2012/01/17

自我と他我 その一

《詩人の取柄は、自己の感性の世界を固守するところ以外にはない。だから、徹底的に自己の世界に閉じこもれ》(「日時計篇」からの展望」/鮎川信夫著『吉本隆明論』思潮社)

 わたしは詩を書かないし、昔と比べると読む時間も減った。それでも「自己の感性の世界を固守する」という言葉について考えてみたくなった。
 自己の世界に閉じこもって安住すると緊張感を失いやすい。固守する自己が薄っぺらければ、表現も薄っぺらいものにしかならないことはいうまでもない。

「自己の感性の世界を固守する」ということには、そうしたあやうさと紙一重である。
 それに鮎川信夫のいう詩人の取柄は「自己満足」「自己完結」と否定されてしまう風潮がある。しかしどんなに否定しても、否定しきれないものが残る。

 三十代になって、わたしがアメリカのコラムに熱中するようになったのは鮎川信夫の次のアンディ・ルーニー評がきっかけだった。

《個人主義の発達した米国では各人が自己のなかにモデルをさがし求める傾向が強い。ルーニーは、そうした米国人一般の欲求にこたえるのに、うってつけのユニークな個性の持ち主であり、かつ自己の売り込み方を心得ている。というより、正直に自己を語れば、ユニークでない人なんていないのだから、誰にでも興味を持たれるはずだということを、よく承知しているのである》(『人生と(上手に)つきあう法』/鮎川信夫著『最後のコラム』文藝春秋)

 正直に自己を語ることはむずかしい。自己を語ろうとすると、(自慢にせよ、卑下にせよ)どうしても装飾をほどこしてしまう。
「自己の感性の世界」を磨り減らしてしまうと、自己を語っているつもりが、他人に受け入れられやすい意見を述べているだけということにもなりかねない。

《考えて物を書くのは、ひどく孤独な作業である。自己惑溺のモノローグに似ている。が、内実はモノローグとは似て非なるものだ。書くという行為のなかで、自己はたえず分裂しつづけ、数かぎりなく他我を生み出す。その他我とのダイアローグを通じてしか、筆者の作業は進行しない。無数の他我を統御して、自己を貫徹させるのは容易ではなく、書くことは遅々として進まなくなる》(「裁判を読む」/鮎川信夫著『私の同時代』文藝春秋)

 では、他我とは何か。

(……続く)