2014/02/02

目利きの話 その一

 二月。あいかわらず、毎日しょうがを入れたうどん、みそ汁を食う。散歩が仕事の日々。

 気分転換に赤瀬川原平著『目利きのヒミツ』(光文社知恵の森文庫)を再読した。
 文庫化されたのが二〇〇二年の秋で刊行後すぐ読んで、すごく興奮したことをおぼえている。
 とくに「現代美術と鼻の関係」は、内容を忘れていたけど、読み返して、何度もうならされた。この先、何年かに一回読む本になりそう。

《頭が回転をはじめる前の、感覚が野放しだったころの自分の表現というものがある。その感覚がいまはなくなり、それじゃ頭の回転のせいなのかどうかはわからないが、とにかくかつてのその自分の感覚にあやかろうとして、頭でそれを追いはじめる》

 理論や理屈が、感覚よりも優先される。文章の話でいえば、細かな言葉づかい——そういう表現は避けたほうがいいといったルールに縛られる。
 ただ、ルールを優先しすぎると自分の感覚を弱らせてしまうことにもなりかねない。

 食べていかなきゃいけないとおもって、わたしもそれなりに文章技術のようなものを身につけようとしたし、それが役に立っているところもあるのだが、「感覚が野放しだったころの自分の表現」はできなくなってしまった。
 この十年くらい、感覚の表現に関してはずっとリハビリ中だ。

「現代美術と鼻の関係」では、頭は計算できるが、感覚は計算できないという話をしている。

「オウムの頭と体」もその延長にあるのだが、時事問題を語りながら、それが芸術論になっている。
 昔は太字の万年筆に抵抗があったが、今はちがう。いつの間にか自分の好みが変わっている。そんな話をしていたかとおもえば、次のような文章が出てくる。

《若いころは自分の体内にムダな神経質を養っているもので、考えても仕方ないことまで深く考えてしまう。じっさいにやってみれば考えが変ることもあるのに、そんな「いいかげんなこと」は信じられない。どうしても最初の考えに閉じ籠ろうとする》

 わたしも初志貫徹や一貫性をいいものだと考えていた。自分だけでなく、他人にもそれを期待してしまうから質が悪い。

(……続く)