2015/12/15

何もない(とおもっている)人の話

 村上かつら『淀川ベルトコンベアガール』(全三巻、小学館)を読んだ。連載は二〇〇九年〜二〇一一年。二〇〇三年に短期連載された「純粋あげ工場」(『CUE(キュー)』三巻、小学館に収録)が元になっている。

 大阪の油あげを作る工場に住み込みで働く十六歳の“かよ”。あるとき、その工場に名門といわれる高校に通う“那子”がアルバイトに入る。かよの実家は福井県のシャッター商店街の洋服の仕立屋——店はいつ潰れてもおかしくないかんじ。那子は高校のイケてるグループに所属しているが、まわりとの経済格差やら何やらあって、どうも居心地がよくない。

 一見、恵まれた境遇におもえても、つらいことはいくらでもあるし、どう見ても恵まれていない境遇はやっぱりつらい。それでも「自分には何もない」とおもっているふたりがすこしずつ変わりはじめる。「何もない」とおもえるときこそ、夢とか希望とか、そういうあやふやなものが必要になる。あやふやなものをあやふやでないものにするにはどうすればいいのか。

 自分には何があって、何がないのか。それがわからないときがある。自分では当たり前(たいしたことない)とおもっていても、そうではないこともある。

 あとがきも含めて『淀川……』があまりにもよかったので、さかのぼって『CUE』も読んでみた。この作品も何もない(何かをなくした)人たちの物語だ。『CUE』は演劇の話で「なにもない」からこそ「なんにでもなれる」という道(そんなに単純な話ではないが)も示されている。

『CUE』と『淀川……』は、演劇と豆腐の工場のちがいはあれど、「何もない」とおもっている場所から一歩踏み出すというモチーフは重なる。ただし、その一歩のために必要なものはすこしちがう。

 自信というのは自分を信じる力でもある。さらにいうと、自分の信じ方にもいろいろある。
 自信があろうがなかろうが、誰が何といっても好きだからやる——というのがいちばん強い自信だろう(すみません、言い切る自信がなかった)。