2010/08/02

限度の自覚 その五

 どんな人間にも「限度」がある。いちばんわかりやすい「限度」は「時間」だろう。
 青年が中年になるにつれ、一生かかってもできそうにないことが見えてくる。
 もっと時間があれば、とおもうのだが、人間に与えられている時間は無限ではない。フリーライターの仕事でいえば、しめきりがある。

「無謀な野心」は、時間の壁に阻まれる。時間の壁を意識してはじめて諦めもふくめた自分の限度を知る。お金もそうだ。ただ、あればいいというものではない。食うに困らないくらい十分な金があったら、わたしは怠けるだけ怠けてしまうだろう。

 どんな仕事でも十年くらい続けていると、なんとなく、自分の限度みたいなものが見えてくる。その限度が見えてくるにつれ、「無謀な野心」が失われてくる。あれもしたい、これもしたいとおもっていたのに、時間が経つうちに、これしかできないになってくる。
 自分の限度だけでなく、まわりの状況も見えてくる。不景気だし、出版の世界の展望はけっして明るいものではない。とくにフリーは……。愚痴はよそう。

 はじめのうちは、早くたくさん書く技術を身につけると、それなりに役に立つが、時間に限りがあるように、書ける枚数にも限りがある。何を書くかではなく、何枚書くかで、収入が決まる。量よりも質なんてことをいっていると収入が減る。しかも量と比べて、質の評価は曖昧だから、どんなに時間をかけて、丁寧に書いても、つまらないといわれたら、それまでだ。

 三十歳前後、量で勝負する世界で限度が見え、質の世界で勝負する困難さが見え、八方塞がりの状態にいることを自覚した。

 おそらく「無謀な野心」も現実にたいする「無知」と関係している。
 自分の能力にたいする錯覚が「無謀な野心」を生む。時に、それが無理だとおもわれることを可能にする。すくなくとも人を前進させる力にはなる。自分では気づかないままやっていて、後からふりかえって、わかることもある。

 しかし、いつかは考えないと、先に進めない局面を迎える。先に進めなくなって、元の道に戻ったり、迂回路を探したり……この文章もそうだ。そのまったく大丈夫ではない状況をどうやって楽しむか。
 ある種の文学は、八方塞がりの、ぱっとしない、低迷期を乗りきる知恵の宝庫でもある。

(……まだ続く)