2016/12/06

強情さが必要(六)

『尾崎一雄対話集』(永田書房、一九八一年刊)に三島由紀夫との対談が収録されている。
 この対談で三島由紀夫は「これは『解説』にも書いたんですけど、志賀さんにしても、尾崎さんにしても、なまけ者の作家ですね、失礼ながら。なまけ者という意味は、時間を自然に流れさせるということ、時間をけっして人工的に扱わないということなんで、これは自分が生きるということですよ」と語る。

 そして尾崎一雄の「なまけ者の精神」を「たいへんな技術」と絶讃し、「尾崎さんは絶対にノイローゼにならない人だと思う(笑)。そういう点では精神の強い人だ」という。

 三島由紀夫の『作家論』(中公文庫)でも「尾崎一雄氏は、呑気なようでいて呑気でない、感傷をちらりとも見せない、したたかな作家である」「だらしないようでいて、浪曼派的自己破壊に陥らず、ストイックできゅっと締まっている」「ユーモラスかと思うと、油断のならない警抜な目が光り、宿命論者かと思うと、実によく『生きること』を知っている」と述べている。この文章は、対談の中で「これは『解説』にも書いたんですけど」の「解説」と同じである。

《怠け者であること、すなわち時間をビジネスライクに機械的に使わず、時間というものをなるたけ自然に使おうとする心性、およびそれに伴う生活態度は、私小説家たるの必須条件と言ってよい。もし時間が人生乃至生活を規制するように動きだしたら、そのとたんに生はそのありのままの存在感——私小説のエッセンスというべきものを——を喪う。(中略)つまり自分の人生が「生きる」ということ以外の意味を持たぬようにたえず留意すること。この技術は時として狡知にまで及ぶが、依然として彼の誠実さの最後の実質である》

 もうすこし簡単にいえば、「無理をしない」ということ、自分のペース(リズム)で淡々と生きること。その生き方は「なまけ者」に見えて「たいへんな技術」である——というのが三島由紀夫の見解だ。

 尾崎一雄は三島由紀夫との対談中、「追い立てられないと走り出さない、凡人である証拠ですよ」「私なんか病気をごまかしてきた。そのごまかしが、あとから考えればうまかったんですね」と語っている。おそらく、こういう感覚も三島由紀夫には「たいへんな技術」に見えたかもしれない。

 わたしが『尾崎一雄対話集』を本棚から取り出したのは、別の作家との対談を再読しようとおもったからなのだが、つい寄り道してしまった。

(……続く)