2011/03/22

善意の解釈

 何度となく、寝たいときに寝て、好きなときに本が読めて、酒が飲める暮らしが理想だといったり、書いたりしてきた。
 わたしの理想は、そんなにお金はかからないとおもう。つまり、そんなに仕事をしなくても実現する。

 食事はほとんど自炊だし、エアコンは苦手だし、車に乗らない。でも夜型生活だから深夜から朝にかけて照明がないと困る。また平和でないと困る。不測の事態は困る。そんな当たり前のことを四十歳すぎて、あらためて知らされた。

 三月十三日、山口瞳の妻の山口治子さんが亡くなった。享年八十三。
 一度だけお会いしたことがある。

 山口瞳が亡くなったのは一九九五年八月三十日だった。最晩年、「男性自身」で震災のことを書いている。

《阪神大震災で亡くなった方にも怪我をされた方にも無事だった方にも老人が多いのに驚かされた。老人社会だと言われてもピンとこないのだが、TVの画面でもって、そのことをまざまざと見せつけられたように思ったというのが私という老人の感想である》

 震災のとき、老人が困ったのは入れ歯を忘れて逃げたことだったという。もうひとつは履き物。目がわるい人は眼鏡がないのも困るだろう。
 布団のそばに予備の眼鏡を置いている。

『この人生に乾杯!』(TBSブリタニカ、一九九六年刊)所収の「瞳さんのラブレター」という山口治子さんの回想を読んだ。

 その中に「あなたの行動を僕は全て善意に解釈しています。あなたも僕に対して、そうであってほしいと思います。それでないと、余計な神経をつかわなければならなくなりますから」(本文は旧字)という山口瞳が送った手紙の文面が紹介されている。

 そのように解釈する習慣を身につけたい。ごく自然に、そういうふうにできる人もいるのかもしれないが、わたしはできない。かならずしも自分が善意にもとづく行動(や思考)をしていないせいでもある。だけど、きれいごとだとはおもわない。山口瞳もいっているように、そのほうが余計な神経をつかわずにすむ効用がある。
 ようするに、そう考えたほうが楽なのである。といっても、誰にでも、いつでも、というわけにはいかない。ごく身近な、いっしょに暮らす人、長く付き合いたい友人、あと……。

 その先には、ちょっとした平穏があるような気がする。