2015/06/06

書くことがない(けど)

 すこし前に、書くことのない日のことを書こうとして書かなかったことがあったが、書くことのない日というのは、たいていは仕事をしていた日だ。

 仕事のあいまに本を読んだり、家事をしたりしている。そのことは何度も何度も書いている。書くに値する変化はない。しかし、書くに値することなんてことをいいはじめたら、それこそ何も書けなくなる。
 今もそうだが、あえて書くに値しないようなことが書きたいときもある。
 日記ではなく、仕事の原稿でも、書いても書かなくてもいいことを書いてしまう。レイアウトの都合で文字数がオーバーする。そういうときは、その部分を削ればいいから楽だ。文章もすっきりする。しかし、書いても書かなくてもいいところこそ、残したいとおもう。

 昔は、よくそのことで編集者ともめた。
「どう考えてもいらないでしょ?」
「どう考えてもいらんから、いるんです」

 わたしが偉くなりたいとおもうのは、こういうやりとりをしたときだ。偉くなって威張りたいのではない。十人いたら九人は「この部分いらないんじゃない」とおもうことが書きたいし、残したいのである。偉くないのに、偉そうなことをいわせてもらえば、すっきりした文章を書くほうが、楽なのである。

 唐突な言葉が出てきたけど、何のフォローもなく、読んでいる側は、ほったらかしにされる。そういう詩が、昔からわたしは好きだった。意味不明や難解とはちょっとちがう。でもわたし自身、そのちがいをまだわかっていない。

 文章の中には書こうとおもって書いた部分と書く気はなかったのに書いてしまった部分がある。
 書き手からすれば、後者のほうが愛着がある。それこそ書こうとおもって書いた部分は、その気になれば、いつでも書けることなのだ。

 音楽を作ったり、絵を描いたりしている人と話をすると「そうなんだよ」と意気投合する。おおまかな括りで、表現者というのは、自分の創造性というものをコントロールしたくないという欲求がある。

 わたしは不安定で不鮮明な、もやもやもした気分がなければ、文章を書こうとおもわない。