生きていける隙間を見つけたい。これも昔の自分がぼんやりと抱いていた夢のひとつだ。

……ええっと、ここまで「夢」という言葉をつかってきたが、自分の中のニュアンスとしては「方向性」という言葉のほうが近い。たどりつくかどうかは不明だが、だいたいの方向さえ大きく間違えなければいい。

 なるべく時間をかけてのんびり寄り道したり後戻りしながら、わけのわからない中年になりたいものだ。

2017/11/07

スロウ・アンド・ステディ

 もう十一月。三ヶ月くらい前に読んだ本がずいぶん昔に読んだようにおもえたり、逆に二年くらい前に読んだ本がつい最近読んだようにおもえたり……。

 吉行淳之介の『四角三角丸矩形』(創樹社、一九七四年刊)に「上林曉『春の坂』評」という書評がある。この本をはじめて読んだのは、大学時代——たしか中退した年の秋だから、今から四半世紀前。上林曉の名前をはじめて知った。

『春の坂』は上林曉の二十冊目(作家生活三十年目)の作品(当初は千部の限定本だった)で、吉行淳之介は「頑固でスロウ・アンド・ステディな個性の魅力がここにある」と評した。

 また私小説の「変質」について次のように述べている。

《以前は、社会生活に不適な作家が、どうにもならない状況に追い込まれ、その地点で頑固に自らの節を守っている姿勢に魅力があった。現在では、そういうものの影が薄くなり、別の魅力が現れてきたようだ》

 この書評の初出は一九五八年の『群像』。上林曉は、一九五二年一月、脳出血(一度目)で倒れている。『春の坂』所収の「カム・バック」は、軽い脳溢血で約三ヶ月間、筆がとれなかったのだが、再び創作をはじめる話である。

 上林曉に「木山君の死」という随筆がある。『草餅』(筑摩書房、一九六九年刊)所収。

《彼の不遇の時代は長かつた。しかし、その長い間をこらへる辛抱強さには我々は驚いた》

《彼は不遇の中にあつても、自分の才能に、強く頼むところがあつたにちがいない》

 木山捷平もまた「スロウ・アンド・ステディ」——ゆっくり着実に作品を書き続けた作家である。
 不遇でも続ける。続けるためには何が必要か。「自分の才能に、強く頼む」ことか。たぶん、そうなのだろう。

 部屋の掃除中、持っていたはずの『春の坂』を探したのだが、見つからない。買い直すしかないか。

2017/10/31

雑記

 先週、コタツ布団を出す。貼るカイロも隔日くらいのペースで使いはじめている。
 気分は、もう冬だ。

 先週の日曜日、新幹線で博多に。帰りの飛行機は、ひと月前にとっていたのだが、行きは決めずにぐずぐずしていた。そしたら台風である。もし飛行機だったら、運休になっていた。
 福岡ではブックスキューブリック箱崎で木下弦二さんとトークショー&ライブ。打ち上げも楽しかった。福岡滞在中、三泊四日で博多うどんを三食(ラーメンはゼロ食)。空港内のうどんのつゆが好みの味だった。
 大濠公園を散歩。梅崎春生の生家のあたりをぶらつく。西公園の階段にすこしひるんだが、登る。たぶん、ここから梅崎春生も博多湾を眺めていた。
 十年ぶりの博多。中洲の屋台が減っていたのがちょっと残念。たまたま通りかかった屋台のバーでハイボールを飲む。いい店だった。

 東京に帰り、ひきこもり。仕事&プロ野球のドラフト情報収集に明け暮れる。野球と竜王戦(羽生善治さんの永世七冠がかかっている)で忙しい。羽生さん、四十七歳か。
 野球の「松坂世代」や将棋の「羽生世代」の衰えはいろいろ考えさせられる。

 当たり前だが、メシもロクに食わず、酒ばっかり飲んでいたら、体調を崩し、ぐだぐだになる。若いころは、けっこう気力や勢いでどうにかこうにか乗り切ってしまえる……でもそんな生活は続かない。

 食事や睡眠をきちんととる。酒を飲んだり遊んだりするにも、それなりに体調管理は欠かせない。

 羽生さんは、二十代のころから、齢をとって、体力その他が衰えたとき、どう補うかというようなことを書いている。ほぼ「羽生世代」のわたしは、そのことに感銘を受けた。

 将棋界は五十代以上の棋士のタイトル戦を作ったらおもしろいのではないか。ゴルフの「シニアオープン」みたいなかんじで。

2017/10/29

高松の本屋ルヌガンガで

 来月、香川県高松市の本屋ルヌガンガにて、荻原魚雷×東賢次郎 トーク&ミニライブ「働き方怠け方改革」というイベント(司会 福田賢治「些末事研究」発行人)があります。
 東さんは元編集者で京都に移住。小説『レフトオーバー・スクラップ』(冬花社)の著者でミュージシャン(バンド「つれづれ」)で謎の覆面替え歌シンガーです。自由気ままな暮らしぶりには憧れています。
 司会の福田さんは高円寺の飲み屋で知り合い、二〇一四年に高松に移住。東さん、福田さんとも、定職につかず、ふらふらしているという共通点があるのですが、当日は、東京からの移住話をふたりに聞いてみたいとおもっています。

日時 11月27日(月) 19:00 open 19:30 start
場所 香川県高松市亀井町11番地13 中村第二ビル1F
(コトデン瓦町駅から徒歩3分)

詳細は、
https://www.lunuganga-books.com/
にて。

お問い合わせてメールアドレス
info@samatsuji.com(@=半角)

2017/10/22

コスモス忌

 今週月曜日からヒートテック、水曜日から貼るカイロの世話になっている。気温下がりすぎ。雨降りすぎ。急に寒くなると、からだがついていかない。

 土曜日、築地本願寺。秋山清のコスモス忌。秋山清はアナキスト詩人。わたしは自伝が好きでしょっちゅう読み返している。コスモス忌は二十数年ぶり(以前、中野で開催されていたころ、参加したことがある)。
 一部は、林聖子さんと森まゆみさんの講演。林聖子さんは、大杉栄や辻潤の肖像画を描いていた林倭衛の長女でバー風紋の現役女主人。
 久しぶりにコスモス忌に参加したのは、今年ペリカン時代で石丸澄子さんの写真展をやっているときに関係者の人と会ったのがきっかけだった。行ってよかった。いい会だった。学生時代以来に会った人もいた。小沢信男さんともすこし話をした。

 会場で新居格の『杉並区長日記 地方自治の先駆者』(虹霓社)を刊行した古屋淳二さんに話しかけられる。虹霓社のホームページを見て、つげ義春の公式グッズの制作販売していることを知る。

2017/10/14

政治家がしてはならないこと

 ジョージ・マイクス著『偽善の季節 豊かさにどう耐えるか』(加藤秀俊訳、ダイヤモンド社、一九七二年刊)という本がある。ジョージ・ミケシュは、ジョージ・マイクス名義になっている本が何冊かあって、ややこしい。わたしはミケシュで通す。
 この本で、ミケシュは「政治家であるかぎり、してはならないことのいくつか」をあげている。

(1)「すみませんでした」ということばをけっして口にしてはならない。
(2)いったん決めたことは、変えてはならない。
(3)選挙に失敗してはならない。

 ミケシュは「およそ歴史というものは、長い間にわたる数えきれない多くの政治的失敗の連続である」という。だが、政治家は謝罪しない。
 その例として、オーストラリアの国務大臣だったデビッド・セシルが、野党から攻撃を受けたときの答弁を紹介している。

《あなたがたの質問のすべてに対して、わたしは完全な答えを用意しております。しかし残念なことに書類を紛失してしまったので、このさいどうお答えしてよいかわかりません》

 また「いったん決めたことは、変えては変えてはならない」にたいして、ミケシュはこんな感想をいう。

《もしも議席に立ち上がって「わたしはこの問題に関してわたしの政敵のおっしゃっていることはまったく正しく、われわれがまちがっていることがよくわかったからであります」などと述べることのできる国会議員がいたとしたら、わたしはただただ敬服し、そういう人物を深く愛するのみである。いうまでもないことだが、こういう人物が現われることは絶対ありえない》

 選挙に失敗しない方法はいくらでもある。仮に、選挙で惨敗したとしても「自分は自分の言いたいことを全部演説で述べた」と開き直ればいい。「自分が考えていたよりはるかに多い得票数であったといえば、これも勝利である」とも……。
 日常生活と政治における美徳は一致しない。

 長いあいだ、わたしは政治に無関心だったが、ミケシュのコラムによって、政治家の生態を研究するおもしろさを知った。彼らにできないことを期待するのではなく、できることだけを望む。そのくらいのスタンスでいいのではないかとおもうようになった。

2017/10/10

わたしにはわからない

 臼井吉見著『自分をつくる』(ちくま文庫)を読む。忘れられた作家というほど、無名ではないが、もうすこし読まれてほしい。大事な提言をたくさん残している。

 この本の第三部の「人間と文学」という講演の中でこんなエピソードを紹介している。

 小学校四年生の作文に、子どもが自分の家の話を書いた文章があった。
 うちでは、お父さんがあたたかいご飯を食べ、お母さんは冷やご飯を食べる。いつもお父さんが先にお風呂に入り、お母さんと自分は後から入る。
 その後、「ほうけんてき(封建的)」という言葉が出てくる。
 先生はこの問題を取り上げ、他の生徒にも「みんなのうちではどうか」と作文を書かせた。
 すると、ほとんどの生徒が、判で押したように「私のうちも、ほうけんてきだ」と書いてきた。
 臼井吉見は、そのことを薄気味悪くおもう。いっぽう、クラスでひとりだけ「わたしにはわからない」という文章を書いてきた女の子がいた。

《お父さんは外に出て働いているのだから、おふろをわかしても、お父さんに先に入ってもらうことは、自分はうれしい。そして、お母さんがいつも冷たいご飯を食べなければならないというきまりはない。たくさん残っているときは、チャーハンにしてみんなで食べる。しかし、たいていは、お母さんがひやご飯を食べ、おふろにはお父さんが先に入る。それがどうしていけないのか、わたしにはわからない》

 臼井吉見は「ぼくはこの作文をよんでほっとしました」という。他の生徒は「ほうけんてき(封建的)」という言葉をトランプのジョーカーのようにつかっている。

《それをちょいと出すと、みんなまいっちまう。(中略)これを一度使い出すとこたえられない。信州ことばでいうとコテエサレナイのです。そういうコテエサレナイことを覚えたら、もう、ものなんか考えようとしなくなる》

「封建的」という言葉でわかったような気になったり、相手を黙らせたりする——そういう癖がついてしまうと人はものを考えなくなる。臼井吉見は、わからないまま、考え続けることの大切さを語る。

《封建社会には、いろいろの点で、不合理きわまるもので、いまそんなものが残っていたのでは、こまるわけだけれど、しかし、封建社会というものがあったからこそ、これをジャンプ台にして、ヨーロッパも日本も近代的な社会に飛躍することができました》

 この作文の授業の前に、臼井吉見はタイを訪れ、政治家で作家のククリット・プラーモートに会っている。彼は、日本には徳川三百年という封建社会の蓄積があったが、タイにはそれがないといった。
 封建社会を経ずに近代社会を作る。そんな困難な課題に取り組んでいる国の人たちがいる。

「封建的」のような符牒、レッテルは使い続けているうちに効力を失ってしまう。気をつけたい。

2017/10/09

竹槍事件

 阿川弘之著『大人の見識』(新潮新書)は、最初、タイトルを見たとき、ものすごく説教臭そうな本だとおもって敬遠していた。不覚だった。
 フライフィッシングに関する著作もある英国の外務大臣のエドワード・グレイの話が出てくると知って入手したのだが、阿川弘之の印象がずいぶん変わった。こんなに反骨の人だったのかと……。「瞬間湯沸かし器」というあだ名をつけられるような、短気で頑固な人だとおもっていた。

 戦時中の適性語廃止みたいなことを「滑稽なことが大まじめで通用していたのです」と一刀両断。

《ある学校の、校名に「英」の字が入っているのはよくないというので「英」を「永」に変えさせられた事例があるそうですが、そんなら東條首相の名前も「永機」に変えなきゃいかんだろうにね。それはしなかった》

 それから不勉強で知らなかったのだが、阿川弘之のエッセイで「竹槍事件」を知った。

 昭和十九年二月二十三日、毎日新聞の新名丈夫記者が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」といった記事を書いたところ、東條が激怒し、「四十歳に近い新名記者を一兵卒として懲罰召集」した。さらに後に、東海大学創立者の松前重義(当時四十二歳)も東條を批判し、二等兵で召集されている。

《口では名誉の入営、栄えある出征といいながら、実のところ軍隊に取られるのは懲役に処せられるのと同じだと証明しているんですよ》

 それにしても反戦でも何でもなく、「精神論では勝てない、大切なのは科学だ」みたいな意見ですら、懲罰の対象になってしまうくらい戦争末期の日本の言論状況はひどかった。
 阿川弘之は「憲兵を使っての言論の弾圧ぶりはすさまじいものがあった」と回想している。

 戦中の日本は言論弾圧と暗殺がはびこっていた国だった。どんなに戦前を美化しようにもこうした史実は消せない。

2017/10/07

珍プレー・好プレー

 子どものころ、プロ野球の「珍プレー・好プレー」番組が好きだった。シーズンごとに印象に残ったエラーや乱闘、ファインプレーなどを集めて一気に見せる。
 ほとんどのプロの選手は守備範囲にきた球は堅実にアウトにする。そうした平凡なプレーが番組でとりあげられることはない。

 最近、日本の近現代史の本を手当たり次第に読んでいるのだが、しょっちゅう「珍プレー・好プレー」番組みたいな本に出くわす。

 かくいうわたしも「珍プレー・好プレー」番組のような書き方をよくしてしまう。資料を読んでいるときも、自分好みのエピソードを追いかけてしまいがちだ。

 二十代のころ、ノンフィクションライターを目指していた。当時のわたしは、まず企画ありきで取材をはじめることが多かった。しかし、取材を重ねていくうちに、企画の趣旨からずれた話がどんどん出てくる。それをそのまま書くと、わかりにくい文章になり、たいていリライトかボツになる。

「珍プレー・好プレー」にとりあげられる選手は、毎試合、エラーをしたり、ファインプレーをしたりしているわけではない。乱闘もしない。そんなことは一々説明してなくてもプロ野球ファンはわかっている。わかっていて「珍プレー・好プレー」を楽しんでいる。

 ノンフィクションや歴史の場合、そういうわけにはいかない。

 資料を読めば読むほど、自分の導きたい結論にとって不都合なデータはいくらでも出てくる。
 そうした不都合なデータを考慮していくと、いくら字数があっても足りない。で、わかりやすくするために、企画の趣旨に合わない部分をカットする。その結果、珍プレーか好プレーか、そのどちらかに偏った内容になる。そうではないものを書いてみたいのだが、その書き方がわからない。

2017/10/06

ブックスキューブリックで

 十月二十三日(月) 福岡・ブックスキューブリック(箱崎店)で『日常学事始』刊行記念「荻原魚雷&木下弦二 トーク&弾き語りライブ」というイベントがあります。

http://bookskubrick.jp/event/10-23

 福岡は十年ぶり。『古本暮らし』(晶文社)が出た年の秋、ブックオカを見に行くために博多に行った。一箱古本市のときに、南陀楼綾繁さんがちょうどブックスキューブリックの前で出品していて、途中、店番を変わった。ブックスキューブリックは、東京の本好きのあいだでも「町の本屋の理想」と噂になっていた店でいつか行ってみたいとおもっていた。

 東京ローカル・ホンクの木下弦二さんと知り合ったとき、二十代後半だった。お金がなくて、週三日くらいアルバイトしながら、ふらふらしていたころだ。ときどき、ミニコミに文章を書いていた。
 そのころ、よく遊んでいた(同じように暇だった)中央線界隈のミュージシャンが口を揃えて「すごいバンドがあるんだよ」といっていたのが、弦二さんのバンドだった。たしか、ライブを見る前にドラムのクニさんとは会っていた。

 その後、東京ローカル・ホンクのライブを追いかけるようになった。知り合ったばかりのころ、夕方くらいから飲み出して、翌日の昼くらいまで、ずっと弦二さんと喋り続けたことがあった。内田百閒のファンだと聞いて、それで意気投合した記憶がある。

 当日、どんな話をするかは未定ですが、本の話だけでなく、わたし自身が弦二に教えてもらいたいことをいろいろ聞いてみたいとおもっている。博多、楽しみだ。

2017/10/05

アメリカの鏡・日本(四)

『アメリカの鏡・日本 完全版』読了。註釈も含め、読み飛ばしたくなる頁がまったくなかった。
 当時、どれだけ読まれたのかはわからないが、一九五三年にこの本が、原百代訳『アメリカの反省』として刊行されていたこともあらためてすごいとおもった。

 GHQの占領政策で日本人は「洗脳」された——という通説があるが、もしそうなら占領期が終わった途端、なぜ『アメリカの反省』と題したアメリカの占領政策を批判する本を刊行できたのか。

「GHQ洗脳論」に出くわすたびに、違和感をおぼえていた。どうすれば、これほど識字率が高く、出版産業が盛んで、世界屈指の古本文化を誇る国の人間を「洗脳」することができるのか。

 戦前の日本人は、アメリカの音楽や映画が好きだった。そもそも近代以降、「戦勝国」の文化や技術や制度を学び続けてきた国でもあった。何にもかも欧米が正しいと信じていたわけではないはずだ。
 戦時中は、日本を批判するような本はなかなか出版できなかった。だから、戦後になって、そうした言論が噴出した。ある種の反動にすぎない。わたしはそう考えている。

『アメリカの鏡・日本 完全版』の話に戻る。

 明治以前の日本人は、資源の少ない地震や台風の多い小さな国に暮らし、自己規律と節約を美徳としていた。資源に恵まれ、自由と浪費を愛するアメリカ人にはなかなか理解できない価値観ではないかとヘレン・ミアーズは問いかける。
 平和な日本を軍艦で脅し「開国」させたのは欧米列強だった。日本は、植民地化か近代化かの二択を突きつけられ、後者を選んだ。
 日本人は、健気なまでに忠実に西洋の教えを学んだ。法律を整備し、学校を作り、工業化を進め、軍隊を創設した。
 それでも不平等条約は解消されなかった。
 日清戦争と日露戦争に勝って、日本はようやく関税自主権を手に入れることができた。
 日本人は、自由や民主主義の教えは建前にすぎず、軍事大国になって、力をつけないかぎり、何一つ自分たちの要求が通らないこと——この世界のルールは、パワーポリティクス(武力政治)であることを学んだ。

《十九世紀末、欧米列強はアメとムチで日本を「指導」した。西洋の基準を逸脱すれば、厳しく折檻し、おとなしくしていれば褒めてやった。日本人が好戦的国民になるのに、ほとんど訓練は必要なかった》

 さらに日本人は、欧米列強が自分たちに教えた原則を彼ら自身はしょっちゅう無視していることを学習した。それでも領土の拡張するさい、日本は欧米列強のどの国よりも慎重に手続きをした。
 ヘレン・ミアーズは、当時の日本の状況を次のように指摘する。

《日本は近代的工業・軍事大国に必要な天然資源をほとんどもたない島国だから経済封鎖にもろい。資源的に脆弱な日本は、イギリスとの軍事同盟に意のままにされる操り人形だった》

 多くのアメリカ人が「貪欲で凶暴」とおもっていた日本は、「経済封鎖」の一手で詰んでしまう国だった(たぶん、今もですね)。
 というか、今の世界の大半の国は「経済封鎖」の一手で詰んでしまう構造になっている。日本の場合、「軍事同盟の意のままにされる」ことを防ぐ最善手は何か——を考えることは大きな課題だとおもうが、わたしには荷が重い。まあ、現状維持でいいかな。

(……いちおう完)

2017/10/04

アメリカの鏡・日本(三)

『アメリカの鏡・日本 完全版』を読み進めていくにつれ、もっとも感心したのは、ヘレン・ミアーズの論理の強度だった。

 その論理を支える軸は、西洋が許されるなら、日本も許されるべきだ——日本に罪があるというのなら、西洋には罪がないのかという考え方である。

《私たちは最初の占領軍指令で、日本の国教である国家神道を本来侵略的であるとして禁止した。私たちより極東の歴史に詳しいアジア人は、この皮肉に気づくだろう。なぜなら、私たちが神道を告発につかっている論理を証拠につかえば、キリスト教を侵略的で好戦的な宗教として裁くほうがやさしいからだ》

 日本をアメリカの「鏡」として見る。日本に向けた批判はほとんど西洋に跳ね返る。
 戦時中のプロパガンダの影響もあるが、多くのアメリカ人は、日本のことを有史以来、野蛮な国だとおもっていた。
 その例に、豊臣秀吉のキリスト教迫害と朝鮮出兵を挙げている。

 ヘレン・ミアーズは同じ時代に西洋はどうだったかと問いかえす。
 十六世紀のスペインが南米で何をしたか。ヨーロッパのキリスト教の国家は、どれだけ殺し合いをしていたか。
 さらに日本に訪れたキリスト教徒は、カトリックとプロテスタントで「内紛」状態だった。また日本人の指導者は、キリスト教の布教が、西欧列強の領土拡張に大きな役割を果たしていることも見抜いていた。

 アメリカや西洋に向けた痛烈な批判に、溜飲を下げたくなるのだが、この本はそういう目的で書かれた本ではない。他国の文化を誤解と無理解に基づいて批判することの愚かさとプロパガンダの危うさを教えてくれる本なのだ。

《私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名のもとに犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか》

(……続く)

アメリカの鏡・日本(二)

 日本は近代の一歩目から「危機の時代」にいた。ゆっくり近代化することが許されない状況だった。ヘレン・ミアーズは、日本の「悪条件」を同情している。

 ヘレン・ミアーズは、日本にたいする批判を「鏡」で反射させるかのように、アメリカに向ける。マッカーサーが日本語版の刊行を禁止するのもわかる。ものすごい「毒」をはらんだ危険な本なのだ。わたしはアメリカの文学やコラム、音楽が好きだ。日本人の平均以上に「親米」かもしれない。そんなわたしですら「アメリカ許すまじ!」と憎悪を抱きかねないような「正直な記述」が頻出する。

 当時、日本の支配下だった南洋の島の話。
 現地の日本人と朝鮮人は、島の住民と結婚し、いっしょに働き、本土とも盛んに貿易していた。
 彼らは、島民を肌の色で差別することはなかった。島民は、安価な値段で衣類や日用品を購入することができた。島の子どもたちは、朝八時から十一時まで学校に行くことを義務づけた。
 日本人は、魚の養殖や農業技術を島民に教えた。それまで富を独占していた上流階級の島民には恨まれていたが、それ以外の島民との関係は良好だった。

 アメリカが支配していた南洋の島よりも、日本の支配下の島民ははるかに自由だった。アメリカの支配していた島は「白人」と「それ以外」という厳然たる「差別」があった。白人と原住民の学校を区別した。英語以外の言葉を禁じ、若い海軍行政官は、現地人の辞書を焼いた。

 敗戦後、アメリカ人はその島の新たな統治者になった。アメリカ人は「日本人と朝鮮人(島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで)」を島から追い出し、日本語を禁じ、円を取り上げ、英語とドルに変えた。日本との貿易を禁じた。
 仕事を失った島民は、米軍施設での日雇いか、軍の売店の土産作りしか経済活動ができなくなった。
 ヘレン・ミアーズは、アメリカは島民に「災い」しかもたらしていないと批判する。
 アメリカにとって、それらの島は、海軍の補給所、戦略基地以外の利用価値がなかったのである。

《この事実は、占領国日本との関係で考えると、新たな重要性を帯びてくる。なぜなら、日本人もアジア人もこの事実を知っているからだ。私たちは日本人を「再教育」して、私たちの理想を実践させようとしている。しかし、私たち自身がその理想を実践してみなければ、再教育はむずかしい》

(……続く)

アメリカの鏡・日本(一)

 臼井吉見の書評で紹介していた『アメリカの反省』——ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫)を読む。マッカーサーは「プロパガンダだ」といって、占領中、日本語に訳すことを禁じた。
 GHQのメンバーで日本の「改革者」のひとりであるヘレン・ミアーズは、日本が軍事大国化していく過程を分析し、アメリカに「反省」を促す。いや、「反省」なんて生ぬるいものではない。

 占領期のことに興味を持ったとき、この時代のことを掘り下げていけば、自分の知らないとんでもない本があるのではないか——そんな漠然とした予感があった。この本がそうだ。ヘレン・ミアーズくらい論理の強度を持つ文筆家は、今の日本にいるのだろうか。

 外国人の書いた日本に関する文章は、それなりに読んできたつもりだが、『アメリカの鏡・日本 完全版』に匹敵するような本は、ほとんど記憶にない。ジョージ・ミケシュの日本論を読んだとき以来の衝撃かもしれない。日本の近代史に関心のある人だけでなく、アメリカ人にも読んでほしい。というか、読ませたい。

 伊藤延司訳の『アメリカの鏡・日本』は、一九九六年に単行本、二〇〇五年に新版と抄訳版が刊行されている。
 文庫化でようやく知ることができた。臼井吉見の書評を読み返したおかげだ。

 ヘレン・ミアーズは一九〇〇年生まれ。北京に滞在中の一九二五年、それから一九三五年に日本を訪れている。
 一九三五年のころ、日々、ラジオや新聞で「危機意識」を植えつけるための「根拠のない」「事実をねじ曲げた」プロパガンダが流れていた。彼女が会った日本国民のほとんどがそれを信じていた。

《日本人の頭に詰まっているのは脳ではなく、同じレコードを繰り返す蓄音機だった》

 ところが、一九三八年にアメリカに帰国すると、アメリカ人も同じ状態だったという。アメリカでは「枢軸国は世界を征服し、奴隷化しようとしている」という戦争プロパガンダが吹き荒れていた。そして議論らしい議論もなく、膨大な国防予算が議会を通過した。

《アメリカ人も日本人と同様、頭の中にもっているのは脳味噌ではなく蓄音機であることを知って驚いた》

 かかっているレコードはちがうが、危機感を煽る宣伝を浴び続けていると、脳味噌が蓄音機のようになる。日本人だから、アメリカ人だから——というわけではない。

 そしてヘレン・ミアーズは、日本の近代史を次のようにまとめる。

《近代に入ってわずかな間に、平和な鎖国主義から軍事大国主義へ急転換した日本の歴史は、四世紀にわたる西洋世界の歴史の縮図なのである》

(……続く)

2017/10/03

臼井吉見の書評

 古い本を読むときは、本の刊行時の時代背景を考慮する。あとこれは古本にかぎった話ではないが、とりあえず、書かれていることが正しいかどうかはなるべく保留する。
 そう心がけているつもりなのだが、よく忘れてしまう。

 ここのところ、占領期に関する本を読んでいるが、今さらながら時代背景が不明瞭であることに気づいた。

 臼井吉見著『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)は、わたしの愛読書でこれまでも何度か引用してきた。
 この本には「時評的書評」という章がある。その中に「アメリカ論」と題し、二冊の本を紹介している。
 初出は一九五三年七月。一九五二年四月二十八日に、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が主権を回復——それから一年ちょっと後に発表された書評である。
 ヘレン・ミアズの『アメリカ人の鏡としての日本』は日本占領下の一九四八年に出た本で『アメリカの反省』(原百代訳)として出版された。版元は文藝春秋新社。一九五三年刊。二〇一五年にヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫)として復刊している。キンドル版もあり。
 臼井吉見は、ヘレン・ミアズの主張を次のようにまとめている。

《極東において、暴力と貪欲は、日本がそれを行った時のみ、問題になり、民主主義列強が暴力をふるい、貪欲ぶりを発揮するときには、後進地域に秩序と文明をもたらすためであり、共産主義の脅威を排撃することになる》

 そして今のアメリカは、かつての日本の軍閥のような「危険な一事業」に向かっていると警告する。
 たしかに、不平等条約を突きつけたり、自国に都合のいい「傀儡」政権を作ったり、自作自演の「事件」を起こしてから戦争を仕掛けたり、日本とアメリカは似たようなことをしている。
 だから日本だけがわるいわけではないという話ではなく、一九四八年にアメリカでは、自国を厳しく批判する本が存在したことがすごいとおもった。日本では、それで占領期が終わってしばらくして邦訳が刊行された。
 ヘレン・ミアーズは、GHQの労働諮問委員会の一員として来日した女性だが、この本はマッカーサーが「日本語訳を禁じていた」そうだ。

 もう一冊は、サルトルの『アメリカ論』(サルトル全集、人文書院)で一九四五年にアメリカが日本と戦争中に書かれた訪米の感想。
 サルトルがアメリカの画一主義と個人主義についてを論じていることに触れ、臼井吉見は「一時的にせよ、徳川夢声を危険視するような空気さえ出てきている今日のアメリカにも、相変らずサルトルは個人主義の現代的形式を見出しているのであろうか」と疑問を投げてかけている。

 占領期、吉川英治の『宮本武蔵』の六興出版版がGHQの検閲で改変されたという有名な話があるが、徳川夢声は何で危険視されたのだろう。

2017/09/29

負けいくさ

《戦後の日本の復興が目ざましかったのは、陸海軍が極秘にしていた一流の技術がみるみる民間にちらばったからです。一例をあげればホンダのオートバイがたちまち一流になったのはこのせいです》(山本夏彦著『誰か「戦前」を知らないか』文春新書)

 日本には、軍艦や零戦を建造する技術があった。戦艦大和の艦内には電気冷蔵庫も装備していた。そうした技術を軍は極秘にしていた。
 工場が破壊されても、技術は残る。かといって、戦後の日本の復興は、アメリカの占領政策のおかげではないというのは、飛躍しすぎだろう。

 占領期のことについて、山本夏彦は何か書いていたかなと何冊か読んでみたところ、『かいつまんで言う』(中公文庫)の「歓声と拍手」というコラムがあった。一九七五年五月――ベトナム戦争が終結を伝える新聞記事の感想のあと、山本夏彦はこう続ける。

《サイゴンの市民はいま拍手と歓声で革命軍を迎えたと読むと、そうかとうなずく。私はサイゴンのことを知らないが、負けいくさのことなら少し知っている。負けた国は勝った国の軍隊を、歓呼して迎えるのが常だということを知っている。
 もし歓呼して迎えないなら、進駐軍は何をするかわからない。進駐するほうは、あれはあれでこわいのである》

《マッカーサーは、わが国が無条件降伏したのに、なおそれを信じなかったという。東京へ入城するまでに、流血は避けられないと思っていたという。ひょっとしたら、何十万の犠牲者を出しはしまいかと恐れたという。
 だから私たちは、歓呼と拍手でアメリカ人を迎えたのである。旗をふったのである。与野党あげて恭順の意を示したのである》

 昭和十八年、イタリアは連合国に降参した。ナチスと連合国の勝敗がわからなかったころ、イタリア人は二種類の旗を用意していた。
 山本夏彦は、どこの国もそうするだろうと述べる。戦中の日本が中国に侵攻したときも、現地の人は日章旗を振って出迎えた。当時の新聞は、そうした光景をしょっちゅう報道していた。武器を持った兵隊が進攻してきたら、歓迎するしかない。それがほんとうの歓迎だったかどうかは、後からわかる。

2017/09/27

「戦前」という時代

《昭和五年はいわゆるエロ・グロ・ナンセンスの最後の時代だった。タキシーは「円タク」といって市内一円(ただし当時東京は十五区)だったのが五十銭で、甚しきは三十銭で乗れる時代だった。満州事変はおこったが半年で終った。世間は軍需景気でうるおったがそれはほんの一部で、全体は不景気だった。ネオンは輝きデパートに商品はあふれカフエーバーダンスホールは満員だった。金さえあれば贅沢できた》(山本夏彦著『「戦前」という時代』文春文庫)

 戦後、多くの日本人は「昭和八年はよかった」とおもっていた。当時の物価指数に追いつくのは昭和三十年代である。
 戦前の日本人が衣食に困りだすのは昭和十六年から——とはいえ、日米開戦の日、山本夏彦は新橋の天ぷら屋で友人と酒を飲んでいたと回想している。昭和十四年、山本夏彦は半年働いて半年遊ぶという暮らしぶりだった。毎日のように銀座や上野で酒を飲んでいた。

 山本夏彦さんに会ったのは一九九五年の春。『無想庵物語』(文春文庫)の感想を手紙で送り、話を聞かせてもらった。戦前のアナキストの話を教えてくれた。辻潤の尺八の話も聞いた。わたしの郷里は鈴鹿の生まれで、両親は斎藤緑雨の生家のちかくに暮らしているという話をしたら、「正直正大夫だね」と、かすれた声で笑った。
 帰りぎわ、山本さんは伊藤整の『日本文壇史』を読みなさい、はじめからではなく、終わりから読んだほうがいいといった。『ダメの人』(中公文庫)をおみやげにもらった。署名本である。

「荒地」の詩人、鮎川信夫、田村隆一は、山本夏彦のコラムを愛読していた。鮎川信夫の弟子でペンキ屋の河原晋也は、山本夏彦の相撲のコラムに怒り、批判の手紙を送った。後に、笑い話になった。
 山田風太郎は辻潤や武林無想庵をモデルにした小説を構想していたが、『無想庵物語』を読んで断念した。わたしが愛読していた戦中派の詩人や作家は、山本夏彦に一目置いていた。

《私は「赤い鳥」で育っている。冨山房の「模範家庭文庫」で育っている。今にして思うといわゆる大正デモクラシーの最後にいた。軍人を憎むことほとんど生理的なものがある。陸海軍人を区別して海軍をほめる人があるが、なに一つ穴のむじなだと思っていた》

 山本夏彦は、中江兆民や幸徳秋水を敬愛していた。明治のリベラリストが好きだった。右か左か、保守か革新か。人はそんなにすっきりとは分けられない。

2017/09/26

釣りとスキレット

 日曜日、JR日野駅。『フライの雑誌』の堀内さん、『朝日のあたる川 赤貧にっぽん釣りの旅二万三千キロ』(フライの雑誌社新書)の真柄慎一さん一家と浅川で釣りとランチの会に参加する。快晴。真柄さんは二児の父になっていた。子どもたちが川で釣りをしているところをビールを飲みながら眺める。不思議な時間だった。

 もともと釣りに興味がなかったわたしが『フライの雑誌』と縁ができたのは『朝日のあたる川』のおかげだ。最初の数頁読んで一気に引き込まれた。
 アルバイトでお金を貯め、仕事も住居も捨て、ひたすら川釣りの旅をする。終始、行き当たりばったり。何かひとつ、打ち込めることさえあれば、人は立ち直ることができる——読み終わった後、そんな気持になった。真柄さんの人徳というか、憎めない人柄あっての生き方かもしれないが。

 屋外でスキレットで焼いた肉はうまかった。帰りに寄ってもらった日野の豆腐屋の豆腐(厚揚)もおいしかった。川の近くに暮らしたくなる。
 以前、堀内さんと会ったときにスキレットの話を聞いて、わたしも三週間後くらい購入した(安いのだが)。今、手入れしながら育てているところだ。

(付記)
 帰途、日曜日は中央線の快速が高円寺に止まらないので三鷹駅で乗り換え……ようとおもったが、途中下車して水中書店に寄った。いい店だ。

2017/09/25

マッカーサー神社の話

《昭和二十六年(一九五一年)四月十二日(日本時間)、マッカーサー元帥解任。この驚天動地の報に、日本人はひっくりかえった》(「幻の『マッカーサー神社』」/半藤一利著『ぶらり日本史散策』文藝春秋、二〇一〇年刊)

 多くの日本人はマッカーサーに心酔していた。マッカーサー元帥記念館(マッカーサー神社)やマッカーサーの銅像を作ろうという運動も起こった。
 ところが、今の日本にそんなものはない。それはなぜか。

 マッカーサーの「日本人はまず十二歳の少年である」という言葉が伝わってきた。半藤さんはこの「日本人十二歳説」によって、マッカーサーを讃えていた国民が我に返ったと見ている。

《熱しやすく冷めやすい、これぞ日本人。とはいうものの、よくよく考えてみると、こん畜生め、と憤ったばかりではないのではないか。戦後の日本人はGHQの命ずるがままに唯々諾々、敗戦・占領という現実にあまりにもやすやすと身を寄せた。下世話にいえば、GHQと“寝てしまった”ことへの恥ずかしさ、情けなさ。それをマッカーサーの発言によって気づかされたゆえではないか》

 一時期、戦後の日本人はGHQに「洗脳」されたという意見をよく耳にした。たしかに、GHQのシビリアン・コントロールはそこそこうまくいっていたかもしれない。しかし、そこまで日本人は単純ではない。またGHQも一枚岩の組織ではなかった。

 明治政府が西洋の近代化を模倣しようとしたように、戦後の日本人はアメリカの物質文明を模倣しようとした。ナショナリズムの方向を軍事から経済に切り替えた。そう考えたほうが腑に落ちる。

2017/09/22

インタビューと座談会

 朝日新聞のウェブ版「&30」で「働かない、訳でもない。文筆家・荻原魚雷が高円寺で実践する『半隠居』のほんとうのところ」というインタビュー(文・金井悟)をしていただきました。
 隠居願望はあるけど、働かないと食っていけない――というニュアンスを絶妙にまとめてもらったとおもっています。『閑な読書人』(晶文社)に収録したものの、ほとんど反響がなかった隠居エッセイに着目してもらえたのも嬉しかった。
 仕事に限った話ではないが、何事も個人差というものがあって、人によって「できる範囲」はちがう。このインタビューで喋った「半隠居」は、あくまでもわたしの理想であって、正しい生き方とは考えていません。甲斐性なしであることは自覚しています。
 フリーランスの仕事も楽ではない。仕事をしすぎて生活が荒んだり、からだを壊したりしたら元も子もない。だから、なるべく自分のペースで働きたいというのが本音なのだが、そうすると貧乏になる。もっと働くか、お金をつかわない工夫をするか。わたしは後者を選択した。今の生活だっていつまで続けられるかわからない。
 
http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2017092037371.html


 それから『屋上野球』Vol.3の「特集 野球はラジオで」の「野球をラジオで聴くのが大好きだ!」という座談会(木村衣有子さん、退屈男君)に出席。わたしはBSやケーブルテレビに未加入なので、野球はほとんどラジオで聴いている。
 ひいきの球団が負けたとき、いちばん悔しいのがラジオだ。ラジオ派のわたしはこの号はすごく読みごたえがあった。
 今年のヤクルトは語ることなしという状況で……この座談会以降はひたすらファームの応援をしている。たぶん、二年後くらいには強くなっているはず。ペナントレースだけが野球ではないというのは、弱小球団(九〇年代をのぞく)ファンの矜恃でもある。

2017/09/21

京都・高松記

 九月十七日、台風接近中だったが、新幹線で京都に行く。雨は降ってなかったので、バスで古書善行堂。善行堂の山本さんが選者になった『埴原一亟 古本小説集』(夏葉社)の話を聞いて、三重県の高校生が作った『詩ぃちゃん』という詩の冊子を受け取る。

 埴原一亟は、はにはら・いちじょうと読む。古本屋を営みながら、小説を書いていた。一九四〇年~四二年にかけて、芥川賞候補三回(「店員」「下職人」「翌檜」)。室生犀星は、「一寸いいけれども、文章が非常に拙くて、息絶え絶えに書いているようなところがあるナ」と「下職人」を評した。むしろ、「息絶え絶え」感こそが、素晴らしい。
 善行堂のあと、丸太町のギャラリー恵風の二階で開催中の林哲夫さんの油彩画展を見に行って、ホホホ座の三条大橋店に寄って、六曜社でコーヒー。
 松本清張著『対談 昭和史発掘』(文春新書)がおもしろい。鶴見俊輔さんとの対談でGHQの話をしている(いつか紹介したい)。夜七時、ファニィで東賢次郎さんと待ち合わせ。飲んでいるあいだに豪雨。次の日、三ノ宮から船でいっしょに高松に行く。ジャンボフェリー、快適だ。

 高松に着くと『些末事研究』の福田賢治さんがお出迎え。Nöra(ノラ)というお店でお茶を飲んでから、仏生山温泉。魚のうまい居酒屋で酒。福田さん、子育てしながら、畑もやっている。高松暮らし、楽しそう。仕事と遊びの境目がないみたいなことをいっていた。

 翌日は小豆島。船の中で東さん、福田さんと座談会。ふたりとも東京で二十年くらい暮した後、東さんは京都、福田さんは高松で文字通り悠々自適の生活を送っている。座談会でもそのあたりの話をいろいろ聞かせてもらった。
 森國酒造で日本酒を飲みながら、座談会の続き。高松に戻って、もり家でうどん。
 日常の交通手段に船がある暮らしはいいとおもった。

 高速バスで大阪に出て東京に帰る。高松から大阪や京都に行く場合、バスで神戸まで行って、そのあとは阪急を使ったほうが早いし楽——と福田さんに教えてもらっていたのだが、たしかにそのとおりだった。大阪市内に入ると、渋滞にまきこまれた。

 かっぱ横丁の「阪急古書のまち」が移転していた。

2017/09/15

トーマス・ブレークモア

 先日、『フライの雑誌』の堀内さんと飲んだとき、わたしが占領期のことに関心があるという話をしていたら、ロバート・ホワイティング著『東京アウトサイダーズ 東京アンダーワールドⅡ』(松井みどり訳、角川文庫)のことを教えてくれた。
 この本にはGHQで「ジャップ・ラヴァー」と呼ばれていたトーマス・ブレークモアの話が出てくる。フライフィッシングが好きで、養沢毛鉤専用釣場を開設した人物でもある。わたしも一度、堀内さんに連れて行ってもらった。

『東京アウトサイダーズ』の第七章「いいガイジン」では、トーマス・ブレークモアにかなりの紙数をさいている。

《GHQでの彼の任務は、「すでに完成されているこの国のシステムがアメリカ人によって破壊されるのを阻止すること」だったという》

 GHQのメンバーには、日本および日本人を見下している人もいた。日本語もろくに喋れない同僚も少なくなかった。ブレークモアはちがった。彼は一九三九年に来日し、東京帝国大学で法律を学んでいる。日本の法律書を日本語で読みこなせるのは彼くらいだった。
 ブレークモアは、アメリカ側が自分たちのシステムを日本に押し付けることに抵抗し続けた。

《日本はすでに立派な法体系があるのに、GHQはわざわざ前時代的なものにすげ替えようとした。もったいない話さ》

 いっぽう起訴前の容疑者を無期限で拘留する制度の改革には尽力した。明らかな人権違反だからだ。「日本人のためになる」改革は採り入れ、そうでないものは反対する。

 GHQ退職後は、日本語で司法試験を受験し、一九五〇年、東京に弁護士事務所を開設した。弁護士活動以外にも、フライフィッシングの釣場や五日市に農業試験場(東大の実習生に開放)を造った。その農地造りには、植村直己も参加していた。
 晩年、日本を去るとき、農地は生活クラブに委譲した。莫大な資産を売却し、日本研究を志す学生の奨学金財団設立にあてている。
 一九八三年にオープンした東京ディズニーランドの法律事務を担当したのも彼だ。

 前回「幸運な占領」という小題をつけたとき、占領期の不幸な話もたくさんあることが頭によぎった。単純に考えすぎかなと……。

 ただ、占領期におけるアメリカ批判を見聞きするたび、仮に日本が戦勝国だったとして、ブレークモアのような態度を貫ける日本人がどれだけいたのだろうと考えてしまう。

2017/09/11

幸運な占領

 占領期に関する本を読み続けているのだが、鮎川信夫著『時代を読む』(文藝春秋)にも「〈日本占領革命〉の全貌」「〈占領〉と経済の民主化」といったコラムが収録されている。

 いずれもセオドア・コーエン著『日本占領革命 GHQからの証言』(上下巻、大前正臣訳、TBSブリタニカ、一九八三年刊)について書かれたものだ。
 セオドア・コーエンは一九一八年生まれ。大学時代に日本の労働運動を研究し、GHQの労働課長をつとめていた人物である。
 鮎川信夫によると、コーエンは「左翼(共産主義者)と見なされて監視されていたらしい」とのこと。後に、日本人女性と結婚し、退官後はカナダの商社の代表として東京に住んでいた。

 コーエンの著書を読んだ鮎川信夫はマッカーサーの占領政策について「傲慢なまでの正義貫徹と解したほうが、わかりよいかもしれない」と述べている。
 わずか数カ月のあいだに「主要戦犯容疑者三十九人の逮捕、検閲制度の廃止、人権の確立、治安維持法撤廃、政治犯釈放、婦人の解放と参政権の施行、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由主義化、秘密警察制度と思想統制の廃止等々」を断行した。

 コーエンの「あのきわめて風変りな占領」という言葉を受け、鮎川信夫は「風変りもなにも、歴史上、他に比べるものがない占領であった。(中略)今の米国には、とてもあんな力はないから、おそらく絶後といってもよいだろう」と記す。

《それにもまして、マッカーサーが軍事戦略家としての習慣から「つねに自らを相手の立場に置く傾向」があって、自分が農民なら自分の土地を求めるし、労働者であれば組合を結成すると考えていたという指摘は重要である》

《戦前と戦後の政治を考える場合、一番大きな違いは、戦前は政治家の顔が、軍閥と財閥の方に向けられていたのに、戦後は、労働者と農民の方に向けられていることである。これも軍閥を消滅させ、財閥を解体させた占領政策のおかげである》

……『日本占領革命』を読みたくなった。

2017/09/09

雑文

 佐藤愛子と田辺聖子との対談集『男の結び目』(集英社文庫)を再読。後半、野坂昭如が参加している座談会にこんな発言があった。

《雑文っていうのは、こっち側にチョット引かなきゃ書けないんじゃないかとボクは思ってるんですけどね。自分の考えてることが全部正しいと思って書いてると、その雑文たるや、ものすごくツマらない》

 野坂昭如の言葉である。この「チョット引く」のがむずかしい。たぶん、引きすぎてもいけない。この対談集の単行本は一九七五年刊だから、四十年以上前の話。今でも自分が「全部正しい」というような言葉をよく目にする。余裕がないかんじがする。

2017/09/07

仙台にて

 二年ぶりの仙台。平日の昼だから新幹線の席、余裕でとれるだろうと出発数時間前に予約したら、通路側の席が残りわずかという状況だった。ちょっと焦る。車中の読書は、田辺聖子。

 喫茶ホルンでコーヒーを飲んで、火星の庭へ。岡崎武志さんと待ち合わせ。会場のTHE 6はシェア型の複合施設。おしゃれな空間に緊張する。
 トークショーは……役に立つ話ができたかどうかは自信がないが、どうにか終わって一安心。宮城県の丸森町(スローバブックス)や気仙沼(イーストリアス)に古本屋ができたことを教えてもらった。

 岡崎さんは青森をまわってから仙台に。大人の休日倶楽部、うらやましい。あと二年ちょっと。五十代どうなることやら……。

 打ち上げも楽しかった。宿(一軒家?)に宿泊。すぐ寝てしまい、朝六時くらいに目が覚める。
 岡崎さんと喫茶店(エビアン)でモーニング。駅で別れ、塩釜駅へ。港に行くには本塩釜駅のほうが最寄りだった。小雨の中、歩く。歩道が広くて歩きやすい。

 塩釜から松島まで船に乗る。

 震災前、それから震災の年にも乗った。海苔や牡蠣の養殖も再開していることを知る。
 松島で海鮮丼を食べ、仙台に戻り、昼の新幹線で東京に帰る。美味しい蕎麦の店を教えてもらったのが、今回は時間がなかった。次に期待。

2017/09/04

たった三行

《昭和恐慌は左翼をつくり、次いで反作用として右翼をつくり、右翼的部分がひろがって満州事変(一九三一年)という冒険をやらせ、うわべだけの解決を見た。が、十四年後には日本そのものをほろぼした》

 昭和恐慌から敗戦まで文庫本でわずか三行。司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文春文庫)の「新春漫語」の言葉である。初出は「中日新聞」(一九九四年一月一日)。

《簡単にいうと、太平洋戦争は、あのとき愚かにして狂信的な軍閥が、突如として起こしたものではない。明治以来、日本人の大半がめざし、走りつづけて来たコースの果てだ、ということである》

 この要約もすごい。やはり文庫本で三行。山田風太郎著『昭和前期の青春』(ちくま文庫)の「太平洋戦争私観」の言葉である。初出は「週刊読書人」(一九七九年八月二十日号)。

 歴史はむずかしい。太平洋戦争にしても全肯定から全否定までいろいろな解釈がある。資料や証言にしても何を信じ、何を信じないかで答えはちがってくる。そもそも答えが出るのかどうかすらわからない。だから常に考え(疑い)続けるという姿勢が問われる。司馬遼太郎の「反作用」、山田風太郎の「コースの果て」は考えさせられる言葉だとおもっている。

2017/09/01

ビブリオフィル叢書

 一九九四年ごろの図書出版社の図書目録を見ていたら、近刊(予定)として、H・ジャクソン著『愛書家の解剖』(河内恵子訳)、A・S・W・ローゼンバック著『本と古書市』(戸田慎一訳)など、気になる題名の本が載っている。いずれも「ビブリオフィル叢書」のラインナップなのだが、刊行されているのかどうかわからない。

《深遠該博な知識と犀悧な鑑識眼とを二つながらに備えた著者が書物と書物人を見事に「解剖する」》(『愛書家の解剖』)

《今世紀初頭に米国の代表的な古書業者として活躍した著者が古書の売買や収集をめぐる様々な逸話を紹介する》(『本と古書市』)

 読みたいではないか。

2017/08/29

日常を散歩する

 来週、仙台のTHE6で岡崎武志さんと「日常を散歩する 自由に楽しく生きる術」というトークショーに参加します。
 わたしは生活を立て直したいとおもうときは、家事と散歩をすることにしている。調子があまりよくないときは、なるべく頭を空っぽにして、からだを動かす時間を作る。たとえば、しめきりが迫ってきて、焦りをおぼえたら、ちょっと外に出て気分転換をする。
 もともと『日常学事始』(本の雑誌社)は、岡崎さんの『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)の巻末対談がきっかけで生まれた本です。
 下記の紹介に「脱力気味のゲスト」とありますが、わたしは几帳面で真面目な性格だと自負していて、それゆえ行き詰まりやすいという自覚があります。
 だから岡崎さんの『人生散歩術』に出てくるようなお金がなくても楽しそうにふらふら暮らしている詩人や作家に憧れ、どうしたらそういうふうに生きていけるのかということをずっと考えてきました。今も試行錯誤中の身ですが、その途中経過の報告ができたらとおもっています。

2017/9/5(火)
19:00-21:00
@THE6 3Fワークラウンジ
ゲスト:岡崎武志(書評家・古本ライター)/荻原魚雷(文筆家)

 仙台春日町で行うプロジェクト6LABO。コワーキングスペース・シェアオフィスなどを兼ねたシェア型複合施設「THE6」を舞台に、WORK・CREATIVE・SOCIALなど様々なテーマイベントを行っています。今回は、「自由に楽しく生きる」をテーマに、脱力気味のゲスト・岡崎武志さんと荻原魚雷さんをお招きしてのトークイベントを開催します。どこか生きづらさを感じる現代社会の中、新刊「人生散歩術」(芸術新聞社)、「日常学事始」(本の雑誌社)を同時期に刊行するお二人に自由に楽しく生きる術について伺います。

場所:〒980-0821 仙台市青葉区春日町9-15 THE6 3F
詳細は、
http://peatix.com/event/285444

2017/08/26

占領下の文学

 中村光夫著『文學の囘歸』(筑摩書房、一九五九年刊)の「占領下の文學」という評論を読む。

《これまで漠然と戦後文学と言われて来たものは、むしろ米軍占領時代の文学と呼ぶべきで、そう呼ぶことで、いろいろな性格がはっきりすると思われます》

 終戦後、人々は食物だけでなく、文学にも飢えていた。戦時中は「知的鎖国」によって外国文化も容易に触れることができなかった。
 すこし前まで敵国だったアメリカ文化の流入に多くの人々が抵抗を示さなかったのは、日本人の外国の文化にたいする「飢餓感」も関係しているだろう。

 当然、アメリカの占領政策には負の遺産もある。しかしそれを差し引いても、戦前戦中と比べ、国民生活は向上した。

 中村光夫も占領の恩恵を認めている。

《僕はこの被占領の期間、ことに最初の半分ほどが、一般の庶民が我国ではかつてないまた今後もあり得ない自由を享有した時代ではなかっかと恐れる者です》

《占領軍の行ったさまざまの施策は、(たとえその究極の目的が彼等自身の利益のためであったにしろ)僕等が僕等自身の幸福のために、自分ではやる力のないことを代わってしてくれたことはたしかです。軍隊と特高警察がなくなっただけでも僕等の生活がどれほど明るくなったかわかりません》

 しかし、そうした与えられた自由(中村光夫の言葉でいえば、「実験室で養われた動物のように、温室のなかで享受していた『自由』」)には弊害もある。

《戦争から占領と十年以上つづいた窮乏と盲従の生活が、知らぬ間に国民のものを考える力を萎縮させ、感じる能力を麻痺させてしまっているのです》

2017/08/23

学習性無力感

 以前、このブログで中村光夫著『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)所収の文章を引用した。

《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。
 それも勝つために乏しさに堪えるという積極的な気持でなく、なんとなく生活とはこんなものという感じで、自由とか豊富などという言葉は、現実性のない死語のようでした。
 そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》(「窮乏のなかで」/同書)

 戦時下の窮乏生活を送るうちに、やる気をなくし、「怠ける算段」ばかりするようになる。言論の自由もない。戦争は負けそうだ。どうにもなりそうにないから、できるだけ何もしない「努力」をする。つまり、無気力になるのも「学習」の成果なのだ。
 心理学用語の「学習性無力感(無気力)」の典型例といってもいい。長期にわたってストレスを回避できない環境に置かれると、その状況を改善するために行動する気力を失う。人にかぎらず、動物もそうだ(電気ショックを与え続ける犬の実験がある)。「何をやっても無駄」とおもうと、何もしたくなくなる。

「学習性無力感」から抜け出すには「何をやっても無駄」とおもわされている自分の状況を把握する必要がある。
 希望を持つこと。希望に向けて行動すること。

 わたしも二十代のころ、ずっと貧乏でいつも「怠ける算段」ばかりしていた。無気力だった。
 いまだに気をぬくとすぐそうなる。

2017/08/19

道徳

《近ごろ道徳教育の復活などといわれていますが、戦前には道徳教育があったと考えるような安手な回顧趣味からは、何も生まれる筈はありません。
 わが国に道徳教育が存在したのは、漢学塾や寺子屋のあった時代までで、明治五年の学制公布は、それを滅ぼす第一歩だったのです》(「虚像と実像」/中村光夫著『文學の囘歸』筑摩書房、一九五九年刊)

 久しぶり中村光夫の本を再読していたらこんな文章があった。他の本でも、子どものころ、修身の授業をくだらないとおもっていた……みたいなことを書いていた。
 昔はよかった話を読むたび、多少は疑うように気をつけている(たまに忘れる)。中村光夫にいわせると、明治期の教育は「知的技能者の大量生産」が目的で道徳の要素は稀薄だったらしい。

2017/08/12

秋花粉報告

 ここ数年、首都圏はブタクサが減少傾向にあるらしく、秋の花粉症はずいぶん楽になった。ひょっとしたら体質が改善されたのかも……とおもっていたのだが、そうではなかった。
 今月八日、三重に帰省した。近鉄沿線の最寄り駅を降りた途端、くしゃみが止まらず、目がかゆくなる。持参した漢方を飲んだが、急には効かない。幸い、家にあった市販の鼻炎薬が効いた。

 秋の花粉症であることが判明したのは、二十五歳のときだ。たぶん、小学校の高学年くらいから症状はあった。ずっと夏風邪だとおもっていた。
 ブタクサのアレルギーの人は、バナナ、メロン、スイカなどの果物にも反応することもある。

 内田百閒著『戻り道 新方丈記』(旺文社文庫)に「寿命」というエッセイがある。吉行淳之介の「百閒の喘息」でも取り上げられている作品である。

《今年の夏は喘息で大分永い間閉口した》

 先月、このブログで「おそらく百閒の喘息は、夏型過敏性肺炎か秋の花粉症だろう」と書いたが、「寿命」には「寒くなると一冬に何度も寝ついた事がある様に思ふ」という記述もあった。秋花粉説はちがうかもしれない。

2017/08/11

傑出感

 子どものころ、手塚治虫、石ノ森章太郎、松本零士の漫画に熱中した。彼らの作品には、その時代における「傑出感」があった。今、過去の名作漫画のリメイクが流行している。オリジナルと比べて、絵が緻密かつ綺麗になっても「傑出感」までは再現できない。

 ジャンル全体のレベルが上がってくると、抜きん出た表現が登場しにくい。これは漫画に限った話ではない。
 その時代にどれだけ傑出していたかということは、リメイクやカバーでは、伝わりにくいのだ。

 スポーツ統計学では「傑出度(傑出値)」という指標がある。その時代その時代の突出した成績というのは、後から選手ひとりひとりの数字だけ見てもピンとこないことがよくある。

2017/08/07

醤油か塩か

 ラーメン屋で醤油と塩、二種類のスープを出すところがある。さらに味噌やとんこつが加わる場合もあるが、今回は醤油と塩の話を書きたい。
 わたしは醤油ラーメンが好きなので、醤油と塩の二択であれば、醤油を選ぶことが多い。ところが、あくまでも自分の好みなのだが、醤油と塩の二択で醤油を選ぶと「ハズレ」率が高い。いつも何か物足りない。
 わたしが醤油ラーメン好きだから、醤油に厳しいということもあるだろう。さらにいうと、自分の理想の醤油ラーメンというものがあって、それと比べてしまうからかもしれない。

 ここ数年、醤油と塩なら塩を選ぶことが増えた。以前、醤油を注文してダメだった店でも、塩はだいたいおいしい。
 逆の意見や感覚もあるだろう。塩ラーメン派の人であれば、塩に厳しくなる。たまに醤油を食べたら、たいていおいしいとおもうのではないか。

 そういうことって批評の世界にもよくある気がする。自分の好きなジャンルにはどうしても厳しくなる。

2017/08/06

二ノ橋 柳亭

 神吉拓郎著『二ノ橋 柳亭』(光文社文庫)の見本が届いた。帯に「解説:色川武大/荻原魚雷」。ライターになってよかった。三十歳くらいのころの自分に「いつか神吉拓郎の文庫に解説を書く日がくる」と教えてあげたい。たぶん、信じないとおもう。直木賞候補になった『ブラックバス』の改題作ですね。八月八日刊行。

 ほんの数年前まで、神吉拓郎の作品は新刊書店で買えなかった。昨年秋に刊行された大竹聡編『神吉拓郎傑作選』(国書刊行会)の効果は大きい。わたしは二十代のころから一九二〇年代の生まれの作家を軸に本を読んできたのだが、神吉拓郎の文章は、際立ってうまいとおもっている。大好きな短篇作家だ。
 色川武大の解説「室内楽的文学」は、人物スケッチの最高峰といってもいい。神吉拓郎や色川武大は「都会の大人」というかんじがする。ふたりとも、遊び人として人生をまっとうした人でもある。

2017/08/05

語り口

 部屋の掃除中、田辺聖子著『死なないで』(文春文庫)を探すも見つからず、インターネットの古本屋で注文する。八〇年代前半のエッセイなのだが、男女の平等意識が新しい。「原発についてのソボクな疑問」や「カンボジアに何が起こったか」も内容がまったく古びていない。今読んでもすごい。

《もし大事故がおこったとしたらどうなるのであろうか、日本は地震の多い国なのに、地震が原子炉を襲ったらそのときは》

 反対意見だけでなく、おかしいとおもうことにたいし「ソボクの疑問」を表明していくこと。田辺聖子の「語り口」は、学ぶところが多い。はじめからケンカ腰では、反対あるいは中立の立場の人には言葉が届かない。疑問を提示しつつ、考えさせる——そういう「語り口」を会得したい。

2017/08/02

掃除の途中

 もう八月。本読んで酒飲んで寝ているうちに一年がすぎてしまいそうだ。毎年のことだが。

 仕事が一段落したら、見えないところの掃除をしたいとおもっていた。洗濯機の裏とか。埃がすごい。あと二、三年放置してある資料のコピーの整理もしたい。夕方からはじめて午前三時。まだ終わらない。

 掃除の合間に『フライの雑誌』最新号を読む。この号はオイカワとカワムツの特集。身近な川魚だけど、奥が深い。座談会が異様な盛り上がり。みんなおかしい。堀内正徳さんの「オイカワ釣りが好きすぎて②」を読んでいたら「珍しくも何ともないオイカワ/カワムツだからこそ、釣りたいのに釣れなかったときのショックは大きい」という文章があった。

 さらに釣れなかったとき「言い訳をしづらい」。ベテランの釣り師でも釣れない日もある。
 ただ魚を釣るだけなら、フライフィッシングより、もっと簡単な釣り方はいくらでもある。体長十センチ前後の小さな魚を釣るために、毛鉤の種類に悩み、ロッドを振るタイミングを試行錯誤する。誰に頼まれたわけでもないのに……。ものすごく暇なのかといえば、そうでもない。不思議だ。

 わたしはポール・クイネット著『パブロフの鱒』(森田義信訳、角川書店)という本について書いた。わたしは「魚」よりも「釣り人」の生態に関心があるようだ。
 釣りという入り口から深く広く細かく世界を考える人たちがいる。そういう人たちの言葉がおもしろい。

 資料整理の途中、二〇一四年五月一日付の情報誌『地方小出版 アクセス』が出てきた。巻頭に『フライの雑誌』の記事。「商業誌でありながら商業主義を否定するという、矛盾した編集方針を掲げています。」って……。

 やっぱり、おかしい。

2017/07/31

乗り換え

 土曜日、西部古書会館、大均一祭の初日。十四冊。満腹。ではなく、満足。夜、仙台から上京中の高橋創一さんと三軒ハシゴ。

 月曜日、ささま書店、象のあし書店、Title。象のあし、半額セール中だった。Titleで阿佐田哲也著『三博四食五眠』(幻戯書房)を買う。帯に「色川武大 単行本・全集未収録随筆集 近日刊行」とある。これは愉しみ。

 電車で田辺聖子著『老いてこそ上機嫌』(文春文庫)を読む。田辺聖子より箴言集を刊行している作家はおもいつかない。

《若さ・美貌・才気などというのも、一生持ちつづけて終点へ到着できるといちばんいいのだが、こういうのは、わりと早く乗り換えの駅がくる、またこういうのに乗ってる人ほど、乗り換え駅に気付かないのだ》(『乗り換えの多い旅』)

 若さが武器になる期間は短い。

 田辺聖子のエッセイだと『星を撒く』(角川文庫)と『乗り換えの多い旅』(集英社文庫)が好きだ。田辺聖子の箴言集もこの二冊からの引用が多い。『乗り換えの多い旅』は、一九八〇年代後半に『暮しの手帖』で連載していた。『暮しの手帖』の連載は『死なないで』(文春文庫)もそうだったかな。今、いろいろな作家の四十代から五十代にかけての随筆が気になっている。

2017/07/28

今日一日

『ハズリット箴言集』(中川誠訳、彩流社)を読んでいたら、ハズリットではなく、モンテーニュの言葉なのだが、勇気づけられる一節があった。

《「今日一日何もしなかった」と嘆く者に向かってモンテーニュが言っている。
「なに? 何もしなかっただって? とんでもない。君は今日一日を生きたではないか?」
 生きるということは大変なことなのだ》

 何もしないどころか、何もしないでずっと家にこもっていたほうがマシだったという日もある。

2017/07/27

月一の古典

 出版の世界には、GW進行、お盆進行、年末進行とスケジュールが前倒しになる時期がある。その時期をどうのりきるか。いつまで経っても慣れない。
 仕事と関係ない古本を読む。ラジオでプロ野球のナイターを聴く。家事をする。酒を飲む。いずれかの時間を削らないとしめきりに間に合わない。でも削ると、調子が出ない。

 すこし前に古今東西の古典をいろいろ紹介する仕事をした(刊行は来月末頃)。「人間関係」の悩みは、数百年という単位でも大きな変化がない。それだけ解決することがむずかしいともいえる。

 仕事の合間、湯浅邦弘『別冊NHK100分de名著 菜根譚×呻吟語』を読む。わかりやすいし、おもしろい。『菜根譚』は高度成長期にベストセラーになったり、政治家や経営者の愛読書になったりしているのだが、内容からすれば、(零細)自由業者向きのところもある。なるべく競争を避けたほうがよいと説く処世術の本だし、「読む薬」としても重宝している。慌ただしい日々をすごしているときに読むと平熱に戻るかんじだ。
『菜根譚』は、文献によって刊行された時期がバラバラなのだが、『別冊NHK100分de名著』の年表には一五九一年(万暦19年)に出版とある。これが定説ということでいいのだろうか。

 どんなに忙しいときでも月に一冊くらいは古典を読んだほうがいい。というのは、文芸評論家の十返肇の教えだ。すぐ忘れてしまうが。

2017/07/21

雑記

 十九日(水)、東京堂書店の岡崎武志さんとのトークショー、無事終了した。今回も助けられっぱなし。いつもちゃんと準備して、時間を考えながら、話をすすめてくれる。どうすれば、そんなことができるのかわからない。
 たどたどしくてもいいから、じっくり考えて話そうと心がけている。ところが、人前に出ると、考えがとっちらかってまとまらない。むずかしい。
 新刊が出て一週間。昨日は西荻窪の音羽館に行って『日常学事始』にサインしてきました。十冊。

 すこし先の話だけど、九月五日(火)に仙台で岡崎さんとのトークショーも決まりました。仙台は二〇一五年の六月以来。

 今、青森県近代文学館で「葛西善蔵130年特別展」が開催中(七月八日〜九月十八日)。遠回りになるが、仙台行きの前に青森に寄るかどうか検討中。『葛西善蔵感想集』(改造文庫)は好きな本でときどき読み返す。青森に行ったのは十六年前。弘前城で花見をした。すごく行きたくなってきた。温泉に入りたい。

《僕はたんと金ももうけたくないし、たんと小説も書きたくないし、だもんだから短くなる。といふと、さうのやうでもあるんだが、ほんとは書けないんですよ。僕だつて、どんなに金が欲しいか、どんなに長くて立派な小説が書きたいか——それはわかりきつてゐることぢやありませんか》(歳暮酒話)

 葛西善蔵の随筆、ぐだぐだ感が素晴らしく、ずっと書き写したくなる。愚痴とぼやきが芸になっている。

(追記)
「葛西善蔵130年特別展」の話、毎日新聞の雑報欄(七月十六日付)で知ったのだが、二十日付のフライの雑誌社のブログ「あさ川日記」で『葛西善蔵と釣りがしたい』の著者の堀内正徳さんが「青森行こうかな」と書いていた。シンクロニシティ。

2017/07/18

人生散歩術

 雨の中、岡崎さんの担当者が新刊『人生散歩術 こんなガンバラナイ生き方もある』(芸術新聞社)の見本を届けてくれた。明日の東京堂書店のトークショーにギリギリ間に合う。

 この本に登場する「人生散歩」の名人は、井伏鱒二、高田渡、吉田健一、木山捷平、田村隆一、古今亭志ん生、佐野洋子。

 高田渡と木山捷平の回が好きですね。生活水準が似ているからかも。「これぞ、純文学ならぬ、『純散歩』」という言葉に付箋を貼る。わたしも高田渡の回で“カメラマン”として登場している。

 目的のない散歩ができる能力というのは、ある種の才能だろう。

 吉田健一と田村隆一の回を読むと酒を飲みたくなる。

 詳しい感想は明日喋る予定(ちゃんと喋れるかどうかは未定)。

2017/07/17

百閒の喘息

 吉行淳之介の年譜、昭和四十七年(一九七二)、四十八歳——。

《前年末より、ふたたび心身ともに不調に陥る。極度のアレルギー症状で、気分の上では半死半生で暮す。一年間の執筆枚数三十枚》

 旧著の改装本などによって、何とか生計は立っていたが、年間三十枚というのは不安だったのではないか。ちなみに、この年譜は『私の文学放浪』(角川文庫)のものだ。

 不調は一九七三年の秋くらいまで続いた。原稿用紙を見るのが怖くて、口述したものに手を入れていた。
『わが文学生活』(講談社)では、四十七歳から四十八歳にかけて体調が最悪だったころの話を回想している。

《この二年のブランクのころからかな、「小説家のふりをする」ということを言い出したんだ、ぼくは》

 吉行淳之介著『目玉』(新潮文庫)に「百閒の喘息」というエッセイのような小説がある。吉行淳之介は、内田百閒の「壽命」という作品を読み、百閒も喘息だったことを知る。
 百閒は自身の病気の話を何度となく書いているが、喘息の話はほとんど書いていないらしい。

《最初、百閒は喘息という症状が気に入らず、心臓神経症というタイプをヒイキにしているのか、と私は邪推した。ところが、話はもっと簡単だったようだ。百閒の喘息は青年期を過ぎる頃から軽くなって、『私には夏型の喘息がある』などと書いている。それがどういうものか私は知らないが、大きな咳やくしゃみがつづくようである》

 おそらく百閒の喘息は夏型過敏性肺炎か秋の花粉症だろう。前者はカビ、後者はブタクサなどの花粉が原因である。

2017/07/16

モンテーニュと新居格

 今年の春、新居格の本の序文を読み返していたとき、毎回、自分は平凡な人間だから特別なことを書くつもりはない——というようなことが綴られているのに気づいた。モンテーニュの『随想録』のまえがきに「わたしはこの本を書くにあたって、自分のことわたしのことよりほかには何も目ざしませんでした」「どうか皆さん、この本の中に、わたしの自然の・日常の・堅くもならなければ取りつくろってもいない、ありのままの姿を見てください」(関根秀雄訳)といった文章がある。

 新居格はモンテーニュを意識していたのかもしれない。大いにありうる。

調整

『ハズリット箴言集 人さまざま』(中川誠訳、彩流社)を読んでいたら、「よく調整された魂」「よく調えられた精神」という言葉があった。

 訳者の解説によると、モンテーニュの『随想録』に頻出する用語らしい。

2017/07/15

適量

「適」という字を辞書で調べると「目的に向かってまっすぐゆく」「よくあてはまる。ふさわしい」「心にかなう」といった意味が記されている。

 料理をする場合、「適量」さえ守れば、大きくまちがえることはない。「適量」の感覚を掴めば、あとは「適当」にやっても何とかなる。
 むずかしいのが酒の「適量」だ。ちょっと油断すると、ほろ酔いが、泥酔になる。昨日はいい酒だった。
 さらにむずかしいのが仕事の「適量」かもしれない。仕事がないのはすごく困るし、そうはなりたくないのだが、「適量」をこえると、かならずどこかで反動がくる。
 
「快適」な暮らしは「適量」にあり。

2017/07/14

「日常学」発売中

『日常学事始』(本の雑誌社)が本日発売になります。高円寺の文禄堂の入口付近の台で平積になっていた。嬉しい。

 UCLAのバスケットボールのコーチだったジョン・ウッデンの教え(厳密にはウッデンの父の教え)に「自分がどうにもできないことに惑わされると、自分がどうにかできることに悪影響を及ぼす」というものがある。

 わたしはこの考え方が気にいっている。

 他人の思惑、あるいは運不運に左右されることはなるべく気にしないことだ。
 試合であれば、自分がどんなに頑張っても相手がもっと強ければ負ける。勝ち負けはどうでもいいという話ではないが、勝負の中には「どうにもできない」部分がある。

 他人に左右されず、自分の力で「どうにかなる」ことに最善を尽くす。体調を整え、(なるべく)しめきりを守る。仕事にかんしては、いつもそれが目標だ。よく「自己完結している」といわれるが、気にしない。

2017/07/11

ヒョウ柄

 高円寺のペリカン時代で今日七月十一日(火)から石丸澄子写真展「1990年 道東」が開催。七月二十九日(土)まで。

 先月からとりかかっている仕事、あともうすこし。なんとかゴールが見えてきた。

 星野博美さんの新刊『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)が届く。仕事の息抜きに読みはじめて、止まらなくなる。おもしろい。怖い。おもしろい。頭がガーン。おもしろい。呆然。ぐるんぐるん振り回される。連載中は気楽に読んでいたのだが、一気に読むとすごい衝撃だ。星野さんのエッセイはいつもそうなのだが……。

 一区切りついたら、星野さんの本をいろいろ読み返したい。旅行中の読書にも合うのである。ものすごく考えさせられた後に、身も心も軽くなるかんじがする。

2017/07/10

かくて行動経済学は生まれり

 まもなく、マイケル・ルイスの新刊『かくて行動経済学は生まれり』(渡会圭子訳、文藝春秋)が刊行。ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーというイスラエルの天才(変人)心理学者の本ですね。

 今年刊行された海外ノンフィクションの(わたしの)ベスト1候補のジョシュア・ウルフ・シェンク著『二人で一人の天才』(矢羽野薫訳、英治出版)にも、カーネマン&トヴェルスキーの話がすこし出てくる。ダニエル・カーネマンは『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)が日本でも話題になったけど、トヴェルスキーが生きていたころは、その影に隠れていた時期もあった。

 行動経済学は、経済のみならず、政治、スポーツや芸術などの分野にも大きな影響を与えている。人間は間違える――なぜ間違えるのか。正確な判断を鈍らせる「認知バイアス」を解き明かそうとしたのが、カーネマン&トヴェルスキーのコンビである。早く読みたい。

2017/07/07

見本

 昨日、『日常学事始』(本の雑誌社)の見本を受け取る。帯に「怠け者のための快適生活コラム集」とある。ずっと「コラム」を意識して書いてきたので嬉しい。
 発売は十三日(木)の予定です。カバー・本文イラストは、山川直人さん、デザインは戸塚泰雄さんです。四六判の単行本よりスリムな判型も気にいっている。自画自賛になるけど、いい本になったとおもいます。

 本を作っているあいだ、体重が三、四キロ減って、おなかがすこし引っ込んでよかったのだが、ここ数日ふらふらしていた。本の見本ができたことを記念し、ステーキハウス KYOYAで肉を食べる。うまい。ひさびさの満腹感だ。肉、大事だ。復活。

 仕事、五合目。あともうすこし。

2017/07/06

編集者

 同世代ですごいとおもう編集者は、山口県のみずのわ出版の柳原一徳さん(猫社長)とフライの雑誌社の堀内正徳さんだ。今、気づいたのだが、どちらも「徳」の字が入っている。
 気さくなのに、過激。文章に熱がある。
 わたしは、いつかこのふたりが会ってほしい。
 喧嘩するか、仲良くなるか。採算度外視の本を作る感覚が似ているとおもっている。

2017/07/05

知らない町

 子どものころ、永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」は、当時、誰が作って、誰が歌っているのかは知らなかったが、何となく好きな曲だった。
 大人になって、自分が聴いていたのは、デューク・エイセスのバージョンであることを知った。ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」は違和感があった。

 それはさておき、昔のわたしは、遠くに行くことより、知らない町に行きたい——そこで暮らすことが夢だった。知らない町に行けば、知らない自分になれるような気がしたからだ。
 一日か二日か、ふらっとひとりで知らない町に行く。心細いが自由な気分になる。

 仕事をして、自分の稼いだお金で旅がしたかった。これも子どものころの小さな夢だ。

 今は、あんまり仕事をせず、知らない町をふらふら旅したい。

 先日、東海道新幹線に乗っていて、窓の外を見たら、浜松駅を通過し、浜名湖くらいまでのあいだに、ものすごい数のソーラー発電があった。ソーラー畑のようだ。いつの間に。
 三重に住んでいたころ、浜松には二、三回行っているのだが、いずれも小学生のときだ。移動手段はバスか車だ。
 そのせいか、ずっと浜松駅で降りたことがあるとおもいこんでいた。もし降りていたとしたら、青春18きっぷで途中下車しながら、旅をしていたときだろう。駅を出て、うなぎを食べたような気がする。電車に乗っていて「うなぎを食べたい」とおもっただけなのかもしれない。

 どっちの記憶が正しいのか。

 そのことを確かめるために浜松に行きたいのだが、仕事が終わらない。

2017/07/01

七月

 三重に帰省(一泊)。東京駅からの新幹線で偶然世田谷ピンポンズさんと同じ車両になる。

 七月発売の単行本『日常学事始』(本の雑誌社)に取りかかっていて、一カ月くらい部屋にこもりがちだった。東京堂書店の岡崎武志さんとのトークショーも七月十九日(水)に決まりました。『人生散歩術』(芸術新聞社)も岡崎さんの手を離れたみたいですね。あとは刊行を待つのみ。
 そもそも『日常学事始』の連載は岡崎さんの『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)の巻末対談がきっかけではじまった。この対談でちまちました(貧乏)生活術を酔っぱらって喋ったのが、ほとんどカットされずに掲載され、それを読んだ編集者の宮里潤さんが、WEB連載の話を企画してくれた。

 自分の単行本の作業中、南陀楼綾繁さんの『町を歩いて本のなかへ』(原書房)と蟲文庫の田中美穂さんの『星とくらす』(WAVE出版)が届く。

 南陀楼さんは『sumus』の同人で、ずっとメルマガの「早稲田古本村通信」で連載していた。第3章の「早稲田で読む」がそうなのだが、読みごたえがある。
 BIGBOXの古本市の話もすでに記憶があやふやになっている。ボリューム満点。
 七月九日(日)、十日(月)には古書ほうろうで「ナンダロウアヤシゲの7回目のみせばん」という企画もあるそうです。
 蟲文庫の田中さんも同じころの「早稲田古本村通信」連載仲間ですね。
 小学生のとき、わたしは天文好きで岡山の天文台や木曽の天文台は憧れの場所だった。『星とくらす』には、岡山在住の「カメラマンの藤井くん」も登場。わたしも「藤井くん」に岡山の天文台に連れていってもらった。

……七月中旬くらいまで身動きがとれない。どうにか乗りきりたい。乗りきってガクっとこないように気をつけたい。

2017/06/28

選択の先

 ニック・ホーンビィ著『ハイ・フィデリティ』(森田義信訳、新潮文庫)は、何度となく読み返している本だが、通読ではなく、気がむいたとき、パラパラと数頁めくって、はっとする言葉に出くわす楽しみ方もできる小説だ。映画も好き。

《ブルース・スプリングスティーンの歌の世界では、とどまって腐っていくか、逃げだして燃えつきるかしかない。彼はソングライターなのだから、それでもいいだろう。選択肢は単純なほうが、歌は書きやすい。けれど誰も、逃げだしたうえで腐っていく可能性のことは歌にしてくれない》

 人生の選択肢は二択ではない。二択の先にもさまざまな選択肢がある。
 とはいえ、わたしはとどまって腐るより、逃げて腐るほうが百倍くらいマシかなとはおもっている。
 親、親戚、古い知り合いに囲まれ、流動性が低い分、浮上の可能性すら夢見ることのできない場所にとどまるのはきつい。
 逆に、困ったときに何かと支援してくれる人が身近にいる場合なら、とどまる選択もわるくないだろう。

 不義理のツケはあるにせよ、親や親戚をふくめた人間関係に縛られずにすんだ恩恵のほうがはるかに大きかった。すくなくとも楽だった。

2017/06/26

日課

 日曜日、西部古書会館。一九八〇年代に刊行された講談社の「ハウ・ツー・ライト・ブックス」の未入手本が何冊かあった。同シリーズのヘイズ・B・ジェイコブズ著『ノンフィクションの書き方』はライターの仕事をはじめたころからの愛読書だ。ほかにも『ギャグ作家として成功する方法』とか『主婦作家として成功する方法』といった本もある。
 今、調べたら『SFの書き方』の古書価がいちばん高いようだ。

 海外の文章関係のハウツー本は、技術論が中心で勉強になることが多い。

 夕方、ペリカン時代で木下弦二さんのライブ。翌日しめきりの原稿があったのだが、けっこう飲んでしまった。最近、東京ローカル・ホンクではなく、弦二さんのソロのほうがよく見ているかもしれない。

 午前中から『小説すばる』の原稿を書く。古書会館で買ったアースキン・コールドウェルの本があまりにもよくて、急遽、変更する。コールドウェルは、ずっとノーマークの作家だった。ごく短い期間であるが、古本屋だったこともある。

 徐々に通常運転になりつつあるが、単行本の作業中はなんとなく落ち着かない。
 日中は古本屋をまわる時間と本を読む時間と家事の時間を十分にとって、深夜から朝にかけて原稿を書く。
 結局、自分のペースを守るほうが、精神衛生によく、作業効率も上がる。わかっていてもうまくいかないものだ。

『ノンフィクションの書き方』の第一章は「書くことを日課に……」には次のような助言がある。

《ライターは修練を積まなければ、なにものも書き上げることはできまい(書くことは、わたしの恩師のハワード・マンフォード・ジョーンズの指摘どおり、「生物学上の基本的欲求ではない」のだ)。だからこそ、書くことを規則的な習慣にしてしまわなければならないのだ。毎日、同じ時刻に書き始め、同じ時刻に終えるという、決められた日課を喜んでこなすことである》

 コールドウェルも「週六日、午前九時から午後五時まで仕事をします」と書いている。

 わたしはコールドウェルほど規則正しい生活を送っているわけではないが、「時間を決めて書く」のは大事だとおもっている。

2017/06/25

オールマエノニッポン

 二日連続で十時間以上寝る。ここ数日、からだと心がバラバラになっているくらい疲れていたのだが、散歩と家事に専念しているうちに、ようやく落ち着きを取り戻す。

 土曜日、新宿のルミネtheよしもと「能町みね子のオールマエノニッポン」。
 森山裕之さんのスタンド・ブックスから出た前野健太著『百年後』の刊行記念特別講演。

 受付は退屈男さん。今、スタンド・ブックスで働いている。
 能町さんとグランジの遠山大輔さんが、ラジオの生放送中……という形式で、合間にPOISON GIRL BAND、ライス、シソンヌ、インポッシブルの漫才&コント、前野さんの歌が入る。お笑い芸人の舞台を生で観る機会はなかなかないのだが、みんな、声の張りのすごい。ふつうの人と内蔵されているアンプがちがう。おもしろいのは当たり前で、パフォーマーとしての身体能力みたいなものが、売れるかどうかの鍵なのかもしれない。
 それだけ厳しい世界でもある。いいものを観た。

 前野さんのライブはひさしぶり。昔のヒリヒリした緊張感が和らいで、楽しそうに歌っているのが伝わってくる。
 後半、前野さん、能町さんのトーク+歌もよかった。「オレらは肉の歩く朝」は能町さんバージョンで音源化してもいいとおもった。学生時代、バンドやっていたという話をエッセイで読んだ。

 新宿、高円寺で飲んで、また熟睡。

2017/06/22

新刊の告知

 来月、発売予定の『日常学事始』(本の雑誌社)がようやく一段落した。いつも「朝寝昼起」の生活なのだが、ここ数日は「昼寝夜起」になっていた。「日常」に戻るにはもうすこし時間がかかりそう。
 三年前に刊行された岡崎武志著『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)の巻末の「貧乏対談」で洗濯ネットのことを喋った。それを読んだ編集の宮里潤さんが企画した本でもあります。なぜか洗濯ネットにサインを書いた。

 二十八年前に三重から上京して、右も左もわからなかったころ、自分が切実に知りたかったこと、気づかなかったことをおもいだしながら書いた。「日常学」という言葉は、アンディ・ルーニーの『日常学のすすめ』(井上一馬訳、晶文社、一九八四年刊)からとった……という話は「あとがき」に書いた。わたしは一九八〇年代のアメリカのコラムニストのライフスタイルコラムが好きで、これまでもちょこちょこ生活に関する雑文を発表してきたのだけど、一冊丸ごと、生活ネタの本は初の試みだ。ちなみに、『日常学のすすめ』は、ニューヨークタイムズのベストセラーランキングで十週連続ナンバー1を記録している。あやかりたい。

 本の完成前は期待と不安がせめぎ合う。これまでは不安のほうが大きかった。『日常学事始』は期待……とはちょっとちがうのだが、今までにない手応えみたいなものを感じている。表紙も素晴らしいですよ。感涙。

 同じころ、岡崎武志さんも新刊『人生散歩術(仮題)』(芸術新聞社)も出ます。東京堂書店でトークショーもする予定です。詳しくはまた。

2017/06/20

田舎の話

 わたしの父は鹿児島と熊本の県境にちかい町に育った(生まれは台湾)。父の鹿児島の郷里は一九八〇年代には過疎化が進んでいた。交通の便がわるいところだったということもあるが、人口減少の理由はそれだけではないだろう。
 長男至上主義や男尊女卑、年功序列、不条理なローカルルール——昔ながらの田舎の面倒くさいところが詰まった地域というのは、若い人はどんどん逃げていく。逃げたら、戻ってこない。戻ったら、ひどい目に遭うのがわかっているからだ。とくに女性は。

 インターネットの生活板には「嫁いびり」の話がよく出てくる。
 女性は家でこきつかわれ、食事は別、残り物を食べさせられる。風呂は最後。日常会話の基本は罵声と罵倒で反論は許さない。パワハラとモラハラが横行している。こんなところ一秒もいたくないとおもってしまうような土地(家)は、今でも残っている(そのうち滅びるだろうが)。
 戦後民主主義やリベラルの恩恵はそこにはない。

 わたしは単純に「リベラル=善」とは考えていないが、リベラルの概念がまったく根づいていない土地のしんどさを見聞きすると「人権や平等や自由という価値観は大切だなあ」とおもう。
 いっぽうローカルルールを盾に何もしなくても威張りちらすことができた文化を懐かしむ人もいる。「伝統を守れ」というときの「伝統」には、不条理なローカルルールやハラスメント文化も含まれているのかどうか。含まれているのなら、勘弁してほしい。無理っす。

 自由や平等の概念のない「伝統」が残る土地を変えるのはむずかしい。たぶん、逃げるしかない。

夢の話

 木曜日、今年初の神宮球場。外野自由席でヤクルト対楽天戦を観る。はじめてセブンイレブンのコピー機(?)でチケット買った。
 楽天の先発は則本投手——二ケタ三振の世界記録のかかっていた試合だった。なぜかヤクルト6−2楽天で勝利。原樹理プロ初完投。プロ初完投の試合を観たのは、はじめてかもしれない。記憶がない。

……と書いているうちに、交流戦が終了した。

 十九歳でライターの仕事をはじめて、二十六、七歳くらいまで、千駄ケ谷界隈の事務所を転々としていたころ、ひとりで球場に行って酒を飲む楽しみを知った。

 郷里にいたときは、ふらっと球場に行ったり、仕事帰りにライブハウスに行ったりする生活は想像できなかった。当時はひたすら「毎日、寝ころんで本が読めたらなあ」というのが夢だった。夢は叶った。生活苦と引き替えに。
 中学、高校のころは「図書館の近くに住みたい」とおもっていた。上京して古本屋通いをするようになってからは借りるよりも探して買って読むほうがはるかに楽しいことを知った。わたしの夢は現実と地続きであることが多い。
 二十代のころから最低限の生活費を稼いで、あとは読書三昧の暮らしがしたかった。
 読書生活のために、就職せず、(ほとんど)外食せず、衣類に金をかけず、親戚付き合いや冠婚葬祭から逃げまくる半生を送ることになった。今なお続行中。
 子どもを育てたり、親の面倒をみたり、そういうことをちゃんとできる人は立派だとおもう。しかし、そういうことができない人だって楽しく生きていけるならそれにこしたことはないと声を大にしてはいわないように気をつけているのだが、心の中でひっそりとおもうくらいは許してもらいたい。

2017/06/15

「戦友」の話

 尾崎一雄著『随想集 苺酒』(新潮社)に所収の追悼文をいくつか読み返した。
 ひとつは「中野重治追想」。中野重治は一九七九年八月二十四日亡くなっている。

 尾崎一雄と中野重治は親交が深かった。『筑摩現代文學体系』の尾崎一雄の巻の月報に中野重治が寄稿している。
 中野重治は尾崎一雄の家を訪ね、「話」の「御馳走」になったと書いた。つまり、古本の話で盛り上がったわけだ。
 また戦後、病気中の尾崎一雄を上林曉と中野重治がいっしょに見舞いに行ったこともある。

《中野君はもともと詩人だが、同時に小説家でもあり、批評家でもあつた。その態度は、私などと違って、きびしく、鋭かつた。ちよつと類の無い厳しい鋭さだつた》

 中野重治は、同時代の作家では井伏鱒二、上林曉に好意を寄せていたが、「私も全く同様だった」と尾崎一雄は綴っている。さらに、ふたりは好きではない作家も重なっている。

 もうひとつ「戦友上林曉」を読む。『すばる』の一九八〇年十一月号に掲載された。
 上林曉が亡くなったのは一九八〇年十月六日。
 この文章の中でも尾崎一雄が療養中に、中野重治と上林曉が見舞いに来たときのことを綴っている。
 そのさい、上林曉は中野重治のことをこんなふうに評していた。

《中野さんが政治に引きずられてるのは惜しいなア。政治運動と絶縁して、文學一本槍になつてくれたら、ぼくら、嬉しいんだけどなア》

 上林曉にそういわれた中野重晴は困った顔をしていたらしい。
「戦友上林曉」を読んだときに、山口瞳が向田邦子の追悼で「戦友」という言葉をつかっていたことをおもいだした。
 向田邦子が亡くなったのは一九八一年八月二十二日。「戦友上林曉」のほうが先に書かれた。尾崎一雄と上林曉が好きだった山口瞳は「戦友上林曉」を読んだにちがいない。
 リアルタイムで読んでいた人は「気づいた人」もけっこういたのではないか。また山口瞳は「気づく人」を意識して書いたのではないか。

 わたしは時系列があやふやなまま本を読むことが多い。いつ書かれた文章なのか——もうすこし気をつけて読みたい。

2017/06/09

The ピーズ

 金曜日、The ピーズ三十周年の武道館。九段下の駅を出たら、ピーズのTシャツを着た人だらけ。感無量。二十年以上前のピーズのBaseBallバッチを付けて会場に向かう。二十年前に活動停止したときは、どうしてこんなにいいバンドが音楽をやめなきゃいけないのかと怒りと悲しさで放心状態になった。でもこの活動休止期が縁でペリカン時代の増岡さん、原さんと知り合って、今日いっしょにライブを観ることができた。酔っぱらっている。帰りの電車、増岡さんが百回くらい「よかった、すごかった」といっていた。「鉄道6号」の歌いだし「やっとこんないいとこまで〜」で目頭が熱くなる。「シニタイヤツハシネ」合唱。当たり前にかっこいい。結成から三十年かけて初の武道館。しかも満員。ロックの奇跡ですよ。生きててよかったとおもいました。

2017/06/05

最低限

 来月発行予定の単行本の仕事の追い込み中、生活のリズムが乱れる。
 いつもどおり家事をして、散歩して、決めた時間に集中して作業したほうがいい。わかっているのだが、焦ってしまう。
 家事や散歩をする時間を切りつめたところで、その分、仕事が捗るわけではない。だったら焦る時間を削って、やれるところまでやって後は知らんくらいの気構えで乗りきろうとおもうことにした。

 何をやるにせよ、体力に自信がない病弱な人は「ふつう」を目指さなくていいのではないか。それよりも自分の決めた「最低限」を地道に根気よくクリアする。
 できないことはできないわけだし、ヘンな期待をさせないことも大事なのではないかな。屁理屈ですけどね。自己流だろうが、世間とズレていようが、日々をのりきってるんだから、文句いうなよというのが今の気持だ。遊びたい。

2017/05/24

雑記

 日曜日、コタツ布団をしまう。例年、ゴールデンウィーク中くらいに片付けていたのだが、今年はぐずぐずだらだらしているうちに、この時期になってしまった。
 毎年のようにコタツ布団を出す、しまう話と秋の花粉症のはじまりのことを書いている気がする。

 日曜日から月曜日にかけて、ひさしぶりに徹夜で……わたしは朝寝昼起なので前の晩から昼すぎまで原稿を書いた。どうにか書き終えたとおもって読み返してみたら、書いたはずの文章が何ヶ所か抜けている。おそらく頭の中では書いたつもりが、手が動いてなかったのだろう。
 結局、しめきりを一日のばしてもらった。

 仕事のあいま、吉田健一著『舌鼓ところどころ/私の食物誌』(中公文庫)を読む。巻末に「地域別目次」が付いている。

 今の時代だと知らない料理でも、ネットで検索すれば、すぐ写真が出て、作り方もわかるが、昔はそうではなかった。
 吉田健一の『舌鼓ところどころ/私の食物誌』所収の「鹿児島の薩摩汁」というエッセイでは「最後にこれを食べてから三十年近くたっていて」と書いている。

《今覚えている限りでは薩摩汁の中心をなすものは骨ごと切った鶏の肉で、その味から察すればこれはその肉を味噌汁仕立てにして何回も煮たものに違いない》

 すごい記憶力だ。わたしの父が鹿児島の出身で薩摩汁の話を聞いたことがあるのだが、家では一度も出たことがなかった。
 やはり三十年くらい前、わたしが中学生のころ、鹿児島に行ったときに薩摩汁が出たような気がするのだが、肉がなんだっかすっかり忘れていた。

 鹿児島といっても、奄美大島の料理だが、鶏飯というご飯に細かく切った鶏をのせ、だし汁をかけて食べる料理がある。はじめて食べたとき、世の中にこんなにうまいものがあるのかとおもった。奄美の黒糖の焼酎も好きだ。

2017/05/20

液体と容器

……「理」と「利」の話の続きを書く。このふたつは、ずっと自分の中でせめぎ合っていて、たぶん、一生、決着しないような気がしている。
 今のわたしは妻と共働きで子どもがいない。郷里の親も年金でどうにか暮している。扶養者がいない気楽な立場である。稼ぎが減っても、蔵書を売ったり、アルバイトしたり、そんなかんじでやってきた。

 仮に、自分が従業員が二十人くらいいる中小企業の経営者だとしたら、「理」と「利」のせめぎ合いは、もっともシビアなものになるだろう。

 いっぽう「理」と「利」は相反しない。すこし意味は変わるかもしれないけど、理想主義と現実主義の融合が、さまざまな発明や作品を生むというのは、珍しい話ではない。理想主義のアイデアマンと実務能力の高いプロデューサーがコンビを組むことで、形になりにくいものが形になる……ということもある。

 すこし前に「今、ある本(ノンフィクション系の邦訳書)を時間をかけて読んでいる」と書いた(四月二十四日のブログ)。ジョシュア・ウルフ・シュンク著『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(矢羽野薫訳、英治出版)という本で、たとえば、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、あるいはC・S・ルイスとJ・R・R・トールキンの関係など、さまざまな才能がかけあわせって、化学反応を起こし、偉大な作品、発明、成果を生み出していくという話だ。

 おもしろすぎて読み終わるのが惜しい。三、四十頁くらいずつ読んで、しばらく考える。考える時間が楽しい。そんな本だった。

 才能の型は「天才型」と「努力型」など、対比によって語られることが多い。
 この本の著者のジョシュア・ウルフ・シュンクは「液体と容器」という表現を選んでいる。

《液体は自然な状態だと分散しやすい。液体的な創造は、線の連続というより横の広がりで、刺激に満ち、無限に広がろうとする。リスクがはらむ可能性と危険性を体現しているのだ。(中略)
 一方の容器は、秩序と明確さを放ち、空洞が何かに埋められるのを待っている。移動しやすくする受け皿となり、中身の特徴を自らの特徴に取り込む》

 自由奔放な「液体」の才能と形を作ることに秀でた「容器」の才能がある。
 ビートルズでいえば、ジョンが「液体」、ポールが「容器」で、それぞれが刺激し合うことで、お互いに才能を引き出している。

 ひとりの人間の中にも「液体」の部分、「容器」の部分があるかもしれない。

(……続く)

2017/05/13

「理」と「利」の話

『フライの雑誌』の堀内さんの「あさ川日記」を読んでいたら、同誌が創刊三十周年を迎えたと書いてあった。
 行政や業界におもねることなく、釣り人としての矜恃を保ちながらの三十年——簡単にできることではない。

 わたしはフライの雑誌社の刊行物をすべて読んでいるわけではないのだが、一冊一冊に「利」よりも「理」を優先しているようにおもえる。
 もっとも、まったく「利」を無視していたら、会社は立ち行かなくなるだろう。
 自分の筋を通そうとすれば、余計な摩擦が生じる。
 理不尽とおもえるような要求を突きつけらるたびに「話がちがう」と食ってかかっていたら、仮にこちら側の言い分が通ったとしても、面倒くさい奴とおもわれ、次から仕事を頼まれなくなる。
 おもいだしたくないが、そんな経験を何十回とくりかえしてきた。
 衝突を避けながら、譲歩しながら、妥協しながら、すこしずつ自分のやりたいことをやれるような状況を作っていく。それが賢いやり方なのかもしれない。
 ただし、その賢いやり方をしていれば、安定した収入が得られるとはかぎらない。

「理」よりも「利」を優先すれば、一時は儲かるかもしれない。仕事において、儲けることはわるいことではない。誰だって、ただ働きはしたくない。しかし「利」を優先しすぎた働き方はつまらない。かといって「理」が正しいわけでもない。いつだって勘違いやおもいこみと紙一重だ。

 出版の仕事だけでなく、飲食店でもそうだろう。客の回転率や原価計算は、商売を続けていくためには疎かにはできない。でもわたしは客をただの「数字」としか考えていないような店には行きたくない。しかし採算度外視のやり方は続けたくても続けられない。そのあたりの按配やさじ加減、あるいはやせ我慢に商売の醍醐味があるのではないか……と、零細自由業者であるわたしは考えている。

2017/05/10

喫茶店の話

 山川直人さんの『珈琲桟敷の人々 シリーズ 小さな喫茶店』を読む。既刊の『一杯の珈琲から』『珈琲色に夜は更けて』に続くシリーズ三巻目。絵を眺めているだけでも楽しい。
 喫茶店が舞台。登場人物はみんなちょっと不器用。さりげなく「すこし不思議」な要素も入っている。

 両親がコーヒー好きだったので、わたしは子どものころから喫茶店に通っていた。
 日曜日は、父とふたりで近所のドライバーという喫茶店によく行った。最初はミルク。小学校の高学年くらいからコーヒーを飲むようになった。ドライバーは卵焼きをはさんだトーストサンド、チャーハンもうまかった。無口な父とは、行きも帰りもほとんど話をせず、喫茶店でもお互い漫画雑誌を読みふけった。

 あの店がいつまであったのか、おもいだせない。東京で暮すようになってからは、帰省するたびに寄っていたのだが、いつの間にかなくなっていた。
 今でもドライバーのチャーハンが食べたいとおもうときがある。たぶん、トーストと同じバターをつかっていたのではないか。わたしは家でチャーハンをつくると、どうしても味が和風になってしまう(醤油を入れるからなのだが)。

 父はその後、ときどきほかの喫茶店に通っていたようだが、わたしはその店にはほとんど行っていない。

『珈琲桟敷の人々』の「消えていく店」は、コーヒーが旨くて、雰囲気もいい、すこし無愛想なマスターが営んでいる店の話。読み終わったあともずっと考えてこんでしまった。

2017/05/09

ここ数日

 五月六日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭。岡崎武志さん、山本善行さんも来ていた。夕方、西荻ブックマークの岡崎さんの還暦祝いイベントに出席するため、電車に乗ると、NEGIさんとバッタリ。さらに西荻窪駅から会場に向かう途中、夏葉社の島田さんとも会う。今日はそういう日なのか。

 岡崎さんの還暦の会は大盛況。わたしも岡崎さんとはじめて会ったときの話を喋る。世田谷ピンポンズさんの歌があって、プレゼント大会。二次会〜カラオケと続いて、帰りに西荻窪駅のホームで立っていたら、二次会のあと分かれたグループと再び合流し、ペリカン時代に……。

 最近、道で知り合いとよく会うことが続いている。自分の行く場所が決まっていて、単に同じ行動をくりかえしているからだろう。
 還暦まで十二年。五十歳まで二年。五十代なんてずっと先のことだとおもっていたのに、気がつくと、けっこう間近に迫っている。
 現状に満足しているわけではないが、四十代後半まで好きな仕事をして、読みたい本を読んで、聴きたい音楽を聴いて、楽しい酒も飲めている。文句をいったらバチが当たる。
 二十代半ばから三十代にかけて、あんまり仕事をしてなくて、ふらふらしていた時期に知り合った人のおかげで、なんとかなっている。
 もしずっと仕事が順調だったら、毎日古本屋に行ったり、公園で酒を飲んだりするひまはなかった。

……ここまで書いて、八日(月)、夕方、阿佐ケ谷の杉並郵便局に荷物の受け取りに行く。コンコ堂に寄る。お店を出た途端、夏葉社の島田さん、山本善行さんと道で会う。夏葉社は、先月、木版画家の山高登さんの『東京の編集者』を刊行したばかり。山高さんは、関口良雄著『昔日の客』の装丁、口絵の版画も手がけている。
 そのあと山本さんが岡崎さんと高円寺で会うというのでついていく。お好み焼き、食べる。楽しかった。「郵便局に行くの、面倒くさいな」とおもいながら出かけたのだが、行ってよかった。

 夜、後藤明生『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】【座談会篇】』(つかだま書房)を出版する塚田さん(飲み友だち)と待ち合わせ。岡崎さん、山本さんを紹介する。
二巻本。函入り。五月十七日発売予定——。

《この度、弊社より「内向の世代」を代表する小説家である故・後藤明生氏の「対談集」と「座談集」を刊行することとなりました。【対談篇】は約7割、【座談篇】は全てが「単行本初収録」となっており、近現代の文学史を検証する上でも貴重な証言が再録されております》(つかだま書房 新刊書籍案内)

 塚田さんがずっと作りたいといっていた本だ。刊行おめでとう。

 本の内容については後日また。

2017/05/05

十年一昔

 はじめての単行本の『古本暮らし』の刊行は二〇〇七年五月五日(書店に並んだのは四月二十八日)。十年。早い。

 本が出たとき、担当編集者の中川六平さんに「最初の一年は来た仕事をぜんぶ受けろ」といわれた。その教えを守ろうとしたのだが、神保町のラーメン店を三日で二十軒取材してほしい……という仕事は断った。

 長い人生、気合をいれて無理をしないといけない時期はある。しかし、無理は長く続かない。体力に自信がない身としては、持久戦の構えでいくしかない。そのことがわかったのは大きな収穫だった。

 本が出たのは十年前だが、ライターの仕事をはじめたのは、それより十八年前の一九八九年の五月の連休明けだ。そのころから荻原魚雷というペンネームで書評やコラムを書いている。
 かれこれ二十八年。時が経つのは早い。

 それはさておき、最初の単行本が出る前後、神経がひりひりしていた。なんてことのない言葉にも過敏に反応し、苛立った。以来、どんなに期日がせまっても、余裕をもって、のんびり作業することを心がけるようになった。それがいいのかどうかはわからないのだが……。

 十年単位でふりかえると、低迷や停滞をくりかえしつつも、昔と比べると、気持の切り替え方や力の抜き方はうまくなった気がする。

 火を絶やさないように、そして燃え尽きないように……地道に気長に根気よくやっていこうとおもっています。

三重と京都

 二日(火)、新幹線で名古屋。近鉄に乗りかえ、四日市駅。四日市あすなろう鉄道(内部線)で内部駅に。わたしが乗った車両は座席が前向に一列(そうでない車両もある)でバスみたい。
 あすなろう鉄道は、軌幅が762mmのナローゲージの鉄道で五月一日が開業762日目で記念列車を運行中だった(五月七日まで)。
 昨年、あすなろう鉄道の終点の内部(うつべ)駅から平田町駅までのバスがあることを知り、いちど四日市駅〜内部駅〜平田町駅というルートで帰省してみたいとおもっていた。
 内部駅からのバスは一時間に一本。三十分待ち。十五分遅れでバスが到着する。バス停でひとり。心細かった。
 バスの乗客は三人くらい。終点に着くころには、わたしひとりになっていた。三交バス、大丈夫なのか。
 鈴鹿ハンターの1Fにあるゑびすやで天もりうどんを食う。二階の衣服店で靴下を買う。

 とりあえず、郷里の家に顔を出し荷物を置いて、夕方、港屋珈琲で一息。

 三日(水)、近鉄で京都へ。白子駅で特急に乗ろうとしたら満席で切符が買えない。急行で伊勢中川駅まで行って、賢島駅発の特急に乗る(こちらは空いていた)。大和八木からは再び急行で丹波橋まで。けっこう時間がかかった。

 徳正寺の岡崎武志さんの還暦記念イベント。開始前から岡崎さんと山本善行さんの話が止まらない。事前に六十問のアンケートがあって、冊子にまとめていた。世田谷ピンポンズさんが、岡崎さんの詩の曲を歌う。さらに吉田拓郎の曲を急にリクエストされるも、堂々と歌いきる(大変だったとおもう)。
 ペリカン時代で知り合った詩が好きなS君も来ていた。最近、見かけないとおもっていたら、今年のはじめ、大阪に転勤していたことを知る。
 打ち上げは、CAFEすずなり。
 すずなりは昨年六月に行われた『些末事研究』の座談会以来。座談会に参加した東賢次郎さんも来ていて、再び「親子問題」の話に……。
 夜、扉野家に泊る。

 四日(木)、朝から扉野家の子どもとカードゲーム、将棋で遊ぶ。こんぶをのせたおかゆがおいしかった。
 みやこめっせの春の古書大即売会。春の古本市に行くのは六年ぶり。ここ数年、ゴールデンウィーク中はずっと仕事をしていた。
 高橋義孝著『随筆 大名の酒盛り』(新潮社、一九五五年刊)は、表紙に魚拓がつかわれている。新書サイズのきれいな本だ。
「名人一夕語」という随筆では「君が釣りの名人だといううわさが立つているぞと一友人が教えてくれた」という文章からはじまる。

 高橋義孝は友人と「やまべ」を釣りに行った。四人で二百尾ばかり釣った。そのうち高橋義孝が釣ったのは五匹——。

《この話が人から人に伝わつて、よく、『やまめを釣りに行つたんですつてね』といわれる。そういう場合、私は大抵『いや、どうも』とか何とかいつて済ませている。相手が、『やまめは人の影が水にうつると釣れないから、姿を隠して岩の上から』などといい出す時に限つて、『私の釣つたのはやまべです』と訂正するのである》

「やまべ」と「やまめ」は、わたしも釣りに興味を持つまではごっちゃになっていた。

 あと佐藤垢石著『垢石飄談』(文藝春秋新社、一九五一年刊)も買う。安かった。一九五〇年代の随筆は読み心地がのんびりしていて好きだ。

 みやこめっせから京阪三条まで歩いて、篠田屋でうどんを食う。六曜社でアイスコーヒー。ここで体力の限界を痛感し、午後の新幹線で東京に帰る。
 夜、ペリカン時代で世田谷ピンポンズさんと待ち合わせ。飲みすぎる。

2017/05/02

手探り

 野見山暁治の『うつろうかたち』(平凡社)に「手探りが終わったとき絵が終わる」という言葉が出てくるのだが、なんとなく、「絵が終わる」の「終わる」を「ダメになる」みたいな意味かと一瞬勘違いしてしまった。

 別に野見山さんはそんなことはいっていない。

《ぼくの中に、何かはっきりあって、これを描こうと思うんだけれども、それはこういうものじゃなかろうか、ああいうものじゃなかろうかと思いながら追いかけていっている。絵を描くというのは、そういうことだろうと思う。
 じゃあ、これは完成と言われたら、完成ということはないので、手探りの状態で、いま、この絵についてはこれ以上手探りできないんですというところでもって、終わりにしている》

 手探りできないところまで描いたら、いちおう終わりということにする。
 ものを作ることにキリがない。何をもって「完成」とするか。文章だと、直そうとおもえば、あとからいくらでも直せる。どこかで「これでいい」という決断をしないといけない。二十代のころは、なかなかそういう決断ができなかった。短い原稿を一本書くのに、ものすごく時間がかかった。

 手探りせず、ぱっと書けたらいいのだが、そうなったらつまらないのかもしれない。ただ、ずっと手探りを続けるよりは、どこかでけりをつけて、どんどん次の作品にとりかかったほうがいいのではないか。

 今のわたしはそう考えている。

2017/04/29

風来坊 ふたたび

 五月三日(水・祝)、京都の徳正寺にて岡崎武志さんの
 トーク&ライブ「風来坊 ふたたび」を開催します。
 会場で一箱古本市もあります。

 わたしが岡崎さんとはじめて会ったのは高円寺の「テル」という小さな飲み屋でした。そのころ、岡崎さんは三十代後半、わたしは二十代半ば。
 最初は何をしている人かわからなかった。平日の昼間に中央線の古本屋でしょっちゅう会う。飲み屋では昔の映画の話をよくしていた。三十歳すぎて大阪から上京し、それからフリーライターになったという話を聞いて、勇気づけられたことを憶えている。
 かれこれ二十年以上の付き合いになります。「sumus」に誘ってくれたのも岡崎さんです。
 詩集『風来坊ふたたび』を読む。詩の中の岡崎さんは、いつもと別の顔をしているようにおもえる。でも読んでいるうちに、詩の中の岡崎さんのほうが素顔なのかなという気がしてくる。そのあたりの話も当日聞けたらとおもっている。

岡崎武志還暦記念トーク&ライブ「風来坊 ふたたび」

いいじゃないか
笑うなよ 木よ風よ石よ
そして友よ

日時:5月3日(水・祝)
15:00開場 16:00開演(18:00終演)
場所:徳正寺
〒600-8051 京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39
出演:岡崎武志(60) 山本善行(60) 林哲夫(61) 扉野良人(45) 荻原魚雷(47)
特別ゲスト:世田谷ピンポンズ
入場料:2,000円(おみやげ付き)
定員:70名(予約の方優先)

ご予約はメリーゴーランド京都まで
mgr-kyoto@globe.ocn.ne.jp

*会場では同人の新刊・旧刊著書もとりそろえます。

詳しくは「ぶろぐ・とふん」にて
http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/20170503

2017/04/28

応援歌について

 ラジオでプロ野球を聴いていると、知らず知らずのうちに、選手の応援歌をおぼえてしまう。
 ゲームやアニメの曲が元になっている応援歌も多い。わたしはヤクルトの雄平選手のファンで、その応援歌(我らの想い背に受け〜)も好きなのだが、最近、原曲が「桃太郎電鉄」の「サイコロ行進曲」(桃太郎電鉄15)ということを知った。「桃鉄」のBGM、作曲はサザンオールスターズのベーシストの関口和之だったんですね。かなり有名な話らしい。初耳だった。

 選手の応援歌文化は、日本だけでなく、韓国や台湾のプロ野球にも根づいている。昔から「応援歌(鳴り物)不要論」を唱えている人がいるけど、球場で観戦しているとき、チャンステーマ(チャンテ)が流れると気分が高揚する。そういうからだになってしまった。

 ヤクルトの選手の応援歌では山田哲人選手の曲(夢へと続く道〜)が有名で今年の春の選抜でもよく流れていた。
 あと荒木貴裕選手の応援歌(君の熱い思いと〜)は「名曲」として野球ファンのあいだでも評価が高い。わたしはミレッジの曲も好きだった。

 応援歌のメロディは心身に何かしらのプラスの働きを及ぼす効果があるのだろうか。

 試しに、インターネットで応援歌集みたいなものを視聴しながら仕事をしたら、いつもよりちょっとだけ捗った気がする。

2017/04/24

一段落したので

 ゴールデンウィーク進行を無事クリアした。
 期日を守り、きっちりできることをやる。地味だけど、その積み重ねが、ささやかな生活の維持につながる。

 一枚の絵をある人は一筆書きのようにさらっと描く。ある人は何ヵ月もアトリエにこもって描く。
 どちらがいい絵になるか。それはわからない。絵の価値は、作業時間に比例しない。

 文章も苦労して書いたからといってよくなるとは限らない。
 そのときどきの調子もふくめて、出来不出来を左右する要素はいろいろある。
 いつだって時間が足りない。予算も足りない。足りない中で何をどうするか。そこが零細自由業者の腕の見せどころ――といいたいけれども、何をやるにしても、自分自身の容量不足を痛感する。
 何の制約もなく、心のおもむくまで、やりたいことができるならそうしたい。でも、そうなったら、ひたすらだらだらしてしまう気もする。適度なストレスは、何かしたい、今の状況を変えたいとおもうきっかけになることが多い。その加減がむずかしい。
 一晩中、自問自答していたことを友人に喋る。なかなかまとまらなかった考えが伝わる。嬉しくなる。それで「もういいや」と気がすんでしまい、その先を考えなくなる。二十代のころ、そんなことがよくあった。

 今、ある本(ノンフィクション系の邦訳書)を時間をかけて読んでいる。テーマは昔からわたしも興味を持っていたことなのだが、そのことを「研究」しようとはおもわなかった。……やっぱり、考えているだけではダメなのだな。読み終えるまで書名は伏せておく(とくに理由はないのだが)。

2017/04/18

課題

 天気予報、東京の最高気温二十八度。室温は二十五度くらい。暑い。
 月曜日、荻窪。ささま書店に行く。編集工房ノアの品切本が並んでいる。大槻鉄男『樹木幻想』をはじめて見た。函入りだったとは。
 久しぶりにタウンセブンで鯖の押し寿司を買う。もうすこし荻窪界隈を散歩しようかとおもっていたら、小雨。家に帰る。

 高松在住の福田賢治さんが作っている『些末事研究』の三号が届く。この号の特集は「親と子」。福田さん、東賢次郎さん、扉野良人さんとわたしの座談会は、昨年六月に京都で収録した。
 わたしはずっと三重弁で喋っている。文字にすると、けっこう違和感があるが、そのままにした。

 昨年の五月末に父が亡くなって、それで東京と三重を行ったり来たりしていた。『些末事研究』の座談会の前日も凍結された父の銀行口座の件やら何やらで消耗していた。京都に行って、ようやく人心地ついた気がした。

 今月のはじめに発売のインディーズ文芸創作誌の『ウィッチンケア』の8号にも「わたしがアナキストだったころ」というエッセイを書いた。
 ここ何年かでいちばん苦心して書いた文章かもしれない。

『なnD 5』でも、インタビューというか、戸塚泰雄さんと五、六時間飲んだあと、帰り際にいろいろ質問されて、酔っぱらって喋ったことが収録されている。
 すこし前に中古のベースを買って浮れていた。浮れたかんじがそのまま活字になっている。でも直さなかった。

 文章を書いている途中に、ちがうことを書きたくなってしまうことがよくある。でも仕事の原稿でそんなことをしていると、期日に間に合わないし、次の予定にも支障が出る。
 そうこうするうちに遊びの部分をカットし、ひとつずつ順番に仕上げることを優先するようになる。効率はいいが、楽しくない。アクセルではなく、ブレーキばかり踏んでいるような気分になる。

 今はそのあたりのバランスをすこし変えたいとおもっている。うまくいかなかったら、また元に戻すつもりだ。

2017/04/16

春に考える(九)

 和巻耿介著『評伝 新居格』(文治堂書店、一九九一年刊)の冒頭付近に、新居格の直筆の歌が転載されている。

《路と云ふ路は羅馬に通ずれば
 ドン・キホーテよ でたらめに行け》(「短歌研究」昭和十二年六月号)

 新居格、四十九歳のときの歌だ。
 わたしは短歌の世界には不案内なので、この歌のよしあしはわからない。でも「でたらめに行け」という言葉には、新居格のおもいがこもっている気がする。
 年譜を見ると、五十歳前後から新居格は映画関係の執筆が盛んになる。新居格は、興味をもつと、どんどんのめりこむ。見習いたい。

 わたしは三十歳前後から、ゲームや音楽や漫画など、これまで好きだったものにブレーキをかけるようになった。
 限られたお金と時間と体力を何かひとつのことに注ぎ込まないとダメになる——という強迫観念にとらわれていたのだ。もちろん、ひとつのことに集中してよかったところもある。いっぽう行き詰まったときの逃げ場がなく、窮屈なかんじもあった。

 何かをするということは、その分、何かができなくなる。しかし無我夢中にのめりこんだ経験は、かならず別の何かにフィードバックされる。今はそうおもえるようになった。

 当初考えていたぼんやりとした着地点とはズレて(見失って)しまったが、ここ最近の心境の変化を書き残しておきたかった。

 続きはまた来年の春になったら考えたい。 

2017/04/15

春に考える(八)

 新居格の著作の序文やあとがきはいつも同じようなことを書いている。よくよく考えてみると、ちょっと変だ。

 新居格著『市井人の哲學』(清流社、一九四七年刊)の「自序」ではこう綴っている。

《本書にはこれといつた特色はない。それは誰よりも著者であるわたし自身が知つてゐる。わたし自身が特色がないのに特色があるものが書けるわけはないし、わたしとしてもさうした特色を欲してはゐないのだ。わたしはただわたしの思ふところを率直に書いただけの話だ。それはわたしの生活そのままの表現であり、わたしの日常の言葉通りのものである》

 余所行きの言葉ではなく、普段通りの自分の言葉で文章を書く。新居格はそう心掛けていた。
 いつも自分が考えていること、考えてきたことを書く。これがけっこうむずかしい。「こんなことをわざわざ書く必要があるのだろうか」という気持になって書けなくなる。「特色のあるものを書こう」とおもうことはわるくない。しかし特色のある手法が使い古された手法だったり、特色を出そうとしすぎて伝わらなくなったりすることもよくある。

 それに自分の「当たり前」は誰にとっても「当たり前」とは限らない。
 変に奇をてらったり、難しい技巧を駆使したりしなくても、凡事徹底していけば、自ずとその人ならではの味が出てくる……こともある。自分の「当たり前」を表現しきるのは意外とむずかしいものだ。そういうことは若いころにはわからなかった。

 四十代後半になって、できなくなったことが増えた。何か新しいことをはじめるにしても十代や二十代ではじめた人と同じようにはいかない。ただ、若いころよりもペース配分や続けるための工夫みたいなものはできるようになった。

 すぐには上達しないけど、その分、時間をかけて、地道にやり続けていくうちに、いつの間にかできなかったことができるようになっている。そういうことはよくある。

(……続く)

春に考える(七)

『生活の錆』の「春の淡彩」の「そうした因襲的な言葉による阻止ほど甚だしいものはない」という文章のすぐ後で、新居格は語調を強め、こう綴っている。

《そんなことをいひたがるものこそ文明の敵であり、人類の敵である》

 四十代半ばで、新居格が水泳とダンスをはじめたとき、まわりから「いゝ年して」みたいなことをいわれたんでしょうねえ、たぶん。

 昔の話だが、わたしは小学六年生のとき、生まれてはじめてクラスの学芸会のための演劇の脚本を書いた。脚本の書き方も何もしらないまま、白地のお絵書き帳に四十枚くらい書いた。

 出来不出来はさておき、自分の中に一晩で四十枚も文章を書ける力があるとわかったことが嬉しかった。その力は自分だけにしか意味がない。だが、もしこんなことができたって何の意味もないとおもっていたら、わたしはまったく別の人生を送ることになったにちがいない。

 好きこそものの上手なれというが、そう簡単には好きなだけでは続かない。
 新しいことをはじめる。興味や好奇心の芽は、慎重に育てないとすぐ枯れてしまう。おもうようにならなくて嫌になることもあれば、のめりこみすぎて燃え尽きてしまうこともあれば、「つまらない」とか「ヘタクソ」とか何とかいわれて、やる気をなくしてしまうこともある。

 最初のうちは、うまくいかないのは当たり前とおもって、気長にやるしかない。イメージとしてはトロ火でコトコト煮込んでいくかんじが理想だ。

 ちなみに、今のわたしは一晩に四十枚の文章を書く力は失われて久しい。

(……続く)

2017/04/14

春に考える(六)

 この一ヵ月くらいのあいだ、あれこれ考えていたこと、自分の心境の変化を書き残しておきたい——そうおもいつつ、「それって何の意味があるの?」という抵抗感がある。
「私の随筆は云はば私だけに意味する随筆であるかも知れない」と綴った新居格もそんなおもいにとらわれていたのではないか。そんな気がしてしかたがない。

 新居格の『生活の錆』(岡倉書房、一九三三年刊)に「春の淡彩」という随筆がある。

 四十代半ばの新居格は水泳とダンスをはじめる。

《わたしの水泳もダンスも水泳として、またダンスとしての上達を期待するのではない》

《年を重ねるのは仕方がないが、心に年齢の皺を寄せてはならない。
 いゝ年をしてだとか、頭が禿げてゐるのだとか、白髪が出来てるのにだとか文化の発展と人間の成長性を妨げること、さうした因襲的な言葉による阻止ほど甚だしいものはない》

《わたしが近年ひどくぢゞむさくなつたのはさうした言葉に打ち負かされてゐたからと気付き、こゝに断然と挑戦をはじめようとするわけである》

 今、わたしは毎日家でベースの練習をしている。
 ものおぼえがわるく、忘れるのが早い。二十代のころなら二、三日練習すればできたことが、今は二〜三週間かかる。しかも一日か二日、何もしないとリセットされてしまう。技術がどうこう以前に、モチベーションを保つのがむずかしい。

 それでもうまくできなくて、なかなか弾けなかったベースラインが弾けるようになると嬉しい。
 なんというか、野球をはじめたばかりの子どもが、ファウルだろうが、凡ゴロだろうが、ボールがバットに当たっただけで嬉しいという感覚と近いかもしれない。凡打しか打てないからダメとおもうか、もっと練習しようとおもうか。たぶん、そこが大きな分かれ道になる。
 できないことの中に小さな進歩の喜びを見出し、その喜びを糧にしてやり続ける。やり続けながら、また次の小さな進歩を目指す。そんなふうに楽器を弾き続けたいとおもっているわけだが、どうなることやら。

(……まだ続く)

2017/04/13

春に考える(五)

 新居格著『生活の窓ひらく』(第一書房、一九三六年刊)の「あとがき」で、自分は生活のために執筆してきたと告白する。

《ではあるが、如何に稚拙であつても、わたしはわたしだけのものでありたい、とは望んでゐた》

 新居格は自著の「序」や「あとがき」で同じようなことをくりかえし書いている。何か儀式のようだ。

 彼の文章を読むと、書くかどうか迷っていたことを拙くても書いてみようという気になる。新居格自身、そう自分に言い聞かせながら、書いていたのかもしれない。

 拙い表現の中にも何らかの自分の欠片がある。巧く書けるようになるまで書かなかったら、そのあいだに考えていたことは消えてしまう。
 失敗をくりかえしながら前に進むこと。すこしずつでもいいから書き継いでいくこと。
 たぶん、わたしにはそういうやり方が合っている。

 十代の終わりごろから今に至るまでの三十年くらいのあいだに、そのときどきには気づかない様々な変化があった。
 できなかったことができるようになった変化とできたことができなくなった変化がある。
 そのふたつの変化が自分の中で交差している。確信はないが、それはどちらも大事な変化だ。

(……続く)

春に考える(四)

 新居格の『心のひゞき』(道統社、一九四二年刊)に「春に考へる」というエッセイがあって、自分もこの題名で何か書いてみたいとおもっていた。
 この本の「自序」でも、あいかわらず、新居格は、自分に才能がない、学浅く、見聞狭く、生活の振幅がひろくない……云々とぼやいている。

《たゞ、わたしはありつたけの自分で書いてゐる》

《この書は表題の示す通り、平人であるわたしの心のひゞきなのである》

 ありったけの自分の心の響きを書く。それは新居格の理想だったのではないかとおもう。本を読むかぎり、文章はかなり抑制が効いている。たぶん、性格も。

 前回、「たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたい」と書いた。素人同然の技術しかない癖に何をいっているのだ——と自分でもそうおもうわけだが、巧くなる過程で失ってしまうものがあるのではないか。今のわたしはそのことを考えたいのだ。

 文章の場合、間違えても後でいくらでも書き直すことができる。楽器の生演奏だとそういうわけにはいかない。ミスをする。動揺する。あとはぐだぐだになる。間違えたところから立て直すことができない。つまり、ヘタということだ。

 ときどき人前で話をする機会がある。わたしの声は小さくてかすれて聴こえにくい。たいてい途中でしどろもどろになる。正直にいうと、トークショーはやりたくない。やりたくないが、人前でもうすこし話ができるようになりたいともおもっている。

 楽器と同様、人前で喋っているときも、しどろもどろになったあと、立て直す技術がない。
 巧く弾く、巧く喋るよりも、今は失敗したときの心構えのほうが大事なのかもしれない。

(……続く)

2017/04/12

春に考える(三)

 すこし前に『街の哲学』(青年書房、一九四〇年刊)を再読していたのだが、この本の中に「鮒を釣る卓」という随筆がある。

《エネルギーが減退し、読書執筆がスロー・モーシヨンになつて来た今日このごろではわたしには何といつても時間が大切だ》

 新居格は一八八八年生まれだから、この文章を書いたのは五十歳くらいのときである。わたしは今年四十八歳になるのだが、そういう状態になりつつある。まちがいなく、本を読むのが遅くなった。

《疲れたら午睡し、憩ひをとつてまたぽつぽつと初める。そののろい仕事振は能率的ではないが、魚釣と同じで楽しいものだ》

《鮒つりをしてゐるのと、同じ気持でわたしは毎日机に向かつてゐるのだ。魚が釣れる釣れぬが魚釣人には問題ではないやうに、原稿がかけるとかかけぬとか、本が十分に読めるとか読めないとかが問題ではないのである》

 二十代のときに文章が書けなくなってしまった時期のことをふりかえると、わたしは自分の技量以上に巧く書かなければ……とおもいこんでいた。

 話は変わるが、今、毎日ベースの練習している。昔、できたことができない。自分のおもうように指が動いてくれない。二十代のころのわたしは速く正確に弾くことが、いい演奏だとおもっていた。それで挫折した。いや、挫折したといえるほど、本気でやっていなかった。

 でも今は、たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたいとおもっている。
 楽器だけでなく、文章を書くときもそうありたい。指先に気持をのせて書く。久しく忘れていた感覚だ。弾けないベースの練習をしているうちに、その感覚をすこしだけおもいだした。

 この心境の変化を忘れないようにしたい。

……続く。

2017/04/11

春に考える(二)

 眼高手低という言葉がある。目は肥えているけど、いざ自分でやってみると、おもうようにできない、知識に技術(技能)が追いつかない——そういう状態を意味する。

 二十代のころ、本ばかり読んでいて、文章が書けない時期があった。
 自分の考えているようなことは、誰かがすでに書いている。わざわざ自分が書く必要はない。
 そうおもうこと自体、すでにいろいろな人が書いている。

 今の時代は情報量が格段に増えているから、昔と比べて、眼高手低になりやすい。「ひょっとしたら、自分には才能があるかもしれない」という初心者の勘違いはすぐに打ち消される。
 まわりにも巧い人がいくらでもいる。「わざわざ自分が……」とおもってしまう。

 どんなに情報量が多くても、自分の可能性を測ることはできない。今、できないことが、三ヵ月後、一年後にはできるようになっている(かもしれない)。できるようになってからではないとわからないことはいくらでもある。
 技術・技量のレベルに応じて、理想や目標も変わってくる。

 新居格が自分の随筆を「私だけに意味する随筆であるかも知れない」と書いていることに、わたしはすごく励まされた。

 文章を書く以上、「おもしろかった」「読んでよかった」とおもってほしい。でもそれだけではない。
 書きたいものを書くためには、何度も書き損じる経験を積まないといけない。

 たぶん料理にしても、レシピを見て、そのまま再現できるようになるには、それなりに時間がかかる。一度くらいうまくできても、次も同じようにできるとは限らない。微妙な火加減や塩加減は失敗を通して学ぶしかない。

 この文章にしても、ぼんやりとした着地点はあるのだが、そこにたどりつけるかどうかはわからない。

春に考える(一)

 雨。寒い。二日酔い。

 ずっと読みたいとおもっていた新居格の『季節の登場者』(人文會出版、一九二七年刊)をインターネットの古本屋で注文した。「日本エツセイ叢書」の一冊だ。

 届いた本のあいだに新居格の「マンモニズム想片」というエッセイの雑誌の切り抜きもはさまっていた。初出はわからない。わからないことを調べる時間がほしい。

《金さへあれば大抵のことは出来る。金は有難いものだと云ふ心理に人々は支配されるのも無理からぬと思へる。(中略)その代り、金がないと不便にして窮屈極まる》

 拝金主義を批判しているエッセイなのだが、新居格は生活および精神の享楽を満たすことを否定しているわけではない。

 戦時中、新居格は自分にお金があったら、地下に防空壕のある家を建て、そこでずっと本を読んでいたいといったエッセイを書いていた。
 わたしもそういう夢をよく見る。別に地下室でなくてもいいが、現実と隔絶された場所でひたすら本を読んだり音楽を聴いたりし続けられたらと……。

『季節の登場者』の「序」で、新居格は「私の随筆は云はば私だけに意味する随筆であるかも知れない」と綴っている。
 新居格は、友人に君はカフェなどでの漫談はおもしろいけど、文章は拙いといわれる。

《巧い人が巧いのは巧いのだが、拙いものがまづいのも、それはその人の木地そのままの丸出しであるが故に巧いのであるとするのである。自由で明けつ放しに書いてるつもりだ。癖もあらう、まづさもあらう、変でも妙でもあり、その他何でもである。時には滅茶苦茶であるかも知れないが、そんな点の好きな人達は或はその点で好きになつてくれるかも知れない》

 変でも妙でもいい。というか、それをそのまま書けることが、わたしの理想の文章である。

2017/04/08

「整えない」こと

 ここ数日、ぼんやりと考えていたことを書いてみる。

 どんな競技にも難易度みたいなものがある。見ている分にはその細かなちがいは素人目にはわからない。
 難しいことを簡単そうにやるのはむずかしい。そのむずかしさは伝わりにくい。
 いっぽう今の自分の力でギリギリのことをやろうとすると、余裕がなくて、ぎこちなくなる。どうしても必死なかんじになる。でもぎこちなくても必死になってやってみることは、すごく大切なのではないか……と、万事においてあんまり無理をしなくなった四十代後半のおっさんはおもうわけだ。

 齢をとって、気力や体力が衰えて、はじめてわかることがたくさんある。
 若いころ、基本や手順を無視して強引にやっていたことがことごとくできなくなる。勢いで乗りきるという方法が使えない。

 今のわたしは手順や基本を無視して、いきなりD難度やE難度の技に挑むようなことはしなくなった。
 現段階では三回に一回くらいしかうまくいかないような技は封印し、確実にできる技の精度で勝負することが増えた。いわば、「守り」に入っている。ところが、「守り」とおもっていたこともやってみると意外と奥が深い。まとめすぎずに、適度な雑さ、いい加減さを残す。その匙加減でよく悩む。

 先日、藤井青銅著『幸せな裏方』(新潮社)を読んでいたら、その中に「整えない」というエッセイがあった。

 藤井さんがあるミュージシャンのために作詞したときの話だ。ミュージシャンは藤井さんの前でギターを弾いてデモ曲を作り、ラフに歌った。
「これがとてもよかったのだ!」
 後日レコーディングの現場で「立派に編曲された伴奏」といっしょにその曲を聴いた。ところが、編曲された曲は最初のデモ曲のときにあった魅力を感じられなかった。
 音楽の世界では、よくあることらしい。

「整えない」というエッセイでは、藤井さんがものすごく過密な日程で小説を書いたときのエピソードも綴られている。文章を吟味せず、語句も統一せず、《書き飛ばす》かんじで原稿用紙に文字を埋め続ける。ゲラを見ると、あちこちに乱れがある。しかし、そこに「気迫」のようなものがこもっている。そして「整えない」ことの意味を問いかける。

《音楽も小説も、おそらく他のジャンルも……、上手に作り上げていくことが必ずしもいい結果を生むとは限らない》

 整えたくても整えられない……という時期を経て、それなりに整ったものが作れるようになってから、ぶつかる壁がある。

 近所の飲み屋で三十歳前後の会社員兼ミュージシャンが「今の若い人はみんなうまいですよ。うまいことが前提になっているですよ」みたいな話をしていた。難しい曲もさらっと弾きこなす。でもうまいことが前提になると、そのうまさは武器にならない。
 一昔前と比べると、あらゆるジャンルにおいて、その道のプロとして食っていくことの難易度が格段に上がっている。

 だったら、うまさを目指さないという道もあるのではないか。
 それはそれで茨の道かもしれないが。

2017/04/04

プロセス

 春の選抜が終わって、プロ野球が開幕し、季節が変わったと実感する。

 四月二日(日)、桜台poolで「ピエーポポ!ライブ」。村岡マサヒロ個展「ピエーポ!2017~春の宴~」のクロージングの宴のイベント(ポポタムズ、ボエーズ、カトリーロと吉成トライ、HERNIA15、DJ根本敬)にポポタムズのベースとして参加した。

 リハーサルと本番は全然ちがう。余裕なし。
 前回のポポタム十周年の「ポポフェス」のときは、何も考えないうちにあっという間に終わったかんじだった。二回目のほうが緊張するとはおもわなかった。

 四十代後半になって「できないことができるようになる」にはどうすればいいのかということをよく考えるようになった。

 昨年、はじめてフライフィッシングをやってみて、まったくおもいどおりにならない経験をした。それがすごく楽しかった。
 楽器もそうだ。家でひとりで練習しているときにはできることが、みんなと合わせるとグダグダになる。見るのとやるのとではまったくちがう。でも最初からできないとおもっていると、いつまで経ってもできない。

 趣味や遊びの中にも「できないことができるようになる」プロセスのようなものがある。
 はじめのうちは素振りの数がものをいうみたいなところがあるわけだが、しばらくすると「こんなことをやっている場合か」「ほどほどでいいのではないか」という葛藤が生じてくる。
 ブレーキを踏まずに何かひとつのことに没頭するという行為は、生活に支障をきたすし、からだにも大きな負荷がかかる。

 その道を極めている人たちは、ある種の分別や制約をとっぱらった遊び半分ではたどりつけない場所に生きている。
 かならずしもその場所は楽しいとは限らない。

 今はまだ初歩の初歩で躓いている状態だが、何かに没頭した先にある世界が見たい。そこにいかないと掴めない感覚を掴みたい。

 しかし「こんなことやっている場合か」という葛藤は簡単には消せない。仕事もあるし。はあ。

2017/03/29

雑感

 日曜日、ペリカン時代でうつみようこ、橋本じゅんのライブ。最初から最後まで「今、すごいものを見ている(聴いている)」としかいえない気分になる。ギターのチューニングしているところまでかっこいい。
 その人にしか出せない味というか、音に人が出るというか——いろいろな覚悟が、すべて歌や楽器の音になっている。
 帰り道、からだが軽くなっている。五十代楽しそう。
           *
 すこし前に鮎川信夫の「『一九八四年』の視線」(『擬似現実の神話はがし』思潮社)を読み返した。
 このエッセイで、鮎川信夫は今の時代は詩の水準は上がっているけど、ずば抜けた詩人がいなくなったというようなことを書いている。

 そして詩を絵にたとえ、こんなこともいっている。

《どういう絵を描けば展覧会に入選するかは、もうすでにわかってしまっている。そうではなく、通らなくてもいいから俺はこれが書きたい、これを見てくれ、というものを詩人は呈示すべきだ。それがないと、結局全部詩はレトリックのわずかばかりの差になってしまう》

 詩や絵にかぎった話ではなく、通りやすい「型」の中で技術を磨くことは、簡単とはいわないが、おもしろくない。「型」を壊すにも技術がいる。

《たとえば僕は現在週刊誌でコラムを書いているが、そうしたマスコミの中での書き手たちを見ていると、皆特定のワクの中で与えられた素材を、一定の技術でこなしている。こうしたことは、時間さえあって習練すれば誰にでもできるだろう》

 今、わたしは習練の壁みたいなものにぶつかっている。
 ひたすら反復練習することでしか身につかない技術もある。その時間の捻出が、むずかしい。

 しかしそれを齢のせいにするわけにはいかない。齢のせいにしないと決めた。

2017/03/19

読書と貧乏

 十年以上前に[書評]のメルマガで「全著快読 古山高麗雄を読む」という連載をしていた。
 二〇〇五年六月二十一日号が最終回(全三十回)。

 当時、三十五歳。最初の単行本が出る二年前で、まだブログもはじめてなかった。「全著快読 古山高麗雄を読む」を書きはじめたころ、わたしは『立見席の客』(講談社)だけは持っていなかった。連載は二年くらいの予定だったから、そのあいだに何としても手に入れようとおもっていた。連載の三回目か四回目かで見つかった。

 今、古山さんの著作で入手難なのは『私の競馬道』と『競馬場の春』(いずれも文和書房)だろう。『立見席の客』はアマゾンの中古本で格安で売っている。
 本には巡り合わせがある。古山さんの本が残りあと一冊になってからも『立見席の客』はなかなか目の前にあらわれてくれなかった。

『競馬場の春』の表題作のエッセイはこんな一行からはじまる。

《春を迎える喜びは、貧乏であれば、ひとしお味わいが深いような気がする》

「競馬場の春」は、春が近づくと読み返したくなる。

 古本屋を歩きまわって、ひとりの作家の本を全部集める。古山さんの本をすべて読むまでに十年ちかくかかった(四、五冊、古書目録で注文したかもしれない)。
 そういう本の集め方は久しくしていない。この先、インターネットの古本屋に頼らず、五十冊くらい本を出している作家の全著作を集めようとはおもわない。検索してひっかかれば、翌日か翌々日に本が届く……という便利さには抗えない。

 一冊一冊、古本屋をまわって探した作家は、吉行淳之介、山口瞳、色川武大もそうだ。やっぱり最後の一冊を入手するのは苦労した記憶がある。
 二十代のころは、風呂なしアパートに住んで、月末の家賃や日々の食費に悩みながら、本を買っていた。古本屋に行く電車賃が惜しくて、自転車で古本屋をまわった。読書も、貧乏であれば、ひとしお味わい深い。

 今は電車にすぐ乗る。自転車は持っていない。
 さっき、十年くらい探していた本をネットで注文した。

2017/03/16

日本人口会議

 古山高麗雄著『立見席の客』(講談社、一九七五年刊)に、「こどもは二人まで」というエッセイがある。

 一九七四年七月、日本人口会議が「日本が人口問題で深刻な影響を受け始めていることを確認、“こどもは二人まで”という国民的合意をめざした努力をすべきである」と「宣言」したらしい。
 古山さんは「そういうことは、宣言というかたちで言われるべきものではないと思う」と違和感を綴っている。

 ちなみに、当時の日本の出生率は平均二・一四。
 一九七四年ごろの予測では、このまま人口が増え続けると、五十年後(二〇二四年)には、日本の人口は約一億四千万人になると考えられていた。

 現実に日本人口会議の影響がどのくらいあったのかはわからない。

 この会議に参加した「有識者」は、かつて自分たちが発した「宣言」をどうおもっているのか。すでに亡くなっている方も多いだろうが、ちょっと知りたい。

2017/03/13

神楽坂の「本」の日

 神楽坂で開催された「本のフェス」で本を売る。日本出版クラブ会館、建物が立派すぎて、いきなり心細くなるも、古ツアさんとマスク堂さんの顔を見て、ちょっと安心する。

 午前十時にスタートして、最初の一時間がまったく売れない。もしかしたら売り上げが参加費+本の送料にもならないかも……と不安になる。
 まわりはミステリーやSFの宝の山状態。西荻の盛林堂書房さんのところにものすごく人が集まっていた。ほしい本が何冊かあったが、気がついたら残っていなかった。
 わたしの隣のテーブルでは、北原尚彦さんが本を売っていた。北原さん、お客さんから聞かれたことにぜんぶ答える。すごい。ずいぶん前に、共通の知り合いの車で古本のチェーン店を北原さんとまわったことがあるのだが、そのときは探している本がかけ離れているせいか、いちども店の中ですれちがわなかった。こういうのは共存共栄というのだろうか、棲み分けというのだろうか。
 
 途中、会場を抜け出し、同時開催の神楽坂一箱古本市を見に行く。宮内悠介さんのところでちょっと話をする。わたしのアンテナにはひっかからない不思議な本ばかり。
 善國寺のわめぞブースでは、鶴見俊輔著『テレビのある風景』(マドラ出版、一九八五年刊)を買う。今年一月に開店した「BOOKS 青いカバ」が出していた本。場内の活気がすごい。楽しそう。南陀楼綾繁さんと古書現世の向井さんが、ふたりで並んでいる光景を見たのは、久しぶりのような気がする。
 赤城神社でヨーヨーの世界チャンピオンのパフォーマンスを見る。
 店番に戻らねばならず、ゆっくり回れなかったのが心残り。神楽坂にも小諸そばがあることを知る。

 開始早々、諦め気分にひたっていたのだが、不思議なことに、昼の二時半すぎから、徐々に本が売れ出す。午後四時前後がピ−ク。目玉商品のつもりで並べた本が、その時間帯まで残っていたのだ。何がどう売れるのかさっぱりわからない。場所や来る人によって、手にとってもらえる本の傾向がまったくちがう。いろいろ勉強になった。

 岡崎武志さんがふらっと来て、中央線の古本屋の話をしたり、つかだま書房さんから後藤明生の本の近況を聞いたり、フライの雑誌の堀内さんが親子で来てくれたり、方丈社の方々や金沢あうん堂さんと話ができたり、楽しい一日だった。

 本の背表紙をたくさん見るだけで幸せな気分になる。

2017/03/09

整頓

 すこし前に、串田孫一の『日記の中の散歩』(講談社、一九八三年刊)を買ったのだが、積ん読になっていた。
 この本に「整頓」というエッセイがある。古本屋で立ち読みしていたとき、この文章をじっくり読みたくて買った。

《私の日記には、始終、部屋を整頓しなければならない、これでは仕事の能率が低下するばかりだということが書いてある》

 わたしも掃除がしたい、本と資料の整理がしたい——ということをよく書いてしまう。物欲よりも、整頓欲のほうが強い。といって、きれい好きではなく、適度に、机のまわりに本が散乱しているくらいが心地いい。ところが、適度な散乱を維持することがむずかしい。
 あっという間に本の山が二列三列と増え、そのうち足をぶつけたりして、本が崩れる。崩れた山を元に戻しても、どうせまた崩れる。今、やる気をなくしている。

《すべてのことをきれいに整頓してしまえば、何かをする意欲がなくなってしまうような気もするが、こんなに散らかし過ぎた中にいては、これもまた極めて能率が悪く、何の意欲も湧いて来ない》

《考えてみると、小学生の頃に六畳の畳の部屋の隅に机を一つ置いて貰ったその時から、かれこれ六十年、机とその周囲を整頓することにずっと追われて来たような生活であった。今更もうどうしようもないが、奇妙な生き方をして来たものだと思う》

 ものを減らさないと片付かない。
 蔵書の整理はけっこう頻繁にやっている。どの本を売ってどの本を残すか、その仕分けはけっこう時間がかかる。ヘタすると数日かかる。仕事に支障が出る。

 本を手にとる。たぶんこの先読み返さないだろうとおもって、本の後ろのほうを見ると古本屋のシールが貼ってある。今はない店、旅先で寄った店……いろいろ記憶がよみがえる。生活が苦しかったときに買った本も手放すのに抵抗がある。

 上京して二十八年、本の整理ばかりして暮らしている。整理整頓はキリがない。

2017/03/08

本のフェスin神楽坂

 今週日曜日開催の「本のフェスin神楽坂」本の雑誌商店街(2F中宴会場)に「文壇高円寺古書部」も参加します。店番もします。
 一時期は隔月くらいのペースで古本イベントに出品していたのだが、ここ数年は年に一回くらい。今の古書価の変動についていけていないことが判明する(西部古書会館で三百円以下の古本ばかり買っているせいかもしれない)。出品しようとおもっていた本で、値崩れしているものもあれば、定価の何倍にもなっているものもある。無視しようかなとおもったけど、迷ったあげく、日本の古本屋やアマゾンの中古本で何冊かチェックした。ひさしぶりの古本の値付け、楽しい。

■本のフェス2017 @神楽坂 日本出版クラブ会館(新宿区袋町6)

3月12日(日)10時〜19時開催(入場無料)
本のフェスは、新しい本の楽しみ方を実践するイベントです。
目指すのは、本の世界の野外フェス。

主催   本のフェス実行委員会/読売新聞社
後援   一般社団法人日本書籍出版協会・神楽坂商店街振興組合・神楽坂通り商店会
特別協力 BS11(日本BS放送株式会社)
協力   日本出版クラブ会館・日本出版販売・神楽坂ブック倶楽部

■同時開催
3月11日(土)・12(日)神楽坂ブック倶楽部presents 一箱古本市@神楽坂。

■本の雑誌商店街 10:00〜19:00 
今年もやって来ました、本のフェス名物「本の雑誌商店街」!本の雑誌執筆陣や古書店、出版社が本を並べて、 
わいわいがやがや本や雑誌を販売します。今夜のおかずに商店街で美味しい本を見つけてください。

(商店街参加者)
本の雑誌社、トマソン社、古書ますく堂、盛林堂書房、古書いろどり、小山力也、北原尚彦、森英俊、荻原魚雷、東京創元社、国書刊行会、酒とつまみ社、140B、椎名誠旅する文学館、FLAVOR、ハーブとアロマテラピー灯り、古本と手製本 ヨンネ、左右社、方丈社、浅生ハルミン、あうん堂、しまぶっく、カンゼン、東京美術

詳細は、公式ホームページにて
https://honnofes.com/

2017/03/06

だからなんだという話

 お笑いコンビが結成後なかなか芽が出なかったのにボケとツッコミを交代した途端、急に売れたり、漫才やコントのスタイルを変えてブレイクしたりすることがある。
 行き詰まって壁にぶつかって「このままではダメだ」と自分たちを否定し、もがき苦しみながら一から型を作り直す。そうした経験はすごく価値がある。

 二十代半ば、わたしは商業誌の仕事を干されて、食えなくなった。当時、硬派ジャーナリストを目指していて、鋭い(とおもわれるような)文章を書こうとしていた。たぶん向いてなかった。
 編集者には「もっとわかりやすく書け」「すぱっと言い切れ」みたいなことをいわれて、そういう文章を書く練習をしたのだが、まったく書けなかった。

 そのころ昭和十年代あたりの私小説を読みはじめた。今の文章と比べると、昔の文章はのんびりしている。ああでもないこうでもないと悩んで、悩んでいるうちになんとなくうやむやになる。
「自分は正しい」という文章と「自分は間違っているかもしれないが、どういうわけかそうおもってしまう」という文章はちがう。前者は鋭く、後者は鋭くない。いろいろ試行錯誤を重ねた結果、鋭い文章より、のらりくらりとした文章のほうが合っているのではないかとおもうようになった。

 で、これまでスタイルを変えて、売れましたと書けたらいいのだが、「文章が古いし、くどいよ」といわれ、さらに仕事が減ってしまった。
 だが、鋭い文章を書こうとしていたときは、何か批判されると、すぐ反論していた。ところが、古くてくどいといわれるような文章を書くようになってからは「今、ちょっと迷走中でして……」みたいな大人の対応ができるようになった。
 で、大人の対応ができるようになったおかげで売れたと書きたいところだが、そうはならなかった。
 ただし、くどい文章を書いて、大人の対応をしているうちに、(以前と比べると)性格がのんびりしてきて、多少、神経も図太くなってきた。
 それから仕事が減ったおかげで、ひまな友人と知り合い、飲み会の誘いが増えた。

 それがライター生活十年目、三十歳手前くらい。それから最初の単行本が出るまで八年くらいかかった。

 何の教訓にもなっていない。

2017/03/01

待望の続篇

 三月になった。数字が二から三になっただけなのだが、ほっとする。
 冬は寝起きがつらい。起きてから、数時間、指に力が入らない。指に力が入らないと何もできない。靴下をはくことさえ難儀だ。
 起きたら、まず給湯器のお湯で手を温める……ということを教えてくれたのは、ライターの先輩のNさんだ。
 からだというのは、けっこう気分にも左右されるものだが、ただ、お湯で温めるだけで動かない指が動くようになる。目も覚める。
 アンディ・ルーニーの「ものごとがうまく行かなかったら、熱いシャワーを浴びよ」(『自己改善週間』晶文社)という言葉にもずいぶん助けられた。
 気力でどうにかしようとして、どうにもならなかったことが、給湯器のお湯や熱いシャワーや貼るカイロで多少はマシになる。

 春になったら、もうすこし活動量を増やしたい……とおもっていたところ、フライの雑誌社から牧浩之著『山と河が僕の仕事場2』が届いた。本といっしょに入っていたチラシの「映画化!したらいいな」という文句を見てクスっとなる。
 フライフィッシングの毛鉤職人(プロタイヤー)をしていた牧さんは宮崎県にIターン移住し、猟師、野菜作り、さらに原木をもらってきてシイタケも育てる。
 ワイルドだけど、清々しいくらいマジメだ。真剣に生きている。そのかんじが文章にも出ている。
 とくに第三章の「家族の肖像」がよかった。読んでほしい。わたしは何度も読み返すとおもう。いい本ですよ。

 前著『山と河が僕の仕事場 頼りない職業猟師+西洋毛鉤釣り職人ができるまでとこれから』も重版になったそうです。めでたい。

2017/02/25

カモメ教授

 ジョゼフ・ミッチェル著『マクソーリーの素敵な酒場』(土屋晃訳、柏書房)を読みはじめる。収録作は一九四〇年前後に書かれた小品。新しいとか古いとか関係ない。読めるだけで幸せ。

 中でも「カモメ教授」が怪作にして傑作だ。

《快活で痩せこけた小男のジョー・グールドはこの四半世紀、グリニッジヴィレッジのカフェテリア、ダイナー、バー、そしてごみ溜めの名士だった》

 ヴィレッジ界隈のバーテンダーは、彼のことを「教授」「カモメ」「カモメ教授」などと呼んだ。文無しで宿無しの自称ボヘミアン。酔うと手をバタバタしてカモメの真似をする。カモメ語でカモメに詩を聞かせていたという逸話もある。常軌を逸したグールドの言動と細密な人物描写に引き込まれる。

 グールドは『口述史』というノートをずっと書き続けている。読んだ人の大半は「意味不明」と匙を投げたが、批評家のホレス・グレゴリーは『口述史』を読み、「グルードは、バワリーのサミュエル・ピープスだと思う」といった。詩人のE・E・カミングはグールドの親友だった。作家になる前のウィリアム・サローヤンは、グールドのエッセイに感銘を受け、「形式に悩むことから解放されたんだ」と語っていたらしい……のだが、どこまで本当の話なのかわからない。

 デイヴィッド・レムニックは「ジョゼフ・ミッチェルについて」という小文で、『マクソーリーの素敵な酒場』のことを「ニューヨークとそこに生きる人々を描写した一連の作品は、ジョイスの『ダブリナーズ』のように鋭く、多様で、読む者に取り憑いて離れない」と評している。

「カモメ教授」には続編がある。

《「ジョー・グールドの秘密」はミッチェルの最高傑作である。いうまでもなく、最後の作品でもあった。その後は一作も出版していない。それからの三十一年と六ヵ月、ミッチェルはほぼ毎日出勤しながら、〈街の話題〉用のコラム一篇すら発表しなかった》

 ジョゼフ・ミッチェルは、一九三八年に『ニューヨーカー』に雇われ、一九九六年五月二十四日、八十七歳で亡くなるまで、雑誌に残った。いったい何をしていたのか。いろいろ謎である。
 wikipediaには、二〇一五年にジョゼフ・ミッチェルの伝記が刊行された件や二〇〇〇年に「ジョー・グールドの秘密」が映画化された件などが記されていた。
「ジョー・グールドの秘密」だけでなく、ミッチェルの伝記も読んでみたい。

(追記)
 常盤新平著『ニューヨークの古本屋』(白水社)には《『ジョー・グールドの秘密』は二部に分かれていて、最初の「かもめ教授」は六〇年代に植草甚一さんが翻訳したのを読んだことがある》という一文も……。

ジョゼフ・ミッチェルの作品集が刊行されるそうですよ

 昨日はプレミアム・フライデーだったらしい。夕方のニュースで知る。わたしは午後三時くらいに起きた。
 毎日十時間くらい寝ている日が続いたかとおもえば、ここのところ、二時間くらいで目が覚め、また寝直すという断続睡眠の時期に入った。季節の変わり目によくそうなる。

 ジョゼフ・ミッチェル著『マクソーリーの素敵な酒場』(柏書房)、もったいなくて読めない。読むけど。しかも帯(裏)に「ジョゼフ・ミッチェル作品集、刊行開始!」とある。

 常盤新平のエッセイや『マクソーリーの素敵な酒場』所収のデイヴィッド・レムニックの「ジョゼフ・ミッチェルについて」を読むと、ジョゼフ・ミッチェルの本は、アメリカではかなりの古書価がついている……らしい。
 佳作で良質、わたしがもっとも好きな「小説風のエッセイ」もしくは「エッセイ風の小説」といった趣がある。

 常盤新平著『明日の友を数えれば』(幻戯書房)所収の「魚市場の老人」もジョゼフ・ミッチェルのことを書いたエッセイだ。
 常盤さんは『オールド・ミスター・フラッド』の原書をニューヨークの古本屋で手に入れる。鉛筆で「ファースト・エディション(初版)」と書いてある。
 それからしばらくして、ペーパーバック版をアマゾンで注文した。

《ペーパーバックにはチャールズ・マクグラスという『ニューヨーカー』執筆者の序文がついている。それによると『オールド・ミスター・フラッド』は、ニューヨーク公立図書館でも「紛失」して、なかったという。その初版本は稀覯本中の稀覯本なのだそうだ。
 私は初版や稀覯本を集める趣味はないが、マクグラスの序文を読んで、すごい宝物を持っているのだと思った。古本屋の値段が高かったのも納得できた》

『オールド・ミスター・フラッド』の訳者解説には「ミッチェルは『ニューヨーカー』の最もすぐれた作家だという人が多い」とある。

《ミッチェルの名前が知られるようになったのは、『マクソーリーの素敵な酒場』を書いてからだろう。ミッチェルのこの一文によって、マクソーリーズ・オールド・エール・ハウスもまた有名になった。いまや、この酒場は観光の名所でもある》

2017/02/23

ジョゼフ・ミッチェル

 まもなく、ジョゼフ・ミッチェル著『マクソーリーの素敵な酒場』(土屋晃訳、柏書房)が刊行。柏書房のホームページで表紙を見る。装丁かっこいい。ジョゼフ・ミッチェルは、一九〇八年、アメリカのノースカロライナ生まれ。「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターをしていた。
 一九九六年に亡くなっているが、この年、『オールド・ミスター・フラッド』(常盤新平訳、翔泳社)が刊行されている。「マクソーリーの素敵な居酒屋」も入っている。

 常盤新平著『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房、二〇一三年刊)に「二番街ウクライナ村」というエッセイがある。

 常盤さんはマンハッタンのパール・ストーリート(この通りは『オールド・ミスター・フラッド』の舞台)を歩いていると、ジェローム・ワイドマンの自伝小説『東四丁目』(常盤新平訳、紀伊國屋書店、二〇〇〇年刊)をおもいだす。

《のちに私はこの本を翻訳したが、評判にもならず初版でおわってしまって、愛着のある作品だっただけに、ひどく落胆した》

 それからパール・ストリートから西のほうにどんどん歩く。
 そして——。

《たしか東七丁目にはニューヨーク最古の酒場マクソーリーズがある。この酒場についてはジョゼフ・ミッチェルが書いたものを読んでいた。それで私は下町を材にとったミッチェルの愛読者になった》

 常盤新平編・訳『サヴォイ・ホテルの一夜 ニューヨーカー・ノンフィクション』(旺文社文庫)にもジョゼフ・ミッチェルの作品が二篇(「メイジー」「マックソーリーの素敵な居酒屋」)が収録されている。

……続きはまた後ほど。

2017/02/21

古本道入門

 中公文庫の岡崎武志著『古本道入門』を読む。中公新書ラクレからの文庫化だけど、数ある岡崎さんの本の中でも一、二を争うくらい好きな本だ。

《六十歳目前に達したこの年まで、一度たりとも、まったく飽きることなく、古本を買い、古本屋通いを続けている》

 岡崎さんと知り合って、かれこれ二十年以上になる。そのあいだ、わたしは岡崎さんの“古本道”とはちがう“古本道”を歩まねば、とおもい続けてきた。後追いしても何も残っていないからだ。いっぽう『古本道入門』を読んでいると、「よくぞ、いってくれた」とおもうことがいろいろ書いてある。いい言葉にたくさん出くわす。

《一般の書店が扱う本は「氷山の一角」にすぎない。ふだんは目につかないが、海面下に深々と眠る巨大な氷の層があるのだ》

 この(新刊本は)「氷山の一角」という言葉は岡崎さんがよくつかう表現だ。膨大な古本の世界を言い表すのに、これ以上の比喩はおもいつかない。

 第1章「いま、古本屋がおもしろい」には、「本棚が呼吸する店」という言葉がある。
「本棚が呼吸する店」とはどんな店か?

《つまり、しょっちゅう客が出入りし、数日たつと、本棚の本が少し入れ替わっている店こそ、「いい店」なのである。つねに客を惹きつけるだけの魅力ある本を揃えている。しかもそれが、非常に買いやすい適正価格である。当然ながらそういう店では本がよく売れる》

 第3章「オカザキ流、古書の森のさまよい方」の「『あたりまえのこと』に驚く」という言葉もいい。
 あるとき、知り合いの古本屋が村上春樹の単行本にそこそこいい値段をつけていた。店主は「ハルキの『世界の終わり』の単行本って、若い人に人気があって、売れるんですよ」「単行本を見たことがなくて、インパクトがあるようですよ」という。

《一九五七年生まれの私にとっては、よくよく知っているあたりまえのこと、いまさら驚きもしないことが、三十年近く後に生まれた若者にとっては驚きとなる。それこそ若さの特権だ。たぶん私も三十年前に、若さゆえにいろんな「あたりまえのこと」に驚いたはずだ》

 わたしも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、一九八五年刊)の函入の単行本なんて、珍しいとおもったことがなかった。古本屋ではしょっちゅう見かける本だし。
 でもそういう本を新鮮におもう世代もいる。

『古本道入門』に「達人に学べ!」というコラムが入っているのだが、それを読むと、その世代その世代の“古本道”みたいなものがある。未開の荒野だとおもわれていたジャンルも、次々と整備されてきた。
 それでもまだまだ古書価のつかない未開拓の領域が膨大に残っている。

 また第8章の「古本を売る、店主になる」は本の売り方や古本屋を開業するさいのアドバイスが綴られている。

《古本の世界で突如潮目が変わることがある。それは誰にも読めない。読めないからおもしろいのだ》

 没後、忘れられる作家もいれば、しばらくして急に古書価がつく作家がいる。
 古本の潮目は読めない。でも古本屋通いを続けていると、すこしだけ早く、変化に気づくことができる。
 そんなことを気にせず、読みたい本を読みたいときに買えばいいというのは正論だが、早く気づけば、安く買える。安く買えたら、その分、他の本も買える。

 現在、わたしは“古本道”を迷走中というか、低迷期に入っているのだが、古本を売って古本を買おうという気になった。

2017/02/16

「それ町」最終巻

 石黒正数の『それでも町は廻っている』の最終巻を読む。ついに完結。この漫画を読んでいるあいだは、だいたい幸せな気分になることができた。かなり体調のわるいときでも。「すごい!」と絶讃したくなるような作品ではないのだが、世紀の傑作だとおもう。「日常系」という言葉で括っていいのかどうかはわからないが、石黒正数のような才能が生まれた背景には、何かしらの歴史の必然があるのではないかという気がしている。今、仕事の途中なので、そのあたりの考察はいずれまた。一巻から読み返したい。同時に『それでも町は廻っている 公式ガイドブック廻覧板』(少年画報社)も発売されたが、こちらはまだ入手していない。

2017/02/14

人口百万人

 秋田県の人口減少率が何年もワースト一位を記録し、近い将来、県の人口が百万人を切るかもしれないというニュースを見た。

 二年くらい前に和歌山県が百万人割れしたので、現在、人口百万人以下の都道府県は九県ある。
 人口百万人以下の都道府県が九県といわれて、すぐおもい浮かぶだろうか。
 鳥取と島根はすぐわかったが、あとはぼんやりしている。

 ネットを検索すればすぐわかることだが、調べないまま、ここ数日人口百万人以下の県はどこだろうと考えていた。

……二県、まちがえた。

2017/02/10

三角旅行

 二十五年ぶりに北陸を訪れ、富山から新潟間の移動はけっこうたいへんなことを知った。

 わたしは電車事情に詳しくない。事前に調べて旅行する計画性もない。
 今回、はじめてノートパソコンを持って旅行した(ゲラをチェックして返却する仕事が二本残っていた)。
 おかげで富山から新潟に行くルートや新潟のバスの一日乗車券のことを知ることができて助かった。

 携帯電話もスマホも持っていないし、パソコンや電子書籍端末は家の外に持ち出さない。
 ふだんは行き当たりばったりに移動し、いつも苦戦する。その苦戦の大半はインターネットを利用すれば、解消されるものだ。電子書籍端末もインターネットに接続できるので持っていくのはありかも。

 富山から新潟の移動は、特急に乗ればいいやとおもいこんでいたのは迂闊だった。家に帰ってから調べたら、数年前まで、寝台列車(急行きたぐに)も走っていたらしい。
 結果、新潟には新幹線+特急しらゆきで行ったわけだが、安く行くなら高速バスがある。時間は新幹線+特急と比べて一時間くらいかかるが、運賃は半額以下だ。
 高速バスは朝と夕方に一本ずつしか走っていない。仕事の関係でどうしても夕方までには新潟に到着したかったので、新幹線+特急を利用することになった。

 前もってそのあたりの事情がわかっていたら、金沢に行って新潟に寄って帰るという計画は立てなかったとおもう。

 こんど新潟に行ったときは、特急いなほに乗ってみたい。山形県の酒田まで二時間ちょっと、高速バスで酒田から仙台、あるいは新潟から秋田まで行って新幹線で仙台という旅行もしてみたい。

 ふと「三角旅行」という言葉をおもいつく。東京を起点に三角に移動して帰ってくる。二泊三日あるいは三泊四日くらいの小旅行。

……現実逃避中です。

2017/02/07

新潟は雪だった

 月曜日、午後三時すぎ、新潟に着いたら、激しい雨。風も強い。傘がさせない。駅前のビジネスホテルに行くあいだにずぶ濡れになる。
 天気がよければ、古町のほうまで散歩しようとおもったが、断念する。
 夜、駅前の寿司屋。すこし贅沢する。ホテル、壁が薄くて隣の人の鼾がずっと聞こえる。

 翌日、雪(風強し)。バスの一日乗車券を買う(五百円)。割安だが、本数が一時間に一本しかない。とりあえず、古町に行く。書店の萬松堂、中二階があって、楽しい。追悼コーナーもある。
 次のバスの時間まで商店街をうろつく。そのあと新潟市水族館マリンピア日本海に行く。冬の日本海。荒波。雪は止んだが、風が冷たくて強い。
 水族館。川魚のコーナー(信濃川)がけっこうおもしろかった。バスの時間に合わせて、こんどは新潟県立歴史博物館へ。雪で川の向こうが見えない。雪が固い。周辺散策は断念し、次のバスまでどうしようかと不安になったが、歴史博物館のシアターで「新潟・水の記憶」という映像(二十分)をたったひとりで観ているうちに、余裕で次のバスまでの時間が潰せた。新潟は、信濃川と阿賀野川が流れているため、古くから長野や会津地方との交流があったらしい。昔は町に堀があった。シアターで観た映像の中にも「堀を復活させたい」といっている人がいた。

 新潟出身の退屈男さんから、イタリアンという焼きそば(っぽいもの)の話を聞いていたのだが、今回は食べることができなかった。
 老舗の古本屋もほとんどなくなっている。古ツアさんのブログにあった学生書房も二〇一〇年に閉店したようだ。
 新潟、市内だけでも一日ではまわりきれない。いろいろ心残りはあるが、東京に帰る。旅行は、ちょっと心残りがあるくらいのほうが、また行きたくなる。

 帰り、上越新幹線にはじめて乗る。トンネル多い。途中で寝てしまう。目がさめたら、上毛高原駅。かなり雪がつもっている。上毛高原からトンネルを抜けて高崎に出るとまったく雪がなかった。逆「雪国」。

 新潟滞在中、えちごトキめき鉄道の「トキめき」は新潟県の県鳥の朱鷺とかけてあることに気づいた。うん、どうでもいい。

2017/02/06

そして高岡、富山、新潟

 月曜日、朝八時前にすかっと目がさめる。基本、寝起きはわるい。とくに冬は。
 二十五年ぶりの金沢のあとは、高岡と新潟をまわって東京に帰ろうという計画を立てた。
 富山駅周辺も二十五年前に訪れている。高岡は藤子不二雄ファンとしては一度は行くべき町で……IRいしかわ鉄道で金沢から高岡へ。IRいしかわ鉄道の「IR」って何だろう。途中、倶利迦羅駅からあいの風とやま鉄道になる。源平合戦の倶利迦羅峠はこのへんだったのか。あと石動駅の石動は「いするぎ」と読むことを知る。

 高岡駅に着いて、高岡大仏と高岡古城公園をまわる。やっぱり、雨。高岡大仏は「日本三大大仏」のひとつということを知る。奈良と鎌倉の大仏は何度か行っているので、これで三大大仏制覇だ。ちなみに「日本三名園」の金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園のうち、偕楽園だけはまだ行ったことがない。
 高岡古城公園は雪が積もっていた。でもこの日は雨。
 高岡滞在は一時間半くらいだったが、観光地と商店街の密接感がよかった。古い建物も多い。わたしの郷里の三重でいうと、松坂城跡周辺と雰囲気が似ているとおもった(異論はあるかもしれない)。
 いちおう四十七都道府県はすべてまわっているのだが、まだまだ知らない素晴らしい町がある。

 高岡駅から富山駅へ。二十五年ぶりの北陸だけど、今回、いちばん驚いたのは、金沢から新潟まで直通で走っていた特急北越がなくなっていたこと。金沢のあと新潟に行こうとおもっていたのは、前に訪れたときは青春18きっぷで旅行したので、いちどは北越に乗りたいとおもっていたのだ。今、調べたら二〇一五年三月に廃止されたらしい。残念。

 それはさておき、富山駅に着いたら、どしゃ降り。駅前(駅ナカ?)のそば屋で白えびの天ぷらそばを食う。つゆが好みだった。富山−新潟間の電車を調べたら、最短時間で行けるのは、新幹線で上越妙高駅まで行って、そこから特急しらゆきに乗るのがベスト。予想外の出費だが、それ以外のルートだと五時間ちかくかかる。夕方までに新潟に行くには、それしかない。富山駅のみどりの窓口で切符を買う。
 それにしても、えちごトキめき鉄道というネーミングはどうなのか(あいの風とやまもどうなのか)。特急しらゆきは、上越妙高から直江津に出て、日本海側は走るのだが、柿崎から柏崎間が日本海近い。波が荒れていて、ちょっと怖い。柏崎からしばらくすると雪景色(途中、霰が降る)。田んぼが雪で覆われている。越後岩塚駅付近で車窓から丘の上にある神社が見える(後で調べたら宝徳山稲荷大社だった)。

 気がついたら、特急しらゆきの指定席はわたしひとりになっていた。自由席にすれば、よかった。

金沢の夜

 日曜日、金沢。大学時代、金沢は二回訪れているが(一回は取材)、いずれも名古屋経由で、東京から向かうのははじめて。北陸新幹線で二時間半。自分の中の日本地図の感覚が変わる。

 金沢駅に着いて食事していたら、雨が降りだす。コンビニで傘買う。
 駅前のビジネスホテルにチェックインして、オヨヨ書林に行って、香林房周辺を散策する。二十五年ぶりの金沢。記憶が薄れているのもあるが、町が様変わりした気がする。でも東京や大阪といった大都市から離れた場所にある町ならではのよさもある。なんとなく落ち着く。金沢のような町のよさは、若いころはわからなかった。

 犀川で8番ラーメンを食べる。

 そのあと近江町市場に戻り、メロメロポッチ。杉野清隆さんと世田谷ピンポンズのライブ。今回の金沢行きも、このライブを観るのが目的だった。それにしても、いい店。音楽好きが集まっているかんじが、店内に充満している。
 世田谷さんは今年初のライブだったそうだが、あいかわらず、声、素晴らしい。曲の前にいろいろ喋る。喋りと歌詞が重なったり、ズレていたりするのが、おもしろい。昔、好きだった子のことをネットで調べたら、結婚していることがわかって作ったという歌(うろおぼえ)が、すごくよかった。
 杉野さんは、はじめて観たときから、異様な完成度というか、これ以上、引くところがないくらい、ギリギリの音で歌を作っている。曲はしみじみとしているのに、一曲一曲緊張感がある。ギターの音の研ぎすまされ方も圧巻だった。
 この日が雨だったということもあるかもしれないが、世田谷さんも杉野さんも、雨の日の歌が多い……というのは発見だった。

 打ち上げにまぜてもらったのだが、お客さんもおもしろい人ばかり。世田谷さん評、杉野さん評、鋭い。たしかに、杉野さんの曲は、フォークだけど、ロックなのだ(フォークロックではない)。伝わらないかもしれないが、聴いたらわかるとおもう。

 帰り道、独自性と技巧——のバランスについて考える。杉野清隆さんは、今の日本のミュージシャンの中でもそのバランスにおいて最高峰といっても過言でない。地味だけど。独自性と技巧の両方が揃っているミュージシャンというのはほんとうに稀なのだ。
 そして道に迷う(なぜか駅を通り抜けてしまう)。熟睡。

2017/02/03

どちらも正しくない

 毎年、冬の底だなとおもう日がある。とにかく眠く、十時間以上寝る日が続く。夕方くらいに目が覚める。まだ寒い日は続くだろうが、すこしずつ春に近づく。
 一年通してずっと調子がよければいいのだが、なかなかそうはいかない。いろいろ試行錯誤した結果、だましだまし怠け怠け、冬をのりきるのが、いいのではないかとおもうようになった。
 とりあえず、からだを温かくして、からだによさそうなものばかり食べている。温野菜とか。

 わたしが私小説や身辺雑記、それもどちらかといえば、地味な作品が好きなのも、あまり変化や刺激を求めていないからだろう。たぶん、性格や気質も関係している。
 休日のすごし方にしても、なるべく人と会わず、部屋でごろごろしているのが好きだ(といっても、完全にひきこもりたいわけではない)。
 近所をすこし散歩して、古本屋を二、三軒のぞいて、喫茶店でコーヒーを飲む。
 旅先でも行動はほとんど変わらない。

 こうしたあまり変化を好まない気質は、当然、ものの考え方にも影響する。
 昔からそうだったわけではないが、徐々に、わたしは穏健主義者になっている。極端な変化を望まず、改良主義、修正主義でいいのではないかとおもうようになった。ただし、穏健主義は、そしてそれなりに安定した社会という土台があって成立する考え方でもある。
 たとえば、内戦や内乱の最中であれば、穏健主義の立場は守りたくても守れない。

 ジョージ・ミケシュの『ふだん着のアーサー・ケストラー』(小野寺健訳、晶文社)は、何度となく読み返している本だが、ミケシュとケストラーのふたりはハンガリー出身の亡命者という共通点はあるものの、性格は正反対。ミケシュは内気な皮肉屋で、ケストラーは気性が荒く、活発である。生涯、論争に明け暮れたケストラーにとって、唯一、喧嘩をしなかった友人はミケシュだけだ。
 それでもケストラーは、ミケシュを怒鳴りつけたことがあった。
 一九五六年のハンガリー動乱の夜、ケストラーはイートン・プレイス(ハンガリー公使館の所在地)の近くから、ミケシュに電話した。
「いっしょにハンガリー公使館の窓へ煉瓦を放りこんでくれ」
 ミケシュは「来いというんなら、むろん行くよ」と答えるが、内心、ケストラーの行動には意味がないとおもっている。
「ブタペストの街頭では、みんなが闘って死んでいるというのに、こっちはぬくぬくと眠っていろというのか」というケストラーにたいし、ミケシュは「ぬくぬくと眠るのをやめてみたって、みんなを助けることにはならない」と反論する。
「明日会って、もっと何か効果的なやりかたがないか相談しよう」というと、ケストラーは「また穏健主義者か、バカヤロウ!」と電話を切った。

 このエピソードが自分の記憶に深く残っているのは、わたしもミケシュのように考えがちだからだ。
「その行為に意味はあるのか? どんな効果があるのか?」
 そんなふうに考え、行動に移さないことが多い。
 ハンガリー動乱は六十年以上前の話だが、ケストラーとミケシュのふたりの対応というのは今にも通じる問題だろう。

 行きすぎた行動主義と何もしない穏健主義。ミケシュ流に考えると、どちらが正しくてどちらが間違っているかではなく、どちらも正しいとは限らない。どちらの選択肢も正しくないときに「第三の選択肢」を考えるのはすごく大切なことだ。でも、考えているだけだと「バカヤロウ!」といわれる。むずかしい。

2017/01/28

さて、これから

 正月ボケをひきずり、調子が上がらず焦る。メールの送信ができなくなり焦る。さらに仕事部屋のブレイカーが壊れて焦る。そんなこんなを乗りこえて、月末の仕事が終わり、達成感と安堵感にひたる。

 冬のあいだ、腰(ときどき背中)に貼るカイロをつけている。寝ているときもカイロを貼っている。
 たまに、カイロを貼らずに寝ると、目覚めてからしばらく、頭が回らず、からだが動かない。
 疲れやすさ、寝起きのひどさには、個人差がある。子どものころは「甘え」の一言で片づけられてきたが、そうじゃない。

 昨日、神保町「ブックカフェ二十世紀」で向井透史さん(古書現世)、小山力也さん(古本屋ツアー・イン・ジャパン)のトークショーを見に行く。夕方、神保町に用事があって、というか、このイベントに合わせて、予定を組んだ。
 わめぞの「外市」や「みちくさ市」などを手がけてきた向井さんの話は、古本屋というより、編集者、あるいはプロデューサーの発想に近い。「本を売る」ことだけでなく、「人を呼ぶ」ための仕掛けをいろいろ考えている。

 いわゆる古本好きを相手にするなら、渋い本、趣味のいい本を揃えるというような方法がある。でも、それだけでは広がりがない。日頃、古本屋と縁のない人に足を運んでもらうためにはどうしたらいいか。

 十年くらい前に、わめぞの「外市」がはじまったころ、メンバーではないのに飲み会によくまぎれこんでいた(出品もしていた)。
 十年、あっという間だ。あっという間だったけど、本(古本)をとりまく環境もずいぶん変わった。十年一日というわけにはいかない。たぶん、これからの十年も。

 それから昨年十二月にWeb本の雑誌の「日常学事始」の連載は終了しました。
 いちおう単行本になる予定ですが、いつ刊行されるかは未定です。

2017/01/21

ダメをみがく

 十年以上前、新聞の夕刊で文庫本を紹介する欄の仕事をしていて(今はやっていない)、以来、文庫の新刊のチェックをするのが習慣になっている。
 各出版社の文庫で読みたいとおもうのは月に一冊あるかないか。ところが、ときどき何冊か読みたい本、あるいは単行本ですでに読んでいるけど、文庫で買い直したい本が数冊同時に出ることがある。

 今月の集英社文庫もそう。橘玲の『バカが多いのには理由がある』、サミュエル・ハンチントン著『分断されるアメリカ』(鈴木主税訳)、津村記久子、深澤真紀著『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』と、ジャンルはバラバラだけど、気になる本が三冊あった。

『ダメをみがく “女子”の呪いを解く方法』の単行本は紀伊国屋書店で刊行。タイトルに“女子”とあるが、男女問わず、仕事や人間関係の悩みを抱えている人には、よく効く本だろう。

 わたしは就職した経験はないが、仕事をしていて困ったときのことをおもいかえすと、私生活を干渉されたり、性格や身なりにたいして、あれこれ文句をいわれたりするのが、つらかった。こちらも仕事はまったくできないから、怒られるのはしかたがない。でも仕事がうまくいかない理由は、経験不足や伝達ミスによるものが大半なのに、なぜか「古本を読むな」とか「ミニコミに原稿を書くな」といった説教になる。理不尽。

『ダメを磨く “女子”の呪いを解く方法』では、津村さんが最初に就職した会社で、通勤中に音楽を聴いていることを注意されたという話をしている。会社帰りに音楽を聴くのはいいらしい。よくわからない基準だ。

 話は戻るが、「仕事がまったくできなかった」と書いたけど、今は「自分に合った仕事のやり方ではなかった」だけかもしれないとおもっている。
 同じ仕事でも文句をいわれながら嫌々やるのとリラックスしながら自分のペースでやるのとではまったくちがう。

 津村さんと深澤さんの対談は、おもいあたることがたくさんあった。
 仕事をする過程でつかわなくてもすむ「感情」を浪費させられる職場がある。何をするにも気をつかったり、常に尊敬(しているふり)を強いる人がいたり、仕事以外のことで消耗する。
 そうした状況を改善する、あるいは克服するという方法もあるとおもうが、「逃げる」のもあり。ありというか、正解の可能性が高い。

 また「『メンタルから変えていく!』じゃなく、ペンを替える」もいい話だ。

《津村 根本から変える必要は全然なくて、ちょっとしたことを変えて三日もちました、次の変化で七日もちました……って、そういう小さな工夫をずっと続けながらちょっとずつしのいでったらいいと思うんですよね。
 深澤 だいたい朝起きて一日終わるのを繰り返すだけでも大変ですよ。まず一日をごまかし、一週間をごまかし、一か月をごまかして生きていくだけで十分》

 メンタルもそうだし、生き方はそう簡単には変えられない。それより日々の「小さな工夫」の積み重ねのほうが有効というのはそのとおりだとおもった。

《深澤 自分自身がマシにならなくてもいいですよね。環境がよくなったとか、小さな「マシ」づくりを繰り返すことで、結果的に自分の本体がマシになることもある、っていうぐらいでいい》

 これは至言。

2017/01/15

神吉拓郎のこと

 土曜日、西部古書会館の大均一祭(初日)に行って(十三冊買う)、夕方、西荻窪の月よみ堂で大竹聡さんと『神吉拓郎傑作選』刊行記念のトークショー。この間、神吉拓郎の短篇とエッセイを交互に読み続けていたのだけど、どれもおもしろい。中年の文学だとおもった。

 当日は、秘蔵の『ベースボール・ライフ』(球団 東京ライターズ倶楽部)という神吉拓郎が所属していた草野球チームのミニコミの合本(1958年〜1992年)を持っていった。ただの古本自慢。はらぶち商店の値札がついている。西部古書会館で買った。

 大竹聡さんが選んだ神吉拓郎の短篇は、主人公が電車に乗っているシーンが多い。
 会社員がふらっと途中下車する。そこから小さな物語がはじまる。『神吉拓郎傑作選』の冒頭に入っている「つぎの急行」は大好きな短篇だ。

 すこし前に神吉拓郎著『東京気侭地図』(文藝春秋)を読み返した。この本には「阿佐ヶ谷駅南口」というエッセイが収録されている。

《知らない駅を下るのは、楽しい。
 高円寺と阿佐ヶ谷は、中央線の駅のなかでは、あまり下りたことのない駅だった》

 知らない駅といえば、わたしは高円寺から地下鉄メトロの東西線直通の電車によく乗る。その中に東葉勝田台駅行きの電車がある。
 東葉勝田台駅ができたのは一九九六年。ずっと行ってみたいとおもいながら、実行していない。今年の目標にしよう。

2017/01/11

古書展始め

 土曜日、今年最初の西部古書会館。初日に行くのは久しぶり。本が重くかんじるほど買うのも久しぶり。
 二十代、三十代といろいろ続かなくなってやめたことがいろいろあるが、西部古書会館通いは続けたいことのひとつだ。十九歳から四十七歳の今まで、旅行中をのぞけば、ほぼ西部の古書展には足を運んでいる。

 古書会館では、旅創刊65周年記念『昭和の旅』(一九八九年)を買った。武者小路實篤の「旅」(昭和二十二年)が再録されている。

《旅は今迄知らなかつた土地にゆくのが、たのしみなものだ。知ってゐる処へ行つて知つてゐる人に逢うのも、勿論悪くないが、知らない土地を見るのも、実にたのしみなものだ。まだ自分はどうしてもこゝに住みたいと思ふ処に出逢はない》

 年々、知らない土地に行く機会が減っている。
 古本屋通いもそう。わたしは決まった店に行くことが多い。知っている店のほうが、本が探しやすいからだ。
 さらにいうと、ほしい本を買うだけなら、インターネットの古本屋で買うほうが早い。効率がよいこと、早いことに意味があるのかないのか。
 余裕をもって仕事をするには、それ以外のことを効率よく片づけるか、やることを少なくするか、そのどちらかの選択をせまられる。

 自由で身軽であることを望みながら、その状態を持続するには、ある意味、ストイックにならないといけないのは矛盾しているような気がする。万事矛盾。

 ぐだぐだ怠け、ぐだぐだ考えることも、この先、続けたいことのひとつだ。

2017/01/06

新年

 年末年始、三重に帰省する。父が亡くなってから、はじめての正月。

 元旦は午前中、コメダで珈琲。昼から久しぶりにイオンモール鈴鹿(ベルシティ)に行ったのだが、人が多すぎてすぐ出る。その隣のイオンタウン鈴鹿へ。ラーメンを食べて、ニトリと地元農産物直売わくわく広場などに行く。
 二日、墓参りのあと、神戸城(神戸公園)に行く。いつの間にか、郷里の家の近くから神戸城付近まで遊歩道が整備されていた。鈴鹿に滞在中、一日平均二万歩くらい歩く。今年の正月は暖かかった。

 昨年の暮れ、岩明均の『寄生獣』、年明け、東京に帰ってきてから荒川弘の『鋼の錬金術師』を読む。
 どちらもラストの記憶がぼんやりしてきたので、あらためて通読した。ときどき読み返さないと忘れてしまう。

 録画していた年末のプロ野球の戦力外通告の番組を観る。
 加齢、ケガ。スポーツの世界は厳しい。フリーランスの生活も楽ではない。いつまで「現役」を続けられるのか。新年早々そんなことばかり考えている。

 四日、神保町。神田伯剌西爾、小諸そば。電車の中で芝木好子著『春の散歩』(講談社文庫)を読む。

《私の暮す町高円寺へ初めて来たのは昭和十五年頃である。新宿から四つ目の駅は郊外のちょっとした町で、商店街をぬけると静かな住宅地が幾筋も伸びていた。今もこの環境はあまり変らない》(わが町)

《東京の中央線沿線に住む私は、こまごまとした住宅の並ぶ横町に四十余年も住んで、朝夕、犬をつれて散歩してきたから、路地のことならなんでも知っている》(横町の散歩)

 芝木好子が高円寺にいたのを知ったのは最近のことだ。「横町の散歩」の初出は読売新聞(昭和六十年三月三十日)である。亡くなったのは一九九一年八月。享年七十七。家は、高円寺と阿佐ケ谷のちょうど中間くらいにあった。
 わたしが高円寺に暮らしはじめたのは一九八九年の秋、かれこれ二十七年。今でも道に迷う。

『春の散歩』を読んでいたら、こんな記述もあった。

《締切の迫る仕事を早く始めなければならないのに、ぎりぎりへ来てから本を読み出すことがある。なにも今読まなくても、と自分でも思うけれどペンを持つ気になれないで、一日読みふける。これは私だけかと思ったら、中野重治氏の随筆にも同じことが書いてあった》(相聞歌)

 中野重治の随筆が気になるが、これから仕事する。