2015/12/06

居場所の話 その三

 いい日もあれば、別になんてことのない日があり、あんまりよくない日がある。
 大人になってよかったことのひとつは、あまりよくない日があっても、それがずっと続くわけではない……とおもえるようになったことだ。

 田舎にいたころ、中学がすごく荒れていた。校内で先輩に挨拶しないと殴られる。挨拶の声が小さくても殴られる。とくに理由もなく、殴られる。教室の窓ガラスがすべて割れ、後ろのほうでシンナーを吸っている生徒がいる。爆竹が投げ込まれる。校舎の屋上から自転車が降ってくる。
 教師はシンナーを吸ったり爆竹を投げたりしている生徒を見て見ぬふりして、普通の生徒を殴ったり、足で顔を蹴ったりしていた。

 今でもあれは何だったんだろうとおもう。
 とにかく今いるところから抜け出したかった。

 大人になれば、自分の意志でいやな場所から逃げられる。いつでも好きな場所に引っ越しもできるし、仕事もやめたって次の仕事を探せばいいだけだ。「自分に適した穴ぼこ」を探すだけでなく、勝手に作ることも可能である。
 ライターの仕事をはじめたころ、「好きなことばかりやっていたらだめだ」と怒られた。たしかに、好きなことばかりしていたら、食っていけなくなった。やりたいことができるようになるための我慢とただ耐えるだけのくだらない我慢がある。ただ耐えるだけの我慢は、どんなにやってもいいことはない。

 そのあたりの見極めができるようになるのに、けっこう時間がかかった。

《人は教育というものに、あまり過大な期待はもたぬがいい。つまらぬ教師につまらぬ授業を受けたから、おれの天才がのびそこなったといえる人がいたら、お目にかかりたい》(「私塾の存立」/渡辺京二著『未踏の野を過ぎて』弦書房)

 渡辺京二は“落ちこぼれ”専門の塾をやっていた。
 そこに職人の親をもつ子どもが英語を習いにきた。彼はものおぼえがわるく、学ぼうという意欲のようなものが感じられなかった。

《たまりかねて私が、おまえはそんなに勉強がきらいなら、生きてて何がたのしみなんだと問うと、川で泳いでいて、あおむけに浮かんで空を眺めるのがいちばんたのしいという。こういう子が、なぜ知識を強制されなければならないのか。英語をおぼえようとしないでも、水に浮かんで空をみつめているとき、彼の感覚は、この世界についてなにごとか学んでいるにちがいないのである》(同上)

 わたしは学校に「自分の居場所」を見つけられなかったし、就職しなかったから会社のことはほとんど知らない。
 学校や会社でなくても、いろいろなことが学べる。本や映画からも学べるし、自然からも学べる。誰かに強制されたことではなく、自分が楽しいとおもえることから何かを学ぶ。どんなことでも、掘り下げていけば、どこかで広い世界とつながる。

(……続く)