2013/12/31

年末の一日

 日曜日、昼、仕事部屋に行く途中、西部古書会館に寄る。赤いドリルの那須さんがいた。わたしは「赤いドリルの夢は夜ひらく」というブログを愛読している
 文章には「流れ」みたいなものがあるのだけど、那須さんの文章は「流れ」が読めない。予想がつかない。おかしい。

 今年のゴールデンウィークにトマソン社が主催した石神井書林の内堀さん、青聲社の豊蔵さん、赤いドリルの那須さんの「古書よりも野球が大事と思いたい~夢のオールスターゲーム~」というトークショーがあった。
 あの日、亜細亜大学の野球部へのおもいを語り続ける那須さんを見ることができたのは今年最大の収穫だった。
 その収穫が何の役に立つのかは一生わからない気もするが……。

 日曜日の夜は、ペリカン時代は木下弦二さんと春日博文さんのライブ。
 春日さんは存在感とか雰囲気とかアドリブの感覚とか何もかもすごい。「テクニック+α」の「+α」が別次元だった。終始、冗談をいいながら、六、七割くらいの力でギターを弾いているように見えるのだけど、目を閉じて音だけ聴くと、とてもそんなふうにはおもえない。
 弦二さんもいつもより力が抜けて楽しそうに演奏し歌っていた。
「夜明けまえ」は、聴くたびに好きになる。バンドではなく、ソロならでは試みや遊びが増えてきた気がする。「ブラック里帰り」のソロヴァージョンも原曲からどんどん変化している。
 ふだんよりもカバー曲が多いのもソロのときの特徴。この日も「おそうじオバチャン」「トランジスタ・ラジオ」など、まったく予想もしていなかった曲を演奏した。

 そんなこんなで大晦日。
 年末年始は特別ルールで昼酒解禁。広島のマサルさん、アネモネさんからもらったサントリーのプレミアム角を飲み続ける。また禁断の味を知ってしまった。

 睡眠時間がズレまくり、昼すぎに寝て起きたらすでに紅白がはじまっている。

 妻から「イェーガー」の意味を教わった。

2013/12/28

自分の声 その四

 ピート・ハミルは、一流のコラムニストをソリストにたとえ、マイク・ルピカには「自分の声」があるといった。
 いっぽうルピカのコラムは「表現形式が不完全」とも評している。
 日刊の新聞にコラムを発表する場合、時間と字数の制約によって、どうしても不十分な原稿になる。

《たいていの場合コラムニストは、全体を断片でもって象徴的に言い表すというまやかしの手法を身につけるものだ。アフォリズムを多用し、最悪の場合には安易な近道やマンネリズムに陥ることになる》

 そんな中、「驚いたり恐れたりすることへの感受性」を保ち続けること——それが一流のコラムニストの条件だといっている。

 時間がなく、不完全で不十分な文章を書いてしまう。ピート・ハミルは「大打者だって一〇回打席に立って七回はしくじるものだ」という。
 レギュラーであれば、凡打しても次の打席がまわってくる。一軍半の選手は一打席一打席が勝負になる。
 そうした状況で「自分の声」や「感受性」を保ち続けるのはすごくむずかしい。フリーライターの多くは時間と字数の制約だけでなく、お金もない。
 妥協や保身によって「自分の声」は簡単にすり減ってしまう。

 わたしが詩や私小説に耽溺したのはそういう時期だ。

 とにかく「自分の声」を持った人々の言葉に触れたかった。「自分の声」を持ち続けている秘訣を知りたかった。

 山口瞳の男性自身シリーズの『変奇館の春』(新潮社)に「私の駄目な」というエッセイがある。
 生花、書、絵、俳句、短歌と自分の不得手なものをあげ、次のように語っている。

《書について言えば、うまいからいいというようなものではない。達者になれば達者になったで目をそむけたくなるような字を書く人がいる。字がうまくなったかわりに品格を失ってしまったということがある。絵だってそうだ。俳句でもそうだ。いつのまにか、大道で売る表札の字になり、ペンキ絵になり、横丁の宗匠になってしまって、つまり、感動というところから遠くなってしまう》

 山口瞳はここで「品格」という言葉をつかっている。
 うまくなることで何かを失うことがある。わかりやすさと引き換えにつまらなくなる。
 かといって、下手で難解なものがいいという話ではない。
 そんなに単純な話ではない。

(……続く)

2013/12/27

自分の声 その三

 十八歳の菅原克己は中村恭二郎に「君の詩はナイーブでいい。自分の生地のものをなくさないように勉強しなさい」といわれた。
 以来、中村恭二郎は菅原克己の〈先生〉になる。
 わたしの好きなエピソードだ。

 知識や技術を身につける過程で「自分の生地」をなくしてしまうことがある。
 詩人にとっての「自分の生地」とコラムニストにとっての「自分の声」は同じものかどうか。

 生まれた時代、出会った人、読んだ本……。「自分の生地」や「自分の声」は、様々な影響によって作られている。同時に、どんなに本を読んでも、様々な経験を積んでも、変わらない部分がある。

 小澤征爾、武満徹著『音楽』(新潮文庫、一九八四年刊、単行本は一九八一年刊)を読んでいたら、「自分の声」という言葉が出てきた。
 昔、小澤征爾の兄が自己流でチェロを弾いていた。誰に習ったわけでもないから、お世辞にもうまいとはいえない。

《兄貴の時代はチェロの先生なんかいなかったから、自分でチェロ買ってきて、自分で教則本を買って、弾いてみる。自分の声をね——兄貴は声がいいんですよ、バリトンで。『冬の旅』なんて歌って、僕は伴奏したことがあるんだ——その自分の声を出したいような感じで、楽譜を読んで、それをチェロにあらわしている》

 そんな兄のチェロを小澤征爾は「いい」とおもう。
 その兄の十一歳の息子がヴァイオリンを始めた。最初から先生に習い、弓に赤や青の印をつけられ、それに合わせて弾くよう教えられている。
 自分の出したい音がなく、ただ単に印どおりに手を動かしているだけ。
 演奏を聴いた小澤征爾は「ひどい音」だったと嘆き、楽器の教え方として大変な間違いだと憤る。

 ちなみに、小澤征爾の兄(二人いる)が小澤俊夫なら、十一歳の息子は小沢健二の可能性もある(小沢健二の兄のほうかもしれないが)。

(……続く)

2013/12/25

自分の声 その二

『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)にアンディ・ルーニーの『人生と(上手に)つきあう法』(井上一馬訳・晶文社)の書評が収録されている。この話を書くのは何度目だろう。

 アメリカのコラムニストは政治などについて論陣を張る「有識者タイプ」と生活問題を扱う「人生派タイプ」に分かれる。
 鮎川信夫は、この分類について、「評論家と随筆家の違い、といえば分かりやすいかもしれない」と補足し、「人生派」の代表としてアート・バックウォルト、マイク・ロイコ、アンディ・ルーニーの名前をあげた。
 人生派コラムニストは、作者の個性、文章の持ち味、ユーモアと機知が問われる。

 個人の感覚(好き嫌い)を大切にし、今、自分の立っている場所から世界を切る取る。
 日本の私小説もそうだ。またアメリカのコラムニストのとぼけたかんじやしれっと嘘をつくかんじは、第三の新人のエッセイに近い。
 そう直感したとき、世界がすこし広がったとおもった。
 アメリカのコラムの形式だと、自分の書きたいことが全部できるような気がした。

『マイク・ルピカ集 スタジアムは君を忘れない』(東京書籍)のピート・ハミルの「序」では、「自分の声」について次のように説明している。

《言ってみれば、これは強烈な右のパンチを繰り出すことができるとでもいった、持って生まれた才能なのだ。教えられてできるものではないし、身につけようとして身につくものではない》

「自分の声」=「特別な才能」なのか。
 わたしは特別というより、失われやすい資質ではないかと考えている。また「自分の声」という才能は、何かをした量に比例して伸びる力ではない気がする。

 文章の技術面を軽んじるつもりはない。ただ、そうした技術は齢をとってからでも伸ばせる。
 でも「自分の声」は、いちど失ってしまうと取り戻すことは至難である。
 だからこそ、表現をする人間にとって生命線になる。

「自分の声」は生きていく上では支障をきたしたり、周囲との摩擦の原因になったりもする。「自分の声」は、独断や偏見と紙一重……というか、ほとんど同じといってもいい。

(……続く)

2013/12/24

ギンガギンガvol.8

 年内の仕事は終わり。部屋の掃除をして、雑誌、新聞のスクラップをする。
 コタツ布団を省スペース用に買い替えた。こんないいものがあったとは。コタツで原稿を書いていると、コタツ布団をどんどん手前側に引っ張ってしまい、反対側に隙間ができる。一日一回はコタツ布団を元に戻さないといけない。
 新しいコタツ布団は天板の形に合わせて作られているため、ちょっと引っ張ったくらいではズレないのだ。発明した人に感謝したい。

 二十二日(日)、高円寺ショーボートでギンガギンガvol.8に行く。ペリカンオーバードライブ、オグラ&ジュンマキ堂、しゅう&宇宙トーンズの三組。オープニングはアネモネーズ。
 ペリカンは今年三人揃うのははじめて。つまり年一回しかライブをしていない。練習もしていない。なのに、息がピッタリ。曲によってはリードベース+サイドギターみたいな展開になるのだが、今のスリーピースのペリカンに合っている気がする。
 MCでは『THE VERY BEST OF MORI-KUN』(名曲「ロックバカ一代」「家を出た」など収録)の話もしていた。初回限定版にザ・ポテトチップスの一九九一年のライブがついている(来年一月発売)。ポテトチップスは、ペリカンのギターの小島史郎さん、ベースのマサルさんがいたバンドだ。
 オグラ&ジュンマキ堂はひさしぶりに「犬と私」が聞けたのがうれしかった。後半はキーボードの原さん、ベースのマサルさんも加わり、ラストは800ランプ時代の「君にハンバーグ」。
 しゅう&宇宙トーンズは、サックスも入って、スモークと赤いビーム(頭部に装着していた)もすごかった。ちょっと音酔いしてしまった。宇宙酔いか。

 家に帰っても「君にハンバーグ」の詞が残っていたので、アルバム『架空の冒険者』(一九九九年)を聴き直す。

《理解されたいと 思い始めてからのぼくは
 君がいうように つまらなくなっちゃったのかな》(君にハンバーグ)

 ハンバーグステーキが食べたくなって、君とレストラントに出かける。ぼくは酒場以外の場所だと落ち着かない。せっかくのごちそうも五分で平らげて、そわそわする。あっという間に店を出て、ふたりでクリスマスの飾りのある街を歩く。

 そんな歌の中で《理解されたいと……》の詞がくりかえされる。

 オグラさんとはじめて会ったのは『架空の冒険者』が出るすこし前だ。その後、バンドは解散し、オグラさんはソロ活動をはじめた。
 そのころのオグラさんの印象は、才能のかたまりが酔っぱらって歩いているかんじだった。

 オグラさんの歌の中には、いろいろ形を変えたオグラさんがいる。楽しそうな曲でも所在ないおもいやいたたまれない気分が根っこにある。

 だから聴いていると、自分の心細さや気まずさがふいに呼び覚まされて、たまに困る。

2013/12/17

西荻ブックマーク

 日曜日、午後四時起床。
 西荻ブックマークの《「古ツア」さんが、再びやって来た!!》〜『古本屋ツアー・イン・ジャパン』(原書房)刊行記念を見に行く。
 出演は小山力也さんと岡崎武志さん。
 会場はビリアード場の二階。大盛況だった。

 古ツアさんこと小山さんは、全国千五百軒の古本屋をまわっているだけあって、語るべきことが溢れて溢れてしょうがないかんじだった。
 この会で岡崎さんがいっていたのだが、古ツアさんは古本屋や店主の形容に工夫が凝らされている。
 古本屋の訪ね方も独特で完全に効率を無視。どこかの店を拠点に、短期間でなるべくたくさんの店をまわるのではなく、行き当たりばったりに店を訪れる。「次、どこに行くのか、わからないようにしたい」とのこと。
 ブログをおもしろくする工夫でもあるのだが、たぶん変わり者なのだとおもう。
 営業中かどうかも事前に確認しない。本人いわく「電話が苦手だから」。電話してから訪ねると、店主の自然な雰囲気が見られなくなるからという理由もあるそうだ。

 スライドショーでは数十キロの山道を自転車で訪ねた長野の古本屋の写真などを披露する。急勾配で途中自転車を押して歩いた。
 その苦労が報われるくらいの掘り出し物を見つける(百円均一の棚の写真に会場がどよめく)。

『古本ツアー・イン・ジャパン』は、二〇〇八年以降の個人営業の古本屋の記録者という時代の証人としての役割もあるのではないか。

 帰りは、NEGIさん、退屈君と西荻のビーイン(Be-In)という喫茶店でコーヒーを飲む。十一月の音羽館の広瀬さんの出版記念会のあと行った店で居心地がすごくよかった(居心地のよさには個人差があります)。いつかモーニングの時間に行ってみたい。

 NEGIさん、退屈君とは駅前で分かれ、それぞれ古本屋をまわることに……。

2013/12/13

古ツアさんのこと

 珍しく平日の午前中に目が覚めてしまったので、西部古書会館の赤札市に行く。かなりいい本(といっても、あくまでもわたしの趣味だけど)があった。
 久々に袋がいっぱいになるくらい買う。

 今年は蔵書減らし年だったので買った冊数(キンドルでダウンロードした分は別)よりも売った冊数のほうが多い。おもう存分、本が買えないのはつらい。しかしそんなつらい年がないと、古本屋めぐりを続けられない。

 もうガマンはやめよう。そうおもった。

 小山力也著『古本屋ツアー・イン・ジャパン 全国古書店めぐり 珍奇で愉快な一五〇のお店』(原書房)を読んで、くすぶっていた古本魂に火がついた。

《最初は確かに趣味のひとつのようなものであった。その程度の心構えであった。しかしそれは、いつの間にか己の人生と激しく混ざり合い、その人生を喰い尽し始めていた。長い移動時間と旅費が、生活をビシビシと痛めつけてくるのだ》(「はじめに——古本屋を訪ねる旅は、長く果てしなく、そして愉快だ」)

 ひとつひとつの文章が濃い。労力もすごい。いかに古本(古本屋)が好きとはいえ、ここまでくると一種の苦行だとおもう。

 全国各地の古本屋(古本屋ではなく、古本を置いている店も含めて)を踏破しようとしている人物がいるらしい。

 古ツアさんのブログがはじまって以来、この謎の人物の噂をあちこちで聞いた。

 職業は何なのか?
 齢は何歳くらいなのか?
 何のためにこんなのことをしているのか?

 その疑問が判明したのは今から二年前——だったことを古ツアさんの本を読んでおもいだした。

 最初は古本酒場コクテイルで古本の話をして、二軒目のペリカン時代で古ツアさん曰く「特殊な音楽」の話になった。
 飲んでいたので記憶はあやふやなのだが、なぜかナゴムの話で盛り上がり、「ペリカン時代の原さんはグレイトリッチーズや青ジャージのキーボードだよ」と教えると、「あの、THE青ジャージですか!」と急に顔つきが変わった。

 そこから共通の知り合いの名前が出るわ出るわ。

 その日の話もこの本の中に書いてあった。

2013/12/12

自分の声 その一

……試行錯誤の続きだけど、タイトルを変更。

 三十代の一時期、東京書籍の「アメリカ・コラムニスト全集」をバラで揃えたくて、古本屋をずいぶんまわった。
 全集の中で、とくに好きなのはマイク・ルピカ集『スタジアムは君を忘れない』である。

 この本、ピート・ハミルの「序」がいいのだ。ルピカの紹介というより、コラムニスト論になっている。

 一流のコラムニストはオーケストラにおけるソロイスト(ソリスト)のような存在であり、「自分の声」を持っていなければならない。

 要約すると、そういうことが書かれている。

 ソリストであること。
「自分の声」を持つこと。

 オーケストラのメンバーの誰もが独奏者になれるわけではない。ソリストは、卓越した演奏技術だけでなく、スター性のようなものが不可欠である。

 出版の世界で、かけだしのライターが、ソリストのようにふるまうことはむずかしい。
 まわりと調和し、雑誌のカラーに合わせて書く技術にしても、ある種の能力が必要だし、簡単に身につくものではない。

 職人としての書き手になるのか。
 あくまでもソリストとしての書き手を目指すのか。

 わたしはどちらにも徹し切れずに二十代、三十代をすごしてしまった。

 生活の安定のためには、職人に徹したほうがいいと考えていたこともあるし、同時に「自分の声」をなくしたくないという気持もあった。

 ピート・ハミルの序によれば、マイク・ルピカは「生意気な若者」ではあったが、最初からソリストだったわけではない。
 はじめのうちは、ひたすら新聞の添えもの記事を書いていた。
 しかしすこしずつ「耳のいい読者」に彼の「声」が届きはじめる。

 スポットライトを浴びない場所でも「自分の声」をなくさず、小さな工夫や研鑽を積み重ねる。

 たぶん、それはコラムニストに限った教訓ではない。

(……続く)

2013/12/10

京都と三重

 九日、京都へ。徳正寺で行われた「釈六平 百カ日法要・中川六平を語る会」に出席する。
 六平さんのベ平連、ほびっと時代の知り合い、それから東京からの出版関係者がたくさん集まった。
 若き日の六平さんの写真をスライドで映したり、六平さんの思い出を喋ったり(お酒をたかられた話が多かった)、終始、笑いに満ちた会合だった。

 わたしは編集者の六平さんしか知らないのだけど、はじめて会ったのは一九九四年ごろ、二〇〇七年に『古本暮らし』を作ってもらうまで、十年以上、仕事らしい仕事しないまま、ふらっと六平さんが高円寺に寄ったついでにお酒を飲んだ。
 会うたびに「ちゃんと食えてるのか」といわれた。
 こちらの生活苦を気にしてかどうか、国会図書館のコピー取りなどのアルバイトを頼まれた。あと六平さんが書評集の編集をしていたとき、新聞の縮刷版から原稿を探すのを手伝ったこともある。

 翌日、三重に帰省する。途中、二十数年ぶりに松阪駅で降りて、殿町方面を散歩した。
 月曜日で本居宣長記念館をはじめ、ほとんどの施設は休館日。道路沿いのあちこちに「小津安二郎青春の町」というのぼりが立っている。
 映画の仕事をする前、小津安二郎は松阪で学校の先生(代用教員)をしていた。
 松阪は梶井基次郎の『城のある町にて』の舞台でもあった(松坂城跡に文学碑がある)。

 そのあと平田町に行って鈴鹿ハンター内のゑびすやでうどんを食う。わたしの好きだったかやくうどんがメニューからなくなっていたので肉しゃぶうどんを頼む。

 生家の長屋(十九歳のときまで住んでいた)が取り壊されたことを知る。

 親と老後、葬式、墓の話をする。気が滅入る。

 年末進行のため、午前中の新幹線で東京に帰る。

 これから仕事。

2013/12/06

試行錯誤 その四

 前回、「続く」と書いたあとも、しばらくこの話を書き継いでいた。ところが、時間が経つにつれ、「なんでこんなことを書いているのか」というおもいにとらわれてしまった。ちょっとした自己嫌悪に陥った。それで一晩文章を寝かせているあいだに、すこし前に、小泉「原発ゼロ」発言のことをあれこれ考えていたことをおもいだした。

 わたしは週刊誌であのスピーチを読んで感心した。同時に、小泉純一郎元総理の発言だからこそ、あれだけ注目されたのだということについても考えさせられた。
 おそらく他の人が同じことをいっても、こんなに話題にはならなかったとおもう。
 正しい意見をいっているだけでは伝わらない。
 同じ元総理の肩書の別の人も似たような主張をしているが、その説得力や影響力はまったくちがう。

 では、説得力や影響力とは何なのか。そういう疑問が頭の片隅にひっかかっていたのだ。

 強引に話をもとに戻す。

 三十歳のときにペンネームを変えようとおもったが、変えなかった。そのかわり、主語を「私」から「わたし」に変えた。
 当時、私小説の文体でアメリカのコラムのようなものが書けないかと試みていた。アメリカのコラムといっても千差万別だが、鮎川信夫が“人生派”と評したコラムニストは、私小説にも通じるという確信があった。

 私小説は(ごく一部の)古本好きのあいだでは、根強い人気がある。
 たぶん、少数派向けの文学なのだろう。いつの時代にも少数派のための文学はある。またそれを必要とする人もいる。わたしもそのひとりだ。

 でもアメリカのコラムはちがう。
 何百紙もの新聞に記事が配信されるような有名コラムニストの発言は大きな影響力をもっている。
 しかしその発言の中には日本の私小説にちかい感性がある。

 アメリカのコラムニストの著作を読みはじめたとき、わたしは彼らのことをまったく知らなかった。
 生まれた時代も国もちがうし、どこの誰だかわからない彼らのコラムのどこに魅かれたのか。どんな言葉に気持をゆさぶられたのか。

 それがわかったら、自分のことをまったく知らない人にも届く文章が書けるのではないか。

(……続く)

2013/12/04

試行錯誤 その三

 三十歳になって、文章の主語を「私」から「わたし」に変えた。瑣末なことかもしれないが、わたしにとっては大きな変化だった。

「私」が主語の文章と「わたし」が主語の文章では意識がちがう。そもそも主語を「わたし」に変える以前、商業誌ではほとんど主語なしで文章を書いていた。

「主観はいらない。情報を書け」

 編集者にそういわれ、ずっと違和感をおぼえていた。違和感をおぼえた理由は一読者としてそういう文章が好きではなかったからだ。情報を書くにせよ、好き嫌いはある。屁理屈をいわせてもらえば、「主観はいらない」という意見だってその人の好き嫌いではないのか。

 また、語尾を「おもう」「気がする」「かもしれない」と書いて、よく怒られた。「断定できないようなことは書くな」というのもひとつの意見だろうけど、自分には断定調の文章がしっくりこなかった。どうしてあやふやで曖昧な気分を書いてはいけないのか。そういう文章に共感する人もいるのではないか。すくなくとも自分はそうだ。
 でもそのことを自信をもって言い切ることはできなかった。

 そうこうするうちに、アンディ・ルーニー、マイク・ロイコ、ビル・ブライソンといったアメリカのコラムニストを知った。

 自分の視点、あるいは自分の日々の生活から世の中を切り取る。私小説風のコラムもあれば、身辺雑記風のコラムもある。政治も経済も科学もスポーツも「わたし」という立場から書くことができる。しかも文句なしにおもしろい。

 今の自分は未熟でヘタクソだから通用していないけど、方法論はまちがっていない。
 だけど、わたしは「おまえ、誰やねん」という存在でしかない。
 無名の書き手が「わたし」という主語をつかえば、どうしても「わたし」の説明がいる。

 三十歳、フリーライター、高円寺在住。就職経験なし。趣味は古本と中古レコードと将棋。食事は自炊。車の免許と携帯電話はもっていない。朝寝昼起。ほとんど家でごろごろしている……。

 毎回、冒頭で自己紹介するわけにもいかない。

 そんなこと別に知りたくないという人もいるだろう。でもどこの誰だかわからない人の読んだ本の話や音楽の話だって知りたくない人もいるとおもう。
 何かを語ろうとすれば、結局、自分を語ることになる。たぶんそのとおりだ。
 三十歳のころのわたしはそうおもうことができなかった。

(……続く)

2013/12/02

試行錯誤 その二

 はじめて行った場所で行き先のちがう電車に乗ってしまう。すぐ降りて引き返したほうがいいのか、快速や急行の止まる駅で引き返したほうがいいのか。
 おかしいとおもいながらも、何もできず、自分の行きたい場所からどんどん遠ざかっていく。

……そういう夢をよく見る。夢とはいえ、目がさめたあと、ぐったり疲れる。

 当時は、何をやってもうまくいかない時期だった。何をやっても裏目で、努力しようにもその方向性がわからない。

 編集者と会う。「最近、どんな仕事をしてますか」と聞かれても、何も答えられない。
 自己紹介も困る。「ライターをしてます」といえば、「どんなものを書いてますか」と聞かれる。言葉をにごすしかない。
 たまに雑誌の仕事をして、プロフィールを求められても、生年月日と出身地以外、書くことがない。

「自分はこういうものです。こんな仕事をしています」と答えられるようになりたい。

 三十代になって、ようやくそういう気持になった。でも何をどうすればいいのかというところで足踏み状態が続いた。

 お金ほしさにどんな仕事でもする。好きでもないものを褒めたり、興味のないものに興味のあるふりをしたり、自分の価値観に反するような文章も書かざるをえない。
 食べていけないんだから、しょうがない。自分で自分に言い訳する。その分、自分の言葉の信用がどんどん失われていく。

「今の名前を捨てて、まったく別のキャラクターで新人として再デビューしようかな」

 再デビュー用のペンネームも考えた。そのくらい気持が追い詰められていたのである。

 とりあえず、自分の行きたい場所から遠ざかっていくような仕事はやめよう。生活費が足りなくなったら、バイトすればいい。
 世間の基準から外れてもいいから、自分の声質にちかい文章を書いていきたい。

 当時、知り合った中央線沿線のバンドマンと毎晩遊んでいるうちに、だんだんそうおもうようになった。

 新しいペンネームは封印した。

(……続く)

2013/12/01

試行錯誤 その一

 三十歳以降、漫画をあまり買わなくなった。映画を観なくなった。それからインタビューや対談や座談会の構成の仕事をやめた。
 あれもこれもと手をひろげてしまうと、どうしてもひとつひとつのことが薄くなる。

 そのころ、アパートの立退きになって、「このまま高円寺に住み続けるか、もっと蔵書を増やすために郊外に引っ越すか」で迷っていた。
 当時のわたしは昔の学生寮の二階を三部屋丸ごと借りていた。本もレコードも置き場所を気にせずに買うことができた。

 高円寺内で引っ越すとなると、広い部屋には住めない。
 かなり頑張っても2Kか2DKが限度だろう。
 だったら、その居住スペースを前提とした生き方をするしかない。

 上京以来、年に四桁(冊数)ペースで本を買ってきた。当然、そんな買い方をしていたら、あっという間に置き場所がなくなる。本棚から溢れた分はどんどん売る。
 場所をとる大判の本、巻数の多い漫画は買わない。SF、ミステリ、時代小説には手を出さない。
 CDやレコードもくりかえし聴くもの以外、売ってしまった。

 そのころ、漠然とだけど、半隠居がしたいとおもっていた。
 不安定な生活に関してはそれなりに免疫がある。だったら、あまりお金をつかわず、なるべくやりたい仕事だけしよう。

 三十代はそのための試行錯誤に費やした。
 しかし「こうしよう」とおもっても「そのとおりにならない」ことが多い。

 十年かかって、ようやくそれがわかった。

2013/11/28

釣りの本

 一年をふりかえるにはまだ早いかもしれないが、今年読んだ新刊で印象に残った本を紹介したい。

 堀内正徳著『葛西善蔵と釣りがしたい』(フライの雑誌社)は、ある一行がすごく心の深い部分に刺さった。その一行のためだけでも、この本を読んでよかったとおもった。

《一人の自由な行動や意思が許されない情況は、爆発しないで動いている原発よりいやだわたしは》(なかまのために捨て身であること)

 原発再稼働について綴ったエッセイの一行で、この部分だけ抜き書きすると誤解をまねくかもしれない。
 この本には堀内さんは釣り人の立場から、「原発の恐ろしさ、むごさ、とりかえしのつかなさ」を訴えたエッセイも収録されている。

 東京電力の原発事故以来、自分の中でくすぶっていたおもいは、たぶん堀内さんの言葉にちかい。しかしわたしは言葉にできなかった。

『葛西善蔵と釣りがしたい』は、釣り人、そして釣り雑誌の編集者の身辺雑記である。
 わたしは釣りをしない。この本は題名が気になって、手にとった。読んでみたら、葛西善蔵の話はちょっとしか出てこない。

 フライの雑誌社の本は三年前、真柄慎一著『朝日のあたる川』という本の書評をした。この本はいましろたかしのカバーイラストに魅かれて手にとった。
 ミュージシャンを目指して上京したが挫折。その後、フライフィッシングにのめりこみ、二十九歳無職男が釣りをしながら日本一周を試みる。
 釣りに関する知識がほとんどないのにおもしろい。わたしは真柄さんのファンになった。

『葛西善蔵と釣りがしたい』もそうだった。
 完全にタイトルで釣られた。

 最近、私小説らしい私小説よりも、雑文(エッセイやコラム)という形式で書かれた“私小説っぽい文章”のほうが好きになっている。

 そういう本を見つけたときが、いちばんうれしい。

2013/11/25

近況

 気温の変化に体がついていかない。
 部屋にいる時間が長くなる。
 経験上、多少寒くても外出し、散歩したほうがいいのはわかっているのだが、心がそうおもわない。

『エンタクシー』最新号の重松清「このひとについての一万六千字」が山田太一。最近、山田太一のインタビューをよく見かける気がする。
 坪内祐三の「あんなことこんなのこと」の第六回は「中川六平さんのこと」だった。

 特集「『風立ちぬ』の時代と戦争」の小沢信男「賛嘆『風立ちぬ』」も読みごたえがあった。
              *
 近況を述べると、あいかわらず、漫画ばかり読んでいる。すこし前に、犬村小六原作、小川麻衣子作画『とある飛空士への追憶』(全四巻、小学館)という漫画を読んだ。予備知識が何もないまま読んだのだが、もともと原作の小説がけっこう話題になっていたらしい。
 ストーリーはシンプル。底辺階級出身の飛行機乗りが、敵の包囲網をかい潜り、次期皇妃を皇子のもとに送り届ける——という話である。架空の国が舞台なのだが、太平洋戦争の戦史をおもわせる箇所も描かれている。
 漫画を読んでから小説も読んだ。シリーズもので全部は読んでいない。書店の文芸の棚にあったら、もうすこし早く気づいていたかもしれないが、それをいってもしょうがない。

 二〇〇〇年〜二〇一三年くらいの漫画は、空白領域が多く、今年はそれを埋める年になった。当然ながら十五年の空白は一年では埋まらない。

 未読で不覚とおもった漫画は石黒正数の『それでも町は廻っている(通称“それ町”)』(少年画報社)もそうだ。
 アニメ化されていたにもかかわらず、気づかなかった。今年の夏、たまたま聴いた北海道在住のインターネットラジオのDJが『それ町』のことを熱く語っていて、試しに読んでみた。商店街を舞台にしたユーモア漫画なのだが、登場人物が話ごとに錯綜し、すこしずつキャラクターに血肉が通ってくる。たいして意味のないシーンに後の話に出てくる人物がさりげなく描かれていたり、読み返さないとわからないような仕掛けが無数にはりめぐされている。宇宙人や幽霊や謎の怪物が出てきても、何事もなかったかのように日常にもどる。そのすっとぼけたかんじも絶妙。ハマる人はハマる作品だとおもう。まわりに「それ町」がおもしろいと吹聴しまくっていたら「今さら?」といわれた。

 同じ作者の『木曜日のフルット』(秋田書店)もすごくよかった。
 こちらも「今さら」なんでしょうねえ……。

2013/11/16

ぼくらのよあけ

 キンドルをつかいはじめて十ヶ月。当初、というか、五月くらいまではかなり慎重に買いすぎないようにブレーキをかけていた。電子書籍よりもクレジットカード(今年一月まで持ってなかった)でアマゾンの中古本が購入できるようになったことが嬉しくて郵便受けが悲鳴を上げるくらい買い漁っていた。

 それから五月以降、キンドルはほぼ漫画専用機と化した。その事情の一部は現在発売中の『本の雑誌』の連載にも書いた。

 二〇一三年は漫画の電子化がものすごく進んだという印象がある。

 電子版を読んでから、文庫版とかの漫画を読むと、なんとなく絵が薄いような気がして読みづらくおもえるくらい自分の目が電子のほうに慣れてしまった。それだけなく、キンドルのほうが絵が鮮明に見えるのだ。

 すこし前に話題になった——自分があまり漫画を追いかけなくなった二〇〇〇年代の作品を手当たり次第に読んだ。

 昨日は今井哲也の『ぼくらのよあけ』(講談社アフタヌーンKC、全二巻)を読んだ。二〇三八年の阿佐ケ谷住宅が舞台のSF漫画——。
 二〇一〇年に地球にやってきた宇宙船を団地の小学生たちが直して、もういちど宇宙に帰そうという話なのだが、子ども同士の人間関係やらなんやらがあり、さらに二十八年前の秘密も絡んで、なんやらかんやらが起こると……。
 たぶんストーリー上にはあらわれないような設定までいろいろ作り込まれているんだろうなと想像してしまう漫画だ。絵柄もちょっと懐かしいかんじで、描き込みっぷりもいい。

 宇宙と団地の組み合せが秀逸で、時間をかけて読みたくなる(文字数も多く、けっこう熟読させられる)。

 電子書籍でダウンロードして漫画を読むのはクジ引きみたいなところがあって、「失敗した」とおもうこともすごく多い。自分の好みかどうか、わからないまま勢いで買ってしまい、「おもっていたかんじとちがった」と悔やむ。

 逆に、作者や作品のことを何も知らなかったのに『ぼくらのよあけ』のような会心の漫画に出くわすこともある。

 まだ興奮さめやらぬってかんじだ。寝ないとまずいのだが……。

2013/11/12

杉野清隆ライブ

 コタツを出して十日。昨日この秋初のヒートテックの長そでを着て、今日この秋初の貼るカイロを腰に装着した。
 今からこんなことで冬を乗り切れるのか。
 まだ十一月なのに。

 日曜日、ペリカン時代、金沢在住のシンガソングライター杉野清隆さんのライブを見た。CDの音もいいのだけど、ライブの音はもっといい(そのままライブ盤になりそう)。

 何時間でもぶっ通しで聴き続けられるような疲れない音。淡いとか透きとおっているとかともちがう。なんていったらいいのか。鼻歌っぽい。ちがう。風呂場で歌いたいかんじの曲。そうじゃない。
 うーん、音楽を言葉にするのはまだるっこしい。「聴いて」の一言ですませたい。

 杉野さんの『メロウ』『ふらっと通り』のアルバムジャケットを手がけている山川直人さんも来ていて、漫画の話を聞けたのも楽しかった(杉野さんとは、山川さんの文章も好きだという話で意気投合した)。

 金沢行きたいな。メロメロポッチでも見てみたい。来年の目標にしよう。

 翌日、しめきりがあって、飲みすぎないようにセーブしていたのだが……失敗した。途中でコーヒーを一杯飲んだおかげか、あまり酒は残らなかった。

 その後、仮眠をとって朝五時から仕事をする。
 何を書くのか決めてなくて、ひたすら「俺の魂が…やる気になるのを待つのだ!!」(島本和彦)状態が続いた。

 苦労したからといって、よくなるわけではないのがつらいところだ。

2013/11/06

音羽館の本

 昨日、広瀬洋一著『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』(本の雑誌社)の出版記念会に行ってきた。

 音羽館は二〇〇〇年に開店——。

 音羽館がオープンしたころ、ちょうどアパートの立退きをせまられて、古本を買うどころではなかったのだが、「いい店ができたなあ、いつかこの店で思う存分、古本が買えるようになりたい」とおもった。
 そのころ、電車賃もなくて、高円寺を中心に、中野〜荻窪界隈の古本屋を自転車で巡回していた。西荻まではちょっと遠かった。出版記念会の自己紹介のときに岡崎武志さんから「泣ける話」をふられたが、何も喋れなかった。この話をすればよかった。

『西荻の古本屋さん』を読んで、やっぱり広瀬さんは堅実な人だとおもった。
 独立前から勉強して、本を集めて、貯金もしている。店をはじめることのたいへんさが詳細に語られている。
 広瀬さんからすれば、当然のことをしただけなのかもしれないけど、わたしのまわりの自営業者は「無鉄砲型」が多いので新鮮だった。
 計画を立て、努力し、実現する。楽や近道をしない。
 広瀬さんの「日々と仕事」もそうなのだろう。

 きれいで落ち着いた店内、中央線沿線の客層の好みを熟慮しながら作られた本の並び……最近は慣れたが、はじめて音羽館を訪れたときは、若い人(わたしも若かった)や女性客が多くて驚いた。

 広瀬さんは従来の古本屋のあり方、もしくは常識のようなものも変えたとおもう。

 出版記念会では、音羽館のスタッフ、かつて音羽館で働いていた古書コンコ堂さん、ささま書店の野村くんと雑談中、なぜか副業の話を熱弁してしまう。

 帰りに西荻では珍しい夜十一時半くらいまで営業している喫茶店に寄る。

2013/11/01

雑記

 神田古本まつりで文庫一冊しか買わないというのはどうかとおもい、昨日も行ってきた。
 最近、古本が買えないのは、テーマを絞りすぎているせいかもしれない。中年の本、野球の本、アメリカのコラム……。
 この日は三冊ほど買ったが、読むかどうかわからない。
 
 中古レコードやCDも、一九七一年〜七三年のアメリカのシンガーソングライターという縛りがあるせいで、まったく買えない日が続いている。予備知識なし、行き当たりばったりで探しているから、“一生聴ける一枚”を見つけるのは、ほんとうにむずかしい。まあ、そんなに簡単に名盤(自分にとっての)に当たれば、苦労はない。

 そんな中、ビリー・マーニット『スペシャル・デリヴァリー』(一九七三年作品、一九九八年復刻、世界初CD化)は久々に会心の一枚だった。名盤探検隊ものだから、ハズレはないだろうとおもっていたけど、家に帰って聴くまで、こんなにいいとはおもわなかった。
 レコードの発売から四十年、CDの復刻から十五年。気づくの遅すぎ……。

 ライナーは渚十吾。文中、「友人でもある日本のロック・バンド、カーネーションの直枝政太郎くんと話していたときに、彼が『いいですね』といっていたくらい」という一文もあった。曲解説、けっこう厳しい。
 ビリー・マーニットはピアノ&ボーカル。プロデューサーとリズムセクションは一九七三年デビューのトム・ウェイツと同じだそうだ。

 トム・ウェイツが売れて、ビリー・マーニットのこのアルバムが大きな話題にならなかったのはなぜだろう。わたしはビリー・マーニットのほうが好みだ。ちょっと情けないかんじが。

 本人のホームページを見たら、現在のビリー・マーニットの肩書は(Writer/songwriter/teacher/script consultant)となっていた。小説を書いていることもわかった。

 読んでみたい。

2013/10/31

古本の季節

 シマウマ書房の鈴木創編著『なごや古本屋案内 愛知・岐阜・三重』(風媒社)が届いた。名古屋市内の古本屋でも知らない店がけっこうある。三重に帰省するときに、駆足でまわるくらいで、一軒一軒じっくり立ち寄ったことはほとんどない。
 予備校時代は千種と鶴舞界隈の古本屋に行っていた。あと新刊書店のちくさ正文館、ウニタ書店でカルチャーショックを受けた。夏季講習や冬季講習のお金は、古本と漫画喫茶代に消えた。今おもえば、極めて正しいお金のつかい方だったわけだが、そのことがバレて、親にものすごく怒られた。
 二十五年前の話である。

 名古屋はいまだに土地勘がなくて、地下鉄をよく乗り間違えてしまう。

 三重県は伊勢市の古本屋ぽらん一軒のみ。

 夕方、神保町。神田伯剌西爾のち神田古本まつり。といっても、買ったのは清岡卓行著『大連港へ』(福武文庫)一冊だけ。この中に「野球という市民の夢」という章があって、これが読みたかったのだ。

 清岡卓行著『猛打賞 プロ野球随想』(講談社)に、株式会社日本野球連盟の社員だったころ、「一試合三安打以上の選手へ贈る猛打賞」をおもいついたという記述がある。

『大連港へ』の文庫はずっと探していたのだが、なかなか見つけることができなかった(それほど入手難の本ではないとおもうのだが)。探していたことさえ忘れたころに見つかった。

 それで満足して、今日はもういいやとおもってしまったのは、今、蔵書の整理に追われているからだ。
 新しいことをはじめるためには余白がいる。余白を作らないと新しいことがはじめられない。

 というわけで、京都のガケ書房の「『本』気の古本週間」(十月三十一日〜十一月十四日)に、文壇高円寺古書部も本を送りました。

2013/10/30

徒歩主義

 急に寒くなった。冬が近づくにつれて、気が滅入りがちになるのはいつものことだ。
 腰痛持ちにはつらい季節である。
 からだを冷やさず、疲れをためず、適度にからだを動かす。寝つけないときは葛根湯を飲む。予防策はそのくらいなのだが、どうにか春までのりきりたい。

 どうしてもポテンシャルの低い身体で暮らしていくには、自分の心身をコントロールする必要がある。
 ただし、無理せず、ケガせず、ということばかり考えていると、思考も保身に傾く。この問題をどうするかは、四十代の課題のひとつだ。

 本多静六著『私の生活流儀』(実業之日本社文庫)の「眠りを深くするには」を読んでいたら、「やはりそうか」とおもったところがあった。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/10/22

食べていくこと

 十月十九日、東京堂書店で内堀弘さんの『古本の時間』(晶文社)と石田千さんの『石田千作文集 きつねの遠足』(幻戯書房)の刊行記念トークショーを見に行く。
 自分たちの本の話ではなく、『彷書月刊』の田村治芳さん、中川六平さんの話がほとんどだった。
            *
 それから告知ですが、来月のみちくさ市の「古本流浪対談」最終回は、『古本の時間』刊行記念で内堀弘さんと対談します。

荻原魚雷(ライター)×内堀弘(石神井書林店主)
「あるものでやる 古本屋で食べていくこと、ライターで食べていくこと」

■日時 2013年11月17日(日)
■時間 15:30〜17:00(開場15:10〜)
■会場 雑司が谷地域文化創造館 第2・3会議室(会場変更になりました)
■定員 40名

詳細は、http://kmstreet.exblog.jp/18596687/
(予約は10月23日から)

 みちくさ市トークも最終回。今回のテーマは仕事の話です。「ライターで食べていくこと」については、収入の大半がアルバイトだった時期のほうが長く、というか、アルバイトをしていない時期はほとんどないというのが実情でして……。
『古本の時間』の中に「古本屋はずっと小さな規模だけれど、なによりも個人の志で書店を作ることができる。なにしろ、いつまでも食うや食わずなのだ。幸せな苦労が残っている最後の場所なのだと思う」という文章がある。
「個人の志」「幸せな苦労」——自分がずっと仕事に求めていたことも、そういうものかもしれない。

 今回の内堀さんの本は「若手」の古本屋さんに向けたメッセージのようなものがけっこうあるとおもった。
「今」から「何か」をはじめるむずかしさ——古本屋の仕事にかぎらず、さまざまな困難がつきまとう。

 正直、楽に食べていく方法なんてない。そんな方法があったとしても通用するのは一瞬だろう。
 どうすれば「個人の志」を貫き(守り)、困難を「幸せな苦労」に変えることができるのか。

 それが簡単にわかれば、苦労はない。

2013/10/18

京都で

 京都に行ってきた。昨年の夏の下鴨以来だ。三重にも帰っていない。親の住んでいる家がリフォーム中で、しばらく帰ってくるなといわれていたのである。

 今回の京都行きは、オクノ修さんのライブを見るのが目的だった。直前まで行くかどうか迷っていた。台風が接近していたのと水曜日に午後からの仕事が入り、一泊しかできないのはもったいとおもったからだ。
 迷ったときは行く。なかなか実行できない。でも行って正解。

 夕方、京都駅に着く。新幹線の中で内堀弘著『古本の時間』(晶文社)を再読していた。至福の読書の時間だった。
 京阪で三条に出て、ブックオフに寄って、六曜社でコーヒーを飲んで、会場の徳正寺に歩いて行く。

 オクノ修さんのライブと牧野伊三夫さんのトークショー。
 牧野さんは、ガケ書房、メリーゴーランド京都、nowakiの三ヶ所同時に個展を開催中である。

 オクノさんの歌は言葉の数がすくない。楽器もギター一本。とても静か。ギターの音がいい。なんでこんなにいいのだろう。シンプルだからこそ、到達することがむずかしい。そんな音楽だ。

 歌を聴きながら、自分は余計なことを考えすぎているのではないかと反省してしまう。たぶん治らない。

 打ち上げも楽しかった。時間が経つのが早い。

 翌日、扉野家で朝食。おかゆがすごくうまい。
 三条のnowakiの牧野伊三夫展を見る。この会場は東北の絵が中心だった。絵ハガキを買う。

 昼の十二時の新幹線の乗る。
 仕事。単純なデータの打ち間違いのミスが発覚する。記憶力と集中力が落ちている。

 すこし情報統制したい。

2013/10/11

瀬戸内海のスケッチ

『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』(山本善行選、サウダージ・ブックス)を読む。

 選者の山本さんは「売れるかなあ」と心配していたが、この作品集をきっかけに、はじめて黒島伝治の文章を読む人はいるとおもう。きっと驚くとおもう。こんな文章を書く作家がいたのかと。

《生れは、香川県、小豆島。
 僕の村は、文学をやる人間、殊に、小説を読んだり、又、小説を書いたりする人間は、国賊のようにつまはじきをされる村であった》(「僕の文学的経歴」/同書)

 ジャンルでいうと、プロレタリア作家ということになるかもしれないが、「黒島伝治の小説を読み始めると、その呼吸、リズムにからだをあずけるのが気持ちよく、気がつけば、からだがその物語の中にどっぷり浸かっているのだった」(山本さんの解説)という読書経験が味わえるだろう。

 一八九八年生まれ。同世代の作家だと、井伏鱒二や横光利一がいる。尾崎一雄の一つ年上である。

 この作品集には入っていないのだけど、「愛読した本と作家から」(巻末の解説で山本さんもこのエッセイのことに触れている)の書きだしはこんなかんじだ。

《いろいろなものを読んで忘れ、また、読んで忘れ、しょっちゅう、それを繰りかえして、自分の身についたものは、その中の、何十分の一にしかあたらない。僕はそんな気がしている。がそれは当然らしい》

 たしかに、文章のリズムが心地いい。
 そのほかのエッセイでも、地方の風土、季節感、暮らしぶりを綴った文章が素晴らしい。
 何度となく作品は発禁になり、病も患っていた。すくなくとも平穏無事とはほど遠い生活だったが、黒島伝治の文章はゆったりしていて、とぼけた味わいもある。

 一九四三年、四十四歳で亡くなった。
 黒島伝治の資質は、戦前より戦後のほうが活かされたようにおもえる。

 もうすこし長生きしてほしかった。

(追記)
『黒島傳治全集』(筑摩書房)の三巻の月報を読んでいたら、坂下強「黒島さんの憶出」の中に、黒島伝治のこんな言葉が紹介されていた。

《自分の書くものが世に受け入れられない時に無理をする必要はないのだ。文学の動きは必ず変ってゆく。そして、自分の書くものと世の中が合うような時代がくる》

2013/10/09

胞子文学名作選

 倉敷の蟲文庫の田中美穂さんが編者の『胞子文学名作選』(港の人)は、いちど手にとってみてほしい本だ。何種類の紙をつかっているのか数えてほしい。

 この本は、苔、羊歯、藻類、きのこや黴などの菌類といった胞子によって繁殖する生物にまつわる詩、俳句、短歌、小説、随筆——編者の田中さん曰く「『胞子性』を宿した作品」を集めている。

 永瀬清子「苔について」、多和田葉子「胞子」、井伏鱒二「幽閉」、尾崎翠「第七官界彷徨」、金子光晴「苔」など、「あの作品もこの作品も胞子文学なんだ」とおもいながら読む。これまで「胞子」のことを気にしながら本を読んだことはなかった。なんとなく顕微鏡で文学を読んでいるかんじもする。

 わたしは散歩しているときに、「あ、苔だ、あ、菌類だ」とおもうことは、あまりないのだけれど、「胞子」という視点で世の中を眺めている人がいて、それを言葉にしている人がいることを知るだけでも、人生が豊かになる。

 自分にはない視点に気づくこと自体、読書の醍醐味だとおもう。

 田中さんの本の読み方はヘンだけど、おもしろい。

2013/10/08

オグラ文化祭

 日曜日、吉祥寺のGBでオグラ文化祭。
 総合司会は金谷ヒデユキ(チラシの肩書が「地獄のスナフキン」になっていた)。
 まずは一九八五年にオグラさんが結成したTHE青ジャージ(ボーカル&ギター:オグラ、ドラム:中安哲朗、キーボード:原めぐみ)が復活し、オグラさんが十九歳のときに作った「左目にコインをのせて」などを演奏。
 スケールの大きな楽曲。最初からオグラさんはオグラさんだった。青ジャージは、冒険小説の主人公に捧げるような歌、ドアーズのような変拍子、歌詞は反語を多用し、一曲一曲が物語になっている。「さすらいの高円寺」が聴けたのもうれしい。

 トリビュートのコーナーでは、金谷ヒデユキ、イトウサチ、謎のバンド・赤ジャージがオグラさんの曲をカバー。金谷さんの「永遠の酒」はMCから涙ぐんでしまった。イトウさんの「夢の中には水がこぼれている」を聴いて、あらためていい曲だなとおもった。赤ジャージの「10円」も忘れられない(おもしろすぎて)。

 オグラ&ジュンマキ堂の「それゆけ!貧乏紳士」と「それゆけ!貧乏淑女」、東京ローカル・ホンクの新井健太(ウッドベース)、原めぐみ(ピアノ)のオグラ三弦楽団、オグラ学園祭バンド、そして最後は盆おどり。ライブハウスで観客がほぼ全員参加で輪になって踊っている光景に感激した。

 バンドからソロになって十一年、オグラさんの二十八年の音楽活動の変遷が一日のライブに凝縮されていて、ちょっと感想がまとまらない。

 この日、ここにいてよかった。

2013/10/03

常盤エッセイ

 神保町のち中野から歩いて高円寺。久しぶりに長距離散歩をする。

 幻戯書房の新刊、常盤新平『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』を読む。
 もともと愛読していた作家なのだけど、晩年のエッセイはとくにいい。調子があまりよくないときでも読めるエッセイだ。

 常盤さんの著作から、アメリカのノンフィクション、コラムのおもしろさを教えられた。そうした知識以上に、本のおもしろさを伝える姿勢のようなものを学びたいとおもいながら読んでいる。

《大学は英文科だったが、英語で小説を読むのは教室だけで、下宿で読むことなどなかった。そのころから私は昼寝好きの怠け者だった。
 ただ、翻訳でメシが食えればと思うようになっていた。翻訳なら家で仕事ができるし、人とつきあうこともあまりないだろう。そのころから、というよりも子供のころから、人とつきあうことが下手だった》

 文章のあいまあいまにこうした話がはさまっている。それによって、自分の知らない海外の作家や作品を気負わずに受け止められる。ふわっと投げられた小話(もしくは、どうでもいい話)の先に広大な世界が広がっているかんじがする。
 
 常盤さんは『ニューヨーカー』は定期購読せず、新宿の紀伊國屋書店か日本橋の丸善に買いに行ってた。そのついでに喫茶店に寄ったりした。
 どこの国でも生活における喜怒哀楽は似通ったところがあるんだなあ。そんな気持にさせられる極上のエッセイ集だった。

 幻戯書房のホームページを見たら、常盤さんの『東京の片隅』が刊行予定になっていた。この本も単行本未収録のエッセイ集である。

2013/09/27

告知いろいろ

 寝ちがえは無事完治した。
 その後もいろいろ調べてみたら、首用のコルセットがいいみたいですね。

 内堀弘著『古本の時間』(晶文社)、広瀬洋一著『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』(本の雑誌社)を読了。素晴らしい。月末の仕事が一段落したら、じっくり紹介したいとおもっています。

 紀伊國屋書店『scripta』で連載の「中年の本棚」は、吉田豪著『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)と大槻ケンヂ著『40代、職業・ロックミュージシャン』(アスキー新書)などを取り上げました。

 それから今年もメリーゴーランド京都の「小さな古本市」に参加します。
 10月13日(日)、14日(祝・月)です。最近、京都に行ってないので、なんとか期間中に遊びにいけたらと計画中。15日(火)は徳正寺でオクノ修のライブ(ゲスト/牧野伊三夫)もあるし。これ、見たいなあ。

 あと来月、Pippoのポエトリーカフェの入門篇《テーマ“酒(日本篇)”パート2!》にゲストで出ることになりました。
 10月27日(日) 19:00〜 定員15名。場所は高円寺のペリカン時代です。
(現在受付中)

 このあいだ、ポエカフェがもうすぐ五十回になると聞いて驚きました。すっかり忘れていたのですが、Pippoさんがこの会をはじめたばかりのころ、わたしは「百回まで続けろ」といったらしいのです。
 それにしても五十回はすごい。ペースもテンションもまったく落ちてないところがすごい。前回の入門篇のときも、当日、いきなり資料の束を渡されて、呆然とした。酒の詩がテーマで李白、杜甫からスタートだからね。どう考えても終わるわけがない。今回はその続きというか、日本の酒の詩の話をします。

 詩の小さな勉強会 Pippoのポエトリーカフェ http://pippo-t.jp/newpage33.html

2013/09/20

読書の工夫

 寝ちがえ、三日目。

 床に落ちているものを拾ったり、ペットボトルの清涼飲料水を飲んだりする動作はまだむずかしい。それでも痛みが治まっただけでも、かなり前進した気分である。一日前までは、座っている姿勢から横になることさえ、難渋していた。
 安静中、新刊(!)の小林秀雄著『読書について』(中央公論新社)を読んだ。
 ブログの「文壇高円寺」の前身にあたる線引き屋ホームページ版の「文壇高円寺」の第一回目で、わたしは小林秀雄のことを書いた。
 当時のわたしの関心は「批評の神様」ではなく、江藤淳に「“白樺派”的直情」と評されるような小林秀雄だった。

『読書について』所収の「読書の工夫」で、小林秀雄はこんなことを書いている。

《よく結婚前には、文学書が好きで、よく読んだものだが、結婚して了うとそんな暇もないし、又小説なぞ読んでいるのも馬鹿々々しくなる、という事を聞く。小説に限らない。一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、年をとっても持ち続けている人はまことに少い。本を読む暇がなくなったという見易いことには誰でも気が付くが、本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、なかなか気が付かぬ。又、気が付き度がらぬ》

 ようするに、読書熱が衰えるのは、「読書の工夫」が足りないということに尽きる。

 では、「読書の工夫」とは何か。それはここでは書かない。

 ここ数年、読書熱が衰えているなあと痛感する。せっかく神保町に出かけたのに、神田伯剌西爾でコーヒーを飲んで、新刊書店の平台をさっと見て、古本屋に寄らずに家に帰ることもある。

 活字がまったく頭に入ってこない。文章がちっとも心にしみてこない。そういうこともよくある。
 散歩をしたり、瞑想したり、いろいろ試してみたが、だめなときはだめだ。
 ただ、そういうときに小林秀雄に戻る。小林秀雄からやり直したくなる。「読書の工夫」にかぎらず、今の自分に足りないもの、欠けているものに気づかされる。

『読書について』の中で、わたしのいちばん好きなエッセイは「喋ることと書くこと」だ。文字がなかったころ、印刷技術がなかったころ——の知識人はどうしていたか。そんなところにまで話が及ぶ。思索のスケールが大きい。

 そこから散文の力について論じる。

《優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います》

 認識や自覚が弱ってくると、散文は楽しめなくなる。散文を味わうためにも「読書の工夫」がいる。

 それを知りたい人はこの本を読むことをおすすめしたい。

2013/09/19

振り向かない男

 火曜日に寝ちがえてしまい、首がまわらない。過去にも何度かやっているが、今回はこれまでの寝ちがえでいちばんきつい。何がつらいといって寝るに寝れないのがつらい。仰向けになると、ひとりで起きられなくなるので、横向きに寝る。

 無駄な抵抗はせず、痛み止めの薬を飲み、鎮痛消炎剤を塗る。腰痛のときと同じで、初日は安静しかない。
 水曜日はすこしマシになったが、それでもちょっとしたものを持つのにも不自由する。

 日常に支障をきたさないていどにからだが動くまでにはだいたい三日かかる。日にち薬とはよくいったものだ。完治はもうすこしかかるかもしれないが、「三日のガマン」でどうにかなるとおもえることが、養生中の心の支えになる。

 インターネットで検索したら寝ちがえの治療法がいろいろ出ていたので、いくつか試してみた。その中に片方の手のひらを頭の上に乗せ、その甲をもう片方の手(ゲンコツ)で軽く叩くというのが紹介されていた。
 すこしずつ頭の上に乗せた手の位置をズラして、トントンと叩いていくと、気持のいい場所がある。そこを叩いて、しばらくすると、痛みが軽減し(たような気がする)、首もすこし動くようになった。
 おかげでこうやって文章も書けるようになった。

 誰にでも効果があるのかどうかはわからん。

2013/09/17

みちくさ市

 日曜日はみちくさ市。雨で古本フリマは延期。午後から中嶋大介さんとのトークショー。無事終了と書きたいところだが、途中、まったく喋れなくなったりした。人前で喋るのむずかしい。

 大阪にいたころ、中嶋さんはデザインの会社で働きながら、インターネットの古本屋をはじめた。でもすぐそこでお金のためだけにやっているだけでは、おもしろくないと“アホアホ本”の紹介をするようになる。

 おもいついてすぐ動いてしかも形にする。おもしろいかどうかだけで、何かをする。
 前から、すごいなとおもっているのだが、本人が飄々としていて、なんとなく、ただ遊んでいるようにしか見えない。

 いか文庫の話はもうすこし聞きたかったのだけど、「エア書店」という発想は、読んで字のごとく、つかみどころがない。でもその曖昧さやあやふやさをプラスに考えているところが斬新だとおもう。

 おもいだした。
 最近、中嶋さんから興味があることを聞かれて、完全にフリーズしてしまったのだ。スノーデンのことはまったく知らなかった。あと野球の話になって考えていたことが飛んだ。バレンティンのことからブラジル出身のユウイチの話をしてしまった。

 打ち上げは、退屈君の新居に行く。けっこう広い。みんなで「モヤモヤさまぁ〜ず」を観る。ポポタムが紹介され、大林さんと武藤さんがテレビに出ていた。番組が終わった途端、急に睡魔におそわれ、家に帰る。

 バレンティンが五十六号、五十七号の二打席連続でホームランを打っていた。

2013/09/16

戸越銀座(二)

『銭湯の女神』(文春文庫)以降、星野さんのエッセイは「自由」あるいは「フリー」であることにたいする矜持とやせ我慢が、たびたび綴られている。
 大義名分やら長いものに巻かろというような世間知との戦いに明け暮れている人という(勝手な)印象があった。

 前回、「思想の転換」という言葉をつかったのは、その印象の鮮烈さがあったからだ。でも「転換」というより、四十歳前後の星野さんは、自分の弱さを見つめなおす作業をしていたともいえる。

『島へ免許を取りに行く』(集英社)では、「何かまったく新しいことに挑んで、余計なことをくよくよ考える暇もないほど疲れたい」「抽象的な目標ではなく、手が届かなそうで届きそうな、具体的な目標が欲しい」と書いていた。

『戸越銀座でつかまえて』では、抽象的な目標のひとつの「割と自由な生き方」ではなく、迷い、悩むことも含めた「難儀な自由」の問題に踏み込んでいる。

「もう無理だ。
 逃げよう」

 星野さんの半生を考えると、この二行が書くのに、ものすごく躊躇があったのではないか。

 わたしは、四十歳前後あたりから、ずっと停滞感をおぼえつつ、自分のこれまでの生き方を変える勇気を持てずにいる。
 勇気もそうだが、逃げる場所もない——。

『銭湯の女神』で、風呂のある実家の一軒家から、陽の当たらない風呂なしアパートに引っ越したさい、「何かを手に入れるためには何かを手放さなければならない」という考えに至る。
 でも実家には、数百円の電車賃で帰ることができる。ほぼ一回分の銭湯の値段で。
 その後、母から「あんたがふらふらしていられるのは、実家があるから。仕事を選んでいられるのも、風呂なしアパートで我慢していられるのも、すぐに帰れる実家があるから。何もなかったら、もっと死に物狂いのはずだよ」といわれる。

 このせりふは『銭湯の女神』の「エセ貧乏」に出てくる。

《故郷に錦を飾る必要もなければ、稼いで家族を扶養する必要もない、いい仕事をして無理解な親を見返す必要もない。時には創作や表現の原動力になるハンディが、私には何もない》

 だから不自由が欲しいとおもう。東京生まれの星野さんのこの言葉はすごく新鮮だった。

(……続く)

戸越銀座(一)

 今、自分は何が読みたいか。どんな文章が好きか。そのふたつの質問に答えるとすれば、星野博美さんのエッセイということになる。

『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)が出るまで、『銭湯の女神』、『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)、『迷子の自由』(朝日新聞社)を読み返していた。

 わたしも散文——エッセイを書く。そのとき自分の日常および条件からなるべく離れず、「等身大の自分」の視点で書こうと心がけている。それはおもっているほど簡単ではない。

 現実の「等身大の自分」は、浮き沈みが激しく、かなりぶれる。気が大きくなったり、小さくなったりもする。
 そのぶれをそのまま表出すると、支離滅裂になりかねない。
 だから書き手としての「自分」らしきものを作りこむ。そこには当然ウソがまじる。

 星野さんの文章もすべてが「等身大の自分」によって書かれているわけではない。しかしギリギリまでフィクションの部分を削ぎ落としている。そうかんじる。
          *
 すこし前に戸越銀座出身の東京ローカル・ホンクの木下弦二さんと星野博美さんが、同じ小学校の学年ちがいということを知った。
 遠回りしながら、答えを見つけようとする姿勢は、星野博美さんの新刊の『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)を読んでいたときにもおもった。

『戸越銀座でつかまえて』は二〇〇八年から二〇〇九年までの週刊誌の連載が元になっているのだけど、単行本化までに四年かかっている。
 当然、単なる加筆ではなく、そのあいだに「思想の転換」といっていいくらいの大きな変化がある。

 就職を機に引っ越した中央線沿線の気ままな暮らしに区切りをつけ、実家のある戸越銀座に帰る。
 地方出身の上京者とはまたちがった「挫折」の形。星野さんは、連載時にはそれを言葉に落とし込むことができなかった。そのことが書けない以上、本の形にはできないと考えた。
 それが単行本化までに時間がかかった理由のひとつだろう。

 星野さんはフリーランスの写真家、ライターという職業についた。

《私にはいまでも、この職業を選んだという自覚があまりない。あるのは、割と自由な生き方を選んだのかも知れない、という自覚だけだ。守りたいと思うのはそんな生き方のほうであり、職業ではない。自分のやり方が守れるなら、生計を立てる方法は何でもかまわないと、いまでも思っている》

《私はフリーになりたかった。それも下請けを意味するフリーではなく、本来のフリーだ》

《これを決めた時点で、安定、予定、目標という選択肢を捨てざるを得なかった》

 まえがきに付けられた副題は「自由からの逃走」。
 わたしにとっても他人事ではなく、身につまされながら読む。

(……続く)

ジロキチで

 土曜日、高円寺ジロキチで東京ローカル・ホンクとパイレーツ・カヌーのライブを見る。
 パイレーツ・カヌーは京都のバンドで、演奏のすごさに遊びの部分がくわわって、ライブバンドとして見て楽しめる要素がさらに増しているかんじがした。
 洗練された音楽とMCのぎこちなさも魅力がある。

 東京ローカル・ホンクは、木下弦二さんがソロで歌っていた「夜明けまえ」をギター+アカペラバージョンで披露する。ライブの中盤くらだったにもかかわらず、拍手がなりやまない。

「昼休み」以降、聴いたあともずっと考えさせられる曲が増えた。ある種の疲れやもどかしさを琴線にふれるように、しかもシリアスになりすぎずに表現している。

 アンコールは二組のセッションで、スティービー・ワンダーとクラプトン。それぞれのドラマーの東西クワイエット・ロックロール対決もおもしろかった。ツインドラムなのにお互いに音を出さないことを張りあっている。

 二十代から四十代にかけて、うずまき〜ホンクのライブを見続けてきているのだけど、その時間そのものが自分にとって、大きな財産のようにおもえる。ひとつのバンドの成長や成熟の現場に立ちあえている喜びというものは、知らず知らずのうちに、自分が行き詰まったときのヒントや打開策を教えられていたりする。
 遠回りしながら、答えを見つけようとする姿勢とか。

 この日、ほんとうは飲みすぎてはいけない事情があったのだが、午前三時まで飲んでしまう。現在猛省中。

2013/09/12

六平さん

 九月五日の朝、電話があった。わたしの朝寝昼起を知っている友人が午前中に電話をかけてくることはほとんどない。
 ナンバーディスプレイに扉野良人さんの電話番号が表示されて「もしや」とおもった。
 やっぱりそうだった。そのあとすぐ石田千さんからも同じ内容の電話がかかってきた。

 入院中だったことは知っていたし、前の週に見舞いに行った扉野さん、石神井書林の内堀弘さんから容体も聞いていた。

 ちょっと寝ぼけていたが、平静のつもりだった。ところが、その日の記憶はあちこち飛んでいる。
 昔から、悲しいときには、心が痛むのではなく、頭がおかしくなる。

 中川六平さんと会って二十年くらいになる。『思想の科学』の編集者のNさんに紹介してもらった。初対面のとき、六平さんは「おまえ、貧乏そうだなあ。文芸座のもぎりのバイトやらないか」といった。
 バイトの話は断ったが、以来、ときどき高円寺で飲むようになった。「安い飲み屋連れてけ」と呼び出される。夕方タイムサービスで生ビール百円の店に案内したら「ここまで安くなくてもいいんだよ」と文句をいわれた。

『古本暮らし』(晶文社)の打ち合わせと編集作業は古本酒場コクテイルでした。当初は、編集の仕事を手伝えといわれていたのだが、わたしは自分の本を作ってほしいとお願いしたのだ。

「わかった、原稿もってこいよ」

 当時の六平さんは晶文社で微妙な立場だったから、わたしの本はちゃんと企画を通していないとおもう。
 表紙ができ、見本ができても不安だった。もしかしたら出ないんじゃないか。書店に並ぶまでは安心できない。
 二〇〇七年五月、はじめて自分の単行本が書店に並んでいるところを見たときはうれしかった。

 本が出たあと、六平さんにいわれた言葉は「おまえは失うものがないんだから、守りに入るんじゃねえぞ」だった。

 最初の単行本の担当編集者は、書き手にとって大きな存在だ。
 でもわたしは六平さんにお礼をいったことがなかった。けなされ、おごらされてばかりで、感謝の言葉をいう隙を与えてもらえなかった。

 六平さんが最後に編集した本は石神井書林の内堀弘さんの『古本の時間』(晶文社)である。

『古本の時間』の発売日、六平さんはその本が書店に並んでいる写真を見ている。
 夜、眠りついて、そのまま起きてこなかったらしい。

2013/09/02

雑感

 九月、藤井豊さんはまだ仕事部屋にいる。先週はじめから、閖上の仮設住宅の寺子屋の先生をしている工藤博康さんも上京していて、ずっと相部屋状態だった。

 工藤さんは酒が強い。前に東京に来たときも十二時間くらい飲み続けた。最後のほう、わたしは意識が遠のきかけた。

 文学の話をしているときも工藤さんは技術の話ではなく、「なぜ書くのか」という問題に踏みこんでくる。表現にたいして誠実なのである。どちらかといえば、わたしもそういう話をするのは好きなのだが、工藤さんの熱量にはかなわない。

 月末の仕事はどうにか乗りきった。日課の散歩によって、すこし体力がつき、よく眠れるようになったのがいいのかもしれない。
 無理なペースは長続きしない。
 ただ、あまりにも無理をしない生活をしていると、いろいろな能力が退化しそうで怖い。
 ここ数年、そんなことばかり考えている。

 昔、将棋の本を読んでいて、「からだで覚えた将棋」という言葉を知った。
 いわゆる大局観のようなものもそれに含まれる。どんなに頭のいいプロ棋士でも、あらゆる局面を記憶することはできない。さらに未知の局面にしょっちゅう出くわす。時間制限がある中で次の一手が読みきれないとき、プロ棋士のレベルになると、ここでこう指したら「気持がいい/気持がわるい」という感覚があるそうなのだ。

 もちろん「からだで覚えた将棋」の感覚そのものはわからない。将棋の感覚はわからないけど、文章の読み書きなら「気持がいい/気持がわるい」という感覚はそれなりにあるとおもっている。

 何かひとつのことに打ち込んで、身にしみついた感覚はなかなか理屈では説明できない。
 一見どうでもいいようなものの微妙なちがいをかんじとれるかどうか。 
 最近、そうした感覚に頼りすぎると今度は別の何かが衰えるのではないかという気もする。
 ややこしくてむずかしい。

 まとめられそうにないので宿題にする。

2013/08/31

「僕、馬」展 開催中

 昨日から藤井豊さんの写真集『僕、馬』の個展が目白の「ポポタム」で開催。扉野良人さん、藤井さんとオープニングトークショーですこし喋る。

 藤井さんの写真だけでなく、彼自身の魅力が伝わったらいいな、とおもっていた。

 青森から福島まで歩きながら写真を撮った。そこで見た光景、人との触れ合い、歩いてかんじとってきたこと——簡単に言葉にできることではないけど、藤井さんは真剣に考えながら話していた。
 寝袋やカメラ、フィルムなど二十キロちかい荷物を持って、毎日二十キロくらいずつ歩く。朝、出発し、ちょうど夕方くらいになったころに町が見えてくる。
 昔の人が徒歩で暮らしていたときの町の成り立ちを体感する。

 歩いて、見て、考える。
 偶然やなりゆきに身をまかせる。
 動きながら次の行く先を見つける。

 わたしは藤井さんからそういうところを教わった気がする。

 ブックギャラリーポポタムの「僕、馬 I am a HORSE 展」は9月3日(火)まで。会場には藤井さんがいます。

http://popotame.m78.com/shop/

2013/08/27

あいおい古本まつり

 札幌から渡辺一史さんが上京し、土曜日のあいおい古本まつりの星野博美さんと上原隆さんのトークショー「普通の人に話を聞くとき」に誘う。渡辺さんは上原さんの文庫(『雨にぬれても』幻冬舎アウトロー文庫)の解説を書いている。

 ノンフィクションといっても、星野さんはエッセイ(思索)の要素が色濃くなってきているし、上原さんはルポルタージュ・コラムという手法をとっている。ノンフィクション作家がどこまで聞くか、どこまで書くか。対談なのだけど、お互いの話のやりとりから、ふだんこんなかんじで取材しているのかな(ちがうかもしれないけど)とおもわせるようなところもあり、また文章のかんじと喋り方がどこか通じるところもあり、星野ファン、上原ファンであるわたしにとって貴重なトークショーだった。

 このふたりの話が聞ける機会はなかなかないとおもう。あいおい文庫の砂金さんに感謝したい。

 来月、星野博美さんはエッセイ集『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)が刊行予定。
             *
 夜、すこしだけ涼しくなってきた。そろそろ秋花粉の季節なので、無理せず、休み休み仕事する。ただ、ここ数年、秋の花粉症の原因のブタクサが都内では減っているらしく、かなり楽になった。漢方やら食事療法やらいろいろ試した結果、体質が改善されてきた可能性もある。

 体力が落ちた分は、休息力で補う。というのが、今のわたしのテーマです。

2013/08/23

第4回「古本流浪対談」

 9月15日、みちくさ市で第4回「古本流浪対談」を行います。

 今回のゲストの“アホアホ本”“いか文庫”の中嶋大介さんです。
 現在、中嶋さんは東京在住なのですが、知り合ったときは大阪でデザインの会社で働きながら、オンライン古書店「BOOK ONN」を運営していました。大阪の古本屋をまわるときに家に泊めてもらったこともあります。

 インターネットの古本屋だけでなく、お店の一部で古本屋をやったり、かとおもえば、アホアホ本のスライドショーを展開したり、上京後は、エア書店の“いか文庫”のバイトくんとして活躍するなど、何が本業なのかわからない人物です。『活字と自活』(本の雑誌社)のデザインも担当してもらっていました。

 本の話だけでなく、いわゆる就職氷河期世代のフリーランスとしての中嶋さんの仕事観みたいものも聞いてみたいとおもっています。


第4回「古本流浪対談」

ゲスト 中嶋大介さん
■日時 2013年9月15日(日)
■時間 15:30〜17:00(開場15:10〜)
■会場 雑司が谷地域文化創造館 第2 第3会議室
■定員 40名

中嶋大介(なかじま・だいすけ)
1976年京都府福知山市生まれ。ブックデザイナー、編集者、ライター、古本屋など。エア本屋「いか文庫」のバイトくんとしても活動。著書に『アホアホ本エクスポ』(BNN新社)、『展覧会カタログ案内』(ブルース・インターアクションズ)がある。2014年初旬に3冊目の著書が出る予定。

■入場料:1000円 ※当日清算

■予約方法 
下記のメールにて件名を各「魚雷トーク予約」、本文に「お名前」「人数」「緊急の電話連絡先」をご記入の上お申し込みください。折り返し予約完了のメール(自動ではないので少しタイムラグある場合がございます)。返信が無い場合は再度お問い合わせくださいませ。代金は当日払いです。予約完了メールに当日の受付方法が記入してありますので必ずお読みください。

■当日受付の際のお願い
みちくさ市開催にあたり創造館様のご厚意で会場を使用させていただくことができました。しかしながら館内での金銭やりとりはできないというルールは守らなければいけなく、お客様にはご面倒をおかけいたしますが、会場より徒歩4分の、みちくさ市会場の本部まで来ていただき代金をお支払いの上チケットを受け取っていただくことになります。お客様に手間をとらせてしまい大変申し訳ございませんが、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

※予約&お問い合わせは下記のメールにて
(wamezoevent1■gmail.com■=@)

詳細は、http://kmstreet.exblog.jp/18596687/ にて

2013/08/18

盆休み

 今年のお盆は東京ですごした。

 仙台からフリーライターの高橋創一さんが上京し、数日、うちに泊っていく。『実寸‐JISSUN』というミニコミの編集をしていて、その営業もかねて東京にきたそうだ。この冊子、東北六県の福祉施設の授産品を“実寸”の写真とともに紹介しているのだが、民芸や伝統工芸がこういう形で継承されていることを知った。どこかで見かけたら、手にとってながめてください。

 金曜日は代官山の「晴れたら空に豆まいて」で、yumboとパスカルズのライブを観に行く。

 代官山に行くのは、たぶん二十年ぶりくらいかもしれない(何でいったのかおぼえていない)。ひさしぶりに東横線に乗ったら、いつの間にか駅が地下になっていて、山手線からの乗り換えが五、六分かかった。帰りは渋谷まで歩いた。

 ライブは超満員だった。yumboは新メンバーが加入、新曲もすごくよかった。あいかわらず、不安定なかんじを絶妙に持続している。自信なさげなのに、音の質が高くて深いという不思議なバンドだ。

 パスカルズのライブは、はじめて見た。ずいぶん昔、ロケットマツさんを新高円寺か東高円寺のライブハウスで見た。そのころ、パスカルズの名前を聞いた。まだ結成してまもないころだったから、十六、七年前か。
 石川浩司さんの演奏というかパフォーマンスもすごかった。
               *
 休み中は、野球の原稿を書いていた。厳密には野球を題材にした小説を論じた原稿なのだが、あと数行のところで停滞している。

 なんとか今日中に仕上げたい。

2013/08/12

ある仕事とない仕事(六)

 自分にできる最高の仕事をしても食べていけるとは限らない。
 この現実におもいあたる人はけっこういるのではないか。

 最高の仕事と職業として通用するかどうかは別である。技術もあるにこしたことはないが、それがすべてではない。

 すこし前にラジオ深夜便の『隠居大学』(ステラMOOK)の天野祐吉と小沢昭一の対談を読んでいたら「万人にわかる芸はつまらない」という言葉があった。

 天野祐吉が「俳優というのも、まあ、いい加減といえばいい加減な職業ですね」といったことにたいし、小沢昭一が「はっきり申し上げていい加減です」と答える。
 逆にふたりは俳優や芸人は大真面目にやるだけではいけないという。
 そのあとの小沢昭一の言葉が深い。

《どこか力が抜けているところがあるのがいいのであって、「俺は俳優の道をまっとうしよう」なんて頑張ってる奴は、そんなにいい表現ができないのが多いです、不思議と》

 さらに「俳優はそんなに好きじゃない」と語り——。

《小沢 こんなことを言っちゃあナンですが、お客様を喜ばせるためだけに身を張ってやることに、空しさを感じるようになったんですね。もっと自分自身がのびのび楽しいような、人のためじゃなく自分のためにやる部分を残しておきたい、と》

 大道芸や物売り、芸能史などの研究、ハーモニカ、写真、エッセイ、ラジオ……。小沢昭一は俳優以外の活動も多岐にわたる。

「自分のためにやる部分」を残す。
 人のためにサービスに徹することを否定する気はないが、それだけだとやはり「いい表現」にはならない気がする。もっとも「自分のためにやる部分」だけになると、人に伝わりにくくなる。そのバランスがむずかしい。

《小沢 これはすごい話をしているんだということを、認識できない人にとってはつまらない、退屈な話なんです。だから芸をする側と観る側との勝負といいますか、わかんなきゃしようがない、お前が知らないから面白くねえだけだよっていう、居直ったような芸。そんなものが近頃はないんじゃないでしょうか。やたら親切で、万人のお客さんがわかるようにという芸が多い》

 ここにも「ない仕事」のヒントはある。
 世の中全体が、親切でわかりやすさを求める傾向を物足りなくおもう人もいる。
 本来、サブカルチャーの世界は既成の文化に物足りない人たちのための表現をする場だったところもある。
 難解すぎて伝わらない人が増えれば、もっとシンプルで万人向けのをやれという話になる。
 もちろん職業としてお金を稼ごうとおもったら、その考えは簡単に切り捨てることはできない。わかりやすくする工夫をしながら、わかりにくいもの、わかる人にしかわからないものをどれだけ残せるか。

(……続く)

ある仕事とない仕事(五)

 これといった根拠もなく「三十歳くらいまではふらふらしていても大丈夫」とおもっていた。
 フリーランスの仕事を続けていると、定職に就いていない知人が増える。というか、まわりがそういう人たちばかりになる。東京の中央線沿線はフリーランス人口が多いから余計にそうなる。

 何度となく「好きなことをやるのはかまわない。でも趣味としてやればいいんじゃないか」と忠告された。
 会社に就職して毎月給料をもらって、余暇の時間を利用して本を読んだり、文章を書いたりする生活を送る方法もあったにちがいない。
 趣味と仕事がいりまじった生活をいかに持続するかと考えると、どうしても家賃や生活費その他の問題が浮上してくる。

 仕事を作る〈感覚〉についていえば、何が武器になり、何が武器にならないのか——わたしはその見極めがなかなかできなかった。
 本を読むのが好きで、文章を書くのが好きだったが、物書の世界ではそんな人はゴロゴロいる。中途半端な知識や技術は武器にならない。それを中途半端ではないようにするには時間がかかる。

 五年十年とやって結果が出ないということは何か間違っているのだろう。

 依頼された仕事を受けて堅実にこなす。食っていくためにはそういうこともできたほうがいい。でもそれだけだと続かない。数をこなすことが、技術の修練になる時期がすぎると、受け身の仕事ばかりだと手ごたえを感じられなくなる。

 自分の名前で仕事がしたい。
 しかしなかなかそういう仕事には空席がない。

 たとえ自分にできる最高の仕事をしたとしても、商売として成立させるには別の力がいる。
 話が進まない。いまだにどうしたらいいのかなと考えている。

……まだ続くよ。

続きが気になる

 盆休み前の仕事が一段落して、頭が燃えかすのようになっているので、だらだらとキンドルにすすめられるままに漫画をダウンロードして読む。

 桜井慎原作、川上真樹作画『クラスメート、上村ユウカはこう言った。』(ガンガンコミックス)は、表紙の絵と内容のギャップに驚いたのだけど、久々に秀逸なSF漫画だとおもった。

 エキセントリックなヒロイン(上村ユウカ)が、メガネの主人公(白崎修士)を振り回す学園モノのラブコメかとおもいきや、物語の世界観がいわゆる『マトリックス』なんですね。

 おかしいのは上村ユウカではなく、まわりの人たち全員というか、ヒロインもふくめて何者かに「作られた」存在であると……。
 当初、そのことを知っているのは上村ユウカだけなのだが、クラスの誰からも相手にされていないヒロインの突飛な言動に好奇心をおぼえた主人公(時々ヘンな夢を見る)が、やがて平穏で退屈な日常にひそんでいる異変に気づいてしまう。

 おもしろくてけっこう怖い。伏線のはり方もよく練られていて、無駄な引きのばしがなく、テンポもいい。アイデアがどんどん浮かんで、話を進めたくてしょうがないかんじがする。

 最近の漫画をそれほど読んでいるわけではないけど、漫画界はこう作品が当たり前に出てくるような状況なのか。それともこの作品が特別なのか。そのあたりはまだちょっとわからない。

 もう一作、これもキンドルで読んだのだが、小川麻衣子著『ひとりぼっちの地球侵略』(小学館)はかなり好みの漫画だった。

 この作品も自分は宇宙人だという風変わりなヒロインが出てくる。目的は地球侵略——。

 主人公の岬一は双子の弟で、さらに年上の兄が書店で働いている。高校入学すると同時に、お面を被った自称宇宙人のヒロインが「お前の命を、もらいに来た」と宣言する。

 岬一は両親がいなくて、おじいさんが営む喫茶店を手伝いながら、学校に通っている。その喫茶店と年上の兄が働く隣の書店とは店の中でつながっている(変則だけど、ブックカフェが出てくる漫画なのです)。

 主人公とヒロインが教室でひたすら本を読んでいたり、主人公が珈琲を作る勉強をしていたり、地味な(褒め言葉のつもり)日常が描かれていて、妙に落ち着く。もちろん得体の知れない敵(宇宙人)と戦うシーンもある。

 すごい才能だなとおもった。年々、漫画への興味が薄らぎつつあったのだけど、いきなり引き戻されてしまった。

 とにかくこの二作品は完結まで追いかけたい。

2013/08/03

ある仕事とない仕事(四)

 わたしは就職経験がなく、学生時代にはじめたフリーライターの仕事を続けてきた。収入の大半はアルバイトだった時期のほうが長い。だから自分のやり方がうまくいったとはいえない。

 出版の仕事に関われるうちは、東京にいようと決めていたのだが、ほかの仕事で食べていかなくてはならない状況になったら、別の選択肢も考えざるをえない。

 四十歳をすぎて、これまで就職経験のない人間が会社勤めをするのはむずかしい(誰か知り合いが社長にならないかな……とよくおもう)。

 アルバイトの口はないことはないが、それも限られているだろう。自分の性格や向き不向きを考えると、自由業か自営業しかない気がしている。

 もちろん今の仕事に専念できるものならそうしたい。でも自分も業界自体もどうなるのかわからない。
 わたしは人生設計の段階で、自分ひとり暮らしていける分を稼ぐことしか考えてこなかった。

 話が重くなりそうなので、もうすこし「ない仕事」を作るということを考えてみたい。

「ない仕事」といっても、これまでにない完全にオリジナルな仕事を作るわけではない。
 そこになければ、それは「ない」のである。

 たとえば、四人くらい集まって、バンドを作ろうという話になる。とりあえず、パートは、ボーカル、ギター、ベース、ドラムということにしておこう。
 自分以外の三人がボーカルかギターをやりたいという。そういうときはベースかドラムを率先してやる。
 もちろんベースもドラムも「ある仕事」なのだけど、その場においては「ない仕事」になる。
 すでにメンバーが四人揃ったバンドがあって、そこに新加入するケースも考えてみる。
 ボーカル、ギター、ベース、ドラムはいる。だったら、キーボードとか管楽器とか、後から入る以上、ヘタでも何でもちがう楽器を担当する。もしくは一から自分でメンバーを集めて新しいバンドを作る。

 町の中に店を出すときに、その町にすでにラーメン屋の名店がひしめいているとしたら、別の町を探すか、ラーメン屋以外に店を作るというような発想である。

「ある仕事」で大勢の人と競争するより「ない仕事」を探す。

 仮に自分にできること、何かしらの技術があるとすれば、そのできることや技術が重宝される場所はどこかということをを考える。

 たぶん「ある仕事」をする場合にもこうした〈感覚〉は応用がきくかもしれない。

(……もうすこし続く)

2013/07/29

久々の下北

 日曜日、久しぶりに下北沢へ。駅が地下化(今年三月下旬)してからはじめて——かなり深く、なかなか駅の外に出ることができない。

 下北沢には年に数回、知り合いのミュージシャンのライブを見るためにふらっと訪れるくらいなのだが、それでも今回の再開発はどうなんだろうと疑問におもう。

 時代とともに町が変わっていくのは避けられないことだが、そのスピードはゆっくりのほうがいい。

 日曜日のライブは、NEVER NEVER LANDで小川剛&イトウサチpresents“サンデーソングライターズ ”vol.7という企画だった。

 弱者同盟/BLANKET GROUP/イトウサチ&ブンケンバレエ団

 BLANKET GROUPの小川剛さんは飲み屋で知り合って、話(言葉)がおもしろい人という印象だったが、音楽は多彩で渋い。もっとストレートなかんじでギターをかきならして歌うのかと想像していたのだが、けっこう作り込むタイプだとおもった。完全に誤解していた。ベースがめちゃくちゃうまくてビックリした。

 イトウサチ&ブンケンバレエ団は、東京ローカル・ホンクの井上文貴さんと新井健太さんが参加。イトウサチさんの三人編成を見るのははじめてだったのだが、心地よくて、ずっと聴いていたくなる。ライブの前はけっこう店内がざわついていたのに、歌いはじめた途端、場の空気が変わった。ライブならでは醍醐味ですね。

 弱者同盟は、ペリカン時代でCDを聴かせてもらってファンになったユニット(バンド名だけはずいぶん前から知っていた)。詞はSF調でメロディーメーカーとしての才能は破格だ。いちど聴いただけで、曲が頭に残る。アンコールの「お月見どろぼう」もうれしかった。たぶん、この曲、二十年とか三十年後かにカバーするバンドがぜったい出てくるとおもう。

 三種三様の音楽なのに、不思議と調和がとれていて、盛り上がり方のちがいも楽しめた。
 いいライブでしたよ。

2013/07/28

ある仕事とない仕事(三)

 八年連続二百本安打を記録し、俊足強肩で知られたメジャーリーガーのウィリー・キーラー(1872−1923)は、記者になぜそんなにヒットが打てるのかと訊かれ、こんなふうに答えている。

「よく見て、誰もいないところに打て」

 キーラー本人よりもこの言葉のほうが有名かもしれない。シンプルだが、含蓄のあるいい言葉だ。

 自分のスイングをして会心の当たりを打つ。でもどんなにいい当たりだったとしても、打球が野手の正面に飛べばアウトになる。逆にいい当たりではなくても、人がいないところに打てば、ヒットになる。

 そうした〈感覚〉が小柄でパワーがなかったキーラーの持ち味だった。

 わたしはフリーランスの仕事はすき間産業だとおもっている。というか、お金も人脈も実績もない個人はすき間産業から始めるしかない。

 すき間産業というものは、何の応用も工夫もせず、簡単にうまくいく方法なんてないとおもったほうがいい。
 もしそんな方法があったら、すぐ人に模倣され、通用しなくなる。だから一見うまくいかなそうな方法だったり、周囲からちょっと無謀とおもわれるくらいのやり方のほうが可能性がある。

 キーラーの言葉に話を戻すと「誰もいないところに打て」というのは、プロなら誰でも考えることだろうが、簡単にできることではない。
 キーラーは身長が一六〇センチちょっとしかなかった。その体格でメジャーで生き残るためには、人と同じことをやっていてはだめだと考えたはずである。おそらく誰もいないところに打つために、人知れず、誰もしないような練習をしたのだろう。

「何をすればいいですか」
「どうすればいいですか」

 その質問にたいしては「それはずっと考え続けるしかないんだよな」としかいえない。
 いろいろなことを調べて、いろいろなことを考えて、いろいろなことを試して、たまにうまくいく。
 だから、うまくいく方法だけでなく「何をやってもおもうようにならないときに、どうやって自分を磨り減らさずにしのげるか」を考えたほうがいい。

 それから何をやってもうまくいかないときは、努力や練習が足りないだけでなく、ルールを半知半解のままプレーしていることがけっこうある。

 この話はまたいずれ。

2013/07/23

『僕、馬』できました

 先月末に、京都から扉野良人さん、岡山から藤井豊さんが、高円寺に来て、藤井さんの写真集『僕、馬』(りいぶる・とふん)の見本を見せてもらう。

 造本(角背ドイツ装)やレイウアトは扉野さんが手がけている。細かいところまですごく凝っている。
 東日本大震災の一ヶ月後、岡山在住の藤井さんは、(たぶん)居ても立ってもいられない気分になって、青森に行き、そこから福島まで海岸線に沿って歩いた。

 もしかしたら単なる衝動で東北に行っただけかもしれない。その場所を歩きたかっただけかもしれない。ひたすら歩いて、撮って、暗室にこもる。そうした時間の中で、大震災のことを考えたかったのかもしれない。
 風景と藤井さんが自問自答しているような写真だった。

 一ヶ月ちかくに渡る旅を終え、帰りに高円寺に寄った。
 行きつけの飲み屋で待ち合わせをしていると、髭が伸び、痩せこけ、野人化した藤井さんが現われた。
 手には流木の杖を持っていた。

 それから二年以上の月日が流れた。写真集にするという話を聞いてから、ずいぶん時間がかかった。

「被災地を徒歩で縦断するより最近までやっていたブロッコリーの収穫のアルバイトのほうがきつかった」

 ものすごく実感がこもっていたので、ほんとうにそうだったのだろう。

「徒歩で旅をすると、人間がちょうど疲れるくらいの距離に町が見えてくる。ほんま不思議ですよ」

 そんな話もしていた。

 旅先ではあちこちで偶然通りかかった人に助けられた。写真集そのものも、扉野さんの力なしには(まちがいなく)できなかった。
 藤井さんにはそういう才能がある。人柄や人間の面白味もそうさせるのだとおもうが、とにかく動いた先でいろいろな偶然を引き寄せてしまうのである。

 ようやく『僕、馬』が完成。八〇〇部。三八〇〇円(税込)です。
 わたしと河田拓也さんが栞を書いています。
 詳細は、ぶろぐ・とふん http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/ にて。
 
 来月八月三〇日(金)から九月三日(火)まで、目白のブックギャラリーポポタムで「僕、馬 I am a HORSE 展」を開催します。初日のトークショーもあります。

■ブックギャラリーポポタム http://popotame.m78.com/shop/
■〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-15-17
■営業時間:12:00〜19:00 /(金曜日)12:00-20:00

◇トーク
8月30日(金)
「僕、馬の話をしようか」

藤井 豊 - 荻原魚雷 - 扉野良人

場所 ブックギャラリーポポタム

19時15分開場、19時半スタート
(当日は18時から整理券配布)

定員40名 1000円

※詳細は、ぶろぐ・とふん http://d.hatena.ne.jp/tobiranorabbit/ にて。

2013/07/19

ある仕事とない仕事(二)

 夏バテ対策のため歩く。歩いて暑さにからだを慣らす。といっても、日中ではなく、散歩の時間は午後六時以降である。
 蒸し暑い日もあるが、この時間帯の風は気持いい。

 みちくさ市のトークショーは、予想(理想?)通り、五っ葉文庫の古沢さんが喋り、わたしは相づち役という展開になった。
 古沢さんは愛知県犬山市で「きまわり荘」というギャラリーと古本屋を運営し、「痕跡本」以外にも、本に関する新機軸のイベントを次々と企画している。
「日本一よく喋る古本屋」としても有名である。
 この日も「最近、人の話を聞くようにしているんですよー」といいながら、ずっと喋り続けていた。

 打ち上げも楽しかった。あまり話ができなかったが、隣にインターネット古書店のドジブックスさんがいた。帰りの電車も新宿まで いっしょだった。別れた後、すこし前に中央線沿線の三十代の古本屋さんがドジブックスさんのことを絶讃していたことをおもいだした。
          *
 世の中には、就職情報誌やハローワークでは見つからない仕事もたくさんある。それも「ない仕事」といえば、「ない仕事」だろう。
 他の地方と比べたら、東京にいると、そういう仕事は見つけやすい。ただし、東京にいても、探さないと見つからない。

 上京してよかったことのひとつは、いろいろなジャンルのプロに身近で接することができたことだ。
 二十歳前後でフリーライターをはじめたころ、五、六歳年上のフリーの仕事をしている人で、年収一千万円くらい稼いでいる人が何人もいた。
 だからといって、わたしも五、六年後にそのくらい稼げるようになるとはおもわなかったが、あの人が一千万円だったら、自分も三百万円くらいは稼げるんじゃないかと楽観できた。
(その後、バブルがはじけ、出版不況になって、その思惑は外れた)

 本棚の整理をしていたら、『本の雑誌』の二〇一一年五月号が出てきた。

 わたしの原稿は震災前の三月はじめに書いたものだ。
 連載で紹介したのは、プレス75の『趣味で儲ける若者企画集団のすごい利益』(ワニブックス、一九七七年刊)という本である。

《プレス75というのは、戸井十月が主宰していたフリーライター集団。わたしが十九歳でフリーライターをはじめたころ、お世話になった人もこの本のスタッフだった》

 わたしは原稿の中でこんなことを書いた。

《今、就活中の学生は何十通もエントリーシートを書いて、試験を受け、面接を受け、わけがわからないまま不採用になる。そんな彼らを見ていると、もうすこし自分で自分の仕事をつくるという〈感覚〉と〈行動力〉があってもいいのではないか》

 この〈感覚〉と〈行動力〉について、もうすこし細かく書いてみたいとおもうが、飲みに行きたくなったので、続きは後日。

(……続く)

2013/07/14

ある仕事とない仕事(一)

 すこし前に、「ある仕事につく」だけでなく、「ない仕事をつくる」という発想があったら——と書いて、途中で筆を置いた(キーボードを打つのをやめた)。

 ここのところ、地方都市のことを考えている。地方は、昔から堅実な職に就く以外の選択肢が少ない。とくにこの十年くらいは、大手のチェーン店が乱立し、零細の自営業が苦戦するという構図もある。

 旅先の地方都市で「ここはいいところだなあ」とおもう。そんな感想を述べると、よく「でも仕事はないですよ」といわれる。

 なぜ仕事が「ない」のだろう。
 人口が少ないからだろうか。

 とはいえ、昔、もっと人口が少なかったときにも仕事はあった。
 人口の多い少ないの問題(だけ)ではない。

 たまに郷里(三重県鈴鹿市)に帰ると、行きつけの喫茶店、文房具屋はすでにない。
 文房具は、コンビニか100円ショップで買う。

 わたしは某メーカーの1・0ミリのジェルインクのボールペンを愛用しているのだが、それはコンビニ、100円ショップでは売っていなくて、とりあえず、間に合わせのもので妥協した。
 文房具屋がなくなったら、パラフィン紙はどこで買えばいいのか。

 地方のコンビニや100円ショップでパラフィン紙を置いても、まず売れない。
 古本屋や中古レコード屋で、稀少本やレア盤を置いていても、近所の人は滅多に買わないだろう。

 郷里に帰ると、ふらっと立ち寄って、趣味の話ができる店がない。
 昔、行きつけだった喫茶店もなくなった。

 もしわたしが郷里に帰って、コーヒーが好きで喫茶店で働きたいとおもったら、「ある仕事」だとチェーン店のアルバイトしかない(たぶん年齢制限その他の理由で不採用だろう)。
 では、古本や中古レコードの話ができるような喫茶店を自分で作ったらどうか。
 もともとそういう趣味の人があまりいない土地だから、お客さんは来ない。すぐ潰れるだろう。

「ないもの」はたくさんある。ただし「ないもの」を売ったり、作ったりしたとき、その需要があるかどうかは誰にもわからない。

 五年、十年、二十年というスパンで考えると、昔、なかったものができたり、あったものがなくなったりしている。
 そう考えれば、ないものができる可能性はいくらでもある。またなくなったものを新たに甦らせる余地もある。

 今、「ないもの」を作るためには、何が「ない」のか知る必要がある。
 それはどうすれば知ることができるのか。

(……続く)

2013/07/04

『夜バナ』の文庫化

 今月、渡辺一史著『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(文春文庫)が刊行されます。
 解説は山田太一。

《できないといえば、この人には、すべてのことができない。
 かゆいところをかくことができない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない》

 大枠は、筋ジスの患者の介護現場を描いたノンフィクションなのだが、その枠の中では濃密な人間ドラマが展開され、渡辺さん自身もまた登場人物のひとりになってしまっている。
 取材し、引き込まれ、振り回されながら見た光景、掴み取った言葉。「フツウ」や「常識」が通用しない世界。生きること、人との 関わり方——答えの出ない問いを考えさせられる。
 シリアスに書こうとおもえば、どこまで深刻になりそうなテーマをユーモアたっぷりに書くことができたのは、それだけ深く入り込んで突き抜けた証だとおもう。
 渡辺さんは大学を中退し、北海道でフリーライターになったが、「専門分野も、得意分野もとくにない」まま「雑多な文章を書いて糊口をしのでいた」という。
 仕事は少ない。そのくせ、気にいらない仕事は引き受けない。
 当然、生活は厳しい。

「プロローグ」から、文章に共振する。内容の素晴らしさ、問いかけの深さもさることながら、渡辺さん自身の「地」のおもしろさも文章の中にしみこんでいる。

 はじめて渡辺さんと引き合せてくれた某社の編集者は「仕事をしないフリーライター同士、気が合うとおもって」といって、わたしを飲み屋に呼びだした。
 渡辺さんは二〇〇三年に『こんな夜更けにバナナかよ』で講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞後、二〇一一年刊行の 『北の無人駅から』(北海道新聞社)まで八年ちかい空白期間がある。

 とにかく膨大な時間と精神力を注ぎ込んで書かれた本である。
 注釈その他、加筆にも手間をかけている。

 頭は下がるが、渡辺さんの仕事のやり方は特殊すぎる。追随者は出ないのではないか。

 この続きはまた。

2013/06/26

仙台で考えたこと

 週末、Book! Book! Sendai!に行ってきた。今年で五回目。皆勤賞。
 六月の仙台はいい。東京と湿度がまったくちがう。海からの風が気持がいい。

 商店街は人の流れがとだえず、家族連れのお客さんも多く、真剣に本を選んでいる。これだけの人が本を買っていく姿を出版関係の人にもっと見てもらいたい。
 途中、喫茶ホルンとマゼランに行く。

 そのあと打ち上げにまぜてもらい、古書現世の向井さん、退屈君とマンションのゲストルームに宿泊した。

 仙台にかぎった話ではないのだが、今の若い人たちの仕事のたいへんさをいろいろ教えられた。超過勤務が当たり前で、さもなくば失職——その中間のほどほどの収入でほどほどに働くというような仕事が(ほとんど)ない。

 ここ数年、ハードワークか無職かという二択の状況は首都圏でも進んでいる。
 自由業という選択肢もあるにはあるが、そこに踏み出す最初のきっかけを掴むのがむずかしい。
 部外者の目からは、仙台に行くたびに、なんとか自分ひとり食っていけるくらいの自由業が成り立つ余地はいくらでもある気がするのだが、そういう選択をすることは、一か八かの賭けをやるような感じなのかもしれない。
 もうすこし「ある仕事につく」だけでなく、「ない仕事をつくる」という発想があってもいいとおもう。
(この話はちょっと長くなりそうなので別の機会に続きを書く予定)

 翌日、駅前の北辰鮨で朝食。うまい。
 そういえば、仙台の地下鉄にあまり乗ったことがないとおもい、終点の泉中央駅まで行ってみる。仙台に行く前、高円寺で泉区出身のミュージシャンと飲んだばかりだった。
 七北田公園でぼーっとして、八乙女駅のほうまで歩き、北仙台駅まで地下鉄に乗り、そこから意味もなく歩き、意味もなく道に迷い、勾当台公園で東北三県のイベントをやっていて、迷った末、稲庭折うどん(短くなった稲庭うどん)を買った。

 昨日に続いて喫茶ホルンでアイスカフェオレ。
 流れている音楽が心地よく、読書もすすむ。

 夜は火星の庭の前野久美子さんとタコシェ店主の中山亜弓さんのトークショー。
 今回の仙台行きはこのトークショーが一番の目当てだった。

 東京・中野のタコシェは一般書店では並ばないような小出版物を専門に販売している店(中野ブロードウェイの3F)なのだが、火星の庭の前野さんはそういう店に強い関心をもっていたこと、それから喋っている姿をあまり見たことがない中山さんがいろいろ変わった人生経験を積んでいる人だとわかったこと——その話が聞けただけでも来てよかった。

 ふたりとも真剣に話しているのに、あちこちで笑いが起こっていた。わたしもこれからやろうと考えていたことのヒントがいくつか見つかった。

 夜、打ち上げにまぜてもらい、合流した二十代のフリーライターのT君のアパートに泊めてもらう。
 翌日、T君の案内でアパートちかくの広瀬川沿いを散策した。
 繁華街とはまたちがった趣のあるいいところだった。 

2013/06/17

みちくさ市 五っ葉篇

 先月のみちくさ市で仙台のbook cafe 火星の庭の前野久美子さんとのトークショーのときに一ヶ月ちかくにわたる往復書簡を配付しました。
 話は脱線がばかりしていたのですが、その中でこれから考えてみたいことを書いたので、一部引用します。

《それから書店、古本屋だけでなく、出版の世界も自分が想像していた以上の過渡期にきているとおもえるんですね。
 この連休中、青空文庫をはじめとする電子書籍の無料本のタイトルを追いかけていました。二〇一三年五月現在、四万六千五百タイトルちかくあります(一万タイトルちょっと目を通したところで挫折しましたが……)。
 漱石鷗外露伴、宮澤賢治、太宰治、坂口安吾、あるいは夢野久作といった人気古典作品のほとんどが無料で読めます。
 この先、こうした無料の作品にどう対処していけばいいのかというのは、途方に暮れる問題です。書き手の問題としては、今まで通りの定価の単行本を出して、はたして買ってもらえるのだろうか。
 もしかしたらインターネットや電子書籍の事情に詳しい人からすれば、今さらの話題なのかもしれませんが、中里介山の『大菩薩峠』が無料で読めると知ったときはショックでした。
「紙の本でなければ絶対にいやだ」という人ならともかく、もし自分が貧乏学生のときに、電子書籍があったら、ひたすら無料本を読み漁っていた可能性があります。
 書店や古本屋に行かない人に本の魅力を伝えていくにはどうすればいいのか。
 そういったところが、最近のわたしの関心事です》

……というわけで、来月、またみちくさ市のトークショーをやります。
 今回のゲストは『痕跡本のすすめ』(太田出版)の著者で、愛知県犬山市の古書五っ葉文庫の古沢和宏さん。
 初対面のとき、古沢さんに酔っぱらって「東海地方のスターになれ」といいました。わたしは本気でそうおもっています。

 それから「痕跡本」は、電子書籍に対抗できる古本ではないかと。
 あとわたしの予想では四六判ではない変形単行本も出版物としての価値が上がる気がします。
 当日、どんな話になるのかはわかりませんが、おそらく古沢さんがひたすら喋るトークショーになるでしょう。

■日時 2013年7月15日(月・祝日)
■時間 15:30~17:00(開場15:10~)
■会場 旧・高田小学校 ランチルーム
MAP> http://kmstreet.exblog.jp/i4/
■定員 30名
■入場料:1000円 ※当日清算
詳細は、http://kmstreet.exblog.jp/18596687/

2013/06/13

未来の働き方

 ちきりん著『未来の働き方を考えよう』(文藝春秋)を読む。

 著者は証券会社、外資系企業に勤めていた覆面ブロガー。わたしは一冊目の『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』(イースト・プレス)から愛読していて、今回の新刊も楽しみにしていた。

 定年延長、年金の受給開始年齢の引き上げ、終身雇用の崩壊、低成長時代、グローバリゼーション……。
 この先、今まで通りの働き方を続けていけるのか。あるいはもっと楽しい働き方はないのか。
 激動の時代を生き残るために、今まで以上の努力をしなければならないと煽るのではなく、そういう時代だからこそ、働き方も多様化したほうがいいのではないか——過激に要約すると、ひとつの会社で定年まで働くという生き方には未来がないよ(そこまではいってない)——という本である。

 これから社会に出る人、あるいは十年、二十年と仕事をしてきた人にも、深く考えさせられる問いかけがたくさんあるとおもう。

 中でも第四章の「ふたつの人生を生きる」は、本書の白眉だろう。この章には「ゆるやかな引退」「プチ引退」というキーワードが出てくる。わたしは二十代のころから「隠居」が最大の関心事なので、「プチ引退」について論じているところはすごくおもしろかった。
 引退といっても、仕事を完全にやめるわけではない。十年なり二十年なり働いて、その経験をもとに、仕事を選び直す。

《就職活動の際、自分のやりたいことが見つからずに悩む若者が多いようですが、「職業人生は二回ある」という前提に立ち、最初はとりあえず目の前にある仕事をしてみて、その間に、自分が本当にやりたいことを見極め、後半人生はそれを中心に設計すればいいのだと考えれば、就活もすこしは気楽になるはずです》

 人生の前半は「横並び人生」を選んだとしても、後半は「オリジナル人生」を選択したい。
 それは贅沢な望みなのか。
 出世や収入を増やすのが目標の人なら、競争の激しい場所で勝ち抜いていかないといけない。でも楽しく働きたいのであれば、なるべく競争相手のすくない場所でのんびりほそぼそとやっていく道を選ぶのもありだろう。

 またちきりんさんは「プチ引退」に関して次の四つのパターンを提案している。
・パターン1 半年だけ働く「シーズン引退」
・パターン2 週に2、3日だけ働く「ハーフ引退」
・パターン3 好きな仕事だけを引きうける「わがまま引退」
・パターン4 (共働きの場合)ひとり1年ずつ引退する「交代引退」

 それぞれのパターンを今の自分の現状に応じて、いろいろアレンジするのもおもしろい。
 暑いのが苦手な人は「夏だけ引退」、寒いのが苦手な人は「冬だけ引退」、あるいは花粉症の時期だけ「プチ引退」したいという人もいるかもしれない。

 自分の性格、体質、趣味、理想のライフスタイルに合った働き方を選ぶ。たぶん「プチ引退」の話もそうだが、ものすごく有能で、お金の余裕があるから、そういう生き方ができるというわけではない。
 ただし、規定のコースからズレた選択をする以上、多少の覚悟はいる。

 この先、働き方が多様化すれば、会社や社会だって変わらざるをえない。自分の時間がほとんどなくなるような働き方はいやだという人がもっと増えれば、もうすこしゆるやかな世の中になるだろう。そうなってほしい。なんとなく、そうなるような予感はする。

2013/06/09

明日の友を数えれば

 常盤新平著『明日の友を数えれば』(幻戯書房)を読む。
 二〇一二年十二月刊行、常盤さんが亡くなったのは二〇一三年一月二十二日だから最晩年のエッセイ集である。

 アメリカのコラムに興味を持つようになって以来、常盤新平の『コラムで読むアメリカ』(旺文社文庫)、常盤新平、川本三郎、青山南共同編集『ヘビー・ピープル123』(ニューミュージック・マガジン社)にはすごくお世話になった。『ヘビー・ピープル123』は、後に『現代アメリカ人物カタログ』(冬樹社)として改訂版も出ている。

『明日の友を数えれば』の「綴の女性」というエッセイは、古山高麗雄の『真吾の恋人』(新潮社)の話である。「真吾の恋人」は福島のいわきが舞台になっているのだが、わたしはすっかり忘れていた。
 常盤新平は岩手県水沢の生まれで、小学校から高校まで仙台に育った。岩手の記憶はほとんどなく、郷里は仙台だとおもっていると別のエッセイで読んだ。
 両親はいわきに暮らしていたことがあり、新平の「平」は「平市」からとったというエピソードも語られる。

《『真吾の恋人』という短編集は古本屋で手に入れた。これが発売された一九九六年当時、私は古山さんの熱心な読者ではなかったのだ。「真吾の恋人」もだからなにげなく読みはじめて、古山高麗雄というすぐれた作家の世界にはじめて触れた思いがした》

「綴の女性」は二〇〇三年八月に発表された(ちなみに、古山さんが亡くなったのは二〇〇三年三月十一日)。『真吾の恋人』の刊行は一九九六年六月だから、本が出て七年後である。

 つまり、わたしは十七年前に出た本の感想が綴られた十年前のエッセイを読んでいることになる。
 文学はもっとゆっくり読まれてもいいのではないか。

 最近、急ぎすぎかもしれないと反省した。

2013/06/04

地球の上で

 暮尾淳『詩集 地球の上で』(青娥書房)を読む。地球は「jidama」とルビがふられている。今年二月に出ていたのだが、最近、書店の詩のコーナーから遠ざかっていたせいか、気づかなかった。
 ちどり足のような文章のリズムが心地よい。

《マレンコフが死んだと
 居酒屋で聞いたが
 スターリン時代の
 ソビエトの首相ではなく
 カラオケの世になっても
 新宿の古いバーを回っていた
 それが通称の
 流しのギター弾きで
 本名は誰も知らず
 皺々の分厚い本の歌詞を
 おれは老眼鏡で追いながら
 「錆びたナイフ」だったろうか
 その調子はずれの声に
 ギターを合わせてくれたのは
 三年前ではなかったか》(マレンコフ)

 わたしもマレンコフを知っている。新宿で飲んでいれば、当然知っていてもおかしくない。「さっき飲んでた店にマレンコフが来たよ」とお客さんがいう。すると、しばらくして、ギターを持ったマレンコフが店に入ってくる。そんなことが何度か会った。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/05/30

文遊社のフェア

 東京堂書店に行ったら、二階で文遊社の全点フェアを開催していた。

 先週、北沢夏音さん、北條一浩さんらと仕事も何も関係ない飲み会(アメリカのコラムについてひたすら語る)をしていたときにも、文遊社の話題で盛り上がった。

 さらに今週ささま書店で岡崎武志さんとばったり会って、そのあと喫茶店に行って、雑談中も文遊社の話になった。

『野呂邦暢小説集成』の刊行は、古本好きのあいだでは、注目度は高い。狭い世界だけど。

 野呂邦暢つながりでいうと、すこし前にブログで、今まで読まずにきたことを悔やんだ作家は佐藤正午でした。『ありのすさび』『象を洗う』『豚を盗む』(いずれも光文社文庫)などのエッセイは絶品だった。

 長崎出身で今も佐世保在住——エッセイでも野呂邦暢のことも書いている。『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』(みすず書房)の解説も佐藤正午ですね。

 この五月は、佐藤正午月間というくらい読みまくった。
 まだ未読の作品が残っている。

2013/05/26

いよいよ

 目白のブックギャラリー、ポポタムに武藤良子さんの「虫干し展」の最終日、公開「雨傘」を見に行く。

 帰り道、目白から東西線の落合駅を目指して歩く。わりと近い。山手通りは歩道が広く、ランニングをしている人がいっぱいいた。
 目白から高円寺は、山手線で新宿に出て、それから中央線に乗り換えるというのがいちばん早くて安い。
 でも電車が混む。散歩がてらに目白通りから山手通りに行って落合まで行くと、東西線と総武線で二駅で高円寺に着く。
 落合から東中野駅はすぐなので、そこまで歩けば、総武線一本で高円寺に帰ることができる。
 ひまなときにはちょうどいい散歩コースである。

ぶろぐ・とふん」に、藤井豊さんの初の写真集『僕、馬』の刊行が予告されている。

 かなり長期にわたる編集作業を経て、ようやく形になった。
 わたしも栞に文章を書いてます。 

 詳しくはまた。 

2013/05/21

みちくさ市とBook Book Sendai

 みちくさ市、火星の庭の前野さんとのトークショーも無事終了。一ヶ月にわたって当日配付した往復書簡をしたのだけど、対談の内容はまったくちがった展開になる。それはそれでよかった気がする。仙台に行くたびにおもうのは町の大きさがほどよいということ。書店、喫茶店、飲み屋、市場……仙台駅に着いてから歩いてまわれる。それから本が好きな人、映画、音楽、演劇、絵、写真が好きな人が行き来して顔見知りになっている。火星の庭の前野さんはいろいろなジャンルの人たちをかきまわすのが好きな人で対談のときもそういう話になった。

 というわけで、来月はBook Book SENDAI。
 今年はタコシェと火星の庭の共同企画もあるそうです。

『タコシェと火星の庭の往復書架』
6月20日(木)〜7月8日(月)

 東京・中野のタコシェの魅力的な小出版物が火星の庭に勢ぞろい。逆柱いみり、山川直人、友沢ミミヨ、関根美有、makomoの原画展も同時開催。
会場:book cafe 火星の庭
11:00〜19:00(入場無料)
※火水/休

『タコシェ店主・中山亜弓さんトーク』
6月23日(日)
会場:book cafe 火星の庭、18:30〜20:00、
参加費:1,000円(要事前申込)※ドリンク・紙モノお土産つき

ブックブック仙台ホームページ http://bookbooksendai.com/

2013/05/13

泥魚と人生

 急に暖かくなった。まだコタツは出ている。いや、コタツは年中出ている。そろそろコタツ布団をしまうかどうか考えている。

 毎年、四月の終わりから五月のはじめにかけて、調子を崩しがちだった。それで十二月から三月くらいまで、無理をせず、休養を十分とることを心がけた。
 人生四度目の吉川英治の『三国志』を通読中。何度読んでもおもしろいし、初読、再読のときに見落としていた言葉にいろいろ教えられる。
 曹操との戦いに敗れ、荊州に落ちのびる途中、関羽が「泥魚と人生」の話をする場面がある。
 泥魚(でい)は、日照りが続くと身に泥をくるみ、じっと耐える。そして再び水がくると、泳ぎ出すという不思議な魚らしい。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/05/05

休日

 いつの間にか五月。雑誌の連休進行が終わって、ちょっと一息。漫画を読んだり、アニメ(『進撃の巨人』と『翠星のガルガンティア』)を観たり、おもいきりだらだらすごした。今年のゴールデンウィークはどこにも出かける予定はない。

 酒飲んで、本読んで、連休明けのしめきりの原稿を書く。平日も休日も関係ない。休みと決めたら休み、決めなければ休みではない。

 毎日、インターネットで注文した古本が届く。届いた本の中には、自分の守備範囲外だった小説家のエッセイ集もある。
 キンドルで一冊だけダウンロードしたら、あまりにも好みの文章で「この二十年くらい何をしていたのか」と呆然としてしまった。
 その作家の名前は知っていたのだが、なぜ今まで手にとらずにきてしまったのか。
 エッセイとコラムというジャンルにかんしては、古本だけでなく、新刊本もチェックしてきたつもりなのだが、ときどきそういうことがある。でも不思議なことに、ちょうど今がその作家を読むべき時機だったのではないかという気もする。

 最初の一冊は電子書籍で読んだのだが、すぐ同じ本の文庫本を買い直した。キンドルだと頁数がわからない。どこまで読んだのか知りたいのだが、「78% 位置No.2784」とか「章を読み終えるまで:2分」といった表示しか出ない。

 あらためて紙の本(という言葉をつかうのにはまだ抵抗がある)の素晴しさを再認識した。電子書籍は読む分には申し分ないし、寝る前に部屋のあかりを消した状態で読めるという快適さは捨てがたい。でも本の頁をめくる。知らず知らずのうちに既読と未読の分を頁の厚みで把握している。手や指先、重さでどこに何が書いてあったかをおぼえている。

 電子書籍で読んでも「この先、何度も読み返すだろうなあ」とおもった本は“モノ”として手もとに置きたくなることがわかった。

 その作家は誰なのかは秘密にしておく。

2013/04/30

野球と古本

 二十九日、編集室屋上で開催された「トマソン社100%」を見に行く。森安なおや『烏城物語』(限定二〇〇〇部)は、はじめて見た。トマソン社は漫画評などでも活躍している松田友泉さんの会社でミニコミや地方小出版の流通、あと『BOOK5』という小冊子も刊行している。

 この日のスペシャルトークイベントは「古書よりも野球が大事と思いたい 〜夢のオールスターゲーム〜」。

◯出演者◯
石神井書林 内堀弘
古書赤いドリル 那須太一
青聲社 豊藏祐輔(兼進行)

 赤いドリルの那須さんの野球狂ぶりがすごかった。大学、高校野球の地方大会までチェックしている。記憶力もさることながら話もうまい。アマチュア野球に興味を持ちはじめたのは矢崎良一著『松坂世代』(河出文庫)の影響といっていた。この本はわたしも愛読している。
 石神井書林の内堀さんが、しきりに「その才能を(古本屋じゃなくて)他に活かせる仕事はないのか」みたいなことをいっているのもおかしかった。内堀さんが野球と古本屋の共通点を語ったくだりもおもしろかった。さらにプロからアマの話まで何でもかんでも拾いまくる青聲社の豊藏さんの進行も素晴しかった。このシリーズは、一回で終わらせるのは勿体ない気がする。

 打ち上げは神保町のさくら水産。帰りにNEGIさんを誘って、今月末で三周年をむかえたペリカン時代に行く。酒がまわって、水割一杯しか飲めず。

2013/04/29

キンドルで山田風太郎を読む

《世界の人間はだんだんコスモポリタンになってゆくのだろうか? そうなるだろう。尤も国家意識民族意識は永遠に消えないであろうという理論も立派になり立つ。今まで世界連邦的な試みはあったが悉く失敗した。今の世界の大勢もなお民族意識の強烈なことを示している。しかし、いつかは、全世界が融合してゆくであろう。その時期はいかにも百年二百年後の近い将来ではないが、おそらく千年以内であろう》(山田風太郎著『戦中派焼け跡日記』)

 夜中、ふとキンドルで山田風太郎の文章を読んでみたくなって、『戦中派焼け跡日記』と『戦中派闇市日記』(いずれも小学館文庫)をダウンロードした。

 山田風太郎の日記は、読むたびに、その思考の深さ、スケールの大きさに驚かされる。すくなくともわたしはこの日記を書いていたころの山田風太郎よりも二十歳以上年上だし、情報統制のあった戦中、そして戦後すぐの時代と比べれば、ものを知るということに関しては恵まれているだろう。でも考える力や想像力のようなものは衰えている気がする。

 山田青年にしても、将来、まさか自分の日記が、アメリカのアマゾンという会社が作ったキンドルという電子書籍端末で売られる日がくるとは予見できなかったちがいない。自作の小説も漫画になり、それも電子書籍になっている。

 とんでもない未来だ。

 今は想像すらできないことが未来には起こりうる。

 わたしは世界の人間がコスモポリタンになってゆく未来を夢みたい。

 ほんの四、五百年前まで(今の)となりの県や市町村の人間同士が殺し合いをしていた。バカげているが、当時は誰もそんなふうにおもっていなかった。

 今の国家意識や民族意識も消えはしないが、それらの意識はちょっとしたお国自慢くらいのかんじになるかもしれない。

 そうなるのは百年後か千年後かはわからないが、他国や他民族を蔑視することは恥ずかしいという意識くらいは今すぐにでも持てるとおもう。

 全世界が融合するという未来はうまくイメージできない。でもその方向はまちがっていない気がする。

2013/04/21

ついにその日が

 二〇一三年四月二十日、第2回電王戦でA級の三浦弘之八段とGPS将棋の対局が行われた。先手のプロ棋士は一度も王手をかけないまま、コンピュータに寄せきられた。

 プロ棋士対コンピュータは一勝三敗一分。完敗である。
 しかも三浦八段は今期A級2位、プロの中でもトップクラスの棋士である。
 コンピュータの進化のスピードを考えれば、いつかはトップ棋士が負けるときが来るとはおもっていたが、ついにその日が来てしまった。

 一局だけですべてを判断するのはまだ早いのかもしれないが、時代の転換期を迎えたことはまちがいない。

 今回の電王戦でいえば、第二局で、コンピュータ戦のプロ初敗北を喫し、うなだれている佐藤慎一四段の姿は見ていて痛ましかった。この勝負で彼が背負っていたものはあまりにも大きすぎた。昔、柔道ではじめて外国選手に負けた日本人選手のようだなとおもった(……リアルタイムで見たわけではない)。
 いつかは誰かが引き受ける運命だった。それがたまたま彼だった。

 コンピュータに負けたことは不名誉なことではない。コンピュータ将棋は人類のほとんどが勝てない化け物に成長したというだけの話だ。
 人間には感情があり、勝ってほっとしたり、負けて落ち込んだりする。緊張もするし、焦りもする。計算能力が互角かそれ以上になれば、感情もなく、疲れることを知らないコンピュータとの戦いは、不利なところも多い。

 一将棋ファンとしてはプロ棋士とコンピュータの対決は見ごたえがあった。これほど「勝ちたい」というより「負けたくない」というおもいが伝わってくる対局を見たのははじめてかもしれない。

 今まではコンピュータがプロ棋士に勝てば快挙だったのが、これからはプロ棋士がコンピュータに勝てば快挙というふうに変わっていくだろう。

 将棋界だけにとどまらず、もっと大きな変化も起こる予感がする。

 いや、もう起こっている。

 人はコンピュータと競争すべきなのかどうか。

 長考を要するテーマである。

2013/04/18

みちくさ市トーク

2013年5月で20回目の開催を迎える鬼子母神通りみちくさ市。初日はわめぞの古本市(12時〜16時)、2日目は古本フリマ(11時〜16時)があります。手創り市さん、ブングテンさんなどの開催も併せ、雑司が谷をたっぷり楽しめるイベントです。

5月19日(日)に、第2回目の「古本流浪対談」があります。
ゲストは仙台・bookcafe 火星の庭の前野久美子さんです。

今回の対談のサブタイトルは「地方古本生活うらおもて」です。

火星の庭に「文壇高円寺古書部」を開設してまもなく5年。以来、年に何回か仙台を行き来するようになりました。
東京から新幹線だと1時間半ちょっと。気候がよくて、食べ物がうまくて、飲み屋がいっぱいあって、ほんとうに暮らしやすそうなところだなと。当日、どんな話になるのかは未定ですが、これからのこともふくめて“地方の古本生活”について、いろいろ考えてみたいとおもっています。

(みちくさ市トーク)

荻原魚雷「古本流浪対談」

ゲスト 前野久美子さん(仙台・bookcafe 火星の庭店主。編著に『ブックカフェのある街』がある)
■日時 2013年5月19日(日)
■時間 15:30〜17:00(開場15:10〜)
■会場 雑司が谷地域文化創造館・第2、第3会議室
■入場料:1000円 ※当日清算

ご予約はメールアドレス wamezoevent1■gmail.com(■=@)

メール件名に「魚雷トーク予約」、本文に「お名前」「人数」「緊急の電話連絡先」
をご記入の上お申し込みください。
※予約は4月18日から開始です。

くわしくは、
http://kmstreet.exblog.jp/18596741/

2013/04/16

ひま潰し

 今月の『本の雑誌』は『アップダイクと私 アップダイク・エッセイ傑作選』(河出書房新社)について、『小説すばる』は、中馬庚と正岡子規のことを書いた。いずれも野球の話である。

 ここのところ、どう考えても野球に時間をとられすぎている。試合の結果に一喜一憂し、そのあと各選手のデータを追いかけ、ファームの情報までチェックして、片っぱしから野球の本を読んで……なんてことをやっている暇はない。ほどよくのめりこむことができない。
 でもその時間は、何かしらの養分になっている気がする。そう信じたい。

 アップダイクは、エッセイやコラムから入った。いまだに代表作の長篇「うさぎ四部作」を読んでいない。短篇では『アップダイク自選短編集』(岩元巌訳、新潮文庫)所収の「絶滅した哺乳動物を愛した男」が好きだ。出だしの数行で完全に心をつかまれた。

《いずれは名前も忘れられてしまうような都市に、セイパーズはどちらかといえばひどい形で生きていた。ちょうど人生の岐路ともいうべき時で、数多くの絆をかかえていたが、そのどの一つも彼をはっきりと結びつけるというものではなかった》

 セイバーズはひまがたっぷりある。時間潰しに絶滅した哺乳動物の本を読む。
 彼は生存に適した進化ができず絶滅してしまった動物に共感する。

「そのような動物をどうして愛さないでいられよう?」

 傍から見れば、無意味で無益な趣味であっても、人を現実につなぎとめる何かになる。

 ユーモア・スケッチの傑作といってもいい作品である。

2013/04/07

ボツリボツリ

 仕事が一段落したらとおもいつつ、なかなか区切りがつかない。先のことを見すえて、準備しておけばいいのだが、それがむずかしい。一日かけて部屋の掃除をしたい。何もせず、だらだらする日もほしい。

 仕事をする前にせめて机(コタツ)のまわりだけでも片づける。それができないときはたいてい不調だ。あと町を歩く。歩いたからといって、とくに何か改善されるわけではないが、経験上、歩かないより歩いたほうがいい。

 ここ数日、『植草甚一コラージュ日記 東京1976』(平凡社ライブラリー)をすこしずつ読んでいる。亡くなる三年前の日記(手書きの文字がそのまま印刷されている)である。散歩して、古本屋に行って、喫茶店で休憩して、買物して、原稿を書いて……というくりかえしの日々を綴っているのだけど、それがいいかんじなのだ。

《六月二十日(日)クラウディ。十一時に起き出して池波原稿ボツリボツリ。途中で金栄堂包装紙をつくる図案ネタをたくさんゼロックスにするため二階の文房具店へ降りて行く。それから外に出て遠藤書店で二冊(一二〇〇)買い、アパート前の「しゆう」でコーヒーを飲んで引っ返す。それから池波原稿をボツリボツリ。途中で引っかかると本の整理をすこしやり、またボツリボツリと原稿を書いた》

 遊びながら仕事をするためにはこの「ボツリボツリ」ができるかどうかにかかっている。
 翌日の日記には「ジャーナルのほうも締切りになったので出だしの部分だけ書いておく」という記述がある。

 結局、一気に片づけようとするより、すこしずつでもできることをやっていくのがいちばんの近道なのかもしれない。

 今から「ボツリボツリ」をやることにする。

2013/04/02

静岡のオグラさん

 日曜日、静岡へ。久しぶりの遠出である。けっこう寒い。

 静岡のUHUというライブハウスでペリカンオーバードライブとオグラさんのライブを見る。顔見知りもけっこういて、高円寺にいるみたいだった。

 ペリカンはベースなしで斉藤エンジンさんのキーボードが入った変則三人編成。エンジンさんは十年以上前にペリカンといっしょに演奏しているのを見たことがある。粗っぽくて疾走感あふれるステージ。「ハルノヨウキ」を春に聴ける幸せ。そのためだけでも静岡に来てよかった。

 オグラ&迷ローズの盛り上がりもすごかった。オグラさんは清水の出身。静岡のライブハウスで「ビル風と17才」が聴ける幸せ。この一曲を聴くためだけでも静岡に来てよかった。

 アルバム『次の迷路へ』を聴いたとき、オグラさんの詩と音楽は、ほとんど完成の域に達してしまったのではないかとおもった。そのくらいの渾身の曲がつまっている。
 楽曲だけでなく、ステージでの歌、演奏、パフォーマンスの円熟度もとんでもなく高い。

 静岡時代もふくめると、三十年以上、切れ目なく、音楽を続けてきて、今も全国のライブハウスを回っている。

 問題はその先だ。
 今のオグラさんの音楽は、完成と円熟の先の未知の場所を探し求めているようにおもえる。「次の迷路へ」という曲もそういうことを暗示している。

 いってもしかたのないことをいえば、オグラさんは、十五年前に売れていてもおかしくなかった。いや、青ジャージ、800ランプ時代の曲も、同時代の音楽にまったく引けを取らない。今、聴いてもすごい。なかなかそのすごさが伝わらないことが、不思議でならない。もったいないとおもうけど、どうしたらいいのかわからない。

 迷路を抜けてさらに大きく化ける瞬間が見たい。
 その瞬間はかなり近づいている気がする。

2013/03/30

野球の本

 近所のコンビニエンスストアの新聞のコーナーで『丸ごとスワローズ』(サンケイスポーツ特別版)というタブロイド紙の創刊号を買う。三百円。
 ヤクルトファン以外はまず買わないとおもわれる新聞である。

 子どものころ、若松勉さんの大ファンだった(もちろん今も)。「小さな大打者」といわれ、フェンス際の打球をジャンプしてとるのがうまかった。通算打率(四千打数以上)が三割一分九厘というのは、日本人選手の中でトップである(一位はリーの三割二分)。

 近鉄沿線に住んでいたので、郷里(三重)にいたころは、ヤクルトと近鉄バファローズを応援していた。

 だからというわけではないが、近鉄からヤクルトに移籍し、メジャーでも活躍した吉井理人投手にはおもいいれがある。
 新刊の吉井理人著『投手論』(PHP新書)もすぐ読んだ。

《僕と同じ時期にメジャーで活躍した伊良部秀輝は、ボールの出どころがわからない投げ方を「スモーキー(煙)」と呼んでいた。メジャーで長く活躍する投手は、たいがいスモーキーなフォームのピッチャーだ。(中略)一方、スモーキーでない投手の場合、リリースの瞬間をしっかり見られるだけでなく、ボールの軌道までが線で打者に感じとられてしまうことから、打ち頃の球になる》

 球の速さや勢いだけではプロの世界ではなかなか通用しない。投手にとっては、癖のないきれいなフォームよりも打者から見えにくい変則フォームのほうが利点になる。
 強気で闘志あふれるピッチングが持ち味のようにおもっていたのだが、吉井投手自身、「スモーキー」なピッチャーで、打者との駆け引きに神経をつかっていたという。

 プロの世界で生き残るための工夫というのは、ジャンルがちがっても何かと勉強になる。わかりやすい文章を書くこということは、投手でいえば、コントロールのよさに相当するかもしれない。球威や変化球、そして「スモーキー」といわれるような独特なフォームを身につけることも大切になってくる。

 この本の最後のほう(奥付の手前の頁)に小さな字で「編集協力 本城雅人」とあった。
 本城雅人の『スカウト・デイズ』(PHP文芸文庫)や『嗤うエース』(幻冬舎文庫)は好きな野球小説である。

 PHPの「小説・エッセイ」文庫『文蔵』(4月号)の特集は「『野球小説』の名作を読む」もおもしろかった。

「このスポーツならではのドラマを味わえる55作」(文・大矢博子)は読ませる。この号は永久保存版になるとおもう。

2013/03/27

まもなく

 春というか、いきなり初夏のような気候になった。とおもったら、また寒くなる。

 まもなくプロ野球が開幕する。
 二〇一一年から統一球(低反発球)と可変ストライクゾーンの導入によって、チーム総得点、ホームランの数が激減した。規定打席に到達した三割打者がひとりもいないチームもあった。

 打撃の調子には波がある。そうすると、同じくらいの打撃力だったら、守備のうまい選手のほうがチャンスをもらえる回数が増える。

 たまたまチャンスをもらったルーキーや控えの野手が出番がきても、相手のチームが絶好調のエース級の投手が先発とか、勝ちパターン継投とかになった試合で、打撃をアピールするのはかなり厳しい。
 ヒットは打てないかもしれないが、進塁打を打つ、守備、走塁で貢献する——そういうアピールの仕方もある。逆に、それができない選手は一軍と二軍を行ったり来たりする。

 複数のポジションを守れるユーティリティプレイヤーの場合、出場する機会は増える分、突出したものがないと控えに回されやすい。もちろん、チームにとっては必要な選手であることはいうまでもない。

 チームの看板選手、助っ人の外国人、実績のある選手とポジションが重なるとレギュラーになるのはむずかしい。
 理想をいえば、レギュラーポジションの世代交代の時期と自分の伸び盛りの時期が重なるのがいいのだが、それには実力だけでなく、運も必要になってくる。

 自分の出番がありそうなチームに入団できるかどうか。それからケガをしないこと、メンタルが安定していることも選手寿命に関わってくる。

 期待のドラフト上位の選手が燻っていて二軍でもぱっとしない。素質はあったのにケガに泣いて、そのまま引退してしまう選手もいる。
 引退後、コーチになったり、スカウトになったり、スコアラーになったり、球団の親会社で働いたり、どこで何をしているのかわからなくなったり、試合以外のいろいろなことも気になる。

 一試合一試合の結果だけでなく、ひとりの選手が入団してから引退するまでの物語にも、プロ野球のおもしろさがある。

 でもその物語を追いかけようとすると、仕事に支障が出る。

2013/03/20

仕事の近況

 紀伊國屋書店の季刊PR誌『scripta』で「中年の本棚」という連載がはじまりました。
 第1回は「四十初惑」考です。

 四十代以降の読書と中年以降の齢のとり方みたいなことをテーマにしたエッセイです。

 毎日新聞夕刊の「そのほかのニュース」は十九日が最終回。
 今月二十四日から毎日新聞の日曜版で「雑誌のハシゴ」とタイトルと変えた新連載がはじまる予定です。

 よろしくおねがいします。

2013/03/14

雑記

 今月のちくま文庫は、植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』と小山清『落穂拾い・犬の生活』を刊行。
 小山清の短編集はビブリア古書堂効果か。

 今月の『本の雑誌』の連載にも書いたのだが、キンドルを買った。それに合わせてクレジットカードも作った。

 キンドルを買うよりもクレジットカードを作ることのほうが抵抗があった。過去に二度作ろうとして審査が通らなかったのである。

 カードを作ってよかった。
 インターネットで古本を買うのがずいぶん楽になった。
 何冊買っても銀行や郵便局に支払いに行く必要がない。
 近所の郵便局はいつも並ぶ。周辺住民の数と郵便局のキャッシュディスペンサーの数がつりあっていない。
 古本を数冊分、払い込もうとすると、後ろに並んでいる人の苛立ちが伝わってきて、いつもいたたまれない気持になっていた。

 いまだに携帯電話は持っていないし、今のところ、キンドルも家の中だけで使うつもりだし、クレジットカードも持ち歩いていない。

2013/03/12

平凡の自覚

 新居格の随筆は、戦前、戦中の高円寺の話が出てくる。力の抜けた、ちょっとやる気のないかんじの文章もいい。大正デモクラシーを通ったリベラルな知識人で、今読んでも古びていない。

《この国ではアナキストと云えばひどくいやがられているようだ。
 私はその一人である。ではあるが私は食うための売文に忙しいので遺憾なことではあるが、その原理を十分研究する暇がない》(「或る日のサロンにて」/『生活の錆』岡倉書房、一九三三年)

 新居格は仲間内から「サローン・アナキスト」といわれたり、コミュニストからは「プチ・ブル」や「反動」と揶揄されたりした。それにたいし、新居格は「私は私の道を行くである」と開き直る。

 新居格の思想信条よりも文章から伝わってくる生き方、あるいは姿勢にわたしは共感した。中でも随筆の表題の「生活の錆」という文章が素晴しい。

《僕は号令を発するような調子で物を云うことを好まない。肩を聳やかす姿勢は大きらいだ。啖呵を切るような云い方をするのが勇敢で悪罵することが大胆だと幼稚にも考えているものが少なくないのに驚く。形式論理はくだらない。まして反動だの、自由主義だの、小ブルジョアだのと云う文字を徒らに濫用したからと云って議論が尖鋭になるのではない。どんなに平明な、また、どんなに物静かな調子で表現しても内容が尖鋭であれば、それこそ力強いのだ》

 一九三〇年代にこんな文章を書く評論家がいたことに驚いた。新居格からいろいろなことを学びたいとおもった。
 新居格の著作は古本屋でも入手困難なものが多いのだが、地道に探して読み続けてきた。

 それだけに戦時中に刊行された『心の日曜日』(大京堂書店)を読んだとき、「あれ?」とおもってしまったのである。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/03/11

あれから二年

 日曜日、急に暖かくなった。日中の最高気温は二十六度。観測史上もっとも早い夏日だったらしい。ところが今は十度を切っている。「煙霧」という言葉もはじめて知った。

 気温の変化が激しくなる時期は、腰痛が再発しやすいので、無理をせず、休み休み、仕事をする。
 あとは、よく歩く、よく寝る、飲みすぎないこと。
 この冬、ほぼ毎日豆腐を食べていた。そのせいかどうかはわからないが、なんとなく調子がいいような気がする。

 東日本大震災と東京電力の原発事故から二年。何が変わり、何が変わらなかったか。ここ数日、そんなことをぼんやり考えていた。
 ありものですますとか、なければないで我慢するとか、不便を楽しむとか、自分自身の生活はそういう方向でいいかなとおもっている。

 寝ころんで本を読んだり、酒を飲んだり、ぐうたらしたり、ふざけたり、たまに弱音や愚痴をこぼしたり、そんな時間を大切にしながら、こじんまりとした暮らしがしたい。

 二十代の半ばあたりから、わたしは社会にたいして異を唱えなくなった。社会を変革するより自分の生活を何とかするほうが手っとり早い。そういう考え方に傾いた。保身といえば、保身である。

 新居格の随筆を読んでいたら、戦時中、似たようなことを書いている。

《娯楽とは、たのしみであり、休養である。人間の楽しみは、必ずしもそう大袈裟なもの許りではなく、極めてささやかなもののうちにもあり、何でなければといった風の定型的なものでなく、いろいろに取替えて娯楽の対象となし得られるのである》(「生活の新設計」/『心の日曜日』(大京堂書店、一九四三年)

 新居格は高円寺で一日二食の単調な生活を送っていた。散歩も買物も近所ですませていた。
 アナキストでリベラリストだったが、とくに反戦を訴えていたわけではない。英米の帝国主義を批判し、戦意高揚に加担する文章も書いている。

《長期戦の建前からいって、わたしは昨日生まれたばかりの赤ん坊も戦士であり、毎日毎夜彼等は戦争しているのである。彼等がよく眠り、元気に泣き、すこやかに成長してゆくことは戦争に勝ってゆくことである。また、病人が病気を直してゆくことも、戦いにかつことであり、人々が健康に注意し、さらに、健康を増進することは、明瞭に戦争に勝って行っていることである。(中略)何れにしろ、長期戦に処する国民の生活態度は疲労なき緊張でなければならぬ》(「戦時下国民の課題」/同書)

 現状を肯定する。運命を受け入れる。
 生活第一、健康第一。
 新居格の穏当な思想は状況にたいしては無力だった。

(……続く)

2013/03/04

将棋のこと

 順位戦の最終日、羽生善治さんがA級一位で名人戦への挑戦が決まった。

 わたしは一九九六年の王将戦と名人戦の大盤解説会の会場にFAXで棋譜を送るアルバイトをしていた。
 当時は定跡も何も知らず、対局を見ても何もわからない。長考にはいって、局面が動かなくなると、ひまでしかたがなかった。たった一手を指すのに、何をそんなに考えることがあるのか不思議だった。

 将棋担当の記者に「どっちが勝ってますか?」と質問すると「いやあ、誰にもわからないとおもいますよ」といわれた。

 このときの王将戦で羽生さんが七冠王になった。わたしは将棋のわからなさに魅了されて「週刊将棋」の定期購読をはじめた。古本屋で将棋に関する本を買い漁り、羽生さんの本は出れば新刊で買うようになった。
 仕事の前に、次の一手問題や詰将棋を解くのが習慣になっている。これがいいウォーミングアップになる。
 調子がよくないときは、そのまま仕事をせず、散歩に出かける。気持の切りかえ方、休息のとり方、日々の勉強の大切さ……棋士の本から学んだことはいろいろある。

 一年、五年、十年と将棋を追いかけるようになって、棋力はまったく上がっていないのだが、以前よりも将棋を味わえるようになった気がする。

 何よりも将棋に関する本の無類のおもしろさを知ることができたのは最大の収穫である。

 梅田望夫著『羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる』(中公文庫)を読んだ。
 わたしは、今、この本のおもしろさを誰かと共有したくて仕方がない。すごい本ですよ、これは。
 羽生善治を「天才」という一言で片づけるのは簡単だけど、どんなふうに「天才」なのかは簡単には説明できない。

 そもそもプロ棋士というのは、みんな尋常ではない頭脳の持ち主なのである。
 その中で、勝ち続けるトップ棋士というのは、怪物中の怪物である。

『羽生善治と現代』では、そんな怪物中の怪物の羽生さんが、現代将棋の進化に必死でついていこうとしている様子が描かれている。
 同時に、将棋の世界を現代社会や梅田さんの現場であるシリコンバレーやコンピュータの世界と比較して分析する。

 羽生善治の王座就位式の祝辞で梅田さんはこんな話をする。

《将棋界でこれから起こることは、私たちの社会の未来を考えるヒントにみちています。羽生さんが将棋を通して表現しようとしていることの重要な一つは、まさにこのことだと思います。羽生さんは、そういった現代社会の情報についての最先端の在り方を表現してきた。私たちも、そろそろそのことに気づかなければ、羽生さんに申し訳ないのではないか》

 かつての将棋は、ひとりの棋士が新戦法を発明すると、しばらくのあいだ、それで勝ち続けることができた。
 しかし今は新手が出ても、あっという間に研究し尽され、それに対抗する手が出てくる。

 棋士たちは研究会をひらき、序盤のあらゆる変化を集団で研究している。その研究を怠ると、駒と駒がぶつかる前に、勝負が決まってしまいかねない。

 羽生さんは「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています」と語る。

 将棋にかぎらず、あらゆるジャンルでそういう現象が見られる。
 あるていどのレベルまでなら、インターネットの情報だけでも、かなり詳しく知ることができる。いっぽう、誰も手をつけていない、未開拓のジャンルを見つけることは、どんどんむずかしくなっている。

 梅田さんは羽生さんの「高速道路」の話を次のように説明する。

《情報を重視した最も効率の良い、しかも同質の勉強の仕方でたどりつける先には限界があり、そのあたりまで到達した者たち同士の競争となると、勝ったり負けたりの状態となり、そこを抜け出すのは難しく、次から次へと追いついてくる人たちも加えて「大渋滞」が起きる。その「大渋滞」を抜け出すには、そこに至るまでの成功要因とは全く別の要素が必要になるはずだ》

 高速道路を通って、効率よくレベルを上げても、それだけでは優位性を確保できない。
 羽生さんをはじめとする「大渋滞」を抜け出したトップ棋士とそうでない棋士とのちがいは何なのか。

 それがこの本のテーマのひとつである。
 将棋に知悉していなくても、今の自分の仕事や興味関心にひきつけて読めば、いろいろなヒントが得られるとおもう。

2013/02/27

横浜散歩

 土曜日、横浜。黄金町のたけうま書房に行って、三、四年ぶりに伊勢佐木モール界隈の古本屋をまわる。

 たけうま書房に行くのは二度目だから地図なしでも行けるとおもっていたのだが、もより駅が日ノ出町か黄金町だったか、電車の中でわからなくなってちょっと焦った。
 奥野信太郎著『寝そべりの記』(論創社、一九八四年刊)、『松永伍一対談集』(家の光協会、一九七八年刊)、永六輔著『死にはする 殺されはしない』(話の特集、一九七六年刊)などを買う。

 ひさしぶりに有隣堂にも寄った。昨年末、通りすぎてしまった有隣堂の前の古本のワゴンセールもじっくり見る。

 今後は、古本屋をまわるだけでなく、訪れた町も楽しみたい。
 横浜にはちょくちょく行く用事があるのだが、土地勘はほとんど身についていない。

 旅先であれば、自然と古本屋以外にもその土地その土地の知り合いと飲んだり、あちこち回ったりする。
 ところが、近郊の古本屋だと、本を買って喫茶店で休憩して、すぐ帰ってしまう。

 商店街の店、近くにあるお寺や公園に寄る。海や川があればそれを見る。行きに降りた駅とはちがう駅まで歩く。
 もうすこし非効率な古本探しをしたほうがいい気がしている。

 たぶん、冬ごもり中、インターネットで古本を買いすぎた反動だとおもう。

2013/02/20

みちくさ市トーク

来月3月16日(土)、17日(日)に
第19回鬼子母神通りみちくさ市が開催されます。

商店街の軒先を借りて、古本や雑貨を販売——。
初日はわめぞの古本市(12時〜16時)、
2日目は古本フリーマーケット(11時〜16時)があります。

17日(日)には倉敷・蟲文庫の田中美穂さんと対談します。

(みちくさ市トーク)

◎荻原魚雷「古本流浪対談」
第1回ゲスト 田中美穂さん(蟲文庫)

■日時 2013年3月17日(日)
■時間 15:30〜17:00(開場15:10〜)
■会場 雑司が谷地域文化創造館・第2、第3会議室
■入場料:1000円 ※当日清算

ご予約はメールアドレス wamezoevent1■gmail.com(■=@)

メール件名に「魚雷トーク予約」、本文に「お名前」「人数」「緊急の電話連絡先」
をご記入の上お申し込みください。

くわしくは、
http://kmstreet.exblog.jp/18596741/

雑記

『小説すばる』、今月号から北大路公子の「日記を書くためだけに生まれてきた」という連載がはじまった。

《酒を愛し、仕事をさぼり、妄想だけをし続ける——ろくでなしエッセイストが綴る、日記という名の屁のツッパリにもならない女の慟哭にこそ、真実はある(のか?)》

 北大路公子の「日記」は、虚実いりみだれまくって、ある種のファンタジー(単なる酩酊かもしれないが……)のような世界を築き上げている。

 新刊では、福満しげゆき著『僕の小規模な経済学』(朝日新聞出版)を読了。『グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道』(フィルムアート社)の路線のエッセイ。ひがみっぽい独特な文体も味わい深い。“氷河期世代”による社会時評としても読める。

 あと能町みね子著『逃北〜つかれたときは北へ逃げます』(文藝春秋)が気になる。たぶん買う。

2013/02/14

「安心」のかたち

 東日本大震災と原子力発電所の事故から一年十一ヶ月ちょっと。
 わたしの日常は元に戻った。もしかしたら、すこし退行してしまったかもしれない。
 古本読んで、酒飲んで、ぐだぐだ、だらだらすごしている。この間、震災や原発に関する本はいろいろ読んだ。でも読めば読むほど、考えることが増え、混乱した。

 原発事故の半年後くらいまでは、食の安全うんぬんについても神経質になったけど、プータローの延長のような生活をしている身としては、日々の食事にありつけるだけでもありがたいというおもいもあり、だんだんどうでもよくなってしまった。非科学だろうが何だろうが、うまいとおもいながら、楽しく食うのがいちばんいい——わたし自身はそういう考えに落ち着いた。
 なげやりな結論だという自覚はある。

 五十嵐泰正+「安全安心の柏産柏消」円卓会議著『みんなで決めた「安心」のかたち ポスト3・11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房)という本を柳瀬徹さんが作った。

 柳瀬さんはまだ書店員だったころからの知り合いで、その後、いくつかの出版社を転々とし、今はフリーランスになっている。いい本、作ったなあ。
 原発事故の後、おそらく多くの人がかんじたであろう「不安」にたいし、誠実に解決策を見つけようとした本ではないかとおもう。

 あらゆる健康情報にもいえることだが、万人にとっての「正しさ」はありえない。

「安全(安心)かどうか」にたいして答えを出す。どちらの答えにも賛成する人、反対する人がいて、どちらの立場を選んでも、別の陣営から批判される……インターネットの掲示板では、そんな光景をずいぶん見かけた。中には穏当な意見もあったが、気持が荒むようなやりとりに埋もれがちだ。

『みんなで決めた「安心」のかたち』を読むと、メンバーが重視したのは「さまざまな立場の人たちが『折り合える』ことであった」という。

《もちろん私たち円卓会議は、地域の生産者を無条件に「買って応援」しようという運動ではない。原発事故直後から続く行政や生産者団体による情緒的な「買って応援」キャンペーンが、不信と反感を招いてしまったという批判的認識を円卓会議では共有している。だからこそ円卓会議は、消費者が安心して地元野菜を消費する前提となる、科学的で納得感ある地元野菜の安全性の測定方法の確立に、苦心して取り組んできた》

 地元で暮らしていくために、どうすれば、食にたいする放射能汚染の不安を解消することができるか。専門家のあいだでも意見が分かれる問題にたいし、農家、流通、飲食店、消費者といった立場のちがいをこえ、手間暇惜しまず、知恵を出し合い、着地点を探す。

 同時に、その方針や基準を押し付けることを慎重に避けてようとしている。

 新鮮でおいしい野菜を作り、地産地消を根づかせようとしてきた人たちが、どうしてこんな苦労を強いられなければならないのか。そのことを考えると、やりきれない気持にもなる。

2013/02/04

ふらっと通り

 先月末、金沢在住のミュージシャン、杉野清隆さんのアルバム『ふらっと通り』発売記念ライブ(高円寺ペンギンハウス)に行く。

 ここ数日、ずっと『メロウ』と『ふらっと通り』を交互に聴いていた。穏やかで滋味のあるアコースティックサウンドで、ぐったりしていることが多い身としては、こういう音楽があると助かる。
 からだに音楽をたっぷりしみこませ、無駄を削ぎ落とし、絶妙に力を抜いているかんじが何ともいえない。
 
 この二枚のCDジャケットは、山川直人さんが手掛けている。
            *
 三月までは、腰痛にならないこと、酒を飲みすぎないことを目標に、ひたすら安全運転を心がけている。
 順調にからだが鈍りまくる。一年を無事にのりきる方法を模索し続けた結果、今のような生活になった。

 その間、歩行禅と瞑想の研究をする。

 ごろごろしながら、須賀章雄著『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』(論創社)を読む。
 まんだらけの札幌店がオープンし、その社員アルバイトの情報知って、大山昇太(松本零士『男おいどん』)のコスプレ店員として雇ってもらう妄想をするところが琴線に触れた。
 午前中に起きたり、夕方起きたり、起床時間がめっちゃくちゃなのもおもしろい(わたしもだが)。

 本を読んでいるといろいろ読みたい本が出てくるのだが、本を買うためには本を減らさなければならない。そうしないと本の買い控え状態に陥り、気が滅入る。
 今月中になんとかしたい。

2013/01/26

新刊雑感

 今月の中公文庫がものすごく充実している。
 浅生ハルミン著『私は猫ストーカー 完全版』、正宗白鳥著『文壇五十年』、深沢七郎著『庶民列伝』、嵐山光三郎著『桃仙人 小説深沢七郎』、『淫女と豪傑 武田泰淳中国小説集』……。

 各社の文庫、だいたい月十冊くらい刊行されるけど、ほしいとおもうのは一冊あるかどうか。いちどに五冊というのはかなり珍しい。

 最近の文庫では、星野源著『そして生活はつづく』(文春文庫)がよかった。バンド「SAKEROCK」や役者としても活躍している人だけど、こんなにいいエッセイを書くとは知らなかった。単行本で出たときに気づかなかったのは、書評の仕事をしている身としては不覚以外の何ものでもない。

 ここ数年、便利だから書店の検索の機械で目当ての本を探してしまう癖がついて、自分の守備範囲(主に文芸)以外の新刊本を見落としがちになっている。
 ゆっくり棚を見る習慣を取り戻したい。

 あとジョン・アップダイク著『アップダイクと私 アップダイク・エッセイ傑作選』(若島正=編訳、森慎一郎訳、河出書房新社)もおもしろそう。夏目漱石や村上春樹の書評も収録されている。
 アップダイクの雑文集『一人称単数』(寺門泰彦訳、新潮社、一九七七年刊)はわたしの長年の愛読書で、野球のコラムも素晴らしい。というわけで、アップダイクのエッセイの翻訳を待ち望んでいたから、うれしくてしょうがない。

2013/01/22

バブルの遺産

 一九八〇年代末のバブル期に都内のあちこちにワンルームマンションが建てられた。
 風呂トイレ洗面台のいわゆる三点ユニット付の十平米〜十五、六平米の部屋で当時の家賃は月六、七万円(高円寺)くらいか。駅近なら七万円台後半という物件もあった。

 そのころ、わたしは築三十年くらいの風呂なしアパートに住んでいた。二部屋(四畳半・三畳)、台所トイレ付で三万円台だった。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/01/19

住まいの話

 古本屋めぐりのついでに不動産屋の張り紙も見るのは習い性になっている。
 上京した年——一九八九年ごろとくらべると、高円寺の家賃もずいぶん下がった。鉄筋で風呂付の部屋が五万円以下というのは昔は考えられなかった。

 近所に書庫兼仕事部屋を借りて五年ちょっとになる。最初の単校本の印税を敷金礼金にあてた。ちょうどその年にいくつかの雑誌で連載が決まり、心おきなく本を買える状態にしておきたかったのである。

 住居のほうは妻と家賃を折半しているのだが、ときどきポストに投函される中古マンションのチラシを見ると、「買ったほうが安いのではないか」と考えてしまう。でも細かく見ると、修繕費やら管理費やら固定資産税やらもふくめて計算すると、たいして家賃と変わらないような気もする。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2013/01/16

雪散歩

 雪の日、ほとんど家にこもって、年末できなかった掃除をしていた。紙袋やダンボールに入った新聞、雑誌などの切り抜きやコピーをどうするかで悩む。きちんとファイルしないと、必要なときに見つけることができない。増えれば増えるほど、探すのも困難になる。
 資料整理は諦めの連続で気が滅入るが、これも仕事のうちとおもうことにする。

 気分転換のため、高円寺北口を散歩する。いくつか家の前で雪だるまを見つけた。その翌日、夕方、スーパーがむちゃくちゃ混んでいた。雪と連休が重なったせいか。

 来月発売の『本の雑誌』の連載で夏葉社と幻戯書房の上林曉の本をとりあげた。

 原稿には書かなかったが、今、上林曉の『草餅』(筑摩書房)を読み返している。不自由な左手で扉の題字を書いている。

「木山君の死」という随筆に昔の高円寺の話が出てくる。
 木山捷平は満洲に行く前に高円寺駅のちかくに住んでいた。荻窪在住の上林曉は高円寺の公益質屋に寄って、木山を誘い、煮込み屋で酒を飲んだり、将棋を指したりした。そんな回想を綴っている。

 上林曉も木山捷平も作家としてはかなり苦労人なのだが、昭和の中央線文士の交遊には憧れる。

 木山捷平の田舎は岡山県の笠岡で、近くに住む写真家の藤井豊さんの案内で生家を訪れたことがある。
 まさに田園風景というべきかんじのところだったが、後日、やはり郷里が木山捷平の生家のちかくの河田拓也さんから「あのあたりは街道筋で昔は栄えていたんですよ」と教えてもらった。

 木山捷平の家は祖父も父も百姓だった。木山捷平は貧乏話をよく書いていたから、それほど裕福な家の生まれではないとおもっていた。しかし、当時、地方在住者が子どもを東京の大学まで行かせるというのは、かなり恵まれた家なのかもしれない。
 そのあたりの感覚が本を読んでいるだけは掴みきれない。

 中央線文士たちの電車で二駅くらいの距離の友人の家を歩いて訪ね、そのまま酒を飲んで、将棋をするという暮らしぶりはすごく贅沢な気がしてしかたがない。

(追記)
 後日、河田さんから再び説明があって、木山捷平の生家と街道はちょっと離れていて、木山家の周辺はそれほど栄えてなかったとのこと。わたしの勘違いだった。

2013/01/11

人生レポート

 一昨日、早稲田の古本街、BIGBOXの古本市に行く。ひさしぶりに早稲田から高田馬場まで道をゆっくり歩いた。知らないうちに新しい飲食店が激増している。
 そのあと古書現世に寄り、きだみのる著『人生レポート』(雲井書店、一九五七年刊)を買う。この本ははじめて見た。新書サイズで装丁もすごく好みだ。

《だが独学が人一倍の努力を必要とすることに変りはない。ファーブルには、貧乏人に許されたたったひとつの羅針盤、堅忍不抜の精神に頼るしかない。彼は途に迷ったり、突破せねばならぬ岩の前に立ったとき、何時も一つの言葉を自分に言い聞かせて疲れた足を励ました。
——希望を持て、そして進め!》(人間は間違える葦でもある)

 いい言葉だ。やる気が出た。
 あと独学を続けるためにはなかなか結果が出ず、手ごたえをかんじられないときに、適当に気晴らしすることも必要だとおもう。

 昨日は神保町に行く。新刊書店をハシゴして、神田伯剌西爾でコーヒーを飲み、小諸そばでから揚げうどんを食う。

 正月ボケで仕事がはかどらない。長年の経験上、ずっと家にこもって原稿を書くよりも、日中、すこし出歩き、夜、軽く飲んで(※水割三杯まで)、ちゃんと寝たほうがいい。

 三月くらいになったら、電車にとって、中央線沿線、早稲田、神保町以外の首都圏の古本屋もまわりたい。

2013/01/06

ペソアの新刊

 フェルナンド・ペソア著『[新編]不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡社ライブラリー)がまもなく刊行される。

 旧版からの大増補……といっても、完訳ではない。それでも平凡社ライブラリーでペソアの文章が読めるのはありがたい。枕もとに置いて、すこしずつ大事に読みたい本だ。

 フェルナンド・ペソアは、アルベイト・カエイロ、リカルド・レイス、ベルナルド・ソアレスなど、本名だけでなく、数々の異名で作品を書いていた。しかしその作品のほとんどは生前に発表されることはなかった。

 その散文は、夢や人生についての思索、あるいは自問自答といってもいい。

《なぜ書くのだろうか。もっとうまくは書けないのに。だが、もし、こうしてわずかながら書き上げるものを書かないとしたら、私はどうなってしまうだろうか》

 どこから読んでもいいし、読まなくてもいい。内容があるかどうかもわからない。
 ペソアの文章は独り言の文学の極北かもしれない。文章の端々にひとりの時間が流れている気する。
 ひとりの人間の思索にただ付き合う。途中で頁を閉じ、ものおもいにふける。ときどきそういう読書がしたくなる。

2013/01/04

正月の散歩

 東京で寝正月。元旦は氷川神社で初詣。年末年始、うどんと雑煮ばっかり食っていたので、炊き込みご飯と中華風スープを作る。

 散歩をかねて早稲田通りのマルエツプチに行くと、カップ麺のコーナーに寿がきやの和風とんこつラーメンが売っていた。これはうれしい。ゆず一味も買う。

 毎年のことだけど、三月中旬くらいまでは無理をしない方針である。焦らず、一年投げられる肩を作る……よくいえば、そんなかんじだ。
 働くことが好きな人はどんどん働けばいい。でもバランスをとるためにも、あまり働きたくない人はエネルギー(電気にかぎらず)の浪費を抑え、休み休み、こぢんまりと暮らすことを志してもいいのではないか。

《私は閑寂に身を置かざるを得ない正月の幾日かを毎年いかにして送るべきかを考えるものである。詰り、正月の散歩のことを》(「正月の散歩」/新居格『生活の錆』岡倉書房、一九三三年刊)

 新居格は高円寺に住んでいた。
 人の家を訪ねるのも、室内遊戯や酒が好きではないから、どうしても正月には時間を持て余す。それで散歩をするのだが、足を休めるカフェもしまっている。

 同書の「正月」と題した随筆では、「自分はただゆっくりした時間を持ちたいと思う計りだ」と綴る。

 八十年後の高円寺は元旦から営業している店がけっこうあるが、いつもより町を歩く人は少ない。
 閑散とした町を歩くのはちょっと楽しい。