2012/08/14

節度の時代(七)

……この文章を書きはじめたとき、「自分のいる場所」から社会や時代について考えてみたいとおもっていた。

 わたしは世の中の成長のスピードをゆるめてもいいとおもっているのだが、それはすでに高い利便性を備えた都市の住民だから、そんな暢気なことがいえるのかもしれない。また自由業者の気楽さも考え方の根っこにあるかもしれない。

 別にすべての人の足並を揃える必要はないとおもっている。

 たとえば、ベストセラーの上位をほとんどダイエットの本が独占しているような状況は、戦中もしくは戦後まもなくの日本人には想像できないだろう。
 今日明日の食いものに困っている人もいれば、栄養の摂りすぎに悩んでいる人もいる。

 わたしが「節度」や「摂生」について頭を悩ましているのも、モノや情報の飽和状態の中に身を置いているからだろう。
 嫌気がさすくらい文明の恩恵を受けながら、スローライフに憧れるわけだ。

 飢餓に苦しむ国の人に「ダイエットをしろ」というのはバカげている。病気や怪我でリハビリ中の人にハードな運動をすすめるのは間違っている。

「節度」の問題は、個人の生活や性格や体質や嗜好と密接に関わっているから、統一見解のようなものを作ることはできない。
 ひとつひとつ個別に考えていくと収拾がつかなくなる。

 欲望の多様化(細分化)にどう対処すればいいのか。
 おそらく解決策は、勝ち負けという方向ではなく、譲歩とか妥協とかすりあわせといった曖昧な形にしかならない気がする。

 強引にまとめると、個別の欲望に折り合いをつけるには、どうしてもある種の「節度」が必要になってくる。
 でもそれだけでは持てる者が有利になり、持たざる者が不利になるという問題は残ったままだ。

 考えれば考えるほどややこしくなる。

(……続く)