2011/07/31

常連と一見

 土曜日、JIROKICHIで東京ローカル・ホンクのライブを見た。客席は満員。二十代、三十代に作った曲を四十代になって歌う。歌詞の意味が、ちがって聞こえる。毎回演奏する曲でも、どこかしらアレンジを変えている。かとおもうと、一曲、一曲、曲名をいって、その曲にまつわる話をしてから演奏する。
 過去の土台もすべて見せながら、新しいことをやろうとしている。
 はじめてこのバンドを見た人もわたしのような年に何回も見ているような常連にも楽しめるライブだったのではないかとおもう。
 曲や演奏が素晴らしいのだが、東京ローカル・ホンクの一回一回のステージで見せる初々しさもこのバンドの魅力である。

 今、秋に出る本の初稿ゲラのチェックをしていて、過去三年分くらいの連載で使用した本の山がある。さらに三月の地震後、本棚の上に積んでいた本(ぜんぶ落ちてきた)を床におろしている。
 通常の仕事に本の仕事が重なり、掃除をする時間がない。これまでのペースで古本を買っていたら、どこに何があるのかわからなくなる。
 そんなわけで、このひと月くらい古本買いを自粛していた(まったく買わなかったわけではない)。
 それで行くかどうか迷いながら、日曜日、西部古書会館の古書展の二日目の午後四時に行く。

 西部古書会館に十九歳の秋から通っている。当時も日曜日の午後によく行った。百円から三百円くらいで好きな作家の随筆集や対談集、全集の端本を買い漁っていた。
 食費と本代がせめぎ合う生活だったから、今よりずっと真剣に本を選んでいた。

 年々、コンプリート欲のようなものがなくなっている。新しく何かを揃えようとおもうと、愛着のある何かを売ることになる。
 若いころに好きになった作家というのは、なかなか強力である。そう簡単にはこえられない。自分の好みにしても、昔読んだ本によって作られている。白紙の状態で新しい本に向うというのは、かなりむずかしいことだ。

 文章を書いていても、それはよくおもう。
 そうしてはいけないとおもいながら、どうしてもこれまで自分の書いたものを読んでいる人、自分のことを知っている人を前提に、文章を書いてしまいがちだ。
 そうすると、はじめて自分の文章を読む人には不親切な原稿になる。はじめて自分の文章を読む人に合わせて文章を書くと、そうでない人には「またその話かよ」とおもわれる。
 毎回、自己紹介からはじめるとくどくなるし、何より自分も飽きてくる。

 自分のことを誰も知らないという前提で文章を書いたほうがいい。
 でもマンネリになってもいけないし、敷居を高くしすぎてもいけない。
 何らかの変化は必要なのだが、変化を追い求めすぎると自分を見失う。
 
 常連と一見の客を同時に満足させるのはどうすればいいのか。
 この話、もうすこし考えてみたい。