2014/02/10

中立派の愚痴

 十六年ぶりの大雪と書いたが、その後、二十年ぶりとなり、四十五年ぶりになった。

 アンディ・ルーニーの『人生と(上手に)つきあう法』(井上一馬訳、晶文社)所収の「共和党派か民主党派か」というコラムを読む。

 ルーニーが、共和党派でも民主党派のどちらも支持していないというと、共和党派の友人からは「分別を失った」とおもわれ、民主党派の友人からは「裏切った」といわれる。

 彼は、政党に関係なく、いかなる支持票を投じない——。

《それどころか、だれであろうと現職の大統領には私は反対なのである》

 アメリカでこうした意見がどのくらい問題発言なのかはわからない。

《私は自分の中立性に対する直観を信用している。私はハト派に対してもタカ派に対しても中立である》

 彼はリベラル派な人は性善説、保守派は性悪説をとっていると分析する。
 性善説の人は「貧乏人と無学な人間は不平等な制度の犠牲者であり、その人たちの環境は自分たちが手を差しのべれば、改善されると信じている」という。
 性悪説の人は「彼らは貧乏人に対して無感覚というわけではなく、貧乏人は働こうとしないから貧乏なのだと考える傾向がある」という。

 ルーニーはその考えのどちらにも与しない。
 何よりも中立性を重視する。中立性はバランスといいかえてもいいかもしれない。

 アメリカの話ではあるが、日本にもどっちつかずというか、はっきりした主義主張が苦手な人は一定数いる。

 だからこそ、こうおもう。

 中立派の気分を害しても何の得もないぞと。無理矢理説得しようとすれば、ヘソを曲げる可能性のほうが高いぞと。無知な愚民扱いされたら、あんたの支持する候補者にだけは入れないと決意するぞと。
 みんながみんな、政治に無関心とは限らないぞと。どっちつかずの立場を否定する人と話すのが面倒くさいとおもって、へらへらしているだけかもしれないぞと。

 中立派は、改心はしないが、譲歩はする。
 政策の是非は別にして、より寛容かつ慎重な姿勢を見せてくれそうな候補者(陣営)に一票を投じようとおもっている人は少なくないだろう。

 どちらかといえば、わたしもそうだ。