2012/05/25

クリティカル・モーメント

……平尾誠二著『理不尽に勝つ』(PHP研究所)を読んでいて、「クリティカル・モーメント」という言葉を知った。

 ラグビーなどのスポーツで「勝敗を分けるような重要な一瞬」という意味。ものすごく不利な局面を一瞬でひっくり返したり、逆にほんのちょっとしたミスで逆転されたり、勝負の世界にはそんな「クリティカル・モーメント」がある。

 平尾誠二によると、「イギリス人は、この瞬間を見極めるのがとてもうまい。というか、どの瞬間、場面がそれなのか感覚的にわかる」らしい。
 一瞬の判断、あるいは行動が、勝敗を分ける。それを見極める感覚は、常日頃から一瞬一瞬を大切にしていないと身につかない。

 またこの本の中で、日本の選手の「クリティカル・モーメント」の感覚が鈍っているのは、対戦相手のデータを分析し、事前のシュミレーションをしすぎているせいではないかと疑問を投げかけている。
 データや情報が大切なことはいうまでもないが、シュミレーションを重視し、監督やコーチの指示に従うだけでなく、ゲームの流れを見極めながら、選手たちは自らの判断でゲームを進めなくてはならない。
 でもそういう判断ができない選手が増えている。

《あまりに安全、確実を求め過ぎて、選手がチャレンジする気持ちや冒険心を奪っているのではないかと……》

 一瞬の判断(決断)が、一試合の勝敗だけでなく、その後の人生にとっても大きな分かれ道になることもある。
 いかにして「クリティカル・モーメント」の見極めるか。

 この感覚については、もうすこし考えてみたい。

2012/05/21

未開の感情

 朝まで仕事し、寝ずに金環日食を見る。部屋の窓から見ることができた。

 最近、出不精になっている。出不精のほうが、仕事は捗るわけだが、ずっと家に引きこもっていると、気が滅入ってくる。
 本を読んだり、ものを考えたりするのも体力がいる。寝転んで本を読んでいるだけでも疲れる。すこし前までは、不調のせいだと不安だったのだけど、おそらく加齢のせいもあるだろう。あと体重が増えたせいもあるかもしれない。

 一日のんびり休めば、頭も気分もすっきりし、体力が回復する……なんてことはない。

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)

2012/05/14

五月病

……ここのところ、ずっと低迷している気がする。

 ひとつは好奇心の衰え。年齢のせいもあるかもしれないけど、本を読んでも、音楽を聴いていても、なかなか没頭できず、心おどることも少なくなっている。

 体力や気力を回復するためという名目の休息時間ばかりが長くなっているかんじだ。

 昔から「五月病」という言葉がある。新しい環境に適応できず、強いストレスを感じたり、無気力になったりする症状のことだけど、これといった生活の変化がないのに、五月になると調子を崩しやすい。

 日照時間の変化、寒暖の差に、からだがついていかない。一日中、眠くて眠くてしょうがない。「五月病」は気象病、季節病という一面もあるらしい。

 プロ野球選手にも春先だけ、あるいは夏になると調子がいいといったかんじで、季節ごとの好不調の波の激しい選手がいる。
 理想をいえば、シーズン通して、好調を持続できるにこしたことはないのだが、そういう選手は一流中の一流なのである。

 さらに「隔年選手」といわれる一年ごとに好不調をくりかえす選手もいる。

 つまり季節に左右されたり、年ごとに調子が上がったり下がったりするのは、よくあることなのだ。

 一流中の一流を目指しているわけではない身としては、そういう波を受け入れ、ごまかしごまかしやっていくしかない。

2012/05/12

石ノ森章太郎の話

……石ノ森章太郎『ジュン0 石ノ森章太郎とジュン』(ポット出版)を読む。

 石ノ森章太郎は「ぼくはこの作品で詩をかきたい」と新たな漫画表現を試みた。いろいろな版が刊行されているが、ポット出版のジュン・シリーズは完全復刻版である。

『ジュン0』は、自叙伝や自伝漫画を中心に編まれている。

「章太郎のファンタジーワールド」の「まんが家予備兵諸君!」という書き出しのアドバイスは、なかなか厳しい。

 漫画家志望者たちが仲間同士で集まると、いろいろな作品をコキおろしたり、批判したりする。
 かつての石ノ森章太郎もそういう時期があったが、でもそれは「自分の技術不足という不安をごまかそうとしているわけである」と述懐する。

《そしてやがてそれを続けていると……みごとな目高手低のお化けができあがる。つまり、見て批判する力はつくが、作品は描けない、というヤツである》

 石ノ森章太郎は「技術」を重視していた。

 石ノ森章太郎著『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』(鳥影社)の「欲がない若者たち」にはこんな話が出てくる。
 最近の若い漫画家は、自分の人生を大切にしたい、消耗せずマイペースに仕事がしたいと考える人が増えた。そんな風潮にたいし「僕らの時代よりもずっと大人になっている」と認めつつも、「もったいないなぁ」と本音をもらす。

《自分をいじめることで能力が開発されることもたしかである。逆にいくら才能を秘めていても何もしなければ出てこない。(中略)マンガ家にとってのそれは、描くということにほかならないわけだ。頭のなかであれこれ考えるばかりでは、なかなか手が動かなくなっていく》

 アイデアがなくても手を動かしているうちに何かを思いつくことはよくある。

《手と頭が自由につながって好きな落書きに身をゆだねる快感とでも言おうか。手を動かしている間に脳が刺激されて、眠っていた能力や視点が出てくることが僕自身は数えきれないほどあった》

 その「技術」を身につけるためには、量をこなすしかないというのが、石ノ森章太郎の教えだ。

 考えるより、手を動かす。手を動かしかながら、考える。
 最近、その感覚を忘れかけていた。

2012/05/04

負けたり休んだり

 ずっとごろごろ本を読んだり、インターネットを見たりしている。長年、古本屋通いをしていて、毎回、買った本が面白いとおもえるわけでもない。最後まで読み通せない本がほとんどかもしれない。
 そんなにしょっちゅう「人生を変えた一冊」に出くわせるわけではないし、そんな本がたくさんあったら、それはそれで忙しすぎて疲れる。

 世の中は、ある人にとってはかけがえないことでも、別の人にはどうでもいいことばかりだ。
 時間をかけないとわからない面白さもある。

 古山高麗雄著『競馬場の春』(文和書房、一九七九年刊)を再読する。

《私は、「休むことと見つけたり」と「負けることと見つけたり」の二本立で競馬を楽しんでいる。(中略)私のような者は、負けても楽しむ世界を見いだすのでなければ、競馬が続けられるはずはない》(「競馬とは休むこととと見つけたり」)

(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)