2016/12/30

よいお年を

 今年もあとすこし。仕事、終わったんだか終わってないんだが、すでに来年しめきりの原稿を書きはじめている。

 くらもちふさこの『花に染む』の八巻を読んでいたら、近鉄の名古屋駅から宇治山田駅に向かうシーンがあった。近鉄の特急が漫画で描かれているのを見たのは、はじめてかもしれない(他にもあるのかなあ)。車内で食べているのは天むす弁当か。この巻には同じ花染町が舞台で登場人物が重なっている『駅から五分』も収録されている。昔からひとつの町に暮す人々が交錯する物語が好きだ。

 世田谷ピンポンズさんが高円寺に来て、コクテイル、ペリカン時代をハシゴ。ヨコイタカヒロさんの展示を見る。今回はジャズをモチーフした墨絵なのだが、墨のにじみもふくめて、計算できる部分と計算できない部分が絶妙に混ざり合っているかんじがおもしろかった。
 さらに飲んでいたら、ペリカン時代の増岡さんがヨコイさんの展示を見に来る。こういう日があると高円寺にいてよかったとおもう。

 自分が選んだ町に住み、自分が選んだ仕事をする。自分の生き方を自分で決めたかった。それ以外のどんな生き方をしたとしても、うまくいかない自信があったからだ。

 どの卵を買うかで悩むひまがあったら、とりあえず、卵を買って、それをどう料理するかで悩んだほうがいい。……という言葉が天啓のごとくひらめいた。今、酔っぱらっている。

2016/12/23

『神吉拓郎傑作選』トークイベント

『神吉拓郎傑作選』(国書刊行会)刊行記念トークイベント 大竹聡×荻原魚雷「神吉拓郎を語ろう!」開催。

◆出演:大竹聡、荻原魚雷
◆日時:2017年1月14日(土)
    17:00〜18:30 (16:30開場)
   ※終演後、会場にて懇親会を予定しております。
◆会場:古本バル 月よみ堂
    東京都杉並区西荻南2-6-4-103
    TEL 03-6454-2037
    Facebook:https://ja-jp.facebook.com/tsukiyomidou/
◆入場料:1500円(ワンドリンク付き)
    2杯目以降はキャッシュオン形式でご利用いただけます。
◆定員:20席
◆予約方法:メールでのご予約をお願いいたします。
    件名に「神吉拓郎トークイベント申込み」、
    本文に「お名前」「人数」「電話番号」をお書きいただき
    tsukiyomidou@gmail.comまでお送りください。

 詳細は国書刊行会のホームページを参照してください。
http://www.kokusho.co.jp/news/2016/12/201612221538.html

 わたしが神吉拓郎を知ったのは、色川武大のエッセイだったか、山口瞳のエッセイだったか。とにかく色川武大と山口瞳が褒めていた。読みはじめてすぐ夢中になった。最初に読んだのは『ブラックバス』(文春文庫)である。大人のほろ苦小説、さらっと書いているけど、すごく緻密。それから『男性諸君』(文春文庫)、『たたずまいの研究』(中公文庫)などのエッセイをひまさえあれば読み返すようになった。
 二十代のころ(今もだが)、わたしはいろいろなことに無自覚で人間関係における失敗をくりかえしていた。神吉拓郎のエッセイは、大人の男としての立振舞い、気づかいみたいものをさりげなく教えてくれる。
『神吉拓郎傑作選』の2巻「食と暮らし編」の「お洒落」もそうだった。

《一、相手の距離、部屋の広さなどによって、話し声の音量に、実に適当なコントロールが出来》

《一、百知ってることは、七十まで話し(百知っいてるのに、三十までで留めるのは、相手に失礼である)》

《一、つねに表情を涼しく(または暖かく)保つようにつとめ》

《一、挨拶がわりに、太ったとかヤセたとか、顔色が悪いとかいわず》

《一、他人の趣味には極めて寛大で》

……といった「お洒落」の条件(まだまだたくさんある)をあげ、「もちろん私は全く失格である」と綴っている。
 神吉拓郎の短篇も涼しさと暖かさを保ちながら、百のうち七十くらいの加減でいつも書いている印象がある。

 イベント当日はちょっと珍しい神吉拓郎の資料を持っていきたいとおもっている(忘れてなければ)。

2016/12/19

三つの「み」

 一ト月ほど前、鮎川信夫のコラムを再読して、次の箇所を引用した。

《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ》

 このブログを書いたあと、ひさしぶりに野坂昭如の雑文を読み返したいとおもっていたところ、野坂昭如著、坪内祐三編『俺の遺言 幻の「週刊文春」世紀末コラム』(文春文庫)が刊行された。わたしはコラムやエッセイは一気に読むのだが、この本はもったいなくて、外出したとき、電車と喫茶店で数十頁ずつ読んでいる。だからまだ読了していない。
 野坂昭如の『週刊文春』でコラムを連載していた一九九〇年代後半、わたしは商業誌の仕事を干されて、社会どころか同時代にたいする関心を失っていた。野坂昭如の本は古本で七〇年〜八〇年代のものはちょくちょく買っていたのだが、九〇年代の文章はほとんど知らない。坪内さんの「編者解説」によれば、二〇〇二年の『文壇』まで「野坂さんは二〇世紀末にスランプがあった」とある。

《当節、見るもの聞くもの、すべてが怪態くそ悪い、年寄りのひがみ、そねみ、ねたみと判っているが、もともとぼくの雑文は、この三つの「み」が基本となっている、ほぼ同年代の、石原、開高、大江が小説家として脚光を浴びていた第一次安保の頃、ぼくは新宿文化演芸場で漫才をやっていた、ラジオ、TV、CMソング作詞にうんざりしての宗旨変え、三つの「み」は当然で、それは才能がないせいなのだが、やはり芥川、直木賞発表の時期、悪酔いする》(「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」一九九五年十二月七日)

 このコラムに続く「司馬さんは『国民作家』なんてありふれた存在ではなかった」(一九九六年二月二十九日)では、九四年六月、神吉拓郎、九四年七月、吉行淳之介、九五年八月、山口瞳、九六年一月、結城昌治、九六年二月、司馬遼太郎……と野坂昭如と同時代(やや年上)の作家の死について綴っている。

 九〇年代半ば、戦中派の人たちの訃報が続いた。記憶が甦る。クロニクルと回想がいりまじる雑文らしい雑文だ。

2016/12/14

練馬と阿佐ケ谷

 火曜日、昼すぎ、バスで練馬に行く。『フライの雑誌』の堀内さんと駅前で待ち合わせ……のつもりが、わたしは西武池袋線、堀内さんは地下鉄の駅にいた。
 練馬駅で一信堂書店の閉店(十二月十五日)を知る。昔、自転車で古本屋をまわっていたころ(三十歳くらいまで)、野方〜練馬の古本屋はちょくちょくのぞいていた。

 練馬では「Catch&Eat」という釣り堀兼カフェでホンモロコ釣り。釣ったら、天ぷら&唐揚げにしてその場で食べることができる。
 わたしは一時間で二匹。堀内さんは十匹以上釣っていた(それでも不満そうだったが)。
 昼からハイボールを飲みながら、釣り糸をたれる。エサ、すぐとられる。むずかしい。忙しい。ホンモロコはうまかった。

 そのあとバスで高円寺。古本屋と喫茶店をまわって、ガード下を歩いて阿佐ケ谷に行く。阿佐ケ谷も個人営業の喫茶店がずいぶん減った。いっぽう新しい喫茶店もできていて、堀内さんおすすめの店を教えてもらう。

 フライの雑誌の「あさ川日記」(十二月八日)の「阿佐谷の金魚も揺れる。」にも書いてあったけど、阿佐ケ谷の「吐夢」が来年三月で閉店する。堀内さんと知り合ってからは阿佐ケ谷の釣り堀に行ったあとは「吐夢」で飲むのがいつものコースになっていた(そのあと高円寺の飲み屋にハシゴすることも)。
 夕方六時すぎ、吐夢に向かうと準備中だったので、また喫茶店に入る。『フライの雑誌』最新号(特集「ベストなベスト」)の裏話などを聞く。釣りの道具のコレクターの世界も奥が深い。古いルアーなどは数百万円もするものがあるらしい。
 吐夢で『フライの雑誌』の執筆者で詩人で編集者の四釜裕子さんも合流する(名前はずいぶん前から知っていたけど、はじめて会う)。
 楽しい酒だった。

2016/12/12

ギンガギンガ

 入江喜和『たそがれたかこ』(講談社)の八巻を読んでいたら、主人公のたかこが大ファンのミュージシャンがDJをしているラジオ番組で「——あ ハイ 曲いきますか」といった後、The ピーズの「クズんなってGO」をかけるシーンがあった。

 この漫画に「“世の中とうまくやっていけないけどなんとか生きてる”先輩」という言葉が出てくる。高円寺にはそういう先輩がたくさんいる。“世の中の何の役にも立たないことばかりやっているけどなんとか生きてる”先輩も多い。
 四十五歳でたかこがはじめてライブに行くシーンもよかった。

 日曜日、今年も高円寺ショーボートでギンガギンガVol.11。ペリカンオーバードライブ、オグラ&ジュンマキ堂バンド、しゅう&宇宙トーンズを見る。いつものことだが、すごいものを目の当たりにした気分になる。いいライブを見ると「ここにいてよかった」と自分の過去をすべて肯定したくなる(その効果がもっと長続きすればいいのだが)。

 二十代のころは、四十代の後半になって、ライブハウスで飲んでいる自分の姿を想像できなかった。同じバンドやミュージシャンを十年、二十年と見続けられるともおもってなかった。いろいろあったなあ。

 三時間以上のライブで体力が底をつく。打ち上げ前にいったん抜けて、家で横になっていたらそのまま寝てしまった。

 もう今年が終わったような気がする。

2016/12/08

日常

 水曜日、神保町。夕方、小諸そばでから揚げうどんを食べようとおもったら、うどんが品切だった。期間限定の味噌煮込みうどんが売れたせいかもしれない。ひさしぶりにそばを食う。小諸そば、うどんとそばでつゆ(だし)がまったくちがう。小諸そばのうどんのだしは関西風(さぬき風ではない)で好みの味なのだ。そばもうどんのだしで食いたい。邪道か。
 そのあと新刊書店と古本屋をまわる。岩波ブックセンターは神保町に行くとかならず寄る店だった。灰色のブックカバーも好きだった(型くずれしにくい)。神田伯剌西爾でマンデリン。仕事せず、だらだらすごす。

 木曜日、珍しく午前中に目が覚めたので、西部古書会館の歳末赤札古本市の初日に行く。釣りの本、野球の本、あとちょうど探していた大きさの皿(未使用)が売っていて、悩んだ末に買う(五百円)。古書会館で本以外のものを買うのはひさしぶりだ。
 釣りの本はジャック・H・N・ヘミングウェイ著『青春は川の中に フライフィッシングと父ヘミングウェイ』(沼沢洽治訳、TBSブリタニカ、一九九〇年刊)。ジャック・ヘミングウェイは、アーネスト・ヘミングウェイの長男でフライ釣り師としても知られていたらしい。
 ジャックは釣りのガイドの仕事をしていたとき、全盲のピアニストにフライフィッシングを教えたこともあった。

《フライ竿の支度をし、ウェイダーを着せてあげ、シルヴァー川の下流の入りやすい地点を選んで水に入った。ここは小型だがのんびりしたトラウトがおり、ウェットフライを流すとかかること請け合いである。私のコーチをよく守り、ほどほどにキャストした彼は、じきに小さなレインボーをかけ、引き寄せて私の手の届く所まで持って来、私が水から上げると、網の目ごしに魚を撫でてから、放してやってくれ、と言うのだった。(中流)サンヴァリーへの帰途、釣りの感想を聞くと、人生最高の経験だったが、一番楽しかったのは水に入ったことで、ウェイダーごしに流れを足に感ずる快さがすばらしい、と言う。風呂桶の中か、せいぜいプールでしか、水中を歩いたことがなかったのである》

 この話を読めただけでもよかった。でもジャックは釣りの初心者にけっこう厳しい。

 先月、改装中だったOKストアが復活したが、中華めん(棒状のラーメン。スープなし)が売っていない。でも、あいかわらず安い。

2016/12/07

強情さが必要(八)

 三十歳前後の数年間、わたしがもっとも熱心に読んだ作家は尾崎一雄である。その後も折りにふれて読み返している。何度も読むのは尾崎一雄の生き方や考え方にしっくりくるものがあったからだ。

 尾崎一雄の「亡友への手紙」に次のような言葉がある。

《大体こういう場合、僕は、その穴からスタコラ逃げだすことにしている。或いは、触らぬ神にたたりなし、と横目でちょっと見て通り過ぎようとする。その手は喰わない、と肚に力を入れてみたりする。僕が俗物だからだ》

《僕はスタコラ逃げ出したいんだ。厭なんだ僕は。僕は、そんな穴に入るのは厭だし、いわんやどこまでもおっこちてゆくなんて、真っ平なんだ》

 この「穴」が何かはあえて説明しない。
 深刻になる、真面目に考えることが、かならずしも、よい解決策ではない。スタコラ逃げる。興味本位で「穴」をのぞきこむこともしない。

『尾崎一雄対話集』の「現在・過去・未来」と題した三浦哲郎、秋山駿、平岡篤頼との座談会で、尾崎一雄が「三島っていうのは本当に頭がいいと思いますね」という。ただし「三島は勉強しすぎですよ。頭がいいし、よくわかるんだけど、自分が傑作を書こう、偉くなろうという、傑作意識に刺激されて無理してるの」とも……。

《僕は三島君てのは、非常に反発するところがありますけども、頭がよくてぱっとわかるというところは非常に敬服してますよ。ただあんまり野心が強すぎるために背伸びしすぎて、それで折れちまった、そういう人ですよ》

 尾崎一雄の思考はどこかぼんやりしている。自分のことを「凡人」といえる強がらない強さみたいなものがある。
 文学とは、私小説とは……その答えはわからない。答えが知りたいわけでもない。「現在・過去・未来」という座談会では「私小説は駄目だ」「文壇が沈滞する」と攻撃されていた時期のことを尾崎一雄が回想している。

《僕らは私小説でなきゃいけないとはけっして思っていなかったんですよね。だけどあったっていいじゃないかと。牡丹の花もあるし、桜の花もあるし、野菊だってあるし、いいじゃないかと。そのものとしていっぱいに咲いていればいいじゃないかと。僕はそう言うんですよ》

 また「昭和文学奈良時代」では、学生時代に敬愛する志賀直哉を片上伸に批判されても尾崎一雄はまったく屈しなかった。

《理屈でいくら片上さんにやられても僕はいいと思っているんだから。けれどもこっちはそれを理屈でやり返すことはできないんだ。理論はなんにもわからないんだから。だけれどもいいと思っている、これはしようがないです。知情意というのがあるんだ。知は片上さんにかなわないですよ。けれども志賀さんのいいところを感じる力は、おれのほうがある。正確だと思っているからそれは納得しなんですよ》

 尾崎一雄にとって志賀直哉は批評の対象ではなかった。作品を読み返し、養分にし、自分が文章を書き続ける力にした。何をいわれても、自分は「いいと思っている」気持はゆるがない。私小説にかんしても「あったっていいじゃないか」の一言であらゆる批判に対抗できた。

《他人の批評に右往左往してゐたら何も出来ないことは、絵も文章も同じだな》

 怠けたり、時にはスタコラ逃げたりしながら「いいと思っている」ことをやり続ける。
 わたしもこういう人生を送りたい。

(……とりあえず、完)

2016/12/06

強情さが必要(七)

 寄り道ついでに『尾崎一雄対話集』を読んでいて、気になったところをもうすこし紹介したい。
 尾崎一雄と安岡章太郎の対談(昭和文学奈良時代)の冒頭——。

《安岡 尾崎さんを悪人だというのは、だれが言ったんでしたか。
 尾崎 辻潤だよ。失礼なことを言いやがる》

 このエピソードは尾崎一雄著『あの日この日(下)』(講談社)の「辻潤の一喝『君は悪人だ!』」に綴られている。
 あるとき志賀直哉、辻潤、尾崎一雄が飲んでいたら、しだいに酔っぱらった辻潤の独演になった。

《するうち、突然、辻氏が私の顔を正面から見て、
「君は悪人だ!」と声を張つた。
「え?」
「悪人だ、君は」
「どうしてでせうか」
「君は酒を飲んでもしやアゝとしてゐる。その態度で判る。悪人だ」》

 若き日の尾崎一雄は辻潤の言葉にうろたえ、顔が真っ赤になった。そのあと辻潤の尺八を聴いた。

《辻潤といふ異色ある人に会つたのは、その時だけである》

 尾崎一雄は辻潤の熱心な読者だったが、「結局、氏のアウト・ロウ振りにくすぐられながらも、これではいけない、といふ気になつてゐた」。

《とにかく、辻潤の尺八は、よかつた》

 それはさておき、辻潤に「悪人」といわれた逸話から、安岡章太郎は、尾崎一雄に「悪人じゃないけれども、見掛けによらず強いところがありますね」と語る。

 それからしばらくして昔の作家の「よゆう」に話題が変わる。

《安岡 志賀さんの、たとえば尾道へ行つて客観的に見ればふらふらと遊んでいたわけでしょう、それが何年間も……。ああいうことはちょっといまどんな金持ちでもできないな。
 尾崎 だって、家賃溜めるとか、酒屋とか米屋だって盆と暮れに払えばいいという時代でしょう。いけなければ夜逃げしてしまうということができた時代だからね。いま現金払いでしょう》

(……続く)

強情さが必要(六)

『尾崎一雄対話集』(永田書房、一九八一年刊)に三島由紀夫との対談が収録されている。
 この対談で三島由紀夫は「これは『解説』にも書いたんですけど、志賀さんにしても、尾崎さんにしても、なまけ者の作家ですね、失礼ながら。なまけ者という意味は、時間を自然に流れさせるということ、時間をけっして人工的に扱わないということなんで、これは自分が生きるということですよ」と語る。

 そして尾崎一雄の「なまけ者の精神」を「たいへんな技術」と絶讃し、「尾崎さんは絶対にノイローゼにならない人だと思う(笑)。そういう点では精神の強い人だ」という。

 三島由紀夫の『作家論』(中公文庫)でも「尾崎一雄氏は、呑気なようでいて呑気でない、感傷をちらりとも見せない、したたかな作家である」「だらしないようでいて、浪曼派的自己破壊に陥らず、ストイックできゅっと締まっている」「ユーモラスかと思うと、油断のならない警抜な目が光り、宿命論者かと思うと、実によく『生きること』を知っている」と述べている。この文章は、対談の中で「これは『解説』にも書いたんですけど」の「解説」と同じである。

《怠け者であること、すなわち時間をビジネスライクに機械的に使わず、時間というものをなるたけ自然に使おうとする心性、およびそれに伴う生活態度は、私小説家たるの必須条件と言ってよい。もし時間が人生乃至生活を規制するように動きだしたら、そのとたんに生はそのありのままの存在感——私小説のエッセンスというべきものを——を喪う。(中略)つまり自分の人生が「生きる」ということ以外の意味を持たぬようにたえず留意すること。この技術は時として狡知にまで及ぶが、依然として彼の誠実さの最後の実質である》

 もうすこし簡単にいえば、「無理をしない」ということ、自分のペース(リズム)で淡々と生きること。その生き方は「なまけ者」に見えて「たいへんな技術」である——というのが三島由紀夫の見解だ。

 尾崎一雄は三島由紀夫との対談中、「追い立てられないと走り出さない、凡人である証拠ですよ」「私なんか病気をごまかしてきた。そのごまかしが、あとから考えればうまかったんですね」と語っている。おそらく、こういう感覚も三島由紀夫には「たいへんな技術」に見えたかもしれない。

 わたしが『尾崎一雄対話集』を本棚から取り出したのは、別の作家との対談を再読しようとおもったからなのだが、つい寄り道してしまった。

(……続く)

2016/12/04

強情さが必要(五)

「自分がやりたいことだけでなく、相手にもプラスになるような仕事のやり方」云々の話が途切れたままだった。

 二十代のころのわたしは、やりたい仕事ばかり選んできたわけではない。毎回、自分のやりたいことだけやって、お金がもらえるともおもっていない。厳しいスケジュールの仕事も引き受けることもあったし、誰かが落とした原稿の代わりに突貫工事のような穴埋め記事を書くこともあった。

 出版界の景気がよかったころは、二回一回くらいは好きに書かせてもらえたのが、それが三回に一回になり、五回に一回、十回に一回といったかんじで、しだいにやりたくない仕事ばかりやらされるサイクルに陥っていた。

 古本屋に行く時間や本を読む時間や酒を飲む時間を削って、やりたくない仕事ばかりやる生活は耐えられなかった。それでアルバイトで生活費を稼ぎ、金にならないけど、好きなことが書ける仕事だけをやるようになった。
 こうしたやり方が正しいとはおもっていない。でも、わたしには合っていた。だから続けられた。

 二〇〇〇年代になると、フリーター・バッシングが激しくなった。わたしはフリーターという働き方にいいもわるいもないという考えだ。本人が合っているとおもうのであればそれでいい。すべての人が就職し、フルタイムで働くことをよしとする社会のほうがおかしい。自分の目には狂っているように見える。

 定職につかず、ふらふらしていると「そんな生活、いつまでも続かないぞ」と忠告される。二十年前にそういわれた。

 わたしは寝たいときに寝て、好きなだけ本が読める生活を望んでいた。その生活を続けるためなら、お金のかかる趣味とか老後の安心とかはいらないとおもっていた。
 正しいかどうかはわからないが、やりたいことと楽しいことはわかる。やりたいことと楽しいことがわかっているなら、あとはどう実現させるか。わたしはそればっかり考えていた。

(……続く)

2016/12/03

強情さが必要(四)

《文学者には、苦悶と冒険が必要だと云はれるがそれはその通りだ。私は、平凡な庶民生活の中に、それがいつぱいあることに気づいてゐる。家常茶飯事の中に、危機と冒険がある。それを単に平凡で退屈だと見るのは、見る方の感度が鈍いのである。われわれの生活も、生きると云ふことも、生そのものも、謂はば「一寸先は闇」なのだ》(「異議あり」/尾崎一雄著『わが生活わが文學』)

 ある座談会で、自分の作風を「保守的」「反逆精神がない」と批判されたことにたいし、尾崎一雄はそう反論した。ちなみに、この座談会で三島由紀夫は終始、尾崎一雄を擁護している。

 尾崎一雄の家は、神主の家筋で、父は神道系の学校の先生をしていて、子どものころは厳格な躾けのもとに育てられた。

《私のやうに厳重なカセをはめられてゐた者には、それを脱するだけですでに大仕事だ》

 厳格な家で育ち、文学の道を志し、無頼放蕩の日々を送り、親類縁者のあいだで鼻つまみになり、「逃亡奴レイ」のような生活をしていた時期もある。しかし、その生活を改める。

《「逃亡奴レイ」がまた鼻について来たからである。そいつがまた一つの型に思はれて来て、これではつまらんと気づいたのである》

《今では、平凡で善良な庶民の一人として、その中に生きることを心がけてゐる》

 尾崎一雄は、放蕩無頼の生活を立て直していく過程をくりかえし小説に書いている。

『わが生活わが文學』の「気の弱さ、強さ」では、「独自の作風をうち出した作家は、他人の云ふことなど気にしない、あるひは鼻であしらふ一面を有つてゐると思ふ」と綴っている。

(……続く)

2016/12/02

強情さが必要(三)

 尾崎一雄は、友人や先輩の批評に右往左往してしまう画家のSにたいし「やはり、強情さが必要だと思ふ」といった。この場合の「強情さ」について、もうすこし考えてみる。

 わたしはよく道に迷う。地図を見ず、知らない土地でもまっすぐ歩き続けてしまうからだ。いつまで経っても目的地に着かない。同じところを行ったり来たりする。完全に迷っているにもかかわらず、人に聞こうとしない。
 今はスマホや携帯電話があるから、道に迷っても……残念ながら、わたしはスマホや携帯を持っていない。しょっちゅう道に迷うくせに。「強情さ」とはちがうかもしれないが、多かれ少なかれ、他人の忠告に耳を傾けない人はすこしズレたところがある。

 仕事にしても、自分のやり方で進めてしまい、途中から共同作業になってたとき、誰とも合わせられないという経験をずいぶんした。わざとそうやっているのではなく、ついそうなってしまうのだ。まちがっていても、なかなか認めない。そこに「強情」の「強情」たるゆえんがある。
 長年、自分の時間をすべて、自分のために使いたいとおもっていた(今だって、できればそうしたい)。ひとりっ子だから、というと、当然、そうではないひとりっ子もいるわけだが、自分がそういう人間になったのは、家庭環境の影響が大きいとおもっている。
 学校から帰ってきたら、家ではずっと好きなことができた(あまりにもやりすぎると注意されたが)。そのまま上京して、フリーライターになっても、その習性は変わらない。それが当たり前だとおもっていた。

 画家Sは「自分の仕事を批評されると、それをそのまま受け入れる」。その結果、いつまで経っても自分の作風のようなものを確立できずにいる。こうした批評に右往左往してしまう人は「強情さ」ではなく、「受け流す」感覚を身につけたほうがいいのではないか。
 誰にたいしても、きつい言い方をする人がいる。あるいは相手によって言うことや態度がコロコロ変わる人がいる。それはその人の癖だ。その癖を差っ引いて話を聞くようにする。同時通訳の人が、そのまま伝えたら相手が激怒するような言葉を絶妙に言い換える作業に近いかもしれない。面倒くさかったら、聞いているフリをする。何でもかんでも真に受けないこと。

 わたしが尾崎一雄を読みはじめた二十代後半は商業誌の仕事を干され、プータローをしていた。まわりからも説教という名の忠告を受けた。
 当然のように無視を決めこんでいたのだが、「自分がやりたいことだけでなく、相手にもプラスになるような仕事のやり方もおぼえたほうがいいよ」という言葉には考えさせられた。ただし、そのやり方はわからなかった。

(……続く)

2016/11/29

強情さが必要(二)

《他人の批評や忠告に耳を傾けるのはいいが、それにコヅキ廻されてゐては、元も子も無くなつてしまふ》

 長年、この問題について考え続けていると書いた。わたしはそもそも批評や忠告に耳を傾けないことのほうが多かった。それでよく怒られた。
 だから酷評されて、書くのをやめてしまった新人作家の人の気持がピンとこなかった。

 やや唐突だが、野球の話になる。

 監督やコーチの助言を無視して、自己流を貫く。それで大成した選手もいるにはいるが、それによって干されてしまう選手もいる。
 フォームを変えろ。コンバートしろ。それでうまくいくこともある。それで失敗した場合、自己責任だ、運だ……というところで話を終わらせてしまっていいのか。

 癖を矯正する。型にはめることで安定することもあれば、凡庸になってしまうこともある。変な投げ方だけど、だからこそ打ちにくいみたいなこともある。

 経験が豊富なコーチはその投げ方だと肩や肘に負担がかかり、ケガをしやすいということがわかっている。ケガを防ぐために、投げ方を変えてみてはどうかと助言する。選手は納得できなければ、「いやだ」と突っぱねてもいい。
 問題はまだ結果らしい結果を出していない選手の場合だ。それでもコーチに逆らえるか。忠告を無視したら、クビになるかもしれないという状況でも自己流を貫けるか。むずかしいとおもう。

 自分にとって大切なことは何か。
 どんな形でもいいから一刻も早くレギュラーになることか。理想のフォームを追求することか。

 そういうことを考えていると折衷案みたいなものも出てくる。レギュラーになって結果を残してから、理想のフォームを追求すればいいではないか。これは反論しづらい。
 新人作家であれば、「まず売れるものを書けよ。そうすれば好きなことができるんだから」といわれる。

 柔軟がいいのか、強情がいいのか。人によりけりとしかいいようがない。最後は自分の勘を信じるしかない……というところで話を終わらせてしまっていいのか。もうすこし考えたい。

(……続く)

強情さが必要(一)

「人の話はどこまで聞くか」というのはむずかしい問題だ。
 助言する側はよかれとおもって、ああしたほうがいいこうしたほうがいいという。しかし助言された側からすれば、かならずしも自分に適したやり方ではないということはよくある。

 尾崎一雄著『わが生活わが文學』(池田書店)所収の「気の弱さ、強さ」は、そろそろ四十になろうというSというぱっとしない画家の話なのだが、助言のむずかしさを考えさせられる随筆である。

《Sは、友人や先輩に自分の仕事を批評されると、それをそのまま受入れる。批評は、ほめられるよりも、くさされる方が多いらしい。くさされると、Sは、なるほどと思ひ、その点を直さうとする。それまでの自分の方針を否定して、やり直したりする。
 私は、そんなことをしてゐたら、キリが無いんぢやないのか、と考へる。批評する人は一人ではない。いろんな人にいろんなことを云はれ、それをいちいち、もつともだ、と思つて、相手の批評、あるひは忠告通り、自分の仕事を直さうとしてゐたら、結局何も出来なくなつてしまふではないか——とさういふことをSに云つてやつた》

《作家は(画にしろ文章にしろ)、多かれ、少なかれ、自分が書きたいことを有つてゐて、それを自分のやり方で書き、あるひは描きたいのに決つてゐる。他人の批評や忠告に耳を傾けるのはいいが、それにコヅキ廻されてゐては、元も子も無くなつてしまふ。やはり、強情さが必要だと思ふ》

「強情さが必要」と助言されたSは「なるほどさうですね」とうなづいた。尾崎一雄は、すぐうなづかずに、すこしは抗弁してほしいとおもうのだが、その気持はSには伝わらない。

《Sが帰つてから、他人の批評に右往左往してゐたら何も出来ないことは、絵も文章も同じだな、と考へた》

 長年、わたしはこの問題を考え続けている。絵や文章だけでなく、あらゆる仕事にも、こうした問題はあるだろう。
 新人作家がデビュー作を酷評され、書くのをやめてしまった。よくある話だ。そんなことでやめてしまうのであれば、どの道、ダメだというのはありがちな意見だが、正論でもある。

 気弱な人に「気にするな、開き直れ」といっても、それができれば苦労はない。
 批評にすぐ右往左往してしまうのであれば、まずそのことを認める。弱さについて考えてみる。弱いから見える、感じる世界を書(描)く。それもひとつの道ではないか。

 自分が好きなものを嫌いな人がいる。当然、その逆もある。ただそれだけの話といってしまうのは乱暴だが、「単に好みが合わないだけではないか」と考えてみるのもいいかもしれない。

 こうした助言と批評には、「力関係」という要素が加わるケースもある。これが厄介だ。
 親と子、先生と生徒、上司と部下、コーチと選手のような、助言される側の立場が反論しづらいこともある。
 いわれたとおりにやらないと試合に出してもらえないという場合、自分が納得いかなくても従ったほうがいいのか、無視したほうがいいのか。
 強情であることが許されるかどうか。運に左右されるところもないわけではない。

(……続く)

2016/11/27

花森安治装釘集成

 わたしが花森安治の名前を意識するようになったのは、山口瞳のエッセイがきっかけだった。二十代後半くらいか。師と仰ぐ高橋義孝の本を花森安治に作ってもらおうとする話で……そのエッセイは「男性自身」シリーズのどこかに収録されているとおもうが、今は調べる余裕がない。
 以前、河田拓也さんのホームページに間借り連載をしていたとき、「書生論再考」というエッセイで花森安治の『逆立ちの世の中』(河出新書)のことを書いた。『借家と古本』(sumus文庫)にも収録している。『逆立ちの世の中』は五反田の古書展で買った。その後、この本を「どうしても読みたい」という友人に譲ってしまった。そのときは「また買えばいい」とおもったのだが、なかなか見つからず、苦労した記憶がある。今年、中公文庫で復刊している。

 今、みずのわ出版刊行の『花森安治装釘集成』(唐澤平吉、南陀楼綾繁、林哲夫)を読んでいる。壮観。ため息が出る。これだけ集めるのにどれだけ時間がかかったのだろう。

 本書所収の唐澤平吉の「蒐集のきっかけは無知から——あとがきにかえて」によると、『花森安治の編集室』を出したあと、唐澤さんは花森安治が装釘家として活躍していた時期があったことを知ったという。

《だが、いざ集めようにも装釘作品の全容がわからない。図書館で書誌データをしらべても、装釘者名まで記載していない。装釘が著作物として扱われていないからだ》

 花森安治が装釘した本は、かなり特徴があるので、一目で「花森本」とわかることが多い。見ればわかるが、見るためには手あたり次第に本の表紙を見て、奥付その他を確認しないといけない。出版社もジャンルも多岐にわたる。装釘家で本を集めるのは大変だ。

 わたしが怠惰なせいもあるが、花森が装釘した高橋義孝の本も古本屋で気長に探そうとして入手できないままだ。『花森安治装釘集成』を見て、どうしてもほしくなった。今、日本の古本屋で注文した。七百円だった。

 花森安治の話が出てくる「男性自身」は、山口瞳著『人生仮免許』(新潮社)だった。タイトルは「花森安治さん(一)」「花森安治さん(二)」。わかりやすくて助かった。

《『暮しの手帖』の花森安治さん、『文藝春秋』の池島信平さん、『週刊朝日』の扇谷正造さんは、若い編集者である私にとって、仰ぎみるような存在であり、そこにひとつの目標があったといっていいと思う》

《私は、二十代の初めの頃から、ドイツ文学者の高橋義孝先生の文章は、非常にいい文章だと思っていた。ドイツ文学や文芸学のことはまるでわからないが、先生の随筆や雑文に惚れこんでいた。
 それで、先生のお宅へ伺って、切抜きを見せていただいて、自分で勝手に一冊の本をこしらえてしまった。これをどこで出版するかという話になったとき、私は、口を極めて、暮しの手帖社を推薦した。それは、暮しの手帖社で出された花森さんの装幀による、田宮虎彦さんの『足摺岬』という書物が実に見事な出来栄えであったからである。当時、『暮しの手帖』は、まだ服飾雑誌のイメージが強かったので、先生は、奇異に思われたかもしれない。
 だから、高橋義孝先生の、最初の随筆集である『落ちていた将棋の駒について』という書物は、暮しの手帖社で発行された。いま、この書物は私の手許にはないが、山口君が狐憑きみたいに暮しの手帖社をすすめるのでという「あとがき」が附されているはずである》

 今回、読み返すまで「花森さんの装幀による、田宮虎彦さんの『足摺岬』という書物が実に見事な出来栄えであったからである」という箇所をまったく憶えてなかった。何度となく、読んでいるはずなのだが、『足摺岬』の装幀がどんなものか調べようとおもわなかった。

『花森安治装釘集成』には田宮虎彦の『足摺岬』の装釘も(三頁にわたって)収録されている。装釘も目次もきれいだ。

《「足摺岬」は、活字だけしか使わないで作った本だが、いざ出来てみると、いろいろ後から気がついて、情けない思いをしているが、勉強にはなった》(本作り/花森のことば)

 見ることができてよかった。ありがたい。『足摺岬』も読んでみたくなった。

2016/11/24

第三の価値観

《マインドフルネスは欲しいけれど、瞑想や祈りはお断り? それならフライフィッシングをすればいい》

 先日、ある原稿を書くための参考資料として読んだアリアナ・ハフィントン著『サード・メトリック しなやかにつかみとる持続可能な成功』(服部真琴訳、CCCメディアハウス、二〇一四年刊)にそんな一節があった。
 読む前は「フライフィッシング」という言葉に出くわすとおもわなかった。いちおう断っておくと、『サード・メトリック』は釣りの本ではない。
 引用した箇所のあと、次のような文章が続く。

《私の友人のなかには「ランニングが自分にとっての瞑想だ」「スカイダイビングが私のメディテーションだ」「ガーデニングが瞑想の時間だ」と言う人たちもいる。だがランニングシューズを履かず、パラシュートを開かず、シャベルを握らず、釣り糸を垂れずに、目指す心の状態を手に入れることはできないのか。肝心なのは心を今という瞬間に存在させ、落ち着いた状態に保ち、自分自身とつながるためのトレーニング方法を見つけること》

 わたしの場合、古本のパラフィンがけ、新聞や雑誌のスクラップの作業が瞑想に近いかもしれない。けっこう無心になれる。

「サード・メトリック」は、お金や権力ではない「第三の価値観」といった意味で、ワークライフバランスのすすめであり、心身の健康を見直そうという提言でもある。

《あまりに多くの人が仕事のために人生を——そして魂も——ないがしろにしている》

《働きすぎが生産性喪失に関係することは、どの国でもどの文化でも同じ》

《適切な睡眠によって改善できないものはないに等しい》

《科学的な根拠こそなかったものの、ヘンリー・デイヴィッド・ソローは歩くことの本当の効果に気づいていた。「脚が動き始めた瞬間、思考も流れ出すように感じる」と彼は書いている》

 よく寝てバランスのいい食事をして本を読んで散歩して釣りをしてのんびり暮らしたい。夢です。

2016/11/22

若くないのは楽

 今週、四十七歳になった。まだまだ先だとおもっていた五十歳も見えてきた。あと三年だ。

 若いころのわたしは若さを否定していた。否定というか、若さを求められることが苦手だった。
「若いんだから、もっと元気だせよ」といわれても、子どものころから寝ころんで本を読むのが好きだった。声が小さかった。「若いくせに活気がない」といわれても、どうしていいのかわからない。

 早く齢をとりたいとはおもわなかったが、若いというだけで「何も知らない」「経験がない」と見くびられる状況からはすぐにでも抜け出したかった。しかし三十代になっても若手扱いが続いた。

 四十代になって楽になった。白髪が増えた。腰が痛い。太った。すぐ疲れる。お酒を飲むとすぐ眠くなる。昔みたいに徹夜で原稿を書くこともできなくなった。

 齢をとれば、疲れているのが当たり前になる。調子がよくないのも当たり前になる。

 だからぐだぐだ、だらだらしていてもいい。若くないんだからしかたがない。

 苦手なことを頼まれたら、それが得意な人を探して紹介すればいい。そのほうが楽だし、うまくいくことのほうが多い。

 生きていれば楽なことばかりではないが、楽をする努力は怠らないようにしたい。頑張る。

2016/11/18

保守とリベラル

 わたしが『鮎川信夫拾遺 私の同時代 エッセイ1980〜1986』(文藝春秋、一九八七年刊)を読んだのは学生時代——一九九〇年ごろだったとおもう。「保守とリベラル」はロナルド・レーガンが二期目を目指す大統領選挙の年(一九八四年)に書かれたコラムだ。

《保守といわれるのは、アメリカでも、ながい間、格好のいいものではなかった。リベラルの方が、格好よかった。それが、そうでなくなったのは、新保守派がいちじるしく台頭してきた七〇年代も終わりに近づいてからである》

 保守が格好のいいものではないという感覚は日本では一九九〇年代のわたしが学生のころにも残っていた。保守=右翼というイメージも強かった。

《ところで、保守(コンサーバティヴ)といい、リベラルといい、ラジカルという、こうした政治用語は、曖昧に使われることが多い。保守といっても、日本やヨーロッパとちがって、アメリカは歴史の浅い国だから、歴史感覚や伝統意識にあまり捉われない。(中略)だから保守とは、アメリカの文化を最高だと信じ、アメリカ的な価値観を擁護するナショナリズムだくらいに解しておけば無難であろう》

《これに対して、リベラルの思想的基盤は、インターナショナリズムで、社会主義的である。公民権運動や福祉の面で多くの成果を挙げたが、何といっても、インターナショナリズムとしての〈社会主義〉が魅力を失ってきたのがひびいて、次第に衰退するようになった》

 当時のアメリカでは保守とリベラルの対立そのものがあやふやになり、政治家も、保守かリベラルか表明しなくなりつつあった。

《大統領ともなれば、万人から好かれなければならないので(そんなことは不可能だが)、とにかく政策の幅を大きくとって、選択の自由を拡げたほうが有利である》

 八〇年代のアメリカでは共和党だろうと民主党だろうと基本政策は変わらないものになっていた。
 今は保守とリベラルではなく、都市と地方、あるいは世代の対立のほうが大きい。時代や国がちがえば、保守とリベラルのあり方もちがってくる。「大きな政府」と「小さな政府」にしても、どっちが保守でどっちがリベラルなのかわかりにくい。

 鮎川信夫は「『レッド・ネック』の哲学」というコラムでも「保守とリベラル」について論じている。

《アメリカの保守主義が日本やヨーロッパのそれと大きく異なるのは、自由を尊ぶ点である。保守主義は「伝統に帰れ」ということを標榜するのがふつうだが、アメリカの場合、伝統に帰ると建国の昔にゆきつく。そしてアメリカの建国の精神とは、「自由を守る」ことにほかならない》

 映画『イージー・ライダー』でヒッピーの若者が、ラストシーンで地方の農民に殺されてしまう。「レッド・ネック」は「陽に焼けて首もとが赤くなっているという意味の蔑称」で、鮎川信夫はネオコン(新保守主義)の思想を「レッド・ネックの哲学」と指摘する。

《『イージー・ライダー』の例でいえば、ヒッピーの側には、自らの行為を正当化したり美化したりするのに過剰なまでの言葉があったのに、レッド・ネックの側は、単に無知で粗野な連中としてしか示されていなかった。(中略)しかし、彼らが言葉を獲得すれば、その行動は自ずから違ってくるはずである。リベラル派のインテリは彼らを軽蔑したが、ネオコンは彼らを軽蔑せず、きみたちは間違っていないという立場なのである》

《保守主義が思想に昇華した理由は、いうまでもなくリベラルが、七〇年代の後半になって急速に衰えてしまったということがある。リベラルの主張する自由は、結局のところアメリカという国の力を弱める方向にしか働かなかった》

 そして一九八五年に書かれた「『レッド・ネック』の哲学」では「反知性」というキーワードも出てくる。

《ユートピア主義に傾いて、人間性を変えたり、本能を拒否する社会制度をつくるのは愚かである。フランスの衒学的な抽象哲学やリベラル派の左翼主義にだまされるな。(中略)こうした「反知性」としてのイデオロギーの誕生は、ヨーロッパでは珍しいことではなかった》

 日本では「反知性主義=知性がない」と誤解されることもあるが、本来、観念に傾きすぎた思想にたいするカウンターの思想だった。

《思想というのは、結局は行為を正当化するための言葉なのだから、これからも、時代や社会の変化に応じて、アメリカ国民の生き方を活性化させるような新事態に即応する言葉をどんどん繰り出せるかどうかにかかっている》

 かならずしも鮎川信夫は「レッド・ネック」の哲学を肯定しているわけではない。

《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ。(中流)ラジカリズムの底にはポピュリズムがある。「人民主義」あるいは「大衆主義」ということになるが、毛沢東の文化大革命は、アジアにおけるその一つのサンプルである》

《ポピュリズムというものは、左右を問わず、中味はお粗末で、あまりいいものとはいえない》

《ここに、ネオコンが真に根づくかどうかにとってのもう一つの問題がひそんでいる。ネオコンも一種のポピュリズムだからである》

 三十年以上前の文章とはおもえない。すごい先見性だ。
 学生時代に読んだときはほとんど理解できなかった。今、読んでもむずかしい。『イージー・ライダー』をもういちど観ようかどうか迷っている。

2016/11/16

残りの半分

 ジェイムズ・レストン著『アメリカ、アメリカよ』(河合伸訳、河出書房新社、一九八九年刊)を読む。「ワシントン発ベスト・コラム49」という副題の付いた一九七〇年代から八〇年代にかけての政治コラムを集めた本だ。

《人間の経験のなかで最も苦痛を伴うのは変化と革命だというのが、一般の常識である。だがワシントンで昨今聞かれる話は、苦痛なき変化と苦痛なき革命についてのものばかりだ》

 この文章は『アメリカ、アメリカよ』所収の「苦痛なき革命」というコラムの一節である。初出は一九七一年一月。

《ニクソン・ドクトリンに基づいてアメリカは今後、海外での責務を縮小していくことになった。だが、これはペンタゴン(国防総省)でさえも歓迎するところだろう》

《大都市にも州にもこれまで以上に金が回り、国民にもさらに多くの権力と自由、働き口と健康な生活が約束され、平和な時代が訪れる。といって増税などはしないし、いずれは徴兵制度も廃止するのだそうだ》

 ジェイムズ・レストンはそんなアメリカの展望を述べつつ、疑問を投げかける。

《近年、というよりも過去数世紀の歴史は、人類はかなりの苦痛を味わわない限り、こうした夢には適応できないことを示している。人口はアメリカにおいても、就職口を上回る速度で増加している。人口とそれを支えるのに必要な金の分布は不公平なうえに無慈悲だし、もしも歴史が何かを教えているとすれば、それはわれわれもまた、世界の他の地域の人々がさいなまれている苦痛や葛藤を避けて通るわけにはいかない、ということではないのか》

 レストンはカナダのレスター・ピアソン元外相が国連に提出した報告書の言葉を紹介する。

《この地球もまた、ひとつの国家の場合と同様、住民の半分が奴隷で半分が自由、また半分が困窮にあえていでいるのに、残りの半分はまるで無制限も同然の消費を楽しもうとして夢中になっている状態では、とうてい生き延びることはできない》

 いつの頃からか、自分の暮らし向きのことばかり考えるようになった。このブログにしても、こんがらがった考えをすこしでも整理したい——自問自答のために書いているところもある。
 わたしは急激な変化ではなく、時間をかけてゆっくり世の中がよい方向にむかってほしいとおもっている。対立ではなく、歩み寄りを望んでいる。しかし先進国が「苦痛なき革命」を目指そうとすれば、そのツケは「残りの半分」の国々に回る。

 わたしは世界のことに興味をなくしている。それどころか日本のことについてさえ、今の自分があれこれ考えたところでどうにかなるものではないとおもいがちである。自分のような政治や経済への関心をなくしつつある人が、何を考えればいいのか。そこから考えなければいけない気がしている。

2016/11/13

分断

 アメリカ大統領選関連のニュースにずっと違和感があった。
 ドナルド・トランプとヒラリー・クリントンの紹介の仕方もそのひとつだ。
 ヒラリー・クリントンは「女性初の大統領を目指す」と紹介されていたのにたいし、ドナルド・トランプのほうは「過激な発言で知られる」とか「暴言王」といった肩書がついていた。報道の仕方が「公平」ではないとおもった。
 投票日前日、日本のテレビ局のレポーターは、トランプの演説を「内容がない」「矛盾だらけ」と馬鹿にしていた。

 今年の八月か九月ごろ、アメリカのメディアは「トランプの支持者は教育水準が低い白人」と分析(?)していた。仮にその分析が正しかったとしても「教育水準が低い」といわれた人々が「教育水準が低い」とおもわれたくないからトランプ支持をやめようとは考えないだろう。自分たちを「教育水準が低い」と断定する人間の意見に従いたいとおもう人はそんなにいないはずだ。

 たしかにトランプは差別主義者で排外主義者で親の七光りで不動産王にのし上がった傍若無人で厚顔無恥な愚か者かもしれない。
 だからといって、その支持者を「教育水準が低い」と分析するのはいやなかんじがした。分析されたほうはいい気はしないだろう。
 トランプの「壁を作れ」というスローガンを批判した人たちの中には、すでに強固な「壁」に囲まれた富裕層だけが集まった地域に暮らしてる人もいる。そこには移民の問題も差別の問題もない。

 トランプがアメリカの「分断」をまねいたという論調があるが、それはちがう。すでに「分断」は存在していた。それが今回の大統領選で明白になったにすぎない。反トランプ陣営の人たちは、トランプを毛嫌いするだけではなく、なぜ「分断」が生じてしまったのか、「分断」によって生じた溝を埋めるにはどうすればいいのか——を自問する必要がある。反グローバル主義は先進国全体の流行でもある。

 日本では「上級国民」や「マスゴミ」といった言葉を使う人たちが増えている。そうした言葉を好んで使う人たちがトランプ支持者と同じとはいわない。インターネット上には差別と排外主義が溢れている。他者に不寛容であることを「強い」と勘違いしている人も増えている。
 厄介な問題だ。批判の言葉をひとつひとつ見直していくことも「分断」を解消するには必要だとおもう。

2016/11/12

隠れトランプ

 大統領選後、ドナルド・トランプの勝因を分析するさい、「隠れトランプ」の存在が注目された。
 いちおう断っておくが、わたしはトランプ支持者ではない。トランプに賛意を表明すれば、即、差別主義者のレッテルを貼られてしまう。でもトランプとヒラリーの二択だと迷う人は多いだろう。どっちも嫌だ。

 ドナルド・トランプ著『トランプ思考 知られざる成功哲学』(月谷真紀訳、PHP研究所、二〇一六年刊)という本がある。この本は二〇一〇年九月に刊行された『明日の成功者たちへ』の改題作——トランプがブログやニュースレターの記事として書いた短文(エッセイ)を集めた本である。

《私はエッセイが好きで、だから短編小説にも、虚構の散文という違いはあれ、なじみがある。作家なら誰でもいうだろうが、短編小説は簡単な表現方法ではない。簡潔でなければならないからだ》(自分自身と自分の仕事に嘘をつくな)

 トランプはスティーヴン・キングの発言に注目する。今のアメリカの短編作家の多くは、自分の作品を本にしてくれそうな編集者、出版人をターゲットにしている——とキング氏はいう。

《短編小説が読者の啓発ではなく出版を目的として書かれているようだと気づいたキング氏は、的確な状況分析をしていると思う。いわゆる評論家の歓心を買うつもりで何かをすれば自分を安売りすることになるし、世間をばかにすることにもなる》

 また「物事を関連づけて考えられるようになろう」というエッセイでは次のようなことを書いている。

《オルダス・ハクスリーは一九五九年に「統合的な学習」という題名のエッセイを書いているが、その内容は今も古びていない。ハクスリーは知識と思考の間に橋を架ける重要性を訴えた。(中略)橋を架けることによって、自分の関心領域にとりたてて関係がなくても、目を向けてみれば役に立つかもしれないアイデアやテーマを取り入れて関連づけられるようになる》

 この考え方自体は広く知られたものだ。でもトランプは、ハクスリーからシェイクスピアの話を絡めて「橋を架ける」ことの大切さを語る。

《ラルフ・ウォルドー・エマーソンが「状況ではなく思いを信じるべき、これは歴史が賢人に与える教訓である」と書いた。問題ではなく目標に意識を集中させなければならない、ということを語った良い言葉である》(勝者は問題を、実力を証明する一つの方法と見る)

 トランプは文学だけでなく、アートにも精通している。メディアが伝える人物像とはずいぶんちがう。選挙期間中、暴言をまきちらしていたトランプと著作の中のトランプは別人のようだ。「橋を架けろ」といっていた人物が「壁を作れ」を選挙のスローガンに選んだ。これほどわけがわからない人物は滅多にいない。

2016/11/11

トランプ後の世界

 アメリカ大統領選でドナルド・トランプが当選した。選挙前から、トランプ優勢の予想はけっこう目にした。
 開票がはじまって、トランプ優勢が伝えられる中、ニュース番組のインタビューで(たぶん)金融関係の人が「ほぼほぼヒラリーだとおもいますよ」と答えていた。「そんなこといって大丈夫なのか?」と心配になった。
 トランプの勝利を「番狂わせ」みたいに報じるニュース番組にも違和感をおぼえた。後からいうのは簡単だが、正直、トランプが勝ちそうな雰囲気はあったとおもう。

 イギリスのEU離脱のときもそうだったが、反グローバリズム、反富裕層、反インテリ、反都会といった流れが強まっている。人権に制限を与える意見も活発になっている。いいかわるいかではなく、そうなってしまった。

 大統領選の前、ドナルド・トランプの本を何冊か読んだ。
 ある本の中ではトランプがノーベル文学賞を受賞する前のトルコ人作家のオルハン・パムクの作品を激賞していたエピソードが記されている。トランプはかなりの読書家で社交に長けた教養主義者という一面もある(そうは見えないけど)。
 ペンシルベニア大学大学院ウォートン校でMBAを取得した経歴をふくめ、選挙中は一切そうしたカードを使っていない(ように感じた)。逆に偏見や暴言、傍若無人さばかりが目立った。

 それはさておき、今、英米で起っている流れは、遠からず、というか、すでに日本にも来ている。
 人権、弱者救済、多様性——かつて「よい」とされていた価値観が崩れてきている。その価値観を支えるための犠牲を払いたくないという人が増えている。「きれいごと」を否定する人を批判したとしても反発が強まるだけだ。

 現状、安心と安全は限られた人にしか与えられていない。万人に生活の安定を行き渡らせられるほど、世界は豊かではない。
 わたしも自分のことで目一杯だ。生活が苦しくなれば、寛容さを失う。すくなくとも自分の善意や良心や正義感はアテにならない。
 それでもみんながすこしずつ我慢し、損を引き受けていかないと世の中はよくならないことはわかっている。「自分さえよければいい」という価値観が蔓延すれば、誰にとっても住みづらい社会になるだろう。

 トランプ後のアメリカがどうなるのかはわからない。わたし自身、混乱している。頭の中にひっかかっていることが言葉にならない。

……すこし冷静になったら続きを書く。

2016/11/06

古本まつり

 神田古本まつりで豊田泰光の署名本を買いそびれた話を書いた。その本は『トヨさんの新・長幼の序』(情報センター出版局、一九八六年刊)なのだが、署名がなければ、インターネットの古本屋で半額以下で買えるのではないかと判断した。わたしは携帯電話やスマホを持っていないので、その場でネットの相場を調べることができない。いつも勘頼りだ。

 たぶん千円以下なら迷わず買っていたとおもうが、『トヨさんの新・長幼の序』は千二百円だった。ただ、自分がこの本を手にとって、値段をチェックしたのは、あまり見かけない本だったからだ(というか、知らなかった)。

……結局、土曜日、また神保町に行った。もしかしたら売れてしまったかもしれない。そのときはそのときだ。

 豊田泰光は今年八月に亡くなっている。現役時代はまったく知らないが、野球解説者としては好きな人だった。西鉄ライオンズから国鉄スワローズに移籍していて、わたしが生まれた年に現役を引退している。

 小林秀雄の『考えるヒント』に国鉄時代の豊田泰光と酒を飲んだとき、スランプの克服法を語ったエピソードが出てくる。

《どうも困ったものだと豊田君は述懐する。周りからいろいろと批評されるが、当人には皆、わかり切った事、言われなくても、知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当らない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ、待っているんだと答えた。ただ、待っている、なるほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った》

『トヨさんの新・長幼の序』は残っていた。よかった。「ちょっと高いかな」とおもって買わなかった本が、後で調べたら入手難とわかることがけっこうある。次の日行くとすでに売れてしまっていることも多い。迷ったら買う。何度も決心したはずのに、なかなか実行に移せない。

『トヨさんの新・長幼の序』には前述の小林秀雄の話の続きが綴られている。

《一流の打者とは、自分のどん底を知っている者を言うのだと思う。ともかく底までたどりついて、そこからはい上がる術を会得したものが、もう一度浮き上がれるし、一流打者になれる。ぼくが小林秀雄さんに言った「待つ」ということは、このどん底に行きつくまで待つということである》

2016/11/05

いつもの悩み

 夕方、神保町。古本まつりをぶらついていたら、NHKのカメラ(シブ5時?)がちょうど撮影中。逃げる。野村克也の持っていない本を一冊買う。豊田泰光の未読本もあったのだが、署名本。別に署名はなくてもいいなとおもったので見送る。やっぱり買っておけばよかった。迷ったら買わないといけない。

 何度も書いていることだが、目先の仕事に追われて、何かひとつのテーマにじっくり取り組めない。

 お金がないとできないこと、体力がないとできないこと、時間がないとできないこと……年々できないことが増えている気がしてならない。満足できるレベルに達するのに五年十年とかかるようなことには迂闊に手が出せない。
 若いころは時間はたっぷりあるとおもっていたし、あまり仕事をしてなかったから、ひまだった。どんなに疲れていても、一晩寝れば、気力も体力も復活した。
 ひまで体力があったころ、何をやっていたかといえば、毎日古本屋と中古レコード屋をまわって酒飲んでいた。あとゲームもやってた。徹夜で。その延長戦上に今がある。無駄ではなかったが、無駄なこともいっぱいした。でも無駄なことができるのが、若さだったり、可能性だったりする。

 今はどうしても限りある時間と体力の範囲でできることを考えてしまう。ゲームはしなくなったし、レコード屋でAの棚から順番に一枚一枚アルバムを探さなくなった。朝まで飲まなくなった。
 現状を維持しながら、新しいことをはじめるのは至難だ。でも今までどおりのやり方を続けていたら、そのうち通用しなくなる。
「一年くらい仕事せずに遊んで暮らしたい」とよくおもうが、仮に実行したとしたら、一年後、再び仕事にありつけるかどうかわからない。冷静に考えると、無理っぽい。

 働き続けながら、摩耗せず、枯渇せず、好奇心のおもむくままに新しいテーマに取り組み、適度に休み、毎日楽しく暮らしたいのだけど、むずかしいだよ。

2016/11/03

旅に出たい

 三十日、下北沢B&Bの世田谷ピンポンズさん、山川直人さんとのイベント、無事終了。
 山川さんが「字余りフォーク」についての話をしていたのだけど、そのあと、世田谷ピンポンズさんの曲を聴いたら、「字余り」だらけでおもしろかった。
 世田谷さんは、誰にも聴かせない音楽を十年くらい作り続けていた時期があったそうなのだが、そのことが流行と無関係な作風につながっているのではないかとおもった。

 十一月に入って急に寒くなる。腰痛の手前の手前くらいの兆候があったので、この秋、初の貼るカイロをつかう。
 これから四、五ヶ月——寒い季節は無理をしない方針でのりきりたい。

 南陀楼綾繁さんから『ヒトハコ』創刊号(二〇一六年秋)が届く。
 この一、二年、高円寺ひきこもり生活(西部古書会館でばかり本を買っている)だったのだが、読んでいると旅行したくなる。日本海側は二十年以上行っていない。新潟の「ブックバレーうおぬま」も気になる。

 来年はすこしのんびりできそうなので、これまで行ったことのない場所に行きたい。

2016/10/26

ドラフトの季節

 月曜日、昼すぎ、古本屋に行こうと駅に行くと、総武線、中央線ともに止まっていた。すでに改札は抜けていたが、そのままSuicaで出れば、電車賃はかからないという放送が流れていた。
 いったん駅を出て、近所を散歩。食材などを買う。家に戻り掃除。
 夕方、荻窪、ささま書店。そのあと、数日前に割ってしまったふた付きの丼を買う。ささまではジョン・サザーランドの『現代小説38の謎』と『ジェイン・エアは幸せになれるか?』(みすず書房)などを買う。

 プロ野球のドラフトの季節――前後一週間くらいは、生活のリズムがおかしくなる。誰に頼まれたわけでもないのに、ドラフト前はひいきのチームの指名候補(誰かわからないけど)のことを調べたり、ドラフト後は新しく入団した選手、他球団の新人を分析したりする。
 即戦力として期待されて入団した選手が、かならずしも活躍するとはかぎらない。おもうような結果を出せなかった選手が現役引退後、スカウトやコーチとして、チームに貢献することもある。
 ドラフトの結果は即断できない。何が起こるかわからない。

 五年前のドラフトでひいきのチームに六人の新人が入団した(育成はのぞく)。すでに六人中五人は戦力外である。悲しい。

 二軍ではそこそこの成績を残すのに一軍では通用しない選手がいる。二軍は一軍と比べると、守備のうまい選手が少ない。一軍ではアウトになる打球がヒットになる。コースヒット狙いで打率を稼いでも一軍では厳しい。また打ってアピールしたいファームの打者相手にストライクゾーンで勝負しない投手がいる。このタイプも一軍では通用しない。

 ドラフトで指名される選手は、アマチュアでは立派な「数字」を残している。「数字」だけ見ると、即プロで通用しそうにおもえるのだが、現実はそうではない。
 
 長く現役を続けている選手は「才能」という一言では片づけられない「何か」がある。その「何か」を考えることもドラフトを追いかけるおもしろさなのだが、それを知って何がどうなるのかはわからない。

2016/10/16

コタツ生活

……向き不向きのことをいろいろ考えていたのだが、その前に関係ない(すこしは関係ある)話を書く。

 わたしは長屋で生まれ育った。十九歳で上京するまで、ずっとコタツで食事をしていた。読書も勉強もだ。
 つまり、机(テーブル)と椅子の生活になじみがなかった。今もコタツ生活だ。上京して、はじめて買った電化製品もコタツだった(質屋で千五百円)。

 小学生のころ、通信簿に「落ち着きがない」と書かれていた。今おもうと、授業中、椅子に座っているのが苦手だったからかもしれない。家ではコタツ+座布団の生活をしていて、疲れたらすぐ横になることができた。学校では横になれない。その緊張感のせいで、そわそわしていた……ような気がするのだ。

 中学、高校に通うようになっても、机と椅子で勉強することに慣れなかった。
 もしコタツ+座布団で仕事ができる会社があったら、わたしはそこそこやっていけるのではないか。コタツの後ろに布団が敷いてあって、すぐ横になれる環境なら、たぶん、長時間労働も可能だ(可能だからといって、したいわけではない)。

 体力が人並以下だから肉体労働はしんどい。机と椅子の生活が苦手だからデスクワークもきびしい。
 どうすればいいのか。さすがに日本中の会社をコタツで仕事ができるように変革するのはむずかしい。でも自宅で仕事すれば、解決する。毎日、睡眠時間がズレても大丈夫だ。

 仕事ができるできないは、能力の問題だけでなく、環境の問題も大きい。
 自分の適性を考える場合、能力が足りないのか、それとも環境が合っていないのか——その両面を検討したほうがいい。

 これからコタツ布団を洗濯しようとおもう。

2016/10/13

告知

十月三十日(日)、下北沢の本屋B&Bで世田谷ピンポンズさん、山川直人さんといっしょに「音楽と漫画と文学」というトークショーに出ます。世田谷ピンポンズの『僕は持て余した大きなそれを、』発売記念のイベントです。音楽、漫画、文学や古本の話をしつつ、弾き語りのライブもあります。

時間  19:00〜21:00(18:30開場)
場所  本屋B&B 世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F
入場料 1500円+1 drink order

詳細は、
http://bookandbeer.com/event/20161030_setapon/
にて。

2016/10/12

睡眠優先

 急に涼しくなる。肩がこる。気温の変化にからだがなじまない。毎日、睡眠時間がズレる。季節の変わり目にはよくある。
 というわけで、睡眠と休息を優先した生活を送っている。

 体力がないという自覚は子どものころからあった。

 仕事を選ぶときも、そんなに稼げなくてもいい。時間さえあれば、自炊もできるし、電車に乗らずに歩けばいいから、お金もつかわなくてすむ。からだが楽なほうがいいとおもっていた。
 そのせいか「若さがない」「やる気がない」「世の中をなめている」とよく怒られた。

 今はそういうことをあまりいわれなくなった。十年、二十年と続けていれば、周囲の人が何といおうが、自分のやり方は自分に合っていたといえる。

 疲れてくると判断が鈍る。同じ仕事量でも自分のペースでやるのとそうでないのとでは疲れ方がちがう。自分の時間が管理されるのはストレスになる。
 疲れたらすぐ横になる。怠けながらのほうが、ずっと机に向かい続けるよりも仕事がはかどる。もちろん、こうしたやり方は共同作業には向かない。

 働き方の選択肢はいろいろあっていいとおもうし、会社勤めよりフリーランスのほうが向いている人もいる(当然、逆も)。
 仮に安定した職に就いていても不安になる人はなる。会社が倒産したり、リストラにあったりする可能性もある。何をやっていたとしても十年後、二十年後のことなんかわからない。
 だから就職しなくてもいいという話ではないので誤解しないように。

 仕事には向き不向きがある。自分が何に向いているかは時間をかけないとわからないが、不向きなことはすぐわかる。むしろ苦手なことがはっきりしている人のほうが、決断しやすい。

 向き不向きの話はいずれまた。

2016/10/10

完璧の手前

 先月、郷里に帰省したとき、四日市で途中下車して、ジャズフェスを観た。そのとき、もやもやしたというか、「これって何だろう」とおもったことがあった。
 音楽における「うまい」「へた」と「おもしろい」「つまらない」は別だ。「うまいけど、早く終わらないかな」とおもってしまうバンドがあったり、一心不乱に演奏している高校の吹奏楽部のビッグバンドに心が揺さぶられたり……。

 数日前、家に帰ってテレビをつけたら、「たけしのニッポンのミカタ!」がやっていた。途中から観たので、どういう流れでそういう話になったのかはわからないが、(芸は)完璧になると客は飽きるというようなことをいっていた。

 ちょっと危なっかしくて観ているほうがハラハラするくらいのほうが客にウケる。その状態をビートたけしは「完璧の手前」と表現していた。

 このことはあらゆる芸事に通じるかもしれない。
 整いすぎたもの、おとなしくまとまったものには感情移入しにくい。ひっかかりがないと印象に残らない。ひっかかりは何かといえば、危なっかしさみたいなものだ。

「うまい」=「失敗が少ない」みたいな勘違いもある。
 ミスを減らす方法はふたつある。ひとつは「ものすごく努力する」、もうひとつは「難しいことに挑戦しない」だ。
 難しいことに挑戦しなければ、失敗は減らせる。一見、うまくなったような気がする。でもおもしろくなくなる。
 それに「うまい」というのは、数ある評価軸のひとつでしかない。「かっこいい」とか「おもしろい」とか「勢いがある」とか「ノリがいい」とか「瑞々しい」とか「めちゃくちゃ」とか「珍しい」とか、いろいろな価値観があって「うまい」というのも、その一要素にすぎない。見る側にもそれぞれの好みがある。

 そうしたいろいろな要素をぜんぶひっくるめた上で「技術」や「持ち味」が問われる。「完璧」が目標ではない世界がある。

 わたしがもやもやしていたのは、音楽を聴いたり、本を読んだりしているときに「うまい」「へた」の評価をしてしまう自分の狭さ、堅苦しさだったのかもしれない。

2016/10/05

気がつけば、十月

 衣替えの準備はしているが、いまだ夏服ですごしている。涼しくない。というか、蒸し暑い。怠い。
 二十代のころは、十月の中旬くらいにはコタツ布団を出していた記憶がある。

 九月から生活リズムがおかしくなり、どうにか修正を試みているのだが、うまくいかない。先週買った古本が袋にいれっぱなしのまま、仕事に追われる日々。何を買ったかもう忘れた。さらにずっと前に買ったまま忘れていた本を今読んでいて、仕事がはかどらない。よくあることだが、何をやっているのかという気分になる。

 部屋の掃除をしていたら、『編集会議』の二〇〇四年十二月号が出てきた。巻頭特集は「フリーライター大研究」。

 パラパラと読んでいたら、大下英治さんの「『いずれ何かを書こう』と思っている程度では、自分の時間は作れない。書くテーマすら見つからないですね。そういう人は、毎日ゴールデン街で朝まで飲んで、酔っぱらって体を悪くして終わっていく」というコメントがあった。

 フリーランスは勤勉でなくてはいけない。とはいえ、それだけではつまらない。人生の一時期、後からふりかえって笑えるていどの失敗を経験しておくことも必要かも……。仕事をせず、金がないのに毎晩飲み明かしていた日々がちょっと懐かしい。

2016/09/28

今、わたしがいる場所は

 先週末、中央線で東京駅、総武線快速に乗り換え、新小岩。待ち合わせよりも三十分くらい早く着いたので、商店街を散策する。歩いているとおなかが空いてくる。いい商店街だ。書肆スクラムの砂金一平さん、上原隆さんと飲む。商店街の中にある居酒屋だった。レバテキがうまかった。

 なぜか鶏ガラのスープを作るのが楽しいという話になる。映画の話、本の話……いろいろな話をした。
 上原さんはアンナ・クィンドレンのコラムのコピーを見せてもらった。東京書籍のアメリカ・コラムニスト全集のアンナ・クィンドレン集『グッド・ガール、バッド・ガール』(廣木明子訳)は読んでいたが、他にも邦訳がある。アンナではなく、アナ・クィンドレン名義の本のほうが多い。

 クィンドレンに「今、わたしがいる場所は」というコラムがある。

 アンナ・クィンドレンは、大学時代に新聞記者の家にベビーシッターのアルバイトを申し込み、その機会を活かして新聞社で仕事をするようになった。それ以来、仕事一筋の生活を送っていたが、結婚して子どもが生まれ、考えが変わる。

《仕事はわたしの人生の大きな部分を占めていたけれど、経験がそれ以外にも――友人、家族、ひとりで過ごす時間など――わたしの深い欲求を満たすものがあることを教えてくれた》

《今、わたしが唯一恐れているのは、自分があまり好きになれない誰かになることだ》

 中年といわれる齢になってから、このコラムにあるような「深い欲求」について考えることが増えた。仕事に追われ……というほど働いていたわけではなかったが、仕事以外の時間が大切におもうようになってきた。もともと体力が人並以下ということもあるが、休み休みでないとすぐバテる。あれもこれもやろうとして、何もかも中途半端になってしまうという経験をたくさん積んだ。

 今、自分のいる場所で何ができるか。何がしたいのか。

 ここ数日そんなことを考えていた。

2016/09/21

命賭けの読書

 鶴見俊輔、関川夏央著『日本人は何を捨ててきたのか』(ちくま学芸文庫)を再読する。

 鶴見さんは、岩明均の『寄生獣』に大感激したと語るところがあるのだが、そのときの言葉がすごい。

《鶴見 これを読んでいるうちに、心臓麻痺が起こって死んでもいいと思って読んだ。
 関川 大袈裟だなぁ。
 鶴見 ほんと、ほんと。命賭けて読むのでなければ読書とはいえませんよ。たかが漫画、そんなものじゃない、私にとっては》

——命賭けて読むのでなければ読書とはいえない。

 わたしは携帯電話(スマホ)を持っていない。パソコン(電子書籍も)も家の外に持ち出したことはない。
 郷里に帰省中、今、パソコンがあったら、電車の時刻表や乗り換えがすぐ調べられて便利だろうなとおもったが、なければないでどうにかなる。電車が来なければ、周辺を散策すればいいだけだ。

 わたしがコンピュータを買ったのは一九九八年一月、インターネットに常時接続できるようになったのは二〇〇二年である。
 そのあたりから時間の細切れ化がはじまった気がする。

 命賭けて読む……ほどではなかったが、二十代のころは飲まず食わずで本を読み続け、立ちくらみすることがよくあった。若かったからそういうことができたのか。そうではない。覚悟の問題だ。

連休中

 十八日、三重に帰省。新幹線では、渡辺京二×津田塾大学三砂ちづるゼミ『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)を読む。この本、五回くらい読んでいるかも。
 名古屋駅の地下街をぶらついて傘を買う。午後二時すぎ、ひさしぶりに四日市で途中下車すると1番街でジャズ・フェステバルが開催されていた。五年くらい続いているらしい。
 四日市あすなろう鉄道で内部駅(うつべえき)に出て、内部駅から平田町駅行きのバスで帰ってみようと考えていたのだが、今回はやめた。
 夕方、港屋珈琲。スーパーマルヤスで調味料(おでん用の味噌など)と酒を買う。
 母、おじ(弟)にネットオークションで戦記(三十冊)を千円で落札してもらったと自慢。一冊千円くらいの古書相場の本が四、五冊はあった。
 五月末に父が亡くなって、いろいろな手続きも無事終わり、ようやく一息。片づけはゆっくりやることにする。

 翌日、おじの車で母と関宿へ。鈴鹿と関は近いのだが、JR沿線(わたしが生まれ育ったのは近鉄沿線)ということもあって、あまりなじみがない。久住昌之著『野武士、西へ』(集英社文庫)では「奇跡の宿場・関」と絶讃。
 子どものころは古い町並を見てもピンとこなかった。今は電信柱もなくし、景観の保全に力を入れている。喫茶店が多い。
 街道の裏には、寺や神社もたくさんある。
 昼食は関のドライブインのレストランに行く。連休中もあって観光客(団体)も多い。
 そのあと亀山駅まで送ってもらう。亀山駅のまわりをすこし散策。亀山みそ焼きうどんの看板をあちこちで見かける。
 亀山駅から京都まで千三百二十円。近鉄や高速バスよりもはるかに安い。ただし電車は一時間に一本くらいしかない。
 安西水丸著『ちいさな城下町』(文藝春秋)に亀山城の回がある。安西さんも関宿を訪ねている。「関の小万の仇討」の話から、小万を育てた山田屋は、今、会津屋という食事処になっていることを知る。

 亀山から柘植、柘植から草津、草津から京都で二時間。電車が柘植あたりに差しかかったとき濃霧がすごかった。外の景色がまったく見えない。高校時代、柘植から通っている「ツゲちゃん(本名はちがう)」というあだ名の級友がいたことをおもいだした。

 京都は六曜社でコーヒー。夜はまほろばで世田谷ピンポンズ、市村マサミ、オグラのライブ。三者三様の独特の言葉の世界を堪能する。楽しくて飲みすぎる。酔っぱらって、記憶があやふやなまま、気がついたら扉野さんの家で寝ていた。朝ごはん、おいしかった。

 台風接近中ということもあって、午前中に東京に帰る。名古屋まで新幹線の席をまちがえて座っていた。気づかなかった。車中、熟睡。
 家に帰って洗濯して、うどん作って、また寝る。寝ても寝ても眠い。

2016/09/18

残りの一分

 昨年の『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬)を読んでいたら、渡辺京二さんの「二つに割かれる日本人」というインタビューが収録されていた。

《長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです》

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 二十代のころ、わたしはアナキズム(無政府個人主義)を理想としてきたが、今のわたしは渡辺さんの政治観にかなり近い。
 いうなれば、紆余曲折を経て、穏健主義者になった。
 まずは自分が食っていくこと。健康であること。それから余力があったら、世の中のことを考えたい。
 社会の変革には時間がかかる。そのあいだも家賃や光熱費を払う必要がある。本や酒だって、ただではない。

《僕はこれまで生きてきて、困ったなと思ったこと、解決しなければならない問題の九割九分までは、金で片付くことでした。ところが、残りの一分が片付かない。
 その残りの一分、人としての生きがいは、やっぱり人との関わりの中にしかないんです。女、家族の次には、仲間です。ともに仕事した、一緒に遊んだ、近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度が取れたら、死ぬときに満足感が持てるのではないか》

「近くに暮らした人たちに、ちゃんと取るべき態度」はどんな態度なのか。それを見つけ、実践することは今後の課題にしたい。

2016/09/15

まとまった時間

 高円寺のOKストアが耐震工事でしばらく休業(十一月半ばくらいまで)。上京以来、自炊生活の軸になっていたスーパーの休業は困る。どうにかしのぐしかない。

 忙しいわけではないが、ちょっとした雑用が多くて時間が細切れになっている感覚がある。まとまった時間がとれない。現代人は、テキパキといろいろなことを素早くこなす能力が重宝されている。その分、ひとつのことを長く考えたり、一冊の本をぶっ通しで読んだりする時間が減っているのではないか。

 ちょっとずつつまみ読みしていると、なんとなく不完全燃焼になる。物語に入りこめない。
 重厚な長編小説を読むとか、全十巻以上の漫画を一気に読むとか、それなりに時間をかけないと味わえない高揚感がある。
 今はちょこまかネットを見たり、メールをチェックしたり、家事をしたり、何かと時間が寸断される。

 二十代後半から三十歳くらいまで、お金もなく、やることもなかった。おかげで読書の時間はたっぷりあった。そのころの生活に戻りたいとはおもわないが、切実に本を読んだり音楽を聴いたりする時間はすこし取り戻したい。

2016/09/07

マニアとは

 たまに「マツコの知らない世界」(TBS)を見ていると、いわゆるマニアの人たちのひとつのことに傾ける尋常ではない熱量に圧倒される。
 趣味、あるいは好きというだけで生活に支障が出るくらいの時間とお金を費やす。自分にはできない。わたしも仕事そっちのけで、趣味(古本)に溺れていたこともあるが、「これ以上はまずい」というところでブレーキを踏んでいた。

 すこし前に番組に出ていた人は、生活雑貨が好きすぎて一千万円の借金を作った人物として紹介されていた。
 本業は別にあり、あくまでも生活雑貨を買うのは趣味である。趣味で一千万円の借金を作ってしまう感覚がわからない。一千万円の借金はどういう種類の借金かはわからない。資産家の親から借りたのか、金融機関から借りたのか。借金にもいろいろある。

 番組に登場した人は雑貨の話になると止まらなくなる。溢れんばかりの雑貨愛はすごいとしかいいようがない。
 何かを伝えるさい、好きで好きでたまらないから紹介したい——というおもいがある人には敵わない。

 生活雑貨マニアの人が買うグッズは、わたしが買う古本の値段とそんなに変わらない。ほとんどがワンコインで買えるものだ。ただ、海外まで雑貨を探しに行く。「どうしてそこまでして」とおもうが、マニアとはそういうものだともいえる。

 制御不能になるくらいのめりこむことがマニアの証なのではないかとおもっていた。でもそれでは続かない。
 趣味の持続のためには自己規律が必要だ。しかし、自己規律が強くなりすぎると、何かに熱中、没頭しにくくなる。

 世の多くの人はおこづかいの範囲内で趣味を楽しんでいる。お金がないときはガマンする。生活を犠牲にして趣味にのめりこんでいる人は少数派だろう。少数派の世界は気になるし、おもしろい。おもしろいが、わたしにはできない。

 話は変わるが、朝の情報番組で広島カープのユニフォームを着たアナウンサー(?)が、最後のほうにほんとうは阪神のファンだとカミングアウトしていた。
 広島ファンにも阪神ファンにも失礼だ。

2016/08/31

自分に合った種目

 オリンピックを観ていると、ついつい人間の適性というものについて考えてしまう。
 陸上でいえば、短距離と長距離の選手ではからだつきがまったくちがう。

 甲子園を観ていてもよくおもう。ベンチ入りできず、スタンドから応援している強豪校の百人近い野球部の部員の中には、もし野球以外のスポーツを選択していれば、その競技のスター選手になれるような人がいるかもしれない。
 誤解してほしくないのは、レギュラーが偉くて、補欠がダメとおもっているわけではない。ただし、レギュラーになれる可能性があるジャンルを見つけることもひとつの道だとおもっている。

 自分に合った種目を見つけることの大切さはスポーツに限った話ではない。

 仕事にも短距離型と長距離型がある。もちろん中距離型もある。
 自分は仕事ができないとおもっている人は、自分に合った種目を見つけられていないだけかもしれない。また長時間労働が苦手という場合もある。

 わたしはフリーライターをしているが、二十代のころはノンフィクションライターになりたいとおもっていた。たぶん、その道では食べていくことはできなかった。
 取材がヘタだったし、人と会うのも苦痛だった。面識のない人に電話をかけることもできない。編集者や同業の先輩にも「この仕事、向いていないぞ」といわれた。自分でもそうおもうようになった。それでも「現役」を続けられているのは、競技人口の少ないジャンルに変えたからだとおもっている。

 出版の世界では「裏方」といわれるような仕事もやってきた(実は今もやっている)。「裏方」をしながら、自分に合ったジャンルを探していた。

 週三日くらい漫画喫茶に通い、自分にも仕事ができそうなところはないかと片っ端から雑誌を読んだ。そのころ、ある女性ファッション誌で叶姉妹(当時、叶三姉妹)という謎のユニットを知った。まだテレビに出る前だったけど、すごいインパクトだった。「最近、何かおもしろいことある?」というお決まりの質問を受けるたびに、わたしは叶姉妹の話をした。その結果、「そういう話、書いてみない?」と雑誌評の仕事をするようになった。

 人生、何が起こるかわからない。叶姉妹には感謝している。

未読の本

 週末、高円寺の阿波踊り。昼すぎ、太鼓や笛の音で目が覚める。祭りの音でラジオも聴こえないくらい。祭りの期間中、駅のまわりが人だかりができる。午後六時、七時くらいは駅のホームは人でいっぱいで改札を出るまで時間がかかる。

 神保町に行って、帰りは中野駅から歩いた。深夜〇時、中央線のガード下がまっすぐ歩けないくらい人がいる。飲み屋が通路にテーブルや椅子を出し、酔っ払いだらけだった。ガード下は、ここ数年でもいちばんの混雑かもしれない。

 阿波踊り期間中、西部古書会館で古書展も開催していた。最近、本を買うのが古書会館ばかりになっている。
 行きつけの古本屋の棚と自分の読みたい本の傾向が重なる時期と重ならない時期があって、今はズレまくっている。そういうことはよくあるので、あまり気にしない。重なろうが、ズレようが、西部古書会館で買った古本を読む。

 二日目の古書会館は、多くの古本好きが買わなかった本が残っている。初日の午前中に行ったほうが、古書価の高い本を安く買える。でも今、わたしが読みたい本はそういう本ではない。自分がこれまで手にとってこなかった本を読みたい。

 一九八九年の春に上京して、毎日のように本を買っていた。買った本の半分かそれ以上は手放している。手元にある「未読」の本を読むだけでも何十年かかるかわからない。
 自分が知らないこと、考えてこなかったことは何か——これまで手にとってこなかった本の中にその答えがあるのではないか。

 古書展の最終日の夕方に売れ残っている本の中にもおもしろい本はいくらでもある。そのおもしろさを見つけるのも古本屋通いの楽しみだ。

2016/08/25

気分転換

 郷里の家の問題が片づいて、東京に帰ってきてから、ずっと仕事の日々(オリンピックと甲子園を観て、夜、ラジオでプロ野球のナイターを聴きながらだが)。
 外に出たのは知り合いにチケットを譲ってもらい、新宿に『シン・ゴジラ』を観に行ったくらい。『シン・ゴジラ』は堪能した。映画館でゴジラの曲がサラウンドで聴けただけでもよかった。

 あと外出もよかった。もうすこし出かけないといけない。
 在宅で仕事をしていると、からだを動かしているわけではないのに、疲れがなかなかとれない状態になることがある。よくない兆候だ。
 これといった運動をしていない以上、散歩くらいはしたほうがいい。電車に乗って移動するのもいい。

 二十代のころと比べると、仕事にたいする耐性がついた。その分、無理をしてしまう。無理は気疲れの元になる。

 終わらない仕事の途中いくつか区切りを作り、喫茶店や飲み屋に行って気分転換する。というか、酒が飲みたい。

2016/08/16

自足と寛容

《限りある時間と労力は、好きなことに注いだほうがいい、無駄ではないが、得るものが少ない努力はしない――というのが、自分の生き方の原則になっている》

……と、書いたが、言葉足らずだった。好きなことをやって食べていけるのであれば苦労はない。わたしは家で寝ころんで本を読むことが好きだが、当然、それでは仕事にならない。

 大学を中退して、フリーライターになって食っていけなくなったらどうするか。温暖な土地に移住し、畑を耕し、鶏を飼い、お金をつかわない生活をしようとおもっていた。ようするに、将来のことは考えてなかった。

 橋本治著『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』(小学館文庫)を読む。シリーズの最終巻だ。

《「“仕事”とはなんだろう?」ということになったら、「他人の需要にこたえること」である。需要がなかったら、“仕事”は“仕事”として成り立たない》

 とはいえ「他人の需要にこたえること」だけが仕事なのか。他人の需要にこたえつつ、自分がおもしろいとおもうこともできるのではないか。他人の需要にふりまわされて、自分を見失うこともあるのではないか。

『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』では「自給自足」を理想とする考えに疑問を投げかけている。

 自給自足は不自然な禁欲状態を強制し、「貧しさを維持すること」で成立する。

《カツカツの自給自足が、自給自足の状態としては理想的なのである。だから、自給自足は排他的になる。他人のことを思いやれるほどの豊かさがないからこそ、“カツカツの自給自足”なのである》

 たしかに“カツカツの自給自足”では「他人」を受け入れることができない。
 二十代のころのわたしは自分がどうにか食べていければいいと考えていた。三十代になっても、最低限の生活費だけは稼いで、あとは遊んで暮らしたいとおもっていた。

 そうした理想は他人にたいする「不寛容」にもつながる。でも「寛容」な「自足」の道もあるのではないか。この問いは、「自給自足」だけでなく、今の必要最低限のものだけで暮らすことを理想とする「ミニマリスト」といわれる人とも無関係ではない。

低迷日記

 時間ができたら……とよくおもうわけだが、時間ができて何がしたいかといえば、部屋の掃除である。とくに本の整理がしたい。本が増えると本の置き場所がなくなり、本の置き場所がなくなると、本を買い控えるようになり、その結果、低迷した気分に陥る。常にそのパターンをくりかえす。十年前のブログから同じことを書いている。

 ちょっと夏バテ気味。オリンピックと甲子園をだらだら観ている影響もあるかもしれない。頭がまわらない。仕事が手につかない。

 橋本治著『ぼくらの資本論 貧乏は正しい』(小学館文庫)を読む。この巻は「相続」の話からはじまる。『貧乏は正しい』は三巻目がよすぎて、この巻は印象が薄かった。かなりおもしろい。

《相続とはなにか? 相続とは、「生きて行く方法を相続すること」だ》

 わたしは勤め人(工場労働者)だった父の「生きて行く方法」を相続していない。
 郷里にいたときは、不向きなことばかりやらされていて、それができないと「ダメ」だといわれることが多かった(その記憶も曖昧になってきているが)。
 まわりから「できない」「つまらない」とおもわれていると、ちょっとくらい努力したところで立場は変わらない。明るくふるまっても無理しているかんじになる。

 時間に縛られず、黙々とやる作業は苦ではない。共同作業は苦手だった。自分のペースが崩れると、簡単な作業でさえ、こんがらがってしまう。毎日のように罵倒される職場で仕事をしていたこともあるが、これまでわりとできていたことができなくなって、自分がどんどん無能になっていく気がした。

 人の能力は、環境に左右される部分も多い。
 郷里に帰省すると、車の運転ができなかったり、朝起きられないだけで役立たずに成り下がってしまう。
 ずっと不安定な生活を送っていたけど、自分の不得意なことを要求されない環境はほんとうにありがたい。

『貧乏は正しい!』連載時、わたしは大学生で、二十二歳のときに橋本治の合宿に参加している。
 それからしばらくして大学を中退した。「生きて行く方法」がわからず、途方に暮れたこともあったが、限りある時間と労力は、好きなことに注いだほうがいい、無駄ではないが、得るものが少ない努力はしない——というのが、自分の生き方の原則になっている。

2016/08/13

三重と京都

 八月九日、吉祥寺SCARABで「夕涼み『オグラ三弦楽団』リサイタル」を観る。オグラさん、ピアノが原めぐみさん、コントラバスは新井健太さん(東京ローカルホンク)という「オグラ文化祭」でおなじみのメンバー構成。いいライブだったですよ。音楽の中にオグラさんが考えたこと——変わらない部分も変わった部分がつまっている。いろいろな音楽がまざりあい、「円熟」や「洗練」もされているのだけど、それ以上に「変」や「不思議」に磨きがかかっている。

 十日、三重に帰省。凍結されていた父の銀行口座の問題がようやく解決する。
 鈴鹿ハンターのゑびすやで天ぷらうどんを食い、二階のステップで衣類を買う。ハンターの近くにぎゅーとらというスーパーもできていて、大黒屋光太夫あられ(北野米菓)も買った。
 母に鈴鹿ハンターができる前は、どこで買い物をしていたのか訊く。ハンターはわたしが幼稚園のときにできた。それ以前の記憶がない。
「ハンターの前は平田駅前にジャスコがあった」「個人で野菜や魚を路地で売っている人もいた」
 ハンターのすぐそばにはアイリスというションピングセンターもあったが、いつの間にかなくなった。
 夕方、港屋珈琲でアイスコーヒーを飲む。行きの新幹線からずっと橋本治著『ぼくらの東京物語 貧乏は正しい!』(小学館文庫)を読み続ける。名著だ。三重を離れて二十七年のあいだに自分が通っていた喫茶店はなくなった。ドライバーという喫茶店で父は毎週のように通っていた。焼いたトーストに卵焼きをはさんだ卵トーストサンドが絶品だった。あとチャーハンも美味しかった。

 夜、テレビでナイター(ヤクルト中日戦)を見る。副音声でサカナクションの山口一郎が出演していた。中日ファンだったのか。知らなかった。
 朝七時くらいまで眠れず、起きたら昼。母に怒られる。
 近鉄電車で白子駅でいったん降りて、海を見る。それから特急で丹波橋まで、京阪に乗り換え出町柳に着いたのは夕方四時すぎ。下鴨古本まつりに行く。そのあと六曜社でコーヒーを飲んで、高瀬川のベンチで汗だくになったシャツを着替えてぼーっとしていたら、林哲夫さんと会う。ディランセカンドで善行堂の山本さんの還暦祝い(?)のイベントの二部に出席した。
 クジ引きがあって『京阪神 本棚通信』をまとめた冊子(山本さんの連載「天声善語」も所収)が当たった、というか、選んだ。

 そのあとレボリューションブックス(お酒が飲める本屋)で、扉野良人さん、東賢次郎さん、世田谷ピンポンズさんらと飲む。世田谷さんから『勇者たちへの伝言 いつの日か来た道』(ハルキ文庫)の増山実さんを紹介してもらう。
 チューダー、トキワ荘のキャベツ炒めなどのメニューがある(チューダーは売り切れだった)。

 この日は久しぶりに東さんの家に宿泊。あいかわらず、秘密基地みたいな家だ。住みたい。
 翌日、カナートまで東さんに送ってもらい、スガキヤのラーメンを食う。なぜ京都に来てまでスガキヤなのか。それから善行堂に寄る。自著にサインすると、山本さん、たまたま来ていたお客さんにサインしたばかりの本を売る。うらたじゅんさんの大きな絵を見る。ところどころ『sumus』の同人らしき人物も……。

 進々堂でアイスコーヒーを飲んで京都駅。新幹線で東京に帰る。車内で『勇者たちへの伝言』読みはじめ、止まらなくなる。主人公は父といっしょに西宮球場に行って、阪急ブレーブスのファンになる。
 しかし西宮球場もブレーブスもなくなってしまう。「勇者たち」は「ブレーブス」、副題の「いつの日か来た道」も別の意味がある。かけがえのない記憶を結晶化している。わたしも父といっしょに野球を観に行ったときのことをおもいだした。

2016/08/08

言葉があれば

 神保町で仕事、そのあと馬橋盆踊りに行く。高円寺駅から会場に直行し、ラスト十五分、汗だくになる。ひさしぶりに外飲み(といっても水割三杯)。お盆進行で酒を控え気味だ。ひまになりすぎないていどにのんびりしたい。

 日曜日、古書会館。暑い(会場の外)。十五、六年前の野球本が安くたくさん出ていた。

 自分の年齢が五十歳が近づいてくると、ふと「百年ってだいたいこの倍か」とおもう。若いころと比べると、百年、二百年といった歴史が理解できるのではないかという気がする。錯覚かもしれないが。

 中村光夫が四十代以降、文学よりも歴史に興味が向かうようになったというようなことをいっていたが、その気持もわかるような気がする。
 十代、二十代のころのわたしは、そのときどきの自分の心理状態、感情をあらわす言葉が足りなかった。言葉が足りなくて、何が何だかわからず、もやもやしたり、苛々したりすることがよくあった。

 フリーライターが仕事のない時期は無職と変わらない。貯金を切り崩し、本やCDを売って、売るものがなくなったら、アルバイトを探す。
 そういう時期に「就職しろ」とか「だから、おまえはダメなんだ」といわれると返す言葉がない。弱っているときに自分を否定する言葉を浴びても何もいいことがない。むしろ害悪にしかならない。

 言葉をたくさん知っていれば、楽になるというわけではないが、ないよりはあったほうがいい。

2016/08/01

ブログ十年

 二〇〇六年八月からブログをはじめて十年になる。当時、わたしは三十六歳。最初の単行本の刊行が、翌年の五月——当初は本のための未発表や未完成の原稿の整理とデータのバックアップも兼ねてブログを開設した。だから最初は非公開だった。

 高田馬場の居酒屋で古書現世の向井さん、「退屈男と本と街」の退屈君と飲んでいたとき「ブログを書きはじめた」といったら、ふたりに公開したほうがいいと勧められ、その日の晩に公開した。

 最初は書き下ろしのエッセイを中心に発表していたのだが、途中から日記とエッセイの中間みたいな文章になった。
 今は仕事の原稿にとりかかる前のウォーミングアップがわりにテーマを決めずに書くことが増えた。要は、素振りや走り込みみたいなものだ。

 商業誌の仕事は文字数の制約があるから書きたいことを書き切れない。昔からわたしはどうでもいい話(その日の体調とか弱音とか)から書きはじめて、推敲のさい、その部分を削ることが多かった。自分としては削ってしまう部分にも愛着がある。

 わたしは八百字くらいの短い原稿を書くのが好きなのだが、不特定多数の読者、自分のことを知らない読者を想定した原稿では、「主観」を薄めて書く。しかし、そういう原稿ばかり書いているとなんとなく欲求不満になる。どうでもいいことが書きたくなる。

 何を書くか決めず、だらだらと書きはじめ、どこに行き着くかわからない——というかんじの文章も書いてみたい。書きながら考える。考えながら書く。途中で行き詰まったら「続く」にすればいい。何かおもいついたら、また書けばいい。無理して書くことだけはやめようとおもっている。

 とりあえず、十年だ。今、四十六歳。十年後、どうなるかわからない。高円寺にいるかどうかもわからない。この先、ブログというサービス自体、存続しているかわからない。振り返ると、ずっと低迷していた気もするが、ブログを十年続けることができた。この十年で成長したかどうかはわからないが、わたしの目標は書き続けることなのだ。誰かに「やめろ」とか「つまらない」とかいわれても、わたしは続けたい。本が売れる。仕事の依頼がたくさんくる。そうなったら嬉しいけど、そういう目標は自分ではどうにもできない部分も多い。

 でも続けるかどうかは(ほぼ)自分次第だ。持続を目標にしていれば、そんなに大きくは間違えないとおもっている。

……というわけで、まだまだ続けるつもりだ。

2016/07/29

コンビニ人間

 先日、芥川賞を受賞した村田沙耶香著『コンビニ人間』(文藝春秋)を読んだ。

 コンビニでアルバイトをしている三十六歳独身の主人公は対人関係や社会性に問題を抱えた人物である。
 主人公の独特な思考や行動にたいする周囲の困惑を描くという構図はメルヴィルの『書記バートルビー』と似ている。ただし、バートルビーはコンビニのアルバイトはつとまりそうにない。

 主人公はとんちんかんな会話のやりとりをしたり、場の空気が読めなかったりする。いっぽう彼女のコンビニでの働きぶりは勤勉そのものだ。またコンビニの仕事内容の描写は圧巻だった。
 周囲の人たちは、彼女がずっとコンビニでアルバイトをしていること、三十六歳まで異性との付き合いがないことを不審がる。主人公の妹は姉にかわって言い訳を考えてあげたり、最低限の立振舞いを助言したりする。妹は姉の数少ない理解者である。

 長年、風変わりな姉の言動は家族にとって悩みの種だった。以前、専門のクリニックにも通ったが「治らなかった」らしい。
 家族が姉を「治したい」とおもう気持は否定しない。でもこうしたケースでは「治る」「治らない」ではなく、姉の「症状」にたいする「理解」を優先したほうがいい。

 この作品の主人公のような人物への家族の無理解はよくある話だ。でも主人公の妹はそうおもえなかった。姉の理解者とおもいながら読んでいた。だから物語後半の妹の「反応」がひっかかった。姉がクリニックで診断してもらった過去があり、医師から何らかの説明を受けていたのであれば、もっとちがった「反応」になったのではないか。

 単にわたしが作品に感情移入しすぎて、妹の「反応」に戸惑ったのかもしれない。こんなに作中の人物におもいをめぐらせるのはひさびさだ。

 冷静に読めば、姉の「症状」が、妹の予想をはるかに上回っていたゆえの「反応」と解釈できる。
 またわたしは「症状」と書いているが、作者はそのあたりの事情は用心深くぼかしている。一般論でいえば、主人公は「異常」なのかもしれないが、この作品では「正常」の側のおかしさも「公平」に描いている。

 話は変わるが、『コンビニ人間』の主人公の(ぎこちない)成長は人工知能の進化と重なっているような気がした。
 はじめのうちは多くの人が当たり前にできることすら、ほとんどできない。徐々に情報量を増やすことによって、できなかったことができるようになる。ただし、できるといっても、アプローチの仕方がまったくちがうから変なかんじになる。人工知能の場合、情報量が蓄積されるにつれ、特定分野においては人間の能力が凌駕するようになる。

『コンビニ人間』の主人公はコンビニ店員のエキスパートになることで自分が必要とされる居場所を見出そうとする。主人公や彼女のような人たちの未来が明るくあってほしい。そう願わずにいられない。

2016/07/22

又吉さんとピンポンさん

 石神井公園の自然派ワイン食堂クラクラで開催された「又吉直樹、世田谷ピンポンズ トーク・音楽ライブ『夜を乗り越える。僕は持て余した大きなそれを、』を見に行く。

 又吉さん、世田谷ピンポンズさんの詞を丹念に読み込んでいて、音楽愛あふれる解説をしていた。小説を読むこと、時間があるかぎり音楽をライブで聴きたいともいっていた。
 世田谷ピンポンズの「ファミリィレストラン」という曲の話をしながら、貧乏時代にドリンクバーだけでずっとネタ合わせをしていた話もよかった。
 わたしもかけだしのライター時代、阿佐ケ谷のファミレスで仕事していた。とくに夏は部屋にエアコンがなかったから頻繁に通った。そんなことをいろいろおもいだした。当時、ドリンクバーはなかったが。

 世田谷ピンポンズの新しいアルバムでは、小山清の随筆をモチーフにして作った「早春」という曲が気にいっている。この日のライブの一曲目で披露してくれた。ところどころ、回転数のちがう中島みゆきの声みたいだとおもったので本人にそう伝える。ピンポンさん、ちょっと困惑していた。

 自然派ワイン食堂クラクラ、料理うまかった。また行きたい。

 三輪正道著『定年記』(編集工房ノア)が刊行されていたことを知る。三輪さんの本は『泰山木の花』(一九九六年)から、だいたい五年に一冊くらいのペースで刊行されている。

 わたしは定年というか還暦まであと十三年。ライター業には定年はないが、仕事がなくなっても、ずっと書き続けていきたいとおもっている。
 ふりかえると十年なんてあっという間のことにおもえるのだが、これから先の十年は長く、重くかんじる。

 このブログもまもなく十年になる。
 何かをはじめるとき「とりあえず、十年」とよく考える。

 高円寺に引っ越してきたときも「とりあえず、十年住もう」とおもっていた。

 上京したばかりのころ、『東京 この街に住め!!』(JICC出版)というムックを愛読していた。そこに高円寺在住二十年のイラストレーターのコメントが載っていた。当時、高円寺に二十年住むというのは夢のまた夢だった。自分もいつかプロフィールに「高円寺在住二十年」と書けるようになりたいとおもった。
 もう二十七年だ。時が経つのは早い。

2016/07/21

四十九日

 連休中(七月十七日~十九日)、三重に帰省。父の四十九日。父の話は、今月発売の『小説すばる』にもすこし書いた。

 父はおとなしい人だった。わたしは父に怒られた記憶がない。父の死は悲しくなかった。自分は父の子でよかったとおもっただけだ。身内だけの家族葬をすませ、帰京して、いつも通り仕事をした。ただ、仕事以外のことはずいぶん不義理をしてしまった。
 父は最後の入院まで、ほとんど苦しまなかった。亡くなる二週間前に父の用事(マンションの更新の保証人)を頼み、ちゃんと返事をもらっている。

 子どものころ、鈴鹿の子安観音付属の幼稚園に通っていた。地図を見てみると、父が働いていた工場とすごく近い。幼稚園の園長さんは「ゴトウセンセイ」といって僧侶で絵のうまい人だった。
 父が亡くなったあと、母が子安観音の人に相談すると、神戸(かんべ)城のすぐそばにあるお寺を紹介してもらった。住職さんは中学生のときに書いた作文が吉永小百合のデビュー作の原作になったらしい。小説家志望だったとも。
 帰りぎわに「いい幼稚園に入れてもらったことを感謝しなさい」といわれた。

 父と母は家からこのお寺のあたりまでよく散歩していた。両親の散歩コースにはお寺や小さな神社がたくさんある。

 十九歳まで鈴鹿に暮らしていたが、知らないことばかりだ。東京にいて何もできないわたしのかわりに母方のおばやおじが母を元気づけたり、いろいろな手続きをすませてくれたり……感謝してもしきれない。

2016/07/14

政治家に求めるもの

 わたしが政治家に求めていることは三つある。

一、野次を飛ばさないこと。
二、人の話を聞くこと(聞くふりでもいい)。
三、物腰が柔らかいこと。

 政治信条以前の問題だが、この条件だけでも過半数の政治家は(あくまでもわたしにとってだが)失格になる。

……と、ここまで書いて、今回の都知事選の候補、石田純一でよかったのではないかとおもえてきた。冗談抜きで。

2016/07/12

ささやかな人生

 日曜日、昼すぎ、近所の小学校に行って、参議院選挙の投票。久しぶりに外食。ラジオでプロ野球のデーゲームを聴いて、夜は選挙特番を観る。

 駒沢敏器著『語るに足る、ささやかな人生』(小学館文庫)を読みはじめる。すこし前に読んだ平川克美著『何かのためではない、特別なこと』(平凡社)の中で絶讃していた本だ。

 駒沢敏器は二〇一二年三月、五十一歳で亡くなった。今、彼の本の何冊かは入手難になっている。
『語るに足る、ささやかな人生』は、アメリカのスモールタウンをまわった紀行文集だ。都会でもなく、観光地でもない、アメリカの発展から取り残された寂れた町をひたすら回る。

《しかしスモールタウンが都会と比べてネガティブなばかりの場所なのかどうか、そこは視点を少し変えてみなければならない。たとえばそこでは、家に鍵をかける習慣などいまだにないし、住民どうしが皆顔を知っているから、一定の距離を保ちながら互いを支え合って生きている。小さな町だけにひとりひとりの役割が与えられており、子供から大人まで、皆等しくその町の構成に参加している。犯罪はないに等しく、ささやかだけれど健やかな人生を描くことは可能だ。自分として生きることに手応えがあり、そこは確かな誇りにつながったりもする》

 昔ながらのコモンピープル(庶民)であることの美徳がこの本には綴られている。

《自分の生きる道筋を明確に立て、そのための地歩固めを早いうちからおこない、日々怠けることなく地歩に上に功績を築き上げていく意志を具体的・実用的に持たなければ、その人はもはやアメリカ人ではなかった》

《確かにスモールタウンは、見方を変えてみると住みやすい場所だ。土地は安いし自然は豊かだ。コミュニティもあるし、基本的な商店は一応揃っている。犯罪はないに等しく、子供を育てるには最適の場所かもしれない》

 あるスモールタウンの住民は駒沢敏器に「ここでは皆知り合いです。誰に対して何をしてあげればいいかを、ここに住んでいると学ぶことができます。そういう察知能力とか、個人が個人にしてあげられることの……あるいはすべきことの責任が、必要なこととして身につくんです」という。

 だからスモールタウンはいいという単純な話ではない。生活面は不便だし、よそ者に厳しいところもあるだろう。一概にはいえないが、アメリカのスモールタウンの人々は、都会の人より信仰心が篤く、古い因習が残っていて、家族の結びつきも強い。それゆえ、個人の自由は制限される。
 そのあたりは「昔はよかった」という議論と似ている。

 旅人としてスモールタウンを訪れたら、のどかで暮らしやすそうにおもえるかもしれないが、そこに住むとなると話は別だ。仕事の数も限られている。
 スモールタウンの価値観は、効率化や合理化と相容れない。

 今、自分のいる場所でささやかだけれど健やかな人生を送るにはどうすればいいのか。

2016/07/08

選挙

 身軽で気軽に生きたい……とおもっているが、自分の不安の根っこを突き詰めて考えてみると、住むところをなくすこと、メシが食えなくなることが心配の種だ。

 多くの人は貧乏になっても、寝る場所や明日食うものに困るほどの窮地には陥らない。ひとりくらいは頼れる親戚、友人知人がいるだろう。わたしも友人がほんとうに困っていたら、ひとりくらいなら面倒みる。でも二人三人は無理だ。

 寝る場所と食いものに困っている人を助ける。わたしが政治に期待しているのは、それに尽きる。

 健康で仕事もできて、人に頼らなくても生きていけることは幸福なことだ。政治家は幸福な人ではなく、そうではない人の味方であってほしい。

 長年、わたしは政治に興味がなかった。自分のための選挙となると、一票で自分の生活が変わるなんておもえない。一票で変わる生活も望んでいない。

 今は窮地に陥っている人の力になってくれそうな人に投票したいとおもっている。もしいたらだけど。

2016/07/01

EU離脱と日本

 ニューズウィーク日本版のコリン・ジョイスのコラム(Edge of Europe)を愛読している。毎回ほんとうに素晴らしい。

 今回のイギリスの国民投票は、体制派のエリート層がEU残留を主張し、特権階級に反発する層がEU離脱を支持した――そうした構図があるとコリン・ジョイスはいう(「パブから見えるブレグジットの真実」「特権エリートに英国民が翻した反旗、イギリス人として投票直後に考えたこと」など)。

《現代のイギリスでは、家を持つ人と持たざる人、裕福な地域に住む人と貧しい地域の出身者、専門職に就く者と低賃金労働者が大きく分断されている》(パブから見えるブレグジットの真実)

 体制派、産業界、メディアの人々は、イギリスのEU離脱を「正気ではない」という。彼らに共通しているのは「持たざる者」ではないことだ。

《残留派は自分たちの考えが言うまでもなく正しいと考えがちだった。同意見の人とばかり付き合っており、離脱派に正しいことを教えてやりたいのは山々だが彼らを説得する方法が分からないと考えていた。一方の離脱派は、そうした「都会派エリート」に怒りをおぼえ、彼らに指示されるのなんかお断りだと思っていた》(「特権エリートに英国民が翻した反旗、イギリス人として投票直後に考えたこと」)

 いわゆる都会派エリートは「持たざる者」が行く安さが売りのパブではなく、もっと「上品」なパブで酒を飲む。名門の私立大学を卒業し、ロンドンに家を持ち、EUから利益を得ている人たちの多くは「残留派」だ。彼らが「EUを離脱したら君たちの生活だって困る」と力説しても、今、すでに生活に困っている人からすれば「何いってんだ」ってことになる。さらにいうと、「残留派」による「離脱派」への批判の中には、「離脱」を支持する人にたいする「蔑視」の感情も含まれている。

 今回のイギリスの「EU残留/離脱」を問う国民投票は現状維持か変化かという二択でもある。
 現状に不満を抱えている人たちは、現状維持を望まない。仮に、離脱したことでさまざまな弊害が生じる可能性があったとしても変化を望む。そうした心情を「上品」なパブで酒を飲んでいる人たちはわからない。

 それがいいことかわるいことかはともかく、現状に不満を抱える層が多数派になれば、現状維持よりも変化を望む声が大きくなるだろう。現状よりもっとひどいことになる変化であってもだ。

 日本の都会派エリートの多くも「同意見の人」とばかり付き合っている傾向がある(いちおう自戒をこめてます)。それゆえ、彼らが正しいとおもう理路を説いても現状に不満を抱えている層には通じにくい。むしろ反発をまねくことのほうが多いかもしれない。すくなくとも現政権にたいする「ポピュリズムだ」「反知性主義だ」といった批判はまったく届いてないとおもう。

……と、ここまで書いたところで「『ブレグジット後悔』論のまやかし」というコリン・ジョイスの最新記事が公開された。

 国民投票の結果が出た後、離脱に投票したことを後悔している——という声がよくとれあげられている。わたしも日本のニュースでそういう映像をたくさん見た。

《これもあくまで一つの論として付け加えておくなら、もしも残留に決まっていた場合、きっと残留に投票した人の多くも、後々自分のしたことを後悔するようになると思う》

2016/06/25

三重と京都

 日曜日、三重に帰郷する。鈴鹿に滞在中、二日で三回、港屋珈琲に行く。
 朝七時すぎに起き、午前八時にモーニング(コーヒー+トースト+ゆでたまごのセットが三百九十円)。家の近所を散歩し、市役所や銀行などをまわったのだが、まだ午前中だ。一日が長い。
 ひさしぶり——三十年ぶりくらいに椿大神社にも行った(最近、パワースポットとしても有名らしい)。椿会館で天ぷら定食を食べ、土産にとりめしを買った。
 鈴鹿に帰ったら、椿会館のとりめしとゑびすやのうどんは食いたいとおもう。ゑびすやはかやくうどんを復活させてほしい。 

 わたしが上京した年に、両親は隣の駅に引っ越した。近所を散歩していても、「こんなところがあったんだ」という発見がいろいろある。今回、自分が通っていた小学校がけっこう近いことを知った。徒歩圏内に喫茶店やコンビニができたのもありがたい。

 三重に帰る前にメリーゴーランド京都の店長の鈴木潤さんの『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』(アノニマ・スタジオ)を読んだ。ふだんの生活を綴りながら絵本を紹介する日記のようなエッセイである。
 メリーゴーランドは一九七六年にオープンした三重の四日市にある子どもの本専門店。メリーゴーランドの京都店がオープンしたのは二〇〇七年。わたしも何度か古本市に参加し、鈴木さんにはお世話になっている。
 三重から京都に移ってから鈴木さんは結婚して二児の母になる。そんな大きな変化を経験しているにもかかわらず、絵本が好きというおもいは変わらない。

 四日市の人は語尾に「〜やに」と付く。わたしは鈴鹿出身なので「やに」はあんまりいわない。どちらかといえば「〜やん」が多い……とおもっていたのだが、帰省したら母が「やにやに、やにやに」いっていた。単にあまりにも聞きなれていて、自覚がなかっただけだった。『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』にも、ところどころ三重弁が出てくる。ちなみに、鈴木さんも「〜やに」をすごくいう。

 鈴鹿での用事をすませ、京都に行く。五条のcafeすずなりで『些末事研究』の福田賢治さん、東賢次郎さんと会う。途中から扉野良人さんも合流した(高円寺にいる気分になる)。
 鈴鹿にいるあいだは一滴も酒を飲んでなかったのでつい飲みすぎてしまう。

《かつて或る研究書の翻訳のなかで、ミクロロギーという言葉に「些末事研究」という訳語があてられているのを見て、なるほどと思ったことがある》(市村弘正著『[増補]小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー)

 福田さんが中央線沿線に住んでいたころ、市村弘正さんの本をすすめられて、この本を読んだ。ミニコミの『些末事研究』は、市村さんのこの文章からとった。
 身近なこと、些細なことを同世代の友人と話す。福田さんもわたしもずっとフリーランスなので、世事に疎い(福田さんはいっしょにするなとおもっているかもしれないが)。
 東さんも福田さんも以前は中央線沿線に住んでいて、今は京都と高松にいる。

 今、自分がいる場所で何ができるだろうということを考えたが、まとまりそうにない。

2016/06/19

ライクロフトの暮らし

 ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』が刊行されたのは一九〇三年。この小説は、ライクロフトが残した私記を季節ごとに分け、それをギッシングが編集したという体裁をとっている。

 いわば、架空の人物の架空のエッセイもしくは日記である。
 百年以上前に書かれた『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、今でも読み継がれている。

 ライクロフトは十代のころから文筆の世界に生きてきた。生活はずっと苦しかった。ところが、五十歳のときに、友人から一生働かなくても暮らせるくらいの額の年金を相続し、彼は風光明媚なイングランドの田舎に家を建て、悠々自適の生活を送る。

 羨ましい……とおもったが、ちょっと待てよ。
 二一世紀の日本であれば、ライクロフトのような生活は、莫大な遺産を相続したり、宝くじに当たったりしなくてもできる。
 五十歳のライクロフトはひとり身である。妻はすでに他界し、子どもは独立している。
 田舎に引っ越す前は、ロンドンにいた。
 都会を離れ、田舎でひとり暮らしをするのであれば、別に大きな屋敷に住む必要はない。小さな山小屋で十分だ。
 ライクロフトは、身のまわりの世話をさせるため、優秀なハウスキーパーを雇うが、それだって自分で家事をすれば、その分、金が浮く。
 ライクラフトは金のかかる趣味はしていない。草花を愛で、古典を読む。散歩と読書の日々だ。

 さて、そう考えると、どうでしょう。

 田舎だと、ひとり暮らし用の部屋を探すのはむずかしいかもしれないが、すこし不便なところなら、格安で一軒家が売っている。都内の家賃二、三年分でそこそこいい家を手にいれることもできるだろう。
 あと必要なのは毎月の食費や光熱費。収入がほとんどなければ、税金や保険料だってかからない。完全に仕事をやめるのではなく、「半隠居」くらいの感覚なら、何とかやっていけそうである。
 月十万円くらいの収入があれば、余裕かもしれない(病気やケガをしないという前提だけど)。
 夢物語とおもって読んでいた『ヘンリー・ライクロフトの私記』だが、暖炉のある家とハウスキーパーさえ諦めたら、ライクロフトのようなのんびりした田舎暮らしは不可能ではない。

……都会の暮らしに行き詰まったときの選択肢としてはありだ。

2016/06/14

金は時なり

 ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』の中に「時は金なり」の格言を「金は時なり」と言い換える文章がある。冬の章——けっこう最後のほうだ。

 岩波文庫の平井正穂訳では次のように綴られている。

《金こそが時間なのだと思う。金があれば、私は時間を好きなように買うこともできる。もし金がなければ、その時間もいかなる意味においても私のものとはならないだろう。いや、むしろ私はその憐れな奴隷とならざるえないだろう》

 光文社古典新訳文庫の池央耿訳は以下の通りだ。

《金は時なり。金さえあれば自由に使える楽しい時間を買うことができる。貧しくてはとうてい買えないどころか、その自由にならない時間の惨めな奴隷に成り下がるだろうではないか》

 冬の章の「金は時なり」の話にかぎっていえば、平井正穂訳のほうがしっくりくる。
 さらにこのあと「われわれが生涯を通じてやっていることも、要するに時間を買う、もしくは買おうとする努力にほかならないといえないだろうか」(平井訳)というライクロフトの問いかけがある。

 古典新訳文庫は「ただ時間を買うことに、あるいは時間を買おうと齷齪することに生涯を費やして何になろう」となっている。

 ちなみに、原文は《What are we doing all our lives but purchasing,or trying to purchase,time?》——である。

 冬の章を読むかぎり、ギッシングおよびライクロフトは「(お金で)時間を買うこと」を肯定しているような気がする。「金は時なり」は、貴重な真理なのだから。
 お金で自分の時間を買う。自分の時間はわずかなお金で買うことができる。逆にいえば、必要以上の金を稼ぐために自分の時間を失い続けるのは愚かなことなのではないか。

 定年まで働き続け、年金がもらえる齢になれば、自由な時間が得られる。しかし、齢をとって自由な時間を得たとしても、たぶん若いころと同じような時間の使い方はできない。
 わたしは二十代のころ、あまり仕事をしていなかった。もったいない時間の使い方をしたとおもっている。もっと働けばよかったとはおもっていない。もっと読んでおけばよかったとおもう本がたくさんある。
 金をとるか時間をとるかでいえば、できるかぎり時間をとりたい。やりたくないこと、したくないことをする時間を減らしたい。仕事そのものが好きでやりたいことであれば申し分ない。それはそれで容易なことではない。

 時間を買うことに生涯を費やして何になるか。時間を買うことで、憐れ、そして惨めな奴隷にならないですむ。

2016/06/13

ライクロフト

 先月末、『ギッシング初期短篇集 「親の因果が子に報う」他8篇』(松岡光治編訳、アティーナプレス)が新刊で出ていることを知り、注文した。ギッシングが生前刊行した本は一冊だけ……とおもいこんでいたのだが、勘違いだった。記憶はあてにならない。

 光文社古典新訳文庫の『ヘンリー・ライクロフトの私記』(池央耿訳)も読みたくなった。新訳のライクロフトさんのほうが難しい言葉をたくさん使っている。百年以上前の作品であるが、本を買うために食事を減らしたり、コートを売っても悔いはないと考えたりしていた貧乏時代のライクロフトの生活は、今の古本好きにも通じるところがある。途中、アイザック・ウォルトンの名前が出てくる。『釣魚大全』の作家である。ライクロフトはウォルトンの『フッカー伝』を激賞している。百年以上前の小説の中に、すこし前に自分が読んだ作家の名前と出くわすのは不思議な気分だ。

 主人公のライクロフトは、売れない作家で新聞、雑誌に雑文を書いていた(旧訳では書評の執筆もしている)。
 五十歳になって友人の個人年金を相続し、悠々自適の田舎暮らしをはじめる。ところが、ギッシング自身は四十六歳で亡くなっているし、晩年まで貧しかった。だから『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、架空のライクロフトなる人物にギッシングが自分の理想を託した小説ともいわれている。いっぽう生活の心配のなくなったライクロフトは、すこし偏屈で融通の効かないところもある。また彼の晩年の幸福は、作家として成功して得たものではなく、ただの偶然、運の産物だ。だから「私記」の中で、どんなに同時代の作家や評論家や出版人を批判しても、ちょっと説得力がない。

 ライクロフトの私記は、晩年のギッシングの理想を綴った小説、巧みな自然描写が魅力の小説という形で読んでいいのかどうか。苦労人の作家が、生活の心配がなくなったあとの心境の変化を綴った小説のようにもおもえる。
 そんなふうに自分の読みが問われるところも含めて、この小説をおもしろい。

 またこの「私記」の中には、ライクロフトの理想も綴られている。

《いつの場合も常識を標に人生の階梯を着実に登り、行い正しく、分別があって奇矯なふるまいはせず、自ずから周囲の尊敬を集め、めったなことでは他力を仰がず、自身は人を助けて、人格円満な上に思慮深く、幸せな人生を送っている人々。何と羨ましいことだろう》

 ライクロフトはそうでなかった。子どものころから、苦い失敗を繰り返してきた。まわりからも「要領が悪い」「間抜け」と叩かれた。自身の「平衡感覚」の欠落を自覚している。

 この一節を綴った文章のすこしあとにゲーテの言葉が引用されている。

《人は青春時代に憧れたものを晩年になって手に入れる》

 たしかにライクロフトはそのとおりになった。彼は好きなだけ本が読める生活に憧れていた。これはギッシングの願いだったかもしれない。

2016/06/08

境遇の犠牲者

 ジョージ・ギッシングは一八五七年十一月二十二日生まれ。一九〇三年十二月二十八日、四十六歳のときに肺病で死んだ。その境遇は悲惨だった……という話は、山田稔著『特別な一日 読書漫録』(平凡社ライブラリー)の「ヘンリ・ライクロフト または老いの先取り」で知った。

 昨年の秋、わたしは四十六歳になった。ギッシングと誕生日が近い(一日ちがい)。ギッシングは二十代のころから名前だけは知っていた。最初に読んだのは『ギッシング短編集』(小池滋訳、岩波文庫、一九九七年刊)だった。
 才能のない画家の悲劇を描いた「境遇の犠牲者」、落ちぶれた古本狂の「クリストファーソン」の二作が読んでいてつらかった。もちろん、つらいけど、おもしろい。どちらも言い訳ばかりしているダメ男の話だ。「境遇の犠牲者」の売れない画家は、田舎の家の二階の小さなアトリエで宗教画の大作を描こうとしている。
 そこに放浪中の高名な画家が、たまたま売れない画家の家を訪れる。彼が制作中の未完の大作には見るべきものが何もなく、言葉を失う。ところが、アトリエにあった地元の自然を描いた小さな水彩画には非凡なものがある。高名な画家は、彼が描こうとしている大作ではなく、水彩画を絶讃するのだが、売れない画家はその価値にまったく気づいていない。それもそのはず……。

 絵のことはわからないが、一足飛びに超大作を目指そうとすれば、挫折する可能性が高い(天才は別だ)。
 凡人は完成させる経験——形にする経験をたくさん積んだほうがいいのではないか。技術は使わないと衰える。条件が整うのを待っていたら、いつまで経っても形にならない。自分の力量を無視した大作に挑み続けるより、小さなスケッチをたくさん描いたほうがいい。

 ギッシング自身、生活に追われ、なかなか大作を書けなかった。

 山田稔の「ヘンリ・ライクロフト」に「精神の脂肪ぶくれ」という言葉が出てくる。恵まれた境遇にいる若い作家にたいする批判の文句だ。もうひとつ「平衡感覚の欠如」という言葉も印象に残っている。

『特別な一日 読書漫録』の平凡社ライブラリー版は一九九九年十一月に刊行されている。新刊ですぐ手にとった記憶がある。わたしは三十歳になったばかりだった。ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』のライクロフトは無名の文士である。ずっとロンドンで貧乏生活を送っていたが、五十歳のときにある幸運に恵まれ、田舎に家を建て隠棲する。

 生活に追われることなく、創作に打ち込みたい。しかしそんな日は来ないこともわかっている。それでも仕事の合間に、すこしずつでもいいから未完の大作に取り組みたい……という気持はあるのだが、おもうようにはいかない。愚痴です。

2016/06/04

足りない二分

 三重から東京に帰ってきて、杉浦日向子著『江戸におかえりなさいませ』(河出書房新社)を読んだ。
 杉浦日向子が亡くなったのは二〇〇五年七月——享年四十六。

 以前から杉浦日向子の作品を愛読していたが、四十代に入ってから再読する回数が増えた。『江戸におかえりなさいませ』に「日本人のスピリット」というエッセイがある。

《江戸の人達に共通に言えることは、私たちよりはるかに楽に生きて、楽に死んでいったのではないかということです。背負うものがとても少なく、必要最小限のもので暮らし、ものを持ち過ぎない。交遊関係もごく狭い範囲で少数の大切な人達に囲まれて一生を過ごす。病や死を恐れず受け入れて、病むべきときは病むが良き、死ぬべきときは死ぬが良きという死生観。衣食住、すべてが八分目。足りない二分をどう工面するかに頭を働かせ、他から借りたり、代用品で済ませたり、我慢したり。こうして二分の足りないところを毎日補っていたのです》

 書き写してから、この文章がそのまま帯文につかわれていることに気づいた。
 常々、わたしはそういう生活、生き方がしたいとおもっている。背負うものが少なく、ものを持ち過ぎない小さな暮らしに憧れる。

 杉浦さんは「江戸は丸腰、現代は過武装時代」だという。「日本人のスピリット」の初出は二〇〇二年である。

 江戸時代の人がみな身軽で気楽に生きていたかどうかはわからないが、すくなくともその傾向はあった。
 わたしも上京して、風呂なしアパートに住んでいたころ、テレビもエアコンも電子レンジもない暮らしをしていた。それで不便だったかといえば、最初からないと不便におもわない。ないならないで、それでやっていくしかない。

 今のわたしはほしいものがそんなにない。それより何もせずのんびりすごしたい。仕事と関係ない本をだらだら読みたい。天気のいい日にふらっと釣りに行きたい。
 ものよりも時間がほしい。
 時間さえあれば、足りない二分はいくらでも補える。

2016/06/03

大口の話

……『新潮45』6月号の髙山文彦の「石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」を読む。
 熊本の大地震のあと、熊本市内に暮らす石牟礼道子、渡辺京二を訪ねたレポートだ。この記事の終わりのほうで石牟礼道子が鹿児島の大口のことを語っていた。

《石牟礼さんは、鹿児島県大口市まで水俣駅から山野線に乗って行き、自分でつくった鯵や鰯の一夜干しを米と交換してもらっていた戦後の話に移る》

 石牟礼さんは「大口にも水俣病が出とっとです」という。知らなった。

 鹿児島県大口市は、わたしの父が育った町だ。熊本の県境にある。今は伊佐市と名称が変っている。
 父方の祖父は、戦前戦中に台湾の新竹市で砂糖の工場を営んでいた。戦後、鹿児島に引きあげ、大口で小さな商店をやっていた。アイスクリームやお菓子、インスタントラーメン、生活雑貨などを扱うコンビニみたいなかんじの店だった。二十四時間営業ではなかったが。

 中学の卒業後、高校入学前——かれこれ三十年以上前の話だが、わたしは父といっしょに祖母の葬儀に出席するため、大口に行った。近鉄で大阪に出て、そこから水俣まではブルートレイン、水俣から山野線に乗った。山野線は鉄道好きにはループ線としても知られている。山野線はすでに廃線になっている。
 伊佐美の甲斐商店も大口にある。年に一回、伊佐美は三重の家に送られてきた。父は大口酒造の黒伊佐錦もよく飲んでいた。

 父は四人兄弟の三番目、姉と兄、弟がいる。父の弟は岐阜で板前をしていて何度か三重の家に来たことがある。親戚付き合いはほとんどなく、いとこと会ったのもこのときがはじめてだった(名前しか覚えていない)。

 祖母の葬儀のあと、曽木の滝を見に行った。行ったのはおぼえているが、景色は忘れてしまった。
 父とふたりで旅行したのは後にも先にもこのときだけだ。鹿児島弁が、まったく聞き取れず、外国にいる気分だった。
「何いっているかわからんやろ」と父がいった。
 家にいるときの父は、鹿児島弁を喋らなかった。父が無口だったのは、方言のせいもあったかもしれない。

(追記)
 父は四人兄弟と書いたが、父が生まれる前に姉がひとり亡くなっている。
 父が生まれたのは台湾の新竹だが、そのすこし前まで祖父は台南にいたこともある。

2016/06/02

親と子

 月末、三重に帰省した。駅を降りた途端、秋の花粉症みたいなかんじになった。線路脇や空き地をよく見ると、ブタクサがけっこう生えている。
 五月に秋の花粉症はない……とおもっていたのだが、ブタクサの花粉の飛散時期は五月〜十一月らしい。

 ひさしぶりに母方のおばとおじと会った。母の妹と弟だ。子どものころ、ずいぶん可愛がってもらっていたのだが、上京してからはほとんど会っていなかった。
 わたしは東京にいて親の面倒をみることができない。おばとおじは車の運転できない母を買物に連れていってくれたり、父を病院に運んでくれたりしていた。世の中には親切でやさしい人がいる。

 八ヶ月ぶりに見た父の本棚には石塚真一の『BLUE GIANT』が八巻まで並んでいた。同じ作者の『岳』も全巻揃えている。

 子どものころのわたしは母親似だった。顔も性格も体質も。
 大人になるにつれ、父と似た部分が増えた。上京したとき、父が一九六〇年代に買ったスーツをもらった。採寸したかのように肩幅も足の長さもまったく同じだった。
 酒好きは父に似た。母はまったく酒が飲めない。
 両親の長所や短所が自分の中でごちゃまぜになっている。わたしと母は寝起きがよくない。基本夜更かしだ。父は決まった時間に起き、決まった時間に寝る。

 若いころの父は英米文学が好きだった。あと開高健と山口瞳。母は歴史小説ばかり読んでいる。母は歴史小説を読むときは年表や家系図を作り、知らない言葉をすべて辞書で調べる。

 離れた土地に暮らす親の老後の問題は厄介である。わたしはひとりっ子で頼れる兄弟姉妹はいない。田舎に帰れば、大半の仕事を失う。といって、東京に親を呼ぶのはむずかしい。田舎にいるときよりも生活は苦しくなるだろう。

 みんなどうしているのか。

2016/05/20

疲れているほうが

 すこし前にラジオのナイターで解説の山本昌がおもしろいことをいっていた。
 調子がよくてストレートのキレがいいときは変化球が曲らない。回が進み、疲れて腕のふりがすこし鈍くなると変化球が曲り出す。
 うろおぼえだが、だいたいそんなかんじの話だった。

 別の中継ぎ投手は、肩が軽くて調子がいいときはコントロールが乱れる。やや不調なくらいのほうが、その分、慎重になって狙ったところにボールが行くというような話をしていたこともある。

 わたしもちょっと疲れているときのほうが、本が読んだり文章を書いたりするにはいいとおもっている。もちろん、疲れすぎるのはだめだ。そうなると、何もできない。熟睡して頭も気分もすっきりしていると、本を読む気になれない。ずっと座って仕事をするのがつらくなる。四十代後半にもなると、やや不調の日ばっかりだ(そうじゃない人もいるかもしれないが)。油断すると、やや不調ですら維持できなくなる。

 山本昌の解説では、自分の現役時代をふりかえり、シーズンを通してほとんど万全な状態はなく、普通かやや不調かのどちらかだったとも語っていた。
 逆にいうと、やや不調なときでも「わるいなりにまとめる」力があったからこそ、現役最年長投手になることができたともいえる。

 ある海外の作家は、調子よくすらすら文章が走り出すとわざといったん筆を置くと語っていた。その話を聞いたときは「なんてもったいない」とおもったが、今はその理由がすこしわかる。
 調子よく書きすぎてしまうと次の日に反動がくる。すこし余力を残す。その匙かげんがむずかしいわけだが。

2016/05/18

働くのはそれからだ

 先週、『フライの雑誌』の堀内さんとあきる野市の養沢毛鉤専用釣場に行く。初フライフィッシング。四十代以降、すこし頑張れば達成できる目標がほしいとおもっていた。新しい趣味がほしいともおもっていた。
 初心者にはむずかしい釣りだが、うまくいかない中にも楽しさがある。釣りというのは、魚が釣れるからおもしろいとおもっていたのだが、たまにフライのついた糸が自分が狙ったところに飛ぶだけで嬉しくなった。今までやってきた釣りとまったくちがう。最初の一時間くらいは、ほとんど糸を絡めたり、木に引っかけたりしていた。
 フライフィッシングはおもっていたより忙しい。そのことは以前、堀内さんからすこしだけ聞いていたが、やってみないとわからないことだった。

 この続きはいずれまた。

 すこし前に読んだデビッド・マカルー・ジュニア著『きみは特別じゃない 伝説の教師が卒業生に贈った一生の宝物』(大西史士訳、ダイヤモンド社)に『マクリーンの川』の話が出てきた。

《ノーマン・マクリーンはその美しいエレジー『マクリーンの川』の中で「すべての良いことは……神の恩寵によるものだが、神の恩寵は人の行いによるものであり、人の行いというのはそう簡単なものではない」と書いている。まずは自分の時間をつぎ込んでもよいと思えるものを見つけることだ。求められているのは打ち込むこと——目標を持つこと——働くのはそれからだ》 

 デビッド・マカルー・ジュニアはボストンのエリート高校の先生で、卒業生にたいし、「きみは特別じゃない」という言葉をくりかえす。詩や文学、読書の素晴らしさを語りかけ続ける。打ち込めるもの、没頭できるものがある幸せをひとりでも多くの卒業生に伝えようとする。
 役に立つとか立たないとか関係なく、自分が没頭できるものを見つけること。ただし、何かにのめりこみすぎると、仕事や生活に支障をきたすこともある。ある時期から没頭する対象にブレーキをふむことが増えた。どこまでブレーキをふまずに打ち込めるか。

 頭ではわかっていることが、なかなかできない。

2016/05/14

これからの本屋

 五月の連休中、荻窪のささま書店、Titleに行った。Titleでは北田博充著『これからの本屋』(書肆汽水域)を買う。ささま書店には、鶴見俊輔の本が大量に並んでいた。棚一列以上はあったかもしれない。そのあと歩いて西荻窪の音羽館に行く。

 この先、本の世界が拡大していく可能性は低い。ただし、すくなくとも小さな商売が成り立つ程度には本が好きな人はいる。とにかく活字に触れていないと生きていけない“病人”もいる。
 個人の新刊書店の一角で古本を売り、個人の古本屋の一角で新刊を売る。『これからの本屋』という言葉から自分が連想したのは新刊と古本の境界がぼんやりしている世界だ。おそらく今後の新刊書店は、膨大な本を売る大型書店と小回りがきいて「一芸」に特化した小さな書店に分かれていくような気がする。

 出版不況はまだまだ続く。たぶん、ずっと下り坂だろう。書店に限った話ではないが、これまで人が行っていた仕事が機械化されていくだろう。
小さな店の場合、大きな店と同じやり方をしても通用しない。量やスピードではかなわない。零細自営業、フリーランスもそうだ。個人営業の本屋や喫茶店のある町も減り続けている。
 散歩のついでに本屋に行って、ふらっと喫茶店に入って、買ったばかりの本を読む。
 わたしの読書生活は限られた地域でしかできない贅沢になりつつある。

『これからの本屋』にはTitleの辻山良雄さんのインタビューも収録されている。

 本屋さんをはじめようとおもっている人に物件を探すためのアドバイスを訊かれ、辻山さんはこう答えている。

《できるだけ自分が好きな場所はどこなのか、という自分の気持ちに正直になった方がいいと思います》

 わたしは本屋のある町が好きで、本に囲まれた生活を続けたい。これからも。
 そのためにはどうすれば……ということを考えているのだが、今はまだ答えが見つからない。

2016/05/02

ひとつの窓

 一日、コタツ布団と電気ストーブをしまう。以前は六月までコタツをつかっていたのだが、ここ数年、ゴールデンウィークあたりにしまうことが増えた。
 エアコンの掃除、窓拭きもする。

 F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(小川高義訳、光文社古典新訳文庫)が電子書籍化されていたのでダウンロードした。
 冒頭付近で「私」は、読書の幅を広げようと考え、「もっとも専門性に乏しい専門家、いわゆる『オールラウンド』な人間になろうとした」とふりかえる。そのあとに続く文章が素晴らしかったので、おもわずメモした。

《いや、べつに警句を吐きたくて言ったのではない。人生は一つの窓から見るのがよい。最後にはそうなる》

 それから数日「ひとつの窓」について考えていた。いわんとすることはわかる。だが、どのくらいわかっているかは自信がない。

 世の中にたいし、漠然としたおもいしか抱けないのは、「ひとつの窓」を持っていないからではないか。たぶん「ひとつの窓」は、「専門」と同じ意味ではないだろう。
 わたしはどうも隙間産業気質が抜けず、小さな「窓」をたくさん作ってしまいがちである。その結果、どの「窓」から見たらいいのかわからなくなる。

 フィッツジェラルドの「ひとつの窓」でおもいだしたのは、星野博美さんの『銭湯の女神』(文春文庫)の「一〇〇円の重み」だ。
 一〇〇円ショップで買ったプラスチック製の健康青竹から町工場を経営していた父の話になる。一〇〇円の健康青竹を見た父は「これ、型を作るの大変なんだ」とつぶやく。プラスチックの容器を見ると、どんな金型で作られたのか気になってしかたがない。一〇〇円の商品だと金型を作る人たちにはいくらお金が入るのか。

《父は金型というドアから、社会の仕組みを見ている。金型から生まれた物すべてに愛着を持っている。そんな揺るぎないドアを持っていることが、私には羨ましい》

 わたしの知り合いだと、『フライの雑誌』の堀内正徳さんも「ひとつの窓」の人だ。釣り人の立場から、魚のこと、川のこと、自然のこと、社会のことまで持論を展開する。わたしもそうありたい。自分にとっての「ひとつの窓」を曇らせないようにしたい。

2016/04/25

ペリカンのワンマン

 日曜日、西荻窪CLOPCLOPでペリカンオーバードライブのワンマンライブ。初ワンマンは意外だった。CLOPCLOPは二十五周年。ペリカンの増岡さんはCLOPCLOPで十年くらい前に働いていた。店は超満員で入り口のドアをパタパタして、空気の入れ替えをしていた。ペリカンらしいパブロック。いつも尻上がりに調子がよくなっていく。歌もいいし、曲もいいし、演奏もかっこよくて、楽しくて、文句なしのライブだった。久しぶりに「ギターの中から」も聴けた。春の曲も春に聴けた(ここ数年、ペリカンオーバードライブは十二月にしかライブをやっていない)。

 途中からCLOPCLOPで知り合ったミュージシャンが次々と登場して、即興のパフォーマンスを魅せる。アンコールでは、ペリカン時代の常連組もギターやベースで参加。わたしもステージに上がりました。ちょっと恥ずかしかった。

 深夜〇時すぎまで打ち上げ、そのあと高円寺のネブラスカで朝まで。ネブラスカ、ひさしぶり。いい店。酔っぱらった。そのあと十二時間くらい寝た。不思議なくらい頭も気分もすっきりしている。

 また今日も飲む予定。

2016/04/23

ここが私の東京

 東京堂書店で岡崎武志著『ここが私の東京』(扶桑社)刊行記念(対談 岡崎武志×牧野伊佐夫)のイベントに行った。

 牧野伊佐夫さんは『ここが私の東京』の表紙、挿画も手がけている。
 佐藤泰志、出久根達郎、庄野潤三、司修、開高健、藤子不二雄(A)、友部正人、石田波郷、松任谷由実、富岡多惠子、そして最後に岡崎さん自身の上京物語——。
 東京堂書店での対談では「明暗」でいうと「明」の部分をおもしろおかしく語っていたが、「これが私の東京物語」では、上京するまでの「暗」の部分も綴られている。

『ここが私の東京』は、登場する人物のエピソードを掘り下げつつ、彼らが上京したころの時代背景も描いている。調べたことの半分以上は書かなかったとおもう。

 話は変わるが、わたしの父も昭和三十年代に鹿児島から上京している(『ここが私の東京』の出久根達郎さんとほぼ同時期だ)。ベニア板の工場から電気工場、それから自動車の部品を作る工場……。東京、静岡、三重と太平洋ベルト地帯に沿って仕事を変えた。東京時代の話は、ほとんど聞いたことがない。
 給料が安くて、服や靴が買えなかった。月に一本映画を観ることだけが愉しみだった。
 父は鈴鹿で母と知り合い、一九六九年の秋にわたしは生まれた。家は長屋だった。
 一九八九年春に上京した。最初は、東武東上線の下赤塚、その年の秋に高円寺に引っ越した。
 大学に通いながら、ライターの仕事をはじめた。仕事がおもしろくなって、大学を中退した。高円寺の風呂なしアパートに暮らし、古本屋と喫茶店と飲み屋をぐるぐるまわる日々を送っていたころ、岡崎さんと知り合った。

「これが私の東京物語」に高円寺の飲み屋「テル」の話が出てくる。わたしは丸めがねでおかっぱ頭の、声の小さな若者の「魚雷くん」として登場する。
 そのころのわたしは二十五、六歳、岡崎さんはひとまわり年上なので三十代後半だった。ときどき「もし上京しなかったら?」「高円寺に住まなかったら?」と考える。

 フォークが好きだった岡崎さんは、高円寺に憧れて上京した。
 この本の中にも中央線沿線の町がよく出てくる。
 今とは時代がちがう。それぞれ東京にたいするおもいもちがう。だけど、「上京者」には、どこか共通しているところもある。
 生まれ育った町を出て、上京する。ありふれた話だが、そこにはひとりひとりの特別な物語がある。

2016/04/19

気分転換

 熊本の地震から五日。数日、ニュースとネットに釘付けになっていたが、「これはいかん」と我に返る。あまりにも多くの情報に触れすぎると、混乱してしまう。いろいろ不安になる。日中、いつもより長く散歩することを心がける。

 今年に入って食わず嫌いだった梅干が食えるようになり、梅とおかかの和風チャーハンを週に二、三回作っていた。齢をとって味覚が変化したのか。納豆が食えるようになったことも関係あるかもしれない。
 食生活、味覚の変化は、人の性格にどのような影響を及ぼすのか。

 ゴールデンウィーク進行に入り、部屋が散らかりまくる。すこし前に「部屋の乱れは心の乱れ」という文章を書いたばかりなのに言行不一致である。
 約一週間、酒を飲んでいない。

 遊びたい。

2016/04/13

日常の椅子

 山川直人さんの『菅原克己の風景 日常の椅子』(ビレッジプレス)をゆっくり読んでいる。
 菅原克己の詩をもとにした漫画を集めた一冊なのだが、ところどころ、原詩とは言葉の順序がちがう。コマ割りが、そのまま詩のリズムになる。「ヒバリとニワトリが鳴くまで」がよかった。

《お前は詩を書くぼくを
 幸福だと思っているが、
 ぼくはよく眠るお前を
 幸福だと思っている》(ヒバリとニワトリが鳴くまで)

「喫茶店の中の二階で」は、山川さんのオリジナルの漫画といわれても信じてしまいそう。

『日常の椅子』の刊行を記念して五月三日(火)〜九日(月)まで、谷中ボッサで山川直人原画展も開催。
 12:00〜20:00

2016/04/11

私一個の見解 その二

……二十代半ばから三十代後半くらいまで、わたしは「古本好きのフリーター」という立場で文章を書くことが多かった。定職についたことがなく、ずっと不安定な生活をしている「わたし」が文章を書いたところで、何の説得力もない。
 どんな立場であろうと「私」には属性や肩書がつきまとう。それらから自由に「私一個の見解」を綴るのは簡単なことではない。また「私」と「現実の自分」は、時間の経過とともにズレていく。
 昔の文章の「わたし」と今の文章の「わたし」は同一人物だけど、別人でもある。昨日と今日でもちがうことがある。

 すこし前にテレビのコメンテーターの経歴詐称が話題になったが、出自や経歴や肩書の力なしに「私一個の見解」を伝えるには、何かと面倒なことが多い。
 いっぽう、いちど肩書がついてしまうと、そこに縛られる。仕事の依頼者は「元○○」や「現○○」の視点を求めてくる。当然だろう。

 縛られるものがないほうが、自由に文章は書ける。しかしわかりにくいものになることもある。「私一個の見解」の「私」が何者かわからない。匿名かそうでないかという話は関係がない。匿名でも「私一個の見解」を書き続けているうちに、ある種の「キャラ」もしくは「役割」のようなものが出来上がってくる。
 その「キャラ」や「役割」と現実の自分があるていど一致しているうちは問題はない。しかし、それも時間とともにズレていく。ズレをなくそうとしすぎるとおかしな文章になる。

 生活だけでなく、趣味嗜好は変わり続ける。その変化に文章が追いつかない。「私一個の見解」を綴るには「私」を微調整しないといけない。その微調整を怠ると、文章の「私」と現実の「私」のズレが大きくなってしまう。

 四十六歳の鮎川信夫は四十年前に書かれた津田左右吉の「日信」を読んで、こんな感想を述べる。

《すきなことをすきに書いて、そこに、てらいもなければ無理もなく、余裕しゃくしゃくとしているのである》

 どうすれば、そういう文章が書けるのか。その鍵は「ぼんやりした知識」だと鮎川信夫は述べている。「私一個の見解」もまたそうした「ぼんやりした知識」から抽出されたものかもしれない。

……続く。

2016/04/09

私一個の見解 その一

 日々の仕事や家事に追われて、新しいこと、やってみたいことに取り組めない。もう四月か。早い。こんなに早かったら、あっという間に一年すぎて、また齢をとってしまう。
 それでもだらだらと本を読む。本の中の言葉にすこしだけ背中を押される。考えているひまがあったら、からだを動かせ——というようなことが書いてあった。そのとおりだ。ただ、その動くための時間が、細切れでバラバラだから、形にならない。

 鮎川信夫著『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社)を読み返す。とくに最後の「『たしかな考え』とは何か」は何回読んでも身にしみる。

《物かきが、書くことに興味と自信を失ってしまえばおしまいである。物かきとして、おしまいなだけでなく、人間としておしまいであると思っている。にもかかわらず、そうした虚無感におそわれることは、しょっちゅうある》

「一人のオフィス」の連載(『週刊読売』)は一九六六年——鮎川信夫が四十五歳から四十六歳のときだ。「私一個の見解」を書くことがこの時評の軸だった。

「私一個の見解」は、どこまで「私一個」のものなのか。何を書いても、すでに似たようなことは誰かがいっている。自分の「見解」とおもっていることも、どこかの誰かの意見をそのままトレースしているだけの可能性もある。
 それ以上に「私一個の見解」を伝わりやすいように、あるいは反論がしにくいように、無難なものにしてしまうことが多い。

……続く。

2016/04/04

睡眠読書野球酒

 日曜日、寝起きの頭で西部古書会館最終日——。
 読書停滞期に入っている気がする。そういうときは未知の分野を開拓すべきであろう。しかしそう簡単に開拓できるのであれば、苦労はない。新規のジャンルを開拓するには熱意が必要である。
 とはいえ、不調なときは熱意が薄れているわけで……。だから何が何でも新規開拓しなきゃとおもいすぎないほうがいい。マンネリや退屈を楽しむ能力みたいなものは、調子がよくないときには重宝する。

 たぶん、マンネリやワンパターンというのは、褒め言葉ではないけど、ひょっとしたら長続きの秘訣かもしれない。

 日々の家事では、ワンパターンと自己模倣の連続といっていい。もちろん、多少は創意工夫もあるが、毎回ごはんの炊き方やみそ汁の味を変える必要はない。すくなくともそんなことをしていたら面倒くさくて続かない。
 新メニューは年二、三品あれば、十分だとおもう。年二、三品でも十年で二十、三十になる。

 本人はだしのとり方を変えたつもりでも、食べる人からすれば、いつもと同じ味としかおもえないということはよくある。

 プロ野球の試合だと、先発のローテーションがあり、リードしている場面では勝ち継投、同点や僅差ビハインド、敗戦処理など、それぞれの局面で投げるピッチャーは決まっている。いわゆる「勝利の方程式」といったパターンがあるチームは強い。
 シーズン通して調子のいい選手は稀だし、昨年うまくいった「勝利の方程式」が今年も通用するとは限らない。中継投手は「勤続疲労」も避けられない。

 話を強引に戻すと、読書生活みたいなものもローテーションがあり、継投パターンがある。一年くらいの単位ではあまり変化がなくても、五年十年という単位で見ると、読書傾向もずいぶん変わる。

 読書停滞期というのはローテーションや継投パターンの衰えかもしれない。深刻だが、よくあることだ。

 長年、好不調の波を経験してきたけど、食べて寝ること以上の解決策はない。結論が、ワンパターンで申し訳ない。

2016/03/31

古本屋写真集

 岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン共著『古本屋写真集』(盛林堂書房)を見ているうちに、いろいろなことをおもいだした。
 わたしが上京したのは一九八九年で中央線界隈の古本屋をよくまわっていた。阿佐ケ谷のブックギルド2はよく行った。漫画もけっこう多かった。
 高円寺に最初に出店したコクテイルの写真も懐かしい。わたしは『彷書月刊』のMさんといっしょに行った。二〇〇〇年か二〇〇一年ごろ、十五年くらい前の話だ。時が経つのは早い。

 古ツアさんの写真では横浜・大口のナカトミ書房が懐かしい。ずいぶん前に山田風太郎の初期の小説を買った記憶がある。
 高円寺の飛鳥書房は均一の文庫が五冊百円。飛鳥書房に寄ってOKストアで食材を買うのが日課だった。仙台のぼうぶら屋古書店は「七回目のチャレンジでようやく入れた幻店」とある。わたしもこの店にはなかなか入れなかった。

 ちょうど一年くらい前に『野呂邦暢 古本屋写真集』(盛林堂書房)が刊行されている。判型も同じ。二冊ともデザインは小山力也さん。

2016/03/27

ビッグデータ・ベースボール

 トラヴィス・ソーチック著『ビッグデータ・ベースボール 20年連続負け越し球団ピッツバーグ・パイレーツを甦らせた数学の魔法』(桑田健訳、角川書店)を読む。

《『マネー・ボール』でオークランド・アスレチックスが採用した指標は、今日の基準で考えるとかなり初歩的なものだった》

 マイケル・ルイスの『マネー・ボール』は十年以上前——アスレチックスのGMのビリー・ジーンは、出塁率をはじめたとしたデータをつかって、貧乏弱小球団を再生させた。『ビッグデータ・ベースボール』は、守備の指標をとりいれ、二十年負け越しのパイレーツをお金をかけずに強化する。今のメジャーでは、従来の定位置とはちがい、打者ごとに極端なシフトをひくことが主流になりつつある。

 守備を重視した結果、「よい投手」の条件も変わった。
 三振をたくさんとる投手より、少ない球数でゴロを打たせてアウトにする投手が重宝される。もちろん、従来の防御率が低くて奪三振率の高い投手が「よい投手」であることには変わりないが、そういう投手は年俸が高くて、貧乏球団はFAなどで獲得するのがむずかしい。
 限られた予算でチームを強くするためにパイレーツが選んだ戦略は、ビッグデータをつかって「失点」を減らすこと。
 そこでパイレーツは、打率は低いが、ボール球をストライクにする能力(ピッチフレーミング)の高いキャッチャーの獲得に乗りだす。投手の投手の球数も減らせるし、防御率の向上にもつながる。

 そこで二十年連続負け越しのパイレーツは、年々打率が下降し続けているキャッチャーと防御率五点台の投手をFAで獲得し、ファンや評論家を呆れさせる。だが、その補強がパイレーツの快進撃の原動力になる。

『ビッグデータ・ベースボール』のおもしろさは、数字の魔術だけでない。
 どれほど優れたデータがあっても、それを使いこなせるかどうかは別である。野球経験がほとんどない分析官の意見を反映させるためには、チーム内の人間関係も鍵になる。

 とはいえ、『マネー・ボール』のときもそうだったが、結局、新しい指標を取り入れたチーム作りのノウハウはあっという間に広まり、育てた選手やスタッフも資金力のある球団に奪われてしまう。
 弱小球団は後追いをやっても勝ち目はない。だから、新しい試みをやり続けるしかない。

 零細の自営業、自由業もそうだ。たいへんだけど、それしかない。

2016/03/18

五年後

 日曜日、東京野球ブックフェア、「ヤクルトスワローズ優勝記念 奇跡のツーショット 八重樫幸雄×杉浦享クロストーク(司会:長谷川晶一)」を見に行く。
 ブックフェアでは、マイク・ルピカ著『1998ホームランの夏』(ベースボール・マガジン社)、愛甲猛著『球界への爆弾発言』(宝島社)などを買った。

 火曜日、確定申告。税務署の建物のまわりをぐるっと長蛇の列。四十分くらい並ぶ。暖い日でよかった。寒かったら、体調を崩していた。帰りは阿佐ケ谷から高円寺まで歩く。歩いているうちに、斜めの道に入り、迷う。太陽の位置を見て、北の方角に向かう。しかし、どんどん高円寺から遠ざかっていくような違和感をおぼえる。しばらく歩くと、五日市街道と青梅街道の交差するところに出た。道は合っていた。
 方向音痴の人間は、自分の勘を信じてはいけない。

 歩いている途中、震災の年の確定申告をおもいだす。ペットボトルの水やトイレットペーパーや乾電池が売り切れていた。
 そのころ五年後の自分の生活は予想ができなかった。予想以上に変化がなかったが。
 二〇一一年のペナントレースは終盤、ヤクルトはケガ人が続出し、大失速した。前年のドラフトで即戦力の先発投手を当てていたら、リーグ優勝していたかもしれない。しかし、外れ外れ一位の山田哲人選手が入団していなかったら、昨年の優勝はなかったかもしれない。
 昨年のドラフトは、高山俊選手を外し、原樹理投手がヤクルトに入った。今後、このクジの結果がどう出るか。

 今、おもうようにいかないことでも、五年後どうなるかはわからない。その逆も。

2016/03/09

ゾンビの話

 昨日午前四時、外に出たら、すごい霧がかかっている。数メートル先が見えない。

 ここ数日、キンドルで『ウォーキング・デッド』(アメリカのゾンビドラマ)を観ていたので不安な気持になる。

 映画やドラマでは、勇気ある主人公はどんなに危険な目にあっても間一髪で助かる。酷い奴は、途中で改心しないかぎり、たいてい非業の最期を遂げる(もちろん、例外はある)。

 その他大勢は、脚本家のさじ加減で運命が決まる。主人公の選択に自分の生死が左右される。もし主人公の勇気ある選択によって、その他大勢が全滅したり、ズルい奴や酷い奴が生き残ったりすれば、後味がわるすぎてドラマにならない。

 ゾンビは昼より夜のほうが活発になる。音に反応する。頭が弱点である。人間たちは、限られた武器でどう戦い、どう助け合い、どう生き残るか。ゲームを観ている感覚と近い。

『ウォーキング・デッド』の逸話で主人公たちが身を寄せる農場からすこし離れた場所に、別のグループが存在することがわかるシーンがある。偶然、飲み屋でそのことがわかり、別のグループの人間が農場のことを探ろうとする。これ以上、農場は人を受け入れる余裕がない。食料や薬には限りがある。もし受け入れたら、彼らに襲われる危険性もある。さて、どうするか。

 主人公たちは一話ごとに追いつめられた状況下で、ギリギリの選択がせまられる。自分たちが生き残るためには、残忍な決断を下すしかない局面もある。きつい話の連続だ。主人公のキャラクターも含めて、アメリカの社会状況が反映されている気がする。

 消耗したので、すぎむらしんいちの『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ』(現在五巻まで。講談社)を読んだ。中野ブロードウェイを舞台にしたゾンビ漫画である。素晴らしく、くだらない。こちらは日本の社会状況が反映……されているかどうかわからない。

2016/03/04

西荻窪〜高円寺

 三日(水)、西荻窪FALLで開催中の『なんとなく、クリティック』『nu』『DU』の編集者三人による「なnd(なんど)」の展示を見に行く(『BOOK5』の松田友泉さんに教えてもらった)。

 三月二日(水)~六日(日)
http://gallery-fall.tumblr.com/post/139715324657/2016-3-2-wed-3-6-sun


 最新号の『なnd 4』はコラムが充実、読みごたえあり。お店でものを売ること、活字で本や音楽や映画を紹介すること、たぶん重なるところはいろいろある。そのあたりが、FALLと『なnd』は絶妙な組み合わせとおもったのだが、それがどう絶妙なのかはうまく説明できない。

 そのあと高円寺JIROKICHIで東京ローカル・ホンクのライブに行く。いつもいいけど、この日はとくによかった。完璧な演奏やコーラスに自由さが増している。感嘆。メンバーそれぞれの見せ場も多く、涼しい顔で信じられないような手や指の動きをしている。虫電車、ハイウェイ、遅刻します……ふと「今、自分はとんでもないものを見ているんだな」という気分になる。打ち上げにも参加し、ペリカン時代で酔いさまし(珈琲もうまいのです)。

 いい一日だった。やや二日酔い気味だが。

2016/02/29

オデッセイ

 新宿TOHOシネマズで『オデッセイ』を観る。映画館で映画を観るのは六年ぶり(その前に観たのは細田守の『サマーウォーズ』だ)。
 3D映画、はじめて観る。3D酔いという話を聞いていたのだが、大丈夫だった。ただ、帰り道、足がふらついた。

『オデッセイ』は、植物学者が、火星でひとり取り残されて、ジャガイモを育てて、生き延びて地球に帰ってくるという話だ。わたしはサバイバルものは何でも好きなのだが、『オデッセイ』のストーリーに関してはやや不満が残った。

 わたしがこの映画の日本版を作るとすれば、主人公は眼鏡で植物の生態には詳しいが、それ以外のことはからっきしダメというタイプにしたい。『オデッセイ』の植物学者、アメフトの選手みたいな体格しているのだ。学者に見えない。地球との通信機能もすぐ回復しちゃうし、そもそも火星で植物が育てられるくらいの未来の世界であれば、脱出用の自動操縦の小型宇宙船が一台くらいはあるだろう(もちろん、そんな宇宙船があったら、この映画は成立しないが)。

 好みの問題といえば、それまでだが、主人公が不死身すぎたり、万能すぎたりすると、どうしても興ざめしてしまう。

 未来を舞台にした作品の場合、科学技術の進歩の想定をどうするかはむずかしい問題である。あまりにも何でもありだとそれはそれでつまらない。

2016/02/21

コリン・ジョイスの新刊

 今日(二十一日)の毎日新聞の書評欄にコリン・ジョイス著『新「ニッポン社会」入門 英国人、日本で再び発見する』(森田浩之訳、三賢社)の短評を書きました。

 この本の中に『モンキー』という日本のテレビドラマについて書いた文章がある。コリン・ジョイスは一九七〇年生まれでわたしと同世代なのだが、今、イギリスの四十代くらいの人は子どものころ、『モンキー』という日本のドラマ(英語版)に夢中だった。トリピタカ、モンキー、ピグシー、サンディがウエストにジャーニーする冒険活劇で、わたしも小学生のころ毎週見ていた。
 この番組の影響でコリン・ジョイスはゴダイゴのファンになっている。

 三賢社は二〇一五年創業の出版社。最初に作った本がコリン・ジョイスの本というのはすごい。嬉しい。『ニューズウィーク日本版』の「Edge of Europe」には毎回唸らされている。今、日本語で読める最高峰の海外コラムだろう。わたしはジョージ・ミケシュの再来だとおもっている。三賢社のホームページでも、コリン・ジョイスのコラムが読める。楽しみが増えた。

オグラ、一人ピーズ、サード・クラス

 金曜日、神保町で打ち合わせ。帰りに新宿レッドクロスで「はかまだ企画Vol.4」オグラ&ジュンマキ堂、一人ピーズ(大木温之)、サード・クラスのライブに行く。
 すべて立ち見で満席。最初から最後までずっと楽しかった。曲を聴いているあいだ、いろいろな記憶が甦って、勝手に感極まる。

 お金がなくて本やレコードやCDをいっぱい手放して自分のやりたいことができなくて焦ってどうしていいかわからなくなって……という二十代三十代を経て四十半ばすぎて新宿のライブハウスで飲みすぎて終電乗りすごしてタクシーで高円寺に帰って人生捨てたもんじゃないとおもった一日だった。

2016/02/19

二十五年前

 水曜日、神保町。信号待ちをしていたら『閑な読書人』(晶文社)の担当編集者のKさんに声をかけられる。神保町で知り合いに会うのはよくあることだが、毎回ドキっとする。

 すずらん通りの古本屋で『PENGUIN?(ペンギン・クエスチョン)』(一九八四年八月号、現代企画室)を買う。二百円。この号の特集は「グリコ事件の『構造と力』」。編集人は中西昭雄、発行人は北川フラム。表紙には朝倉喬司、平岡正明の名もある。「宮松式おしっこ健康法・総集編」という記事も……。

 今月の『小説すばる』の連載「古書古書話」は、竹中労の「80年代ジャーナリズム叢書」(幸洋出版)と『無頼の墓碑銘』(KKベストセラーズ)を紹介した。この連載で竹中労のことを書くのは二回目。

《ぼくははっきりいいますけどサダム・フセインの味方です。ほんらいアラブには国境はなかった》(「戦争はおとぎ話しじゃないんだ」/『無頼の墓碑銘』)

 引用文は『ポップティーン』(一九九一年四月号)が初出。最晩年の竹中労の檄文である。

《単純に、戦争賛成か反対かっていう考えでやっていくと危ないよ。それじゃ、足元すくわれるんじゃないの》

 この言葉は今もひっかかり続けている。 

2016/02/12

スカパー!の番組に出ます

 昨日あたりが「冬の底」かな、と。これからすこしずつ調子を上げていきたい。

 十日(水)、コクテイル書房で開催された久住昌之、久住卓也トークショーに行く。新刊の久住昌之著『東京都三多摩原人』(朝日新聞出版)の刊行記念。久住さんの中学、高校時代あたりの話がおもしろかった。とにかく記憶力(どうでもいいことの)がすごい。

 明日十三日(土)、「Edge2 寝てもさめても古本暮らし 荻原魚雷」21時00分〜21時30分 スカパー!ベターライフチャンネル ch.529という番組が放映されます。

 昨年の七月からだいたい二ヶ月くらい取材を受けたのですが、どんな番組になっているのかまったくわかりません。
 京都の『sumus』のトークショーと高円寺界隈の散歩、自宅で古本のパラフィンをかけるシーンなどを撮影。ずっと挙動不審だった気がする。
 同番組では『sumus』同人の岡崎武志さん、林哲夫も登場しています。

2016/02/08

伊賀越え

 日曜日、西部古書会館。寝起きの頭で本棚を見る。背表紙に反応できず、棚を素通りしてしまう。ところが、しばらくすると、さっき見過ごした棚に読みたい本が何冊か見つかる。三冊買う。千円。

 新しい靴を買ったので、散歩の時間がすこし長くなる。靴底のつま先の部分が(地面にたいし)すこし浮いているウォーキングシューズで歩くのが楽。そうではない靴を履くと違和感をおぼえるようになった。

 夜、『真田丸』見る。たまたまテレビをつけたら、本能寺の変の後で徳川家康の伊賀越えの場面がはじまる。
 落ち武者狩りを避けながら、道なき道を逃げ続ける家康。案内役の服部半蔵(二代目)は、ハマカーンの「下衆の極み」の人だった。

 吉村昭著『大国屋光太夫』(上下巻、新潮文庫)では「家康一行は、伊賀者の巧みな案内で白子浦にたどりつき、廻船業者に渡海を依頼した。業者は快諾して船を出し、家康は海をわたって三河国大浜に上陸して無事に岡崎に帰城した」とある。

 そして——。

《そうしたことから白子浦は、幕府から特別な港として目をかけられ、それが一層の繁栄をもたらした》

 吉村昭は白子(鈴鹿)説なのだが、ほかにも四日市説や津説もある。『真田丸』ではどの港から出たのかは省略されていた。

2016/02/03

努力の才能

 毎年のことだが、冬は寝起きがつらい。子どものころからそうだった。苦手意識は克服できないものだ。長年の(自分)統計によると、気温が十度以下になると心身ともに不調になる。

 二十代のころは体力のなさを気力で補えると考えていた。三十代のある時期からその考えを捨てた。
 心にからだを合わせるよりもからだに心を合わせるほうが楽である。

 色川武大の「欠陥車の生き方——章」(『うらおもて人生録』新潮文庫)の教えは助けられた。欠陥車だから、急発進急停止はしない。スピードも出さない。からだや頭の働きがよくないときはよくないなりに最低限のやるべきことをやればいい。年々、自分を操縦する、運転するという技術は長けてきている(とおもう)。

 英和辞書で「natural」という単語をひいたら、「自然の」「生まれつきの」「天性の」といった意味だけでなく、「無理がない」という訳語がある。
 ここ数年、個性や才能というのは、自分の身体性に限定されているとおもうようになった。
 からだが弱々なのに、短気だったり強気だったりすると疲れる。からだの弱さに合わせて気持をゆるめる。長年、試行錯誤を重ねるうちにそういう感覚がすこしずつ身についてきた。

 最近、気になっているのは「努力の才能」という言葉だ。努力せずに、達成できるレベルには個人差がある。努力なしに達成できる地点の先に行くには努力するしかない。そんなに努力しなくても、そこそこのレベルに達してしまえる人は、天性の才能の持ち主かもしれない。ただ、そういう人は努力の仕方がわからない。むしろ技術や技巧を獲得していく過程で苦労したタイプのほうが、努力のノウハウをたくさん持っている。

 弱いからこそ身につく才能や不器用だからこそ宿る才能がある。「努力の才能」がないとおもっている人は、努力できることを探すところからはじめるしかない。自分を強化していくのでなく、自分をコントロールしていく努力もある。

 起きてから二、三時間は役に立たないからだにしてはよくやっている。そうおもうと気が楽になる。

2016/01/28

コースの果て

 山田風太郎著『昭和前期の青春』(ちくま文庫)を読む。〈山田風太郎エッセイ集成〉の文庫化。「太平洋戦争私観」というエッセイでは、あまり大きな顔をして口には出来ない戦中派である自らの戦争観を述べている。

《簡単にいうと、太平洋戦争は、あのとき愚かにして狂信的な軍閥が、突如として起こしたものではない。明治以来、日本人の大半がめざし、走りつづけて来たコースの果てだ、ということである。従って、太平洋戦争を否定することは、明治以来の日本の歴史を否定することになる》

 山田風太郎は「愚かで、悲惨で、『不正』の分子をふくむ戦争であったことは否定しない」といいつつ、それでもなお全否定しない。日本人は、欧米列強の傍若無人な弱肉強食ぶりに衝撃を受けた。列強に学び(山田風太郎いわく「猿真似」)、その餌食になる難を逃れようとした。

 戦前も戦後も日本は「コース」を走り続けている。戦前は軍事大国、戦後は経済大国を目指す「コース」だ。「コース」を修正することは、おもいのほかむずかしい。

 山田風太郎は昭和二十年以前と以後を「昭和前期」「昭和後期」に分ける。「昭和前期」は、黒船以来、日本は武力による侵略という欧米列強の物真似に奔走した。

《その日本の歴史の流れが、実は世界の歴史の流れに逆流するものであったことは、戦後になって日本人がはじめて知ったことである》(私と昭和)

 今の日本はどんな「コース」「流れ」にあるのか。
 わたしの希望としては、いかなる「コース」や「流れ」であれ、邁進してほしくない。暴走してほしくない。どんなに「コース」や「流れ」が正しくおもえても、常に懐疑すること。ときどき立ち止まり、もしくはスピードを落とし、まわりを見渡すこと。できれば「コース」はひとつに絞らないほうがいい。

(追記)
 山田風太郎の「コースの果て」という言葉について考えているうちに、邁進や暴走ではなく、なしくずしで危機に陥るケースも多いことに気づいた。むしろ、怖いのはこっちかもしれない。

2016/01/19

まじめとテキトー

 日曜日、ジャガイモとたまねぎが余っていたので、久しぶりに大きめの鍋でカレーを作る。カレーを作ると食べすぎて太るようになって、この一年くらいずっと小さな鍋で作っていた。

 明け方、雪がつもる。雪の日は睡眠時間がズレる。朝十時くらいまで眠れなかった。ニュースで高円寺駅の改札前が映っていた。中央線が間引き運転で、ホームから人があふれるのを避けるため、入場規制していたようだ。
 起きたら夕方。仕事と関係ない本を読みながら、部屋の掃除する。

……『望星』2月号の古書現世の向井透史さんのインタビュー「街と古本屋さんの関係」を読む。
 この四半世紀くらいの世の中の移り変わりについて、考えさせられるインタビューだった。すごく読みごたえがあった。

《昔はまじめにやっている古本屋とテキトーにやっている古本屋の差があまりなかったのですが、いまはテキトーにやっていたら商売になりません》

 テキトーにやっている人がそこそこ食えて、まじめにやっている人はそれなりに儲かる。理想はそうなのだが、現実はそうではなくなりつつある。だったら、まじめにやれよということになるのだが、みんながまじめになったら、まじめにやっていても食えない人が出てくるわけで……。

 これは古本業界にかぎった話ではなく、あらゆる仕事がそうなっている。
 まじめに生き残る努力していくか、まじめ競争から降りて独自路線でいくか。

 仕事(商売)でむずかしいのは、これさえできればうまくいくというやり方を続けていると、いつしか行きづまってしまうことだ。
 うまくいったやり方が、うまくいかなくなる境目みたいなものはどこにあるのか。

 自分の仕事に関していえば、まじめとテキトーがほどよく混ざっているかんじがいちばんしっくりくる。
 ベース(土台)の部分はまじめにやりつつ、どこかしらテキトーな部分を残しておく。

 向井さんがこれからやろうとしている方向性も興味深い。

2016/01/16

禅とオートバイ修理技術

 原稿を書いて、編集部にメールで送信する。そのあとゲラが出て、誤字脱字事実誤認などをチェックする。
 そこで一段落——。

 ところが、原稿を書き上げたときに「終わったー」と気持になる。メールのソフトを立ち上げると、別件のメールが届く。急ぎの用件だと、すぐ返事を書く。返事を書いているうちに、書き終えたばかりの原稿を送信し忘れて、そのまま寝てしまったり、外出してしまったりする。……というミスを昨日やってしまった。どうにか事無きを得たが。

 慣れた仕事や作業でもミスは出る。ミスはしないほうがいいが、そうおもっていてもやってしまう。

 ロバート・M・パーシグ著『禅とオートバイ修理技術』(上下巻、五十嵐美克訳、ハヤカワ文庫)を読みはじめる(まだ一巻の途中までしか読んでいないが、傑作の予感)。著者のプロフィールが壮絶すぎる(ぜひ、書店で手にとって見てほしい)。原書は一九七四年に刊行。

《バイクの旅には二級道路がいい。何と言っても舗装された郡道は最高である。その次が州道で、高速道路は最悪である。私たちは、ただひたすら楽しく時を過ごしたいのである。いまの私たちにとっては、「時間」よりも「楽しい」ことが大切であり、いったんその重きを移動してしまえば方法のすべてが違ってくる》

 昨年、読んだジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱 チェスから武術へ』(吉田俊太郎訳、みすず書房)の中で、『禅とオートバイ修理技術』の話が出てきて、ずっと気になっていた。ちなみに、ジョッシュ・ウェイツキンは、映画化された『ボビー・フィッシャーを探して』のモデルになった少年でもある。

 心、精神の問題を習得(修理)可能な“技術”としてとらえ直す。今のわたしはそういうことに興味がある。もうすこし研究が進めば、うっかりミスも減らせるのではないかとおもっている。

2016/01/12

近鉄の時刻表

 十日、今年初の西部古書会館。古書会館の場合、安くていい本なら初日の午前中、のんびり本を探すなら二日目の昼以降がおすすめだ。初日のお客さんが、買わなかった本の中にもおもしろい本はある。

 この日の収穫は、近鉄の時刻表(一九八五年)だ。この年、鈴鹿から津の高校に通うため、はじめて近鉄の定期券を持つようになった。時刻表そのものは、とくに使い道はないのだが、時刻表の中の路線図、近鉄百貨店の広告を見ているだけで、忘れていたことをおもいだす。

 近鉄沿線は名古屋、大阪、京都につながっている。わたしは高校卒業するまで、ほとんど沿線の外に出たことがなかった。またその外で暮らそうともおもっていなかった。

 高校三年のとき、父は今のわたしの年齢で東京に単身赴任していた。父は自動車の部品を作る工場で働き、風呂なし台所トイレ共同の四畳半の寮に住んでいた。

 一浪した後、東京の私大に入学し、そのまま父の住んでいた寮の部屋が空いていたので転がり込んだ。
 一九八九年の春——後にバブルと呼ばれる好景気のころの話である。もし十代後半がこの時期と重ならず、父が単身赴任で東京にいなかったら、たぶん上京するという選択肢はなかった気がする。父の会社の寮の家賃は光熱費込みで月千円だった。

 近鉄文化圏から東京に暮らすようになって二十七年。
 二十七年前と今では世の中もずいぶん変わった。人生は小さな選択のくりかえしで、その選択のひとつひとつはどっちを選んでもたいしたちがいがないようにおもえる。

 ただ、どこに住むかという選択は、想像以上に大きなちがいが生じることがある。
 近鉄の時刻表を見ながら、もし近鉄沿線に暮らし続けた場合の自分を考えてみる。どうなっていたか、想像もつかない。

2016/01/08

G線上のあなたとわたし

 正月休み中、いくえみ綾の『G線上のあなたとわたし』(現在二巻まで、集英社)を読んだ。
 寿退社した当日に婚約破棄されてしまった主人公の小暮也映子(二十五歳)が、バイオリン教室に通う。也映子以外の教え子は、パート主婦の北河幸恵(四十一歳)、大学生の加瀬理人(十九歳)。講師の久住眞於(二十六歳)は、理人の兄の元婚約者である。物語はそんな四人の人間模様(それぞれ悩みを抱えている)を軸に展開していく。

 三人の教え子たちは、別にこれから音楽の道で生きていこうというような夢や野心はない。

「先週うまく弾けてたところが今日はもう弾けない」

「あたしたちの発表会なんて誰が失敗しようが怒る人もいないし失うものなんてなんもないし」

 素人が素人に毛がはえたレベルに到達するために悪戦苦闘する。そんな素人なりの微妙な不安と迷いが、見事というしかないくらい絶妙に描かれている。
 わたしも二十代の半ばごろ、将棋の勉強をはじめた。四十六歳の今、釣りをはじめたいとおもっている。
 どんなに低いレベルであっても、わからないことがわかったり、できなかったことができたりするのは楽しい。楽しいけど、同時に空しい気持にもなる。
 最初から趣味と割り切り、遊び半分の気持でやっても楽しくないこともわかっている。

 ただ、やってみることで見方が変わる。プロもしくはアマチュアの上級者のレベルがどのくらいすごいのか、やっているうちにすこしずつわかってくる。簡単に見えることが、すごくむずかしい。そういう意味では、できないことも貴重な経験になる。

 とにかく続きが読みたい。

2016/01/07

正月ボケ日記

 正月中、漫画ばかり読んでいた。くらもちふさこの『駅から5分』(全三巻、集英社)、『花に染む』(一巻〜六巻、集英社)がよかった。このふたつの作品は、登場人物が重なる。一見、関係ないとおもわれる人や出来事が、巧妙に絡まり合っている(とくに『駅から5分』の構成がすごい)。話のつながりを確かめるために、何度か戻って読み返した。

 八〇年代後半のくらもちふさこの作品も読みたくなる。

 初夢ではないが、正月明けくらいから郷里の夢をよく見た。今はもうない喫茶店でピラフっぽい炒飯を食べたり、空気の抜けた自転車に乗って川沿いを走ったり、東京に帰る前に寄った名古屋駅の地下街で迷ったり……。ぜんぶ夢の話ですが。二時間か三時間ごとに目が覚め、また寝る。そういう周期のときはよく夢を見る。ピラフっぽい炒飯の喫茶店では、中南米の酸味の強いコーヒーをいれていた。メニューには「ブレンド」としか書いてなかった気がする。

 六日、今年初の神保町。小諸そばでから揚げうどん、神田伯剌西爾でマンデリン。パターン化している。

 上京したころ、外食が苦手で喫茶店のメシばかり食っていた時期がある。高円寺に引っ越してからは、南口のちびくろサンボという喫茶店と阿佐ケ谷のゴールド街の娥楽亭という漫画喫茶にもよく通った。ちびくろサンボではサンボ丼、娥楽亭ではあんかけチャーハン——昔から同じ店で同じものばかり注文していた。この二軒も今はない。阿佐ケ谷のゴールド街も昨年閉じた。

 今あるメニューがいつまでもあるとは限らない。

 持続と変化——についていろいろ考えたが、今はまとまらない。

2016/01/03

新春日記

 大晦日、ペリカン時代。午前十一時五十五分くらいに飲みに行く。店ではラジオの紅白歌合戦を流していたらしい。わたしも家で見ていた。島津亜矢の「帰らんちゃよか」は、ばってん荒川が歌っていたと教えてもらう。九州ではかなり有名な曲らしい。都会で暮らす(たぶん)ダメなかんじの息子に「心配せんでよか」「帰らんちゃよか」と歌う。こっちはこっちでなんとかやってるから、おまえは自分のおもうように生きろと……。

 ばってん荒川は、おばあさんの扮装でこの歌を唄っていた。
 自分以外の誰かになりきって何かを伝えるというのは——演歌ではわりと王道の表現方法だ。紅白歌合戦は、時代やジャンルによる表現方法のちがいを見ることができておもしろい。

 一日、年越し蕎麦のつゆ(すこし味を変えて)で雑煮作る。
 昼すぎ、氷川神社に初詣。そのあと商店街を散歩する。いつもと比べるとかなり人が少ない。

 ここ数年の高円寺は、大晦日も元日もスーパーやドラッグストアは営業している。

 学生のころは、十二月三十日から一月三日くらいまで、ほとんどの店が閉まっていた(ような記憶がある)。帰省する近所の友人のアパートをたずねて、冷蔵庫の中身をもらっていた。

 二十代の十年間、年末年始を高円寺ですごした。当時、自分の周囲の上京組で正月に東京に残るのは少数派だった。二十代のわたしは、多数派か少数派かの二択があれば、なるべく後者を選ぶことにしていた(ルールといえるほど厳密ではない)。

・大学を卒業する/しない=しない。
・就職する/しない=しない。
・朝型/夜型=夜型。
・携帯電話をもつ/もたない=もたない。

 そういう選択を五年十年と続けていたらどうなるのか。
 自分にもわからない。ある意味、自分をつかった人体実験をしているようなものだ。
 その結果、すこし変な人になったかもしれない。
 好きでやっていることなので、心配せんでよか。