2013/09/20

読書の工夫

 寝ちがえ、三日目。

 床に落ちているものを拾ったり、ペットボトルの清涼飲料水を飲んだりする動作はまだむずかしい。それでも痛みが治まっただけでも、かなり前進した気分である。一日前までは、座っている姿勢から横になることさえ、難渋していた。
 安静中、新刊(!)の小林秀雄著『読書について』(中央公論新社)を読んだ。
 ブログの「文壇高円寺」の前身にあたる線引き屋ホームページ版の「文壇高円寺」の第一回目で、わたしは小林秀雄のことを書いた。
 当時のわたしの関心は「批評の神様」ではなく、江藤淳に「“白樺派”的直情」と評されるような小林秀雄だった。

『読書について』所収の「読書の工夫」で、小林秀雄はこんなことを書いている。

《よく結婚前には、文学書が好きで、よく読んだものだが、結婚して了うとそんな暇もないし、又小説なぞ読んでいるのも馬鹿々々しくなる、という事を聞く。小説に限らない。一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、年をとっても持ち続けている人はまことに少い。本を読む暇がなくなったという見易いことには誰でも気が付くが、本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、なかなか気が付かぬ。又、気が付き度がらぬ》

 ようするに、読書熱が衰えるのは、「読書の工夫」が足りないということに尽きる。

 では、「読書の工夫」とは何か。それはここでは書かない。

 ここ数年、読書熱が衰えているなあと痛感する。せっかく神保町に出かけたのに、神田伯剌西爾でコーヒーを飲んで、新刊書店の平台をさっと見て、古本屋に寄らずに家に帰ることもある。

 活字がまったく頭に入ってこない。文章がちっとも心にしみてこない。そういうこともよくある。
 散歩をしたり、瞑想したり、いろいろ試してみたが、だめなときはだめだ。
 ただ、そういうときに小林秀雄に戻る。小林秀雄からやり直したくなる。「読書の工夫」にかぎらず、今の自分に足りないもの、欠けているものに気づかされる。

『読書について』の中で、わたしのいちばん好きなエッセイは「喋ることと書くこと」だ。文字がなかったころ、印刷技術がなかったころ——の知識人はどうしていたか。そんなところにまで話が及ぶ。思索のスケールが大きい。

 そこから散文の力について論じる。

《優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います》

 認識や自覚が弱ってくると、散文は楽しめなくなる。散文を味わうためにも「読書の工夫」がいる。

 それを知りたい人はこの本を読むことをおすすめしたい。