2016/06/13

ライクロフト

 先月末、『ギッシング初期短篇集 「親の因果が子に報う」他8篇』(松岡光治編訳、アティーナプレス)が新刊で出ていることを知り、注文した。ギッシングが生前刊行した本は一冊だけ……とおもいこんでいたのだが、勘違いだった。記憶はあてにならない。

 光文社古典新訳文庫の『ヘンリー・ライクロフトの私記』(池央耿訳)も読みたくなった。新訳のライクロフトさんのほうが難しい言葉をたくさん使っている。百年以上前の作品であるが、本を買うために食事を減らしたり、コートを売っても悔いはないと考えたりしていた貧乏時代のライクロフトの生活は、今の古本好きにも通じるところがある。途中、アイザック・ウォルトンの名前が出てくる。『釣魚大全』の作家である。ライクロフトはウォルトンの『フッカー伝』を激賞している。百年以上前の小説の中に、すこし前に自分が読んだ作家の名前と出くわすのは不思議な気分だ。

 主人公のライクロフトは、売れない作家で新聞、雑誌に雑文を書いていた(旧訳では書評の執筆もしている)。
 五十歳になって友人の個人年金を相続し、悠々自適の田舎暮らしをはじめる。ところが、ギッシング自身は四十六歳で亡くなっているし、晩年まで貧しかった。だから『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、架空のライクロフトなる人物にギッシングが自分の理想を託した小説ともいわれている。いっぽう生活の心配のなくなったライクロフトは、すこし偏屈で融通の効かないところもある。また彼の晩年の幸福は、作家として成功して得たものではなく、ただの偶然、運の産物だ。だから「私記」の中で、どんなに同時代の作家や評論家や出版人を批判しても、ちょっと説得力がない。

 ライクロフトの私記は、晩年のギッシングの理想を綴った小説、巧みな自然描写が魅力の小説という形で読んでいいのかどうか。苦労人の作家が、生活の心配がなくなったあとの心境の変化を綴った小説のようにもおもえる。
 そんなふうに自分の読みが問われるところも含めて、この小説をおもしろい。

 またこの「私記」の中には、ライクロフトの理想も綴られている。

《いつの場合も常識を標に人生の階梯を着実に登り、行い正しく、分別があって奇矯なふるまいはせず、自ずから周囲の尊敬を集め、めったなことでは他力を仰がず、自身は人を助けて、人格円満な上に思慮深く、幸せな人生を送っている人々。何と羨ましいことだろう》

 ライクロフトはそうでなかった。子どものころから、苦い失敗を繰り返してきた。まわりからも「要領が悪い」「間抜け」と叩かれた。自身の「平衡感覚」の欠落を自覚している。

 この一節を綴った文章のすこしあとにゲーテの言葉が引用されている。

《人は青春時代に憧れたものを晩年になって手に入れる》

 たしかにライクロフトはそのとおりになった。彼は好きなだけ本が読める生活に憧れていた。これはギッシングの願いだったかもしれない。