2015/12/03

水木サンの自信

 先月末に、水木しげるが亡くなった。九十三歳、大往生。
 水木しげるの自伝漫画やエッセイが好きでよく読み返している。
 ことごとく学校を落ちたり辞めたりするエピソード(定員五十人の学校に五十一人受験し、ひとりだけ落ちたことも……)も好きなのだが、紙芝居、貸本の時代の貧乏話がいい。しょっちゅう質屋に行っている。働いても働いても、お金が出ていってしまう。

《亭主 「貸本漫画家の中には、努力しても食えずに死んでいった人が大勢いたからね。でも、水木サンは絵が好きだったから、やめようとは思わなかったね。やっぱり、『自分には才能がある!』とわかっとったんです。ワッハッハ!」
 女房 「あなたは、いつもそうやって、ずっしり、どっしり構えてますよねえ。『ついて来い』なんて言わないけど、この人についていけば大丈夫だと思えました。だから、ずいぶん救われました。雰囲気が明るかったんです。オナラの話で盛り上がったりしてね(笑)。お金はなかったですけど、惨めな気持ちには微塵もなりませんでした》

《女房 「あなたのお仕事は、自分を信じる力がないと、やっていけないですからね」
 亭主 「信じてはいたけど、最初は原稿料が安くてねえ。えらい大変だった(笑)。でも、水木サンみたいに実力ありすぎると生き残るんじゃないでしょうかねえ。ワッハッハ!」》
(おしどり夫婦特別対談/『ゲゲゲの家計簿』上・下巻、小学館より)

 一九五一年、様々な職業を経て、紙芝居作家になり、三十五歳のときに上京し、一九五八年、『ロケットマン』で貸本漫画家デビュー。一九六五年に「テレビくん」で講談社漫画賞を受賞した四十三歳くらいまで、貧乏時代が続いた。「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメ化は一九六八年、四十六歳のときだった。

 水木しげるは「常に努めて怠らぬものは必ず救われる」というゲーテの言葉を信じていた。
『ゲゲゲの家計簿』では、子どもが生まれミルク代にも事欠いていたときも、「ぼくには悲愴感などなく、生きることへの“自信”があった」と綴っている。