2010/11/13

個別の案件

「内輪受け」をどう広げるかという話の続きなのだが、その方向だけはわかっていても、その方法はわかっていない。わたしも教えてほしいくらいだ。
 もともと癖が強くて社交性のない人間にとっては「内輪受け」すらむずかしいのである。
 社交性がない人というのは、他人に非寛容であることが多い。他人に非寛容にされるから、非寛容になるのか。非寛容になるから、非寛容にされるのか。どちらが先かはわからない。

 この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい。

 集団行動が苦手な協調性のない人の生息領域はずいぶんせばまっている。統計があるわけではなく、あくまでも実感でしかないのだけど、この十年、二十年で五分の一くらいに減少しているのではないかとおもう。
 不況の影響もあるだろう。競争がきびしくなると、ある種の癖の強い人は排除されやすい。就職するにせよ、バランス感覚があって何でもできる人(またはその意志のある人)でないと採用されにくい。
 今回の話に該当するようなタイプは、排除されるか、囲いこまれて二進も三進もいかなくなるか、どちらかの選択しかなく、出口の見えない状況にある。

 たぶん、昔のほうが「しょうがねえ奴だなあ」といいながら、偏屈で不器用な若者を調子にのせるのがうまい大人の数は多かった気がする。
 どこの世界にも、素直で明るい若者だけでなく、そういう若者をおもしろがる人がいたわけだ。

 長所と短所は表裏一体で、ある種の欠点はその人の独自性につながる。
 順調な人があまりしない失敗や挫折を経験し、そういう経験をしたことのない人が考えないことを考える。そうした経験や思索が底にとごっている人の表現というのは、一見わかりにくいところもあって「一般受け」はしにくい。

……この話、もうすこし続ける。