2010/12/29

山口瞳『追悼』

 年内の仕事が終わる。十二時間くらい寝る。知り合いにもらった銀杏をつかって炊き込みご飯を作る。夕方から飲む。三時間くらい飲んで、また六時間くらい寝る。

 無造作に袋に入れたまま押入にしまっていた資料(雑誌のコピーもろもろ)を出し、整理をしようと取りかかるが、まったく片づかない。ほとんどつかわないとわかっていても、本のように買い直せないから、捨てるに捨てられず、どんどんたまっていく。

 山口瞳の会でお世話になった中野朗さんから山口瞳著『追悼』(上下巻、論創社)をいただいた。ずっと誰かこういう本を作ってくれないかとおもっていた。山口瞳の追悼文は優れた文学案内になっている——というのがわたしの持論だ。いや、持論というか、そうおもっている人はたくさんいるだろう。

 たとえば、梅崎春生について、こんなふうに解説する。

《梅崎さんは、文学史的に言うと「戦後派」に属するのだけれど、作風や体質からすると「第三の新人」に近い。いわば「戦後派」と「第三の新人」の中間にいて、その橋渡しをしたような人だった》(鯔子奇談)

 この文章を読んだ後はそうとしかおもえない。

 梶山季之の追悼文には「私は、新進作家に会って文学の話になると、いまはいくつかの書きたいテーマがあるだろうけれど、それをひとつにして力作を書くべきだと言うのが癖のようになっていた」と書いている。

 《私には、たとえば徳田秋声の『縮図』などが頭にあった。この作品は、題名通り、何もかも叩きこんであり、私は小説とはそういうものだと思っているし、『縮図』を書いてしまうと後が書けないということもないと思っている》(人生観の問題)

 この梶山季之の追悼文は、まさに何もかも叩きこんでいる文章である。そして山口瞳の追悼文の魅力は、何といっても亡くなった作家にたいする愛情告白だろう。

《『怪しい来客簿』を読んだとき、僕は、ガーンと一発後頭部を殴られたようで、この男には何をやっても勝てないだろう、小説でも勝負事でも何でも勝てないだろうと思った》(伊吹山)

《私は吉行淳之介と同じ時代に生れ同じ時代に生活し、同じ時代の空気を吸ったことを大きな喜びとしている》(涙のごはむ)

 しかし山口瞳は色川武大の無頼派の部分、吉行淳之介の芸術家の部分を肯定しない。

 それがまた複雑な読みごたえのある追悼文にしている。

2010/12/26

文化の基盤 その六

 どういうわけでこういう文章を書くことになったのか。動機はいくつかあるが、いずれもぼんやりしている。
「文化の基盤」の話からズレるが、自分でもよくわかない一筋縄ではいかないテーマを考えていると、心身ともに消耗する。十年二十年とかけて「文化の基盤」にあたる何かを瓦解させてしまったのではないか。荒地というより、ぬかるみの上に立ち尽くしている気分だ。

『現代詩手帖』の一九七二年の臨時増刊「荒地 戦後詩の原点」の座談会を読んでいたら、鮎川信夫が次のような発言をしていた。

《鮎川 そういう意味で言うと「荒地」はいろんな人が集まった。これは「荒地」のいちばん大きな特徴だと思う。学校が同じっていうこともない。出身地も違う。地域的なサークルっていうわけじゃなかった。フランス文学もいれば、ロシア文学、ドイツ文学もいれば、イギリス文学もいる。そういう意味で言うとバラバラだった。しかもある程度共通なものを出していけたってことじゃないかと思う。それが文化という……》

「それが文化という……」以降の言葉は途中で遮られてしまうのだが、もうすこし話がすすんだ後に、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎がこんなやりとりをする。

《鮎川 僕はほんとうのことをいうと、エリート意識が好きじゃない。「新領土」みたいにまずい詩人でもなんでも、かまわないのでのっける方が、好きなんだ。田村(※隆一)のエリート意識が危なっかしく感じられた。

 中桐 結局、あまり純粋に田村みたいに、いいものばかりさあっと集めてくるとロクなことはない。多少雑なのが入ってこないと、伸びない。

 三好 誰がうまくなるかはわからんからな(笑)》

 中桐雅夫の「多少雑なのが入ってこないと、伸びない」という発言はそのとおりだろう。「文化の基盤」においても「雑」というか「いいかげんさ」というか「ゆるさ」は大事な要素だ。それがないとすぐ行き詰まる。洗練の方向性だけでやっていくと、未知数のわけのわからない可能性がどんどん淘汰されてしまう。

 座談会では田村隆一が後年の酔っぱらい詩人のイメージとちがい、戦後の「荒地」の創刊のさい、紙の仕入れや版元の交渉など、実務に奔走していたという逸話も紹介されている。
 若いころ少数精鋭主義だった田村隆一が、後年、「荒地」の詩人の中でもっとも「いいかげんさ」を体現する人物になる。わたしの好きな逸話である。

(……続く)

2010/12/24

文化の基盤 その五

 田村隆一著『砂上の対話』(実業之日本社)に収録されている鮎川信夫との対談を読んだ。
 その中で田村隆一が同人誌から面白い詩人が出てこなくなった理由を「やはり手紙が書けないってことなんだよ。やはり同人雑誌の基礎っていうのはね、手紙が書けたり、会話ができたりする、一番狭いコミュニティーじゃなきゃ駄目なんだ。そこで、みんなお互いに大きくなっていくんですからね」と語る。
 この分析が正しいかどうかはさておき、興味深い指摘だとおもった。
 さらに田村隆一は「肉眼で見える範囲」「人間が歩いていったり、生きたり、死んでいったりする土地」を信じなければ詩は書けないという。

 かつて出版(とくに同人誌)は狭い世界だったから、あるていど読者の顔が見えた。それがしだいに拡大していくにつれ、「客っていうのが抽象的な存在になってしまって、結局売り上げ部数とか、何版重ねましたということだけが、読者からの反応ということになってしまう」とも——。

 すこし前に「内輪受け」と「一般受け」について書こうとしてうやむやになってしまったのだが、ごく身近な人に、自分の言葉がどこまで通じ、通じないかを知るという蓄積は大事だ。
 そうした蓄積がないと言葉が届いたときのミットの音(の強弱)が聞き分けられない。といいながら、今、受け手が見えない文章を書き続けている。

 同書で田村隆一は吉本隆明とも対話している。
 鮎川信夫と吉本隆明が方向音痴だいう話をしていて、田村隆一は「ほかのむずかしいことは鮎川と吉本にまかせる以外にないんだからさ。よろしくおねがいします」と話を投げる。

《吉本 それじゃ話が続かない。(笑)

 田村 続く続く。よろしく頼むほうと、よろしく頼まれたほうが話し合っていけば、おのずから文明論になっていく。ぼくは自分の分を知っているんですよ。これは生意気な言い方だけど、人にはできることとできないことがあるんです。ひとりでなにもかもやろうとしたら、全部破滅するよりしようがない》

 その後、酔っぱらった田村隆一の独演会状態になる。でも「ひとりでなにもかもやろうとしたら、全部破滅するよりしようがない」という言葉は「文化の基盤」におけるキーワードだという気がした。

(……続く)

2010/12/20

ギンガ・ギンガ vol.5

 金曜日、高円寺のショーボートで「ギンガ・ギンガ」(オグラ、ペリカンオーバードライブ、しゅう&トレモロウズ)を見る。
 半ば忘年会もかねたライブなのだが、今一年でいちばん楽しみなステージでもある。
 ちんどん太鼓(ジュンマキ堂)をひきつれたオグラさん、秋に広島に引っ越したベースのマサルさんが当日高速バスで駆けつけたペリカン、宇宙感あふれるトレモロウズ。

 高円寺界隈のバンドマンと知り合うきっかけになったのがペリカンオーバードライブでかれこれ十二年くらいの付き合い。
 一曲目から飛ばして、演奏中にどんどん仕上がっていく。パブロックの醍醐味を味わえるバンドだ。

 オグラさんは昔よりも歌い方がゆるく投げ出すかんじになった分、歌詞の熱がすっと入ってくるようになった気がする。
 前向きな歌(といっても何かと複雑なのだが)と自嘲気味なMCとの対比が、不思議な幅を作っているのかも。

 オグラのofficial web siteの「オグラのヒミツ」の『究極のゴールの話』も読んでみてほしい。
http://ogurarara.com/index.html

 四十代のバンドのふっきれたようなライブを見て、ここのところ、持続とか積み重ねとか、そういったことを考えていたのだが、もっと好きな方向に走ればいいじゃないかという気になった。
 円熟よりも、計算外のおもしろさ、即興のノリのほうが、可能性があるようにおもえた。

 会場で河田拓也さん、Pippoさん、カヒロさんと雑談。河田さんからは色川武大の単行本・全集未収録の小説や同人誌のコピーなどをもらった。
 こういうものを地道に発掘してきた河田さんには頭が下がる。

 ブログの「文化の基盤」は、先月からはじめた河田さんの(とくに目的のない)対談とその後のメールでの往復書簡をきっかけに書きはじめた。
 着地点を決めずに、今、考えていることを吐き出してみたくなったのである。

 でもこれから仕事。今日がたぶん峠になる……予定。 

2010/12/16

文化の基盤 その四

 年末進行。今週が峠。ようやく半分くらい片づいた。
 ちょうど去年の今ごろの日記を読んでいたら「一日十時間ちかく寝ている」とある。
 今年も同じだ。毎日寝ても寝ても眠い。寝て起きて原稿書いて酒飲んでいるうちに十二月はすぎていく。

 昨日は忘年会(神田)で帰りの中央線で寝てしまい、起きたら吉祥寺。吉祥寺から高円寺に戻る電車でも寝すごし、起きたら中野……。
 たしか去年もそんなことがあったような気がする。
              *
「文化の基盤」は「場」の問題と同時に「教養」の問題でもあるのではないか。
「荒地」の詩人であれば、T・S・エリオットであったり、ダンテだったり、いうまでもなく漱石、鷗外といった日本文学の伝統だったり、そうした土台のもとに、新しい創作に挑んできた。
 おそらく「第三の新人」にしても、多かれ少なかれ、何かしらの土台となる「教養」があった。さらに彼らには「戦争」という同時代体験もある。

 すくなくともわたしにはそうした土台がない。
 古典といわれる作品を読んでこなかったわけではない。ただ、それが自分の中で根づくまでには至らなかったし、今後も至ることはなさそうだ。いっぽう、土台がない中で、何をやってもいいという自由は存分に味わってきた。しかし共有する土台がないため、自分の興味を掘り進めていけばいくほど話が通じなくなる。そして自分の位置を見失う。
 それは文学に限った話ではないとおもう。

 鮎川信夫著『私の同時代』(文藝春秋)に「文学停滞の底流」というコラムがある。

 一九八四年に文芸誌の『海』が休刊し、ほかの文芸誌にしても赤字で、単行本の売り上げでその赤字を埋める状況になっていた。雑誌の赤字は年間一億から二億五千万円。出版社としても道楽だ、趣味だといつまでもこの状況を放置することはできない。

《十万売れたって恥ずかしいような本もあれば、千部でも胸を張れる本がある。だが、今の人は少しくらい恥ずかしくたって、十万部の方を選ぶだろう。社会的影響ということになれば、十万だって人口比で〇・一%にすぎない。本当によい本で、熱心な千人の読者が真剣に読んでくれるなら、その方がよほど本質的な影響力をもつのである》

 今、千部の本は膨大な出版物が溢れ返る中では埋もれてしまい、熱心な読者のもとにすら届かない。

「文学停滞の底流」では電波メディアと活字メディアを対比し、情報量やスピードでは活字はかなわないと指摘しつつも、情報の真偽を見分ける力は「書き言葉」のほうが勝っていると述べる。
 しかし「書き言葉」の優位性を放棄すれば、文学の地盤沈下はまぬがれない。言葉など信じず、相対主義に安住し、嘘を真実のように言いくるめるのも造作ない。

 鮎川信夫が三十年前に危惧していた「文学停滞」はますます進んでいる。

(……続く) 

2010/12/11

文化の基盤 その三

 二十代から三十代にかけて、わたしは商業誌の世界では「戦力」になっていなかった。すくなくとも一九九〇年代半ばくらいまでは出版業界は「戦力」にならない若手のフリーライターを食わしていける余裕があったのである。

 一九九〇年後半になると、その余裕がなくなる。ただし、もともと生活レベルが低かったから、不況になったときの落差もあまりなかった。友人のミュージシャンや演劇の関係者にしても、本業に関しては食えないのが当り前という生活だった。不安といえば、不安だったが、日々の楽しさのほうが勝った。

 それまでのわたしはフリーランスは一匹狼でなければならないとおもっていた。体力や才能、向上心、あるいは財力があれば、それも夢ではない。残念ながら、いろいろ足りなかった。人に頭を下げたくないという気持だけはあり余っていたのだが。

 鮎川信夫のいう「文化の基盤」とはニュアンスがちがうが、金があってもなくても楽しくすごせる「場」があるかどうかというのは、生きていく上でかなり大切なことだ。

 四十歳すぎても、いまだにトキワ荘のチューダーパーティー生活に憧れている。というか、銀座で飲んだり、ゴルフに行ったりするより、近所の友人とキャベツをつまみに安酒を飲んでいるほうが、ずっと楽しそうだ。

 自分にとっての「文化の基盤」にあたるものはなにかと考えたときに、三十路前に金がなくて公園や部屋で飲んでいたときの友人や二十代のころいっしょにミニコミ(B4の両面コピー)を作ってた友人のことが頭に浮ぶ。

 そういう「場」にいたおかげで、メジャー志向でもなければ、マイナー路線も極めきれない、しかも標準からもズレている自分の微妙な立ち位置みたいなものがわかった気がする。当時のわたしは自分の考え方が主流になることはないとおもっていたし、多数決になったら一〇〇%勝ち目がないとおもっていた。かといって、少数派あるいは反体制という枠の中に入れば入ったで、共同作業が苦手でやる気のない人間はお荷物になる。   

 自分や自分みたいな人間の受け皿はどこにあるのか。他人に与えてもらうのではなく、自分で作るしかないのか。二十代の十年はそんなことばかり考えていた。

(……続く)

2010/12/07

文化の基盤 その二

 仕事が一段落し、十日ぶりくらいに中野ブロードウェイのまんだらけに行く。
 家にずっとこもって文章を書いて、その合間に古本屋に行って、人と会話するのは飲み屋に行ったときだけ。
 わたしはそういう生活がきらいではないのだが、これは不健康なことかもしれない。でも生きていく上で不健康さにたいする耐性は必要だとおもっている。

 鮎川信夫の「文化の基盤」という言葉について、もうすこし考えてみたい。

 彼は「単独者」であることを自分に課していた詩人だ。
 廃虚のような埃の堆積した家で詩を書き、親しい知人の間ですら、その私生活は謎だった。そういう人物が「文化の基盤」の重要性を説いているのである。
 また鮎川信夫は「荒地」の詩人は「相互酷評集団」だったと語っていた。晩年は疎遠になったが、吉本隆明と長期にわたる対談も鮎川信夫の「文化の基盤」につながっていたのではないか。

 詩人にかぎらず、誰とも共有できない(共有しにくい)観念をもち続けることはけっこうしんどい。
 今の時代はインターネットの普及によって、同好の士を見つけることは昔よりは楽になった。簡単に得られるものは簡単に失いやすい。ひとりで考えていると「わかりあえる」「わかりあえない」の境界がどんどん曖昧になってしまう。
 自分の理解が浅いから通じないのか、考えがヘンだから通じないのか、いい方がまぎらわしいから通じないのかも曖昧になる。

「わかりあえない(わかりにくい)」ものを通じさせたいとおもうと、まわりくどいいい方になりがちだし、共感と同じかそれ以上に反発や黙殺がある。

 たとえ無理解(自分の無力さに起因するところもふくむ)にさらされても「文化の基盤」のようなものがあれば、気持を立て直しやすくなるのではないか。

(……続く)

2010/12/05

文化の基盤 その一

 おととい、神保町で打ち合わせのあと、東西線で九段下から中野まで帰り、JRに乗り換えようとしたら、強風のため、総武線の中野三鷹間が運休になった(中央線は走っていた)。
 それで中野から歩いて帰った。
 中野から高円寺までガード沿いをまっすぐ歩きながら、考え事をすると頭の中が整理される。

 この日、電車の中で鮎川信夫の『疑似現実の神話はがし』(思潮社、一九八五年)を再読していた。おそらく十数回は読んでいる本なのだが、読み返すたびに、そのときどきの自分にとって、切実なテーマが浮上してくる。

《先ほど僕は「文化の基盤」ということを言ったが、現実との詩人の闘争を考える場合、どんな基盤に立って闘うかが大事である。それがだめだと、どんな天才を持ってしてもどうにもならない。ただそこに存在する、というだけでなく、継続してそこで残されていくものを考えた場合、その基盤がきわめて重要なのである》(「風俗とどう関るか」)

 詩と風俗のかかわりだけでなく、たぶん鮎川信夫はそのもっと先の深い問題を語ろうとしている。
「文化の基盤」という言葉がその鍵である。しかし、昔読んだときはピンとこなかった。

 引用文の前に、次のように語った箇所がある。

《自分の詩については、どんな詩人でも自分の詩が何であるのか、どういう位置でどんな詩を書いているのかを知っていなければならない。創造とは主観的な行為であるとしても、客観的な批評眼をそれに加えてみる必要がある。自分がどんな文化的な基盤に立っているかを知るのは大切なことである》

 鮎川信夫や「荒地」の詩人は、戦前から「新しい詩」を書こうとし、お互いの詩を見つめあい、そこからお互いの作品が連鎖し「一種の遺産のようなもの」が形成されてきた。そうした「基盤」があるからこそ、今はだめでもいつかそれ以上のものを作ろうという気になる。グループの活動が解体してもそのつながりは残る。

 これは「荒地」の話ではあるが、映画でも音楽でも漫画でも発展しながら継承されていく基盤はあるはずだ。
 中央線文士、鎌倉文士、戦後派、第三の新人、トキワ荘……。
 かならずしも作風や才能の質はちがえど、多くの才能を生み出した「場」の力の存在は疑いようがない。

 例外はあるとおもうが、ひとりで活動しているよりもそうした「場」があったほうが持続しやすいということもあるだろう。
「文化の基盤」があるからこそ持続するのか、持続するからこそ「文化の基盤」が作られるのか、どちらともいえないところもある。

 すくなくとも、持続のためには自分の位置を知っておく必要はある。

「文化の基盤」には何らかの路線があって、それに沿って走る時期もあれば、あえて脱線を試みる時期もある。逆にそうした路線なくなると、脱線しようにも脱線しようがなく、ひたすら空回りしているような徒労感に陥ることになる。

(……続く)

2010/12/03

高円寺文庫センター

 南陀楼綾繁さんとコクテイルとペリカン時代で飲む。
 そのときにもすこし話題になったのだが、高円寺文庫センターが十二月二十五日で閉店することになった(わたしは来年一月に閉店と聞いていたので、南陀楼さんにもそういってしまったのだが)。

 一九八九年の秋から高円寺に住んでいる。当時は毎日のように深夜に文庫センターで雑誌と漫画をチェックしてから家に帰った。
 前の店舗だったころは、友達や編集者との待ち合わせ場所としてもよく利用していた。
 かなり偏った品ぞろえだったが、「自分たちはこういう本を売りたいんだ」という気迫が伝わってくる棚だった。
 同業の知人は「高円寺文庫センターのような店が日本に百軒くらいあったら、アルバイトをしなくても食っていけるようになるのになあ」とよくいっていた。

 今年から店の半分が、古本の棚になり、知り合いの古本屋さんもかかわっていたので、あまり経営がおもわしくないという話はちらほら聞いていた。
 いつかその日がくることは、あるていど覚悟はしていた。
 かつての文庫センターのあった場所は、その後、スマイルベーカリーというパン屋になり、今はオシャレな飲み屋になっている。
               *
 先日、上京していた東賢次郎さんの『レフトオーバー・スクラップ』(ふぉとん叢書・冬花社)が届く。
 夢をモチーフにした連作短篇。ストーリーうんぬんではなく、とにかく文章がしみこんでくる。
 はじめてこの小説を読んだのが、ペリカン時代のカウンターだったので、いろいろな意味で酔った。

《三十七歳になった月の末日で東京での仕事を辞め、その日の夕方には京都にきてそのまま住み始めて以来働いたことはなく、退屈したことも一度もないが、蓄えは減っていく一方なので、きりつめた生活の先に不安がないかといえばもちろんないはずはない。それで日々何をしているのかといわれると、好きな音楽をときどき人前で演奏している、というぐらいのことしかしていない》(ないないづくし——あとがき)

 上京中の東さんと五日連続で飲んだ。
 京都での生活の話は、そのまま小説になるのではないかとおもえた。

 同じ日、山川直人さんの『澄江堂主人』(前篇・エンターブレイン)も届いた。
 芥川龍之介や佐藤春夫が漫画家という設定で、画家で装丁家の小穴隆一も出てくる。「田端文士村」は「田端漫画家村」になっている。

 当時の作家(設定では漫画家だけど)群像だけでなく、大正から昭和初期の時代の雰囲気が、ものすごく緻密に描かれているから、一コマ一コマゆっくり読みたくなる。

《「遺伝」「境遇」「偶然」
 「我々の運命を司るものは畢竟この三者である」》

 全三巻の予定らしい。完結したらまちがいなく大きな漫画賞を受賞するとおもう。

2010/11/26

盛岡の話

 遠藤哲夫(エンテツ)さんの「ザ大衆食つまみぐい」を読んでいて、「あっ」と声が出そうになった。
 盛岡の雑誌『てくり』のことを紹介している文章なのだが、さらっと深いことが書いてある。

《この雑誌の肩書には、「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」とあるのだが、おれがおもうに、「ふだん」を語るのは、とても難しい。
 たいがい、「伝えたい」「残したい」ものは、「ふだん」「ふつう」より、なにかしら「特別」で「非日常」で「群をぬいている」ことに寄りかかって偏りがちだし、世間の「文化財」だの「職人技」だの、「まちの誇り」というものは、そういうことで伝わり残っている》

《それは、とりもなおさず、「ふだん」「ふつう」の生活を上手に語れない、なにかしら人前で語るとなると、そこに「文化的」「芸術的」に高度な雰囲気をもたらす「言葉」が必要であるという》

 もちろん、遠藤さんはそうした高度な「言葉」を肯定しているわけではない。
 田舎にいたとき、わたしは「文化的」「芸術的」な雰囲気に飢えていて、自分も都会に出て、そういう世界で生きたいとおもい続けてきた。

 そのせいか「ふつう」と「特別」に引き裂かれた、どっちつかずの中途半端な状態に陥りがちである。今もそうだ。だから「ザ大衆食つまみぐい」を読んで考えさせられた。
 つい「印籠語」もつかってしまうし……。

 でも「あっ」と声が出そうになったのは別の理由。

 上京後、十代後半のかけだしのフリーライター時代に憧れていた人がいる。
 文章も好きだったが、酒の飲み方や遊び方が、まぶしいくらいかっこよくおもえた。
 たまにホームパーティーのようなものをひらくと、薄汚いかっこうをしたわたしやギター小僧だった友人をまねいてくれた。
 部屋には、民族楽器がいろいろ転がっている。「なにかやれ」といわれると、友人と即興で歌をうたったり、踊ったりした。
 怒るとちょっと(かなり)怖いところもあったけど、後にも先にもあんなに心をこめて若者を叱咤激励する人には会ったことがない。

 その人の名前が今回の遠藤さんのブログに出てきておどろいたのである。

《林みかんさんは、なぜ呑み屋を始めたかについて、こう語る。「店をやろうと思ったのは、わりと最近。ある日、ふっと。つれあいが亡くなって、そう頻繁に人を招いてばかりもいられないし料理欲を満たすという意味では、店をやるのがいいかなと」》

 東京から盛岡に移住するという話を聞いたときは、正直「なんで?」とおもった。
 十年前、花見の季節のころ、みかんさんの家に遊びに行ったら、その疑問はすぐ氷解した。
 地元の不良中年が次々と集まってきて、歌をうたったり、楽器をひいたりする。庭に桜の木がある家で手料理と酒をごちそうになった。
 夜、酒を飲みながら、いっしょにRCサクセションのライブビデオを観た。

 いっぺんで盛岡が好きになったくらい楽しい時間だった。

 みかんさんからすれば、それが「特別」でも「非日常」でもない、「ふだん」の生活なのだとおもう。

 まだ盛岡の「みかんや」には行ったことがない。
 
※ザ大衆食つまみぐい 「ふだん」を上手に語る『てくり』の魅力。

2010/11/24

答えの出ない問い

 書きかけて中断しているものがいくつかある。答えがないまま、書きはじめているせいだ。
 答えを出すということは、何か切り捨てることでもある。何かとは躊躇、逡巡、葛藤、その他もろもろの煮え切らない気持といってもいい。
 どんなに迷っていても、将棋であれば、次の一手を選ばなければならないし、麻雀であれば、牌を捨てなければならない。

 しかし人生の場合、自分の手番なのかどうかすら、わからないことが多い。
 煮え切らない人というのは、同じことをくりかえし考える癖がある。
 とにかく決断しなければ、先に進むことができない。
 答えを出すことを先送りにしているうちに、いろいろなことがうやむやになる。だからいつまでも迷い続けてしまう。

 目標やゴールを設定し、それにむかって邁進する。
 わたしはずっとそういう生き方が苦手だった。
 決断することの大切さは痛感している。
 だけど、でも、うーん。
 性格や体質はそうすぐには変えることができない。立ち止まってしまうと、だんだん動くことが億劫になる。かといって、自分のペースを無視して動こうとすれば、すぐ息切れしてしまう。

 そのいっぽう、三十代後半あたりから、煮え切らなさを持続することがしんどくなってきた。
 ときどき、中断したまま、うやむやになっていることを切り捨てて、楽になりたいとおもう。
 同じ場所に立ち止まっていると、下り坂から転がり落ちてしまうのではないかという不安もある。ところが、書こうとして書けなかったことの未練が重しになって、どうにかふみとどまっているようなところもある。

……というわけで、未完。

2010/11/18

黒岩比佐子さん

 昨日、午後三時すぎ、二日酔いで新聞社に顔を出した途端、訃報を聞かされた。
 その前後の記憶が飛んだ。
 気がついたら、ふらふらと神保町を歩いていた。

 黒岩比佐子さんとはじめて会ったのは、五反田の古書会館である。古本仲間数人と戦利品をかかえ、ハンバーガーショップに行って、お互い、自己紹介をした。
 どんな紹介だったかは忘れてしまったが、わたしは「伝書鳩の人」とおぼえた。
 収入のほとんどを資料代に費やしているという話も聞いた。

 つい数ヵ月前、「『パンとペン』って『活字と自活』みたいなタイトルでしょ」と話しかけられた。

 黒岩さんは、明治大正の世界を自在に見聞きできる貴重な目をもっていた。まだまだいっぱい書きたいことがある人だったし、書いてほしかった。
 でも古本を通して年齢の倍以上の時間を生きたとおもう。そうかんがえてやりきれなさを誤魔化そうとしてみたが、無理。

 また飲んだ。二軒目の店でNEGIさんと会った。

2010/11/15

まだ脱線

——この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい。

 食うに困らない身の上であれば、問題の九割くらいは解決してしまうかもしれない。

 長年、やる気のなさや社交性のなさを自覚しつつ、ごまかしごまかしやりくりし、それなりに生きるための工夫はしてきた上でのていたらくなのである。そこを否定されると立つ瀬がない。立つ瀬がなくても仕事をしないわけにはいかない。

 昔、友人との愚談で「われわれは仕事がきらいなわけでも、社交性がないわけでもなく、ただ、そのための燃料のようなものが、ちょっと人より不足しているだけではないか」という話になった。わたしは「そうだ、そのとおりだ」と同意した。

 たとえば、コタツにはいって酒を飲んで寝っ転がっているとき、わたしはよく喋る。あるいは原稿を書くのも、机の前に座っている時間は一日三時間くらいが限度だが、布団の中であれこれ考えている時間はかなり長い。脳というのはものすごくエネルギーをつかうといわれている。おそらく、どうでもいいことを考えてばかりいるから、疲れるのである。

 その結果、からだを動かしたり、人前で明るくさわやかにふるまったりするための燃料が足りなくなるのではないか。つまり、こんな屁理屈ばかり考えているから、社交性がなくなってしまうのである。

 三十代後半くらいから、あちこち旅行したり、外で飲み歩いたりする機会が増えたのは、二十代のときよりも考える時間が減ったからかもしれない。

 自分の考えていることをブログに書くことによって、書いたことの続きから考えることができるようになった。長年の堂々めぐりの蓄積によって、思考の省略が可能になったともいえる。

 その分、文章が薄味になってきているという自覚もある。掘下げなくてもいいことを掘下げたり、考えなくてもいいことを考えたり、そうした非効率な作業をどんどんしなくなっている。言葉にする前にジタバタする時間も減った。

……話がどこに向かうかわからなくなっているが、続ける。

2010/11/13

個別の案件

「内輪受け」をどう広げるかという話の続きなのだが、その方向だけはわかっていても、その方法はわかっていない。わたしも教えてほしいくらいだ。
 もともと癖が強くて社交性のない人間にとっては「内輪受け」すらむずかしいのである。
 社交性がない人というのは、他人に非寛容であることが多い。他人に非寛容にされるから、非寛容になるのか。非寛容になるから、非寛容にされるのか。どちらが先かはわからない。

 この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい。

 集団行動が苦手な協調性のない人の生息領域はずいぶんせばまっている。統計があるわけではなく、あくまでも実感でしかないのだけど、この十年、二十年で五分の一くらいに減少しているのではないかとおもう。
 不況の影響もあるだろう。競争がきびしくなると、ある種の癖の強い人は排除されやすい。就職するにせよ、バランス感覚があって何でもできる人(またはその意志のある人)でないと採用されにくい。
 今回の話に該当するようなタイプは、排除されるか、囲いこまれて二進も三進もいかなくなるか、どちらかの選択しかなく、出口の見えない状況にある。

 たぶん、昔のほうが「しょうがねえ奴だなあ」といいながら、偏屈で不器用な若者を調子にのせるのがうまい大人の数は多かった気がする。
 どこの世界にも、素直で明るい若者だけでなく、そういう若者をおもしろがる人がいたわけだ。

 長所と短所は表裏一体で、ある種の欠点はその人の独自性につながる。
 順調な人があまりしない失敗や挫折を経験し、そういう経験をしたことのない人が考えないことを考える。そうした経験や思索が底にとごっている人の表現というのは、一見わかりにくいところもあって「一般受け」はしにくい。

……この話、もうすこし続ける。

2010/11/12

奇特な人

 神保町を散歩。東京堂書店のふくろう店の畠中さんに挨拶してから、巌松堂の閉店セールに行く。単行本三百円全集半額。棚の本はかなり減っていたが、それでも「これが三百円?」とおもうような本がまだまだ残っていた。
 巌松堂は均一台の本ばかり買っていたが、それでも神保町に行けばかならず寄る店だった。

 週一回、巌松堂、田村書店、小宮山書店の均一を見て神田伯剌西爾でコーヒーを飲む。それから小諸そばでから揚げうどんを食う。帰りは岩波ブックセンターの並びの古本屋に寄りながら九段下に向かう。

 東京メトロ東西線で九段下駅から中野駅で降り、中野ブロードウェイに寄り道して高円寺に帰る。
 秋以降、中野から高円寺までよく歩くようになった。
『本の雑誌』の十二月号で、坪内祐三さん、古書現世の向井透史さんとわたしの対談が掲載されている。向井さんとの対談は、西荻ブックマークのときの再録である。

 東川端参丁目さん、松田友泉(u-sen)さん、橋本倫史(HB編集人)さんの鼎談もある。リード文に「第二の荻原魚雷を夢みる」云々とあるが、絶対に夢みてないとおもう。

 二十代のころのわたしはまったくハキハキしたところがなく、やる気のない若者だとおもわれていた。
 たぶん、そういう性格はなかなか変えられない。「こいつはだめだ」とおもわれている場所にいるとますますだめになる。編集者と打ち合わせをしていても「ああ、自分は何も期待されていないなあ」とおもったり、「場違いなところに来てしまった」と悔やんだりしてしまう。
 ほんとうは見返してやるくらいの気持があったほうがいいのだろうが、一度だめなやつというレッテルを貼られてしまうと、ちょっとやそっとのことではその印象を変えられない。
 相手の認識を変えさせるのは、自分の性格を変えるよりもむずかしい。

 しかし百人中九十九人にだめだといわれても、一人くらいはおもしろいといってくれる人がいる。そういう奇特な人を探すしかない。仕事につながらなくてもいい。
 できれば自分もそういう奇特な人間になりたい。

 一般受けしないおもしろさを発露する場に飢えている人はけっこういる。そういう人と手を組んで、お互いに自分たちの(わかりづらい)得意ネタを引き出し合う。そうこうするうちに相手のツボもわかってくる。
 不特定多数を相手にすれば、萎縮して何もいえなくなるけど、徐々に身近なあぶれ者(お互い様)を楽しませることができるようになる。「これをおもしろいとおもっている人間は自分だけではない」という自信がつく。そうすると、これまで萎縮していた相手にたいしても、すこしずつ立ち向かっていけるようになる。

 わかりやすい才能がない人間は「一般受け」ではなく「内輪受け」をどれだけ広げていけるかに賭けるしかない。

 では、どうすれば「内輪受け」を広げられるのか。

2010/11/06

今日から外市

今日から池袋古書往来座の「外市」があります。

「外、行く?」

第23回 古書往来座 外市〜軒下の古本・雑貨縁日〜

南池袋・古書往来座の外壁にズラリ3000冊の古本から雑貨、楽しいガラクタまで。敷居の低い、家族で楽しめる縁日気分の古本市です。7月、9月と暑すぎる気候が続きましたが、いよいよ外市日和の時期到来。2010年度最後の開催となります。

■日時
2010年11月6日(土)〜7日(日) 
雨天決行(一部の棚などは店内に移動します。)
6日⇒11:00ごろ〜19:00(往来座も同様)
7日⇒12:00〜18:00(往来座も同様)

■会場
古書往来座 外スペース
東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階
http://www.kosho.ne.jp/~ouraiza/

→池袋ジュンク堂から徒歩4分
→東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅・2番出口から徒歩4分
→都電荒川線「鬼子母神前」電停より徒歩6分

▼メインゲスト
盛林堂書房 from 西荻窪
http://d.hatena.ne.jp/seirindou_syobou/

2010/11/05

京都から博多、また京都

 先週の土曜日から、京都のえいでんまつり、日曜日は博多のブックオカに行く。博多からは山口(下関、岩国)、広島(福山)、岡山(笠岡、倉敷)をローカル線でまわって、再び京都へ。
 知恩寺の古本まつりを見て、山田稔さんを囲む会に参加する。そのあと古書善行堂もうでをして、東京に帰る。三泊四日。
            *
 えいでんまつりの一箱古本市の会場は屋根もあって、おにぎり、弁当、焼きそば、電車焼(電車の形のどらやき)などを販売するブースもあった。
 さっそく電車の中で古本を並べる。向かいは林哲夫さん、隣は名前がわからず「ええ本売っている人」と呼ばれていたブック・アット・ミーという屋号の方。この方、本だけでなく、電車の模型など、鉄道グッズも売っていて、ずっと人だかりができていた。
 お客さんは、鉄道マニアが大半、家族連れが多かった。
 わたしは完全に選書失敗(文学系を揃えた)……かとおもいきや、山本善行さんが『京都画壇周辺』(用美社)を買ってくれたおかげで、なんと、売り上げ一位になってしまった。

 ブックオカは、着いたのが、午後二時すぎ。荷物をもったまま、けやき通りをかけ足でまわる。そのあと徘徊堂に行ったら、店内にかえるさんがかかっていてレジで「かえるさんですね」といったら、変な人を見るような目をされた。
 バンドワゴンで値段のついていない石黒敬七の本があって、「いくらですか」と聞いたら、「これは高いよ」というので、緊張したのだが「千五百円」といわれて、もう一冊の本はおまけしてもらう。
 夕方、いったんビジネスホテルに荷物を置いて、ちょっとのんびりしていたら集中豪雨。ほんとうにゴーっと音が鳴るような雨で、夜、中洲の屋台に行くのを断念し、結局、ホテル近くのラーメン屋(居酒屋みたいなところ。激安)で、店内の日本シリーズを見ながら、ラーメンをつまみにハイボールを三杯飲んだ。

 これといった予定のない旅行だったので、下関では一時間くらい駅周辺(駅の改札すぐ前の名店街にブックセンターという古本屋があって、通学前の高校生が文庫本を立ち読みしていた)をぶらいついて、電車に乗って岩国に向かい、岩国の古本屋に行くつもりが、駅を出たら錦帯橋行きのバスが止まっていたので、何も考えずに乗って、何も考えずに観光し、そのあと一度も降りたことがなかった福山と笠岡の駅周辺を歩いて、倉敷の蟲文庫へ。

 翌日、再び京都に戻り、山田稔さんを囲む会があると扉野さんに聞いて、飛び入りで参加させてもらう。
 編集者時代の古山高麗雄さんの話を教えてもらったり、逆に、佐藤泰志の『海炭市叙景』のことを質問されたり、富士正晴、久坂葉子の話を聞いたりして、あっという間に時間がすぎた。
 今は目の調子があまりよくなく、一日三十分くらいしか本を読んでいないとのことだったが、「名医を紹介してもらったけど、目が見えなくなるのが先か、寿命が先か、わからないから、手術するのやめちゃったんですよ」と冗談っぽくいっていて、話を聞いているだけで、齢をとるのもわるくないなあという気になる。
 新刊の『マビヨン通りの店』(編集工房ノア)を持っていけばよかった。

 東京に帰ると仕事が山積み。今週末の外市に出品する本の値付をする。今回はけっこう珍しい本があるかも。

2010/10/28

神田古本まつりとえいでんまつり

 気温が急に下がって睡眠時間がズレまくる。午後三時に起き、夕方頭がぼーっとしたまま打ち合わせのため神保町。神田古本まつりの初日、三省堂書店の周辺だけすこし見る。人が多すぎて棚の前に行けないくらいの盛況だった。

 ここ数日、寝ている時間以外、ほとんど読書と執筆という日が続いていて、急に大量の古本を見て混乱する。神保町でパラフィンのかかっている古本見ると、なんとなく高そうな気がするのだが、値段を見るとけっこう安くてあれっと肩透かし。でもそんなに読みたい本ではなかったので棚に戻す。

 ふだんあまり見かけないちくま文庫や講談社文芸文庫の品切本がこれでもかというくらい並んでいた。新刊、辰巳ヨシヒロ著『劇画暮らし』(本の雑誌社)と伊吹隼人著『「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝』(社会評論社)と立て続けに気になる本が刊行。すこし前に出た藤子不二雄Ⓐの『PARマンの情熱的な日々 漫画家人生途中下車編』(ジャンプスクエア)もおすすめ。

 十月三十日(土)の京都の叡山電車の一箱古本市、前日から京都に泊るか当日始発の新幹線で向かうか思案中。

「一箱古本市 in えいでんまつり」

 2005年に東京の不忍ブックストリートで始まり、いまや全国各地で催されている一箱古本市を、京都市左京区を走る叡山電車の「鉄道の日」協賛イベント「第6回えいでんまつり」の催しのひとつとして開催いたします。なお、当日はちせさんによるチャイや自家製ジャムの販売も。 乗って・撮って・読んで・食べて・聴いてのえいでんまつりで、たのしい秋のひとときをお過ごしください。

【日時】平成22年10月30日(土) 10:00-16:00(雨天決行)

【会場】叡山電車・修学院車庫(修学院駅下車すぐ)

【主催】ガケ書房 【共催】ちせ 【協賛】叡山電鉄 【協力】恵文社一乗寺店・古書善行堂・ぱんとたまねぎ・hellbent lab

 当日はコトバヨネットさんによる一箱古本市、初(?)のインターネット中継も予定。また叡山電車さんのほうでも(こちらもおそらく初)、 イベント列車の運転席からの眺めをユーストリームで放映されるそうです。 お楽しみに!

2010/10/22

保留

——図式にとらわれすぎると、日常の感覚を損なう。

 あいかわらずのしりきれトンボ。あと一言二言と付け加えようとして、そのままにしてしまった。

 世代論は多くの例外を含むが、世の中を考えるひとつのモノサシとしてそう簡単に否定はできないところもある。生まれ育った時代の影響も無視できない。

 時代経験は各人各様という事実もある。  

 若いころは自分たちの世代は被害者だという意識がある。しかし被害者だとおもっていた世代が、いつの間にか加害者になる。よくある話だ。

 おそらく四十歳前後の自分と同世代の人が〈バブル世代〉といわれたときの戸惑いもそこにある。バブルの恩恵に受けたのは上の世代だ。だから「こっちはそんなにいいおもいしてねえよ」と反論したくなる。ところが、これまで世を拗ねる立場だったのに、いつの間にか、若い世代からすれば、ずっと恵まれてきた身勝手な中年とおもわれるようになった。「自分はちがう」という言い分は通用しない。

 どの世代だって、そのときどきは自分のことでいっぱいいっぱいで、次の世代のことは考えられない。社会に出てからの時間のすごし方で、同じ世代で考え方もちがってくる。

 ひさしぶりに学生時代の友人に会うと、別人のように性格が変わっていたり、子どものころ見たテレビのことくらいしか共通の話題がなかったり、むしろ同世代は同世代でどんどんバラけている気もする。

 やっぱりまとまらん。

 もうすこし時間をかけて考えてみたい。今はその時間がない。

2010/10/20

近況と雑感

 西荻窪(北口)のなずな屋(紙モノ・古本の店)で「文壇高円寺の古本棚」コーナーをつくってもらいました。
 今は棚一段分ですが、すこしずつ本を補充していく予定です。

 昨日も一昨日も仕事、古本屋、飲み屋をぐるぐるぐるぐる。そのサイクルから喫茶店がぬけている。
 古本屋と飲み屋と喫茶店に行くことが仕事の活力になっている。今は三分の二の活力で仕事をしているわけだ。

 不調の原因がわかった。

 山田正紀、恩田陸著『読書会』(徳間文庫)を読んで、読書欲を刺激されまくる。SFやファンタジー小説は守備範囲外。読まずぎらいはいかんとおもいしらされた。
『ゲド戦記』はそんな話だったのか。目からウロコ。半村良や小松左京は、高校生くらいのときに読んでいたのだが、それっきり。
 この本の中に出てくる萩尾望都の『バルバラ異界』(全四巻・小学館)を書店に買いに走ったし、さらに『銀の三角』や『マージナル』も読み返した。

 ささま書店で福田恆存著『インテリかたぎ』(池田書店)を買った。あまり見かけない本かもしれない。収録されているエッセイは他の本に入っているものも多いのだが、手にとった瞬間、「ほしい」とおもってしまった。ビニカバ付の美本。

《ひとびとは世代の對立を圖式的に設定することによつて、じつはその圖式につごうのいゝように現實を眺めてゐる。が、現實は世代を考慮しない。なまの現實のすがたは、このような圖式をぶちこはすことによつて、はじめてぼくたちのまへに立ち現れるであらう》

 誰も生まれてくる時と場所は選べない。誰もが選べないことを公平と考えるか不公平と考えるかは意見のわかれるところだろう。
 わたしは〈バブル世代〉といわれる世代である。〈就職氷河期世代〉からすれば、恵まれた世代だとおもう。でも個人の実感はそうではない。

 わたしも団塊の世代に反発をいだいていた。上がつかえていると愚痴もこぼした。
 早とちりだったと反省している。

 世代間の格差は、拡大よりも縮小されたほうがいいとおもうが、制度や何やらかんやらが改善されるには時間がかかる。
 その日その日を楽しく生きる知恵や工夫も必要だ。図式にとらわれすぎると、日常の感覚を損なう。

2010/10/14

ちょっと京都に

 日曜日、京都のメリーゴーランドの古本市。
 メリーゴーランドの古本市も三年目。店に向かう途中、古本のはいった袋をもった若い人四、五人すれちがう。会場も盛況。

 出町柳に出て古書善行堂。棚の変化早いなあ。前に見たときとまったくちがっていた。
『昔日の客』も売れている。新幹線の中で山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』を読みかえしていたのだけど、電車で読むのにピッタリの本だとおもった。
 この本の中で“古本”として書かれていた本が、続々と“新刊”になっている。

 そのあと竹久野生展を見にいく。会場は善行堂のすぐそばだったのだが、道に迷い、三十分くらい遅れる。竹久野生さんの実父は辻まこと、ということは辻潤の孫。竹久夢二の二男、不二彦の養女でもある。コロンビアに四十年以上在住。
 ざらっとした青や緑の色の絵、化石が描かれている絵、詩をモチーフにした絵。うまく説明できないが、なんとなく、人類が生まれる前からある壁画みたいなかんじがした。不思議な絵だった。

 メキシコ料理屋で二次会。午後十一時すぎ、扉野良人さんとまほろばに飲みに行く。

 翌日は、扉野さんと四天王寺の古本まつりに行く。口笛文庫さんにはじめてお会いする。わめぞの外市のとき、いい本が並んでいた。
心斎橋のブックオフ、梅田のかっぱ横丁をかけあしでまわって、家に帰る。

 ここ数日、毎日十時間以上熟睡。
 よく寝たり、よく夢を見たりする時期は、なんらかの変化の前ぶれだという話がある。
 今月から『ちくま』は隔月から毎月連載になる。
 この連載が一段落したら、すこしのんびりできそう。

2010/10/08

メリーゴーランド古本市

 まもなくメリーゴーランド京都で「第3回 小さな古本市」があります。わたしも参加します。
 今年はギャラリーで「あべ弘士展」も開催されるそうです。

日時 10月10日(日)・11日(祝月)
   10:00〜19:00

会場 メリーゴーランド京都の前のフロアー

出展者
・あべ弘士
・伊藤まさこ
・三谷龍二
・海文堂古書部
・古本オコリオヤジ
・子子子屋本店
・古書コショコショ
・moshi moshi
・トンカ書店
・とらんぷ堂書店
・貸本喫茶ちょうちょぼっこ
・文壇高円寺古書部
・GALLERY GALLERY
・りいぶるとふん
・増田喜昭
・メリーゴーランド京都

◎子どもの本専門店 メリーゴーランド京都
〒600-8018
京都市下京区河原町通四条下ル市之町251-2 寿ビル5F
TEL&FAX075-352-5408
http://www.merry-go-round.co.jp/kyoto.html

2010/10/07

仙台・山形

 日曜日、仙台のbook cafe火星の庭で佐伯一麦さんの読書会。その前にマゼランに寄り、古本を買い、アイスコーヒーを飲む。

 読書会では魯迅の「藤野先生」「孔乙己」「故郷」を読んだ。
 昔、読んだときとずいぶん印象がちがった。短い作品なのだが、構成がものすごく巧み。「孔乙己」は、飲み屋に来るだめなかんじの酔っぱらいの話である。つきはなしたミもフタもない描写が凄い(「故郷」にもいえる)。
「孔乙己」について、佐伯さんは十歳の子供の目から飲み屋の様子を描くことで、酔っぱらいにたいする容赦なさ、残酷さが出ているといい、わざと真相をぼかし、噂の積み重ねで人物像を作っているのだが、それが逆に現実感を出している……というようなことをもっと丁寧な言い方で解説してくれた。

「故郷」のときは、佐伯さんが魯迅の出身地を訪れたときの写真のスライド上映があったり、参加者それぞれの感想を聞いたり、飲んだり食ったり、楽しい時間だった。

 そのあともずっと文学談義が続き、結局、午前一時すぎまで店で飲んだ。

 翌日、小雨。昼すぎ、ふらっとひとりで松島に行ってみる。松島は十七、八年ぶりか。前に行ったときは、気仙沼に行く途中に降りて、海岸を歩いただけ。フェリー乗り場付近のうなぎ屋、寿司屋、定食屋の客引に圧倒される。
 松島から船で塩竈行きの遊覧船に乗る。小さな島(岩)を通るたびに、録音されたアナウンスが流れる。はじめはそのたびに景色を眺めたが、だんだん飽きてきて、ずっと文庫本を読んでいるうちに塩竈に着いてしまった。わたしは観光が苦手なのかもしれない。

 仙台に戻り、夜、国分町の飲み屋へ。カウンターと小さな座敷がある。刺身、芋の煮物が絶品。居心地もいい。文学好きの店主と論創社や国書刊行会の本のことなどを話した。そのあと中華料理屋へ。また午前一時すぎまで飲む。

 火曜日、麻六時くらいに目が覚めてしまい、前野家の食卓に書き置きを残して、駅に向かう。一ノ関に行くか、山形に行くか。先に来た電車に乗ることにした。

 山形行が先に来た。JR仙山線で一時間二十分で山形駅へ。町中をぶらぶらしているうちに、レンタサイクルを見つけ、霞城公園のちかくの香澄堂書店で大量に本を購入する。

 駅前のコインロッカーに荷物をあずけ、馬見ヶ崎川沿いを自転車で走る。駅に戻る途中、たまたま通りかかった蔵オビハチという喫茶店に寄った。

 山形からまた仙台に戻る。新幹線で帰る。

2010/10/01

昔日の客

 先週の日曜日、西荻ブックーマークのときに関口良雄著『昔日の客』の復刻版(夏葉社)を買った。

 店主の関口良雄は、正宗白鳥をこよなく愛し、尾崎一雄、上林暁、木山捷平と交遊があった。
 わたしが一生手放したくないとおもっている作家ばかりだ。

『昔日の客』(三茶書房)は、古書価が一万円以上していた。稀少価値だけでなく、関口良雄の文章と人柄の魅力も大きいとおもう。

 商売を度外視するくらい文学にほれこんでいた古本屋だった。
 わたしもそうありたい。そういうところがないとおもしろくない。おもしろいことばかりやっていては生活できない。おもしろくないことばかりやっていては生きている甲斐がない。

 夏葉社のSさんにも会った。若い編集者だと聞いていたのだが、まだ三十代前半だとはおもわなかった。一冊目がマラマッドの『レンブラントの帽子』、二冊目が『昔日の客』の復刊である。すごいとしかいいようがない。
 ほんとうに自分が売りたいとおもう本を作る。出版人の理想だろう。きれいごとかもしれないけど、そうした理想を追求する姿勢は、かならず読者にも伝わる……はずだ。

 昨日、東京堂書店に行ったら、平台のいちばん角に夏葉社版の『昔日の客』が平積になっていた。すでに京都の古書善行堂では四十七冊(※1)売れたとのこと。

《私は店を閉めたあとの、電灯を消した暗い土間の椅子に座り、商売ものの古本がぎっしりとつまった棚をながめるのが好きである。
 昼間見るのとは別の感じで様々な意匠の本が目に映る。古い本には、作者の命と共に、その本の生まれた時代の感情といったものがこもっているように思われる》(「古本」/『昔日の客』)

(※1)さらに売れている。

2010/09/23

自力と他力

 仕事のち散歩。夕方、高円寺北口にできたうどん屋に行ってみる。月見山うどん(山かけとたまごのうどん)を注文。
 食後、高円寺文庫センターに寄る。店内、絶版漫画が充実しているなあとおもったら、股旅堂の棚だった。

 家にこもって考え事をしていると、「行き詰まった感」におそわれる。「行き詰まった感」を考えぬこうとすると、堂々めぐりにおちいる。

 そういうときは、今やっていることとはちがう課題を作ったほうがいいのかもしれない。それが何かがわからないから、行き詰まっているともいえるのだが。

 河合隼雄、谷川浩司の対談集『「あるがまま」を受け入れる技術』(PHP文庫)を読んでいたら、今の若い人は、情報が手に入れやすくなっている分、夢を持ちにくくなっているのではないかというような話が出てきた。
 小・中学生でも、なんとなく、全国で自分がどのくらいのレベルなのか、わかっている。自分の将来はこんなものだと冷めていて、がむしゃらになれない。
 実現可能な望みだけではなく、もっとちがうスケールの大きな目標を発見する努力をしないと、なかなか無気力から抜け出せない。
 リスクを避け、無難なほうに流れてしまう。

 さらに読み進めていくと、「考えが行き詰まったら寝たほうがまし」(河合)、「頭を白紙に戻すことで、新しい発見ができる」(谷川)というフレーズがあった。

《河合 原稿を書いている時に、だんだん行き詰まってきて憂鬱になってくるでしょ。そういう時に、昔は「書かないかん、書かないかん」と思って、なんやかんやと焦ったものです。焦っていろんなことをしてみるわけですが、結局書けないまま時間がどんどん経って、締切が近づいてくるということがよくあったんですよ。ところが、このごろは焦るのをやめたんです。じゃあどうするかというと、書いていて行き詰まったら、パッとそこで寝るんですよ(笑)》

 目が覚めると、行き詰まっていた原稿がさらりと書ける。徹夜するよりも、ずっと能率がいいらしい。

 わたしもよくこの手をつかう。行き詰まったら、寝る。二十代のころは、それができなかった。ひとつの原稿を仕上げるのに必要な時間が読めなかったからだとおもう。
 長年仕事をしているうちに、寝ても大丈夫、休んでも大丈夫という感覚がすこしずつ身についてくる。

 この河合隼雄の話を受けて、谷川浩司は対局中に「ずっと集中しっぱなしではなく、集中とリラックスを適当に切り替えることが大切ですね」と語る。

 また浄土真宗の寺に育った谷川さんは、こんなこともいっている。

《谷川 難しいことは分りませんが、勝負事であれ普段の生活であれ、自分一人の力ではどうにもならないことは必ずあるわけです。そんな時に、自力だけですべてを思いどおりにしようとじたばたしたり、逆に思いどおりにならないからといって絶望したりするのではなく、なんともならないところは仏様に任せて、自分ができることをしっかり見据えてやっていこうというのが「他力」ということではないかと思います》

 行き詰まっているときは、自力と他力の見極めがうまくいっていない。ただ、じたばたしないと、なかなか見極められない。

……未完

2010/09/20

みちくさ市

 みちくさ市、終了。この日、雑司ケ谷の旧高田小学校での書肆紅屋さんとのトークショーもありました。

『書肆紅屋の本』(論創社)と『活字と自活』(本の雑誌社)は、ちょうど同じ時期に刊行。紅屋さんのことは、ブログで知って以来、ずっとどんな人なのかとおもっていた。
 本の話だけでなく、出版業界の分析が鋭い。

 紅屋さんの本を読んで、はじめて書店のアルバイト、本の流通、出版社営業、編集などの仕事にかかわってきたことがわかった。古本関係を中心にした講演、イベントのレポートに定評がある紅屋さんだが、本人もすごく話上手だった。ビックリした。
 トークショーの前に話したこともおもしろかった(和菓子屋だったおじいさんの話とか)。

 お互い、十代後半から三十歳くらいまでの仕事のことを話す(それで時間切れ)。

 わたし自身は、フリーライターをはじめたころの話、『sumus』に参加したころの話をした。
 最初は雑誌の発送などの雑用からはじまって、人に紹介されるまま、何でもやっていた。二十代半ばから、仕事がどんどん減って、アルバイトをしながら書きたいものを書くようになって、今にいたると。

 紅屋さんは、営業(販売)の仕事をしていたころは、ものすごく忙しく、一年通してほとんど休みがなかったらしい。書店以外の場所で売る機会が多く、各地のイベント会場をかけまわっていたそうだ。その経験が、紅屋さんのフットワークの軽さにつながっているのかもしれない。

 みちくさ市は、第二会場(小学校の中庭)がいい雰囲気だった。紅屋さんとの打ち合わせ前に、ちらっとのぞくと、保昌正夫著『川崎長太郎抄』(港の人)があって、心の中で「わっ」と叫びそうになる。
 ほかにも選び抜かれたかんじの本がずらっと並んでいた。

 夜は高円寺のショーボートで、ももいろアゲハ、オグラ、アネモネーズ、ペリカンオーバードライブのライブを見る。
 いいライブだった。飲み仲間で、ペリカンのベースのスズキマサルさん(ポテトチップスをはじめ、様々なバンドを遍歴)が広島に引っ越すことになり、そのお別れ会もかねたイベントだった。マサルさんは演奏もすごいのだが、楽器を持ったときの立ち姿がほんとうにかっこいい。とはいえ、これからもちょくちょく上京して、バンド活動は継続すると聞いて安心。

 会場は超満員で軽い酸欠状態になる。
 当然のように、打ち上げ、二次会。午前三時すぎに体力が限界になり、帰宅。仕事部屋にドラムの大嶽さんが泊る。

2010/09/13

プラネテス

 仕事が一段落したので、久しぶりに幸村誠著『プラネテス』(全四巻・講談社)を再読する。
 宇宙でゴミ拾いの仕事をする人たちの人間模様を描いたSF漫画なのだが、「大人になること」というテーマを見事に描かれている。巻末、というか、後ろ扉の作者の言葉もいい。

 とくに四巻の「犬の日々」「飼い犬」の逸話は読むたびに考えさせられる。

 幼い息子(やや反抗期)を地上に残して宇宙で働くフィーの台詞。

「生きてりゃ誰でも納得のいかないことの10や20はあるよ」「でもさあ……そこんとこをグッと飲みこんで 社会生活 やっていけるのが」「大人ってもんでしょ? フツー」

「フツー」はそうかもしれない。反抗するより、妥協したほうが、楽だし、得なことのほうが多い。でも理屈ではなく「なんとなく、イヤだ」という感覚がある。社会生活を送る上では、とりあえず、「グッと飲みこんで」おいたほうが無難なこともわかる。
 しかしずっと飲みこみ続けていると「イヤだ」が麻痺してくる。

 大人になる過程で感情の抑制を学ぶ必要があるのかもしれないが、一度なくしてしまうと、なかなか取りもどせない。下手すると何事にも無感動な人間になることもある。
 使わなければ、からだも頭も衰える。感覚も同じだ。

『プラネテス』では「大人ってもんでしょ? フツー」といっていたフィーが「成長したいとか立派になりたいとか」「そう思ってるうちに忘れてしまう感覚がある」と自問するシーンがある。

 理不尽なことがあるたびに一々腹を立てていたら、仕事が停滞したり、干されたりする。自分だけの問題ですめばいいのだが、家族だったり、部下だったり、いろいろ人の面倒を見なければならない立場になれば、その人たちを道連れにしかねない。

 とはいえ、耐えしのんでいるだけでは、事態はますます悪化していくこともある。
 そういう場合、反抗でも忍従でもない解決策はあるのか。働かないと食っていけない人間が「納得のいかないこと」に出くわしたとき、どう対処すればいいのか。

 わたしは三十歳くらいになって、あるていど自分の気持を犠牲にしても、自分の足場ができるまでは我慢するしかないと考えるようになった。おかげで、多少、生活は安定したが、それと引きかえに失ったものは少なくない……とおもっている。

 青くさいことばかり書いている自覚はあるが、そういう気持をなくしたくないのだから、しょうがない。

2010/09/09

ワメトーク

『活字と自活』&『書肆紅屋の本』刊行記念
ワメトークVol.7

「ぼくたちが見てきた『本のお仕事』」

ほぼ同世代の二人が見てきた本に関する仕事から、その時代の雰囲気まで、本のことあれこれを話します。
募集開始しました。

■日時
2010年9月19日(日)13:00〜14:30(開場12:30)

※同時開催のみちくさ市が順延になってもこの日に開催します。

■募集人数  30名 
■入場料   500円

※お名前
※人数(別々に御来場の場合は全員のお名前をご記入ください)
※電話番号(携帯だと助かります)
をご記入の上、下記メールアドレスに送信してくださいませ。
wamezo.event●gmail.com

(●を@に変えて送信してください)

■会場 旧高田小学校1階 ランチルーム
東京都豊島区雑司ヶ谷2-12-1
鬼子母神通り・赤いテントの文房具店「隆文堂」曲がり直進すぐ
<地図>http://j.mp/aPOzN5

荻原魚雷(おぎはら・ぎょらい)
1969年三重生まれ。ライター。明治大学文学部中退。在学中から雑誌の編集、書評やエッセイを執筆。『sumus』同人。著書に『古本暮らし』(晶文社)、『活字と自活』(本の雑誌社)など。

空想書店 書肆紅屋(くうそうしょてん しょしべにや)
本名非公開。同名ブログ主宰。書店、取次、編集、営業などありとあらゆる本の仕事を経験している。著書に『書肆紅屋の本』(論創社)。

2010/09/06

そういう日もある

 いいことかどうかはわからないが、調子がよくないときや気分が沈みがちなとき、「まあ、そういう日もある」とおもうことにしている。

 二日酔いでつらくても、ずっとこの状態が続くわけではない。時が過ぎるにまかせるしかない。

 昨晩、あまりにもしんどくて道の途中でうずくまる。たぶん、貧血。電車なら片道二百十円の区間をタクシーに乗って帰る。深夜割増料金で三千円。

「早稲田通りから環七で曲がって高円寺駅のほうに行ってください」

 そういうと寝ているあいだに家の近くまで運んでくれる。年に数回しかつかえない呪文である。

 月に何日か、捨て試合の日を作る。その日は何もしない、できなくてもいい。ひたすらだらけ、ゴロゴロする。何もしないといっても、部屋の換気と洗濯くらいはする。夕方、ようやくからだが軽くなる。

 近所の焼鳥屋でレバーとハツを三本ずつ買い、ひとりで食う。これでどうにかなるのではないか。

 二十代のはじめ、仕事の調べもので図書館に行ったとき、古山高麗雄の短篇が掲載されている文芸誌を読んだ。

《寝たり起きたりしている、と言うと、病人のようだが、私はこの部屋でもう十数年来、寝ては起き、起きては寝たりしている。(中略)けれども私は、ここは独房で、自分は独房に幽閉されている囚人で、毎日々々、寝ては起き、起きては寝て、ボケッと過ごしているだけの者のように思われる》(「日常」/古山高麗雄著『二十三の戦争短編小説』文春文庫他)

 なぜこの部屋でだらだら過ごす小説に胸を打たれたのか。当時はよくわからなかった。この小説がきっかけで古山高麗雄の作品をすべて読みたいとおもうようになった。

《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》

 ゴロゴロと寝てばかりいる「日常」にも言葉があり、それが文学になる。これといった盛り上がりのない小説にわたしは救われたのである。自分の書いているものが、地味とかつまらないとか内容がないといわれても気にしないことにした。

2010/09/01

古本のことしか

 今週末の池袋往来座の外市に出品する本の値付をする。
 外市のCMを見たオグラさんの感想。
「まさか二番がつかわれるとはおもわなかった」

 メインゲストは徒然舎(岐阜・オンライン)と五っ葉文庫(愛知・犬山)。

詳細は、http://d.hatena.ne.jp/wamezo/20100810

また「ワメトーク Vol.7」(みちくさ市と同時開催)で、書肆紅屋さんと対談することになりました。
・「ぼくたちが見てきた『本のお仕事』」
荻原魚雷×空想書店 書肆紅屋

紅屋さんは、新刊書店、本の流通、出版社で営業や編集をしてきて、しかも大の古本好き。ほんとうに様々な角度から本の世界を語れる人です。
これまでの話だけでなく、これから本の世界がどうなるかといったことも聞き出せたらとおもっています。

■日時
2010年9月19日(日)
13:00〜14:30(開場12:30)
※同時開催のみちくさ市が順延になってもこの日に開催します。

■募集人数 30名 入場料500円
募集開始日 9月6日(月)19:00〜
※お名前、人数(別々に御来場の場合は全員のお名前をご記入ください)、電話番号(携帯だと助かります)をご記入の上、下記メールアドレスに送信してくださいませ。
wamezo.event●gmail.com
(●を@に変えて送信してください)

 山本善行著『古本のことしか頭になかった』(大散歩通信社)が届く。
『エルマガジン』連載の古本エッセイ「天声善語」を再編集したもの。

《私の場合、生活が本中心になってしまっているので、何か書くとなると、どうしても本のことになる。ほぼ毎日、本屋さんをのぞき、平均二、三冊は買ってしまうので、家の中は本だらけ。考えることもほとんど古本のことだ》

 予備知識もないまま、なんとなく、おもしろそうだなとおもって買った古本を後で調べると、山本さんの本やブログに出てくることが多い。ああ、やっぱり、とおもう。
 ここのところ、低迷中だった古本熱が再燃する。八月はちょっと怠けたが、たぶん、今月から古本を買いまくる生活に戻ることになりそう。
 ゆっくり読むつもりだったが、結局、最後まで読んでしまった。

2010/08/30

別の運命

 四十歳になって読書時間が減った。本を読まなくなった分、酒を飲んでいる。ぼんやりものを考える時間が増えた。三十代のころに本ばかり読んでいたのは、あまりにもひまでその隙間を埋める作業のようなところがあった。本をたくさん読むことが目的化していた。

 昔は今よりも情報に飢えていた。情報に飢えている人を相手に雑誌を作ったり、文章を書いたりしていた。
 本をどんどん読んでいくうちに、だんだん情報よりも、情緒に働きかけてくるような文章が好きになった。
 地味だけど、読んでいて飽きない、飽きないけど、読み返すたびにはっとさせられる作品を好むようになった。

 仕事のあいま、古山高麗雄の『袖すりあうも』(小沢書店、一九九三年刊)を読み返す。

《老いて青春の心を失わず、などと言う。気持はいつまでも若い、とか、永遠の青年、だとか、そういう言葉も耳にする。心だとか気持だとかというものは、もともと線の引きようや限定のしようのない得体の知れぬものであるが、世間では何歳から何歳ぐらいまでを青春と言っているのだろうか》(「“非国民”時代の友人たち」)

 市ケ谷の城北高等補修学校時代、古山高麗雄は安岡章太郎、倉田博光と知り合った。いわゆる「悪い仲間」である。

 古山さんは二浪して京都の第三高等学校に入ったが、すぐ中退し、放蕩し、転落した。ようするに、世の中に順応できなくて、ぐれた。
 倉田博光もその影響を受け、“非国民”の道を歩むことになった。

《私は、倉田が、私と共に世間から落伍するのを、歓迎もし、いけないとも思った。そう思いながら私たちは、坂を転げ落ちる自分たちを止めることができなかった》

 もし倉田が自分と出あわなかったら、「別の運命のコース」に進んだのではないか。久留米から満洲に送られ、満洲から福山の部隊に移り、フィリピンで戦死するようなことはなかったのではないか。
 どれだけの時間、古山さんはそういったことを考えたのだろうか。

 幸い、今の人は軍隊に入らなくてもいいし、戦地に送られることもない。それでも若いころの交遊が、その後の人生にすくなくない影響を及ぼしあうことはよくある。
 大学時代、自分の周囲では授業を真面目に聞いたり、試験を受けたりするのが、かっこわるいという空気があった。わたしは大学中退し、友人たちも留年したり、就職しなかったり、どこかおかしなことになってしまった。
 自分にも友人にも「別の運命のコース」があったのではないか。今さらそんなことを考えてもどうにもならないのだが、過去だけでなく、今だって、そうした岐路にいるかもしれない。

2010/08/26

二つの宴会

 日曜日、ペリカン時代で『活字と自活』の出版記念の飲み会を開いてもらう。
 数日前に、あまりにもアバウトな段取りに気づき、古書現世の向井さんに「開始時間に来る人が誰もいないかもしれないから、来て」とお願いする。カウンター席が埋まったときは、ほっとした。

 代理人の方から下坂昇先生の版画もいただいた。
 今、本棚の前に飾っている。

 十年くらい前にペリカン時代の増岡さん、原さんと知りあい、中央線界隈のミュージシャンと知りあい、いろいろな飲み屋を教えてもらい、ものすごく濃密な時間をすごした。
 当時、朝から飲んでいた店もなくなったし、いっしょに飲んでいた友人もそれほど頻繁には会わなくなった。
『活字と自活』の中には、藤井豊さんの写真といっしょに、そのころ書こうとして書けなかった文章もけっこう入っている。

 翌々日、仙台へ。この日、三十五度の猛暑だった。東京から補充本を二十冊くらい持っていったので、汗だくになる。
 夕方、18きっぷで来た藤井さんが合流し、仙台の繁華街を散歩する。

 夜、book cafe 火星の庭で宴会。
 次々と酒と料理が出てきて、楽しく酔っぱらう。

 打たれ強くなるにはどうすればいいのかと質問され、うろおぼえなのだが、何をしてもよくいわれたり、わるくいわれたりするし、それは避けようとおもっても避けられないことだから、自分がいいとおもうことをやり続けるしかないというようなことを話した。

 といいつつ、打たれ強くなればなったで、無神経だ、鈍感だ、といわれたりするわけで、打たれ弱い人は、むしろ弱さを武器にする方法を考えたほうがいいのではないかともおもった(もちろん簡単ではないけど)。

 前野家にはお世話になりっぱなし。藤井さんも仙台を気にいり、次の日、塩竈と松島に行ったらしい。

2010/08/23

西荻窪と高円寺

 土曜日、高円寺あづま通りの古本縁日後、西荻窪のなずな屋へ。
 この日、リニューアルオープン。マッチラベルなど、紙ものが増え、店内には澄子さんのシルクスクリーンのポスターも展示していた。
 そのあとなずな屋のすぐ近所の新刊書店、颯爽堂に寄る。深夜営業で、いろいろな人からいい店だと聞いていたのだが、ゆっくり本を見ることができて居心地がいい。
 西荻窪駅南口のSAWYER CAFEへ。五月末にオープンしたばかりの店。久住昌之さんの切り絵展を見る。飲んでいるあいだに、絵がどんどん増えていくのが面白かった。

 再び、高円寺に戻り、藤井豊さんの写真展「上京高円寺」開催中のペリカン時代へ。
 一階の入口から階段の壁面にも写真が飾られている。レイアウトは中嶋大介さんとわたしも手伝った。
 今はない高円寺北口の庚申通りのドトール(現在はおかしのまちおか)が写った一枚があって、それに反応するお客さんが多い。
 昔、わたしが住んでいたアパート、朝五時から営業していたいこい食堂、ネブラスカ、馬橋公園、様変わりする前の高円寺駅前……。

 今回展示してある写真の何枚かは、わたしのその現場にいた。そのときの藤井さんの反応がおもしろかった。「え? 今、撮るの?」「なんで、それ、撮るの?」と何度おもったことか。
 ところが、十年後にその写真を見ると、かすかにしか記憶に残っていない時間が写っている。

 二十代後半、社会人になった友人と疎遠になったり、文章書いたり音楽やったりしていた友人たちも田舎に帰ったりして、「この先どうなるのかなあ」と不安におもっていたときに、ペリカン時代の増岡さんと原さん、手回しオルガンのオグラさんたちと知りあい、毎日のように公園で飲んだり家で飲んだりするようになった。

 あまりにも楽しすぎて、仕事どころではなかった。

 藤井さんが岡山から上京してきたのもそういう時期だった。

2010/08/16

上京高円寺と縁台古本市

・高円寺屋根裏酒場「ペリカン時代」で藤井豊写真展『上京高円寺』を開催します。現在、岡山在住の藤井さんが高円寺にいた二〇〇〇年前後に撮った写真を大公開。けっこう大きな写真もあるので、銀塩ならではの粒子感も堪能できるのではないかとおもいます。
 拙著『活字と自活』(本の雑誌社)所収の写真も展示される予定です。

8月20日(金)〜8月26日(木)
営業時間 夕方5時〜深夜1時頃
(※日曜定休日)

「ペリカン時代」
★JR高円寺駅「南口」に出て、線路脇の道を阿佐ヶ谷方面へ約3分直進。
中華「味楽」の隣、道沿い左手の建物の2階です。(1階はスナック「みやび」と定食「団らん」)

詳しくは「ライター原めぐみのブログ」にて http://ameblo.jp/masume55/

・高円寺あづま通り 弁天さまのご縁日
縁台ふるほん市
8月21日(土)
午後3時から午後6時まで

高円寺あづま通りの商店街が古本ストリートに。あちらこちらに縁台並べて、本も並べて、お待ちしています。

参加メンバー(まだまだ追加予定!)
*サンダル文庫=Paradis(パラディ)
*茶房 高円寺書林
*えほんやるすばんばんするかいしゃ
*コクテイル書房
*杉並北尾堂(北尾トロ)

※文壇高円寺古書部も参加することになりました!

弁天さまのご縁日
詳しくはこちら
高円寺あづま通り商店会 http://www.koenji-azuma.com/

2010/08/14

京都・倉敷

 八月十日(火)、午後の新幹線で京都。恵文社一乗寺店で京都新聞の記者と待ち合わせ、すぐ近所のつばめという店で取材を受ける。
 そのあと下鴨神社そばのユーゲで『活字と自活』の出版記念会(?)というか、ゆるい飲み会。扉野良人さんに『活字と自活の過日』というカラーコピーの小冊子まで作ってもらった。

 二〇〇〇年に岡崎武志さんの紹介で『sumus』の同人になり、以来、京都にしょっちゅう行くようになった。

 辻潤が縁で知りあった扉野さんとも京都で再会した。
 ひさしぶりに会って、わたしは尾崎一雄、扉野さんは川崎長太郎を愛読していることがわかり、私小説話で盛り上がった。
 小冊子には、高円寺の飲み屋で終電をなくし、学生時代の扉野さん(当時は本名だった)がわたしの下宿に泊ったときのことが記されていた。
 その日の記憶がないとあったが、たしか尾形亀之助の話をした……ような気がする。京都に帰る直前くらいだったせいか、まだ東京にちょっと未練があるようなかんじだったことをおぼえている。

 会には、岡山からカメラマンの藤井豊さん、東京からは神田伯剌西爾の竹内さんもかけつけてくれた。
 薄花葉っぱの即興ライブもあった。楽しい時間だった。
 藤井さんと扉野家に泊る。深夜、いっしょに銭湯に行って、帰り道、軽トラックを改造したあやしいラーメンの屋台を見つけ、道端でラーメンを食べた。

 翌日、下鴨の古本まつり。いろいろ収穫あり。そのあと藤井さんとレンタサイクルを借りて、出町柳散策。ガケ書房と古書善行堂に寄る。善行堂、本が増えている。ビックリ。ものすごく珍しい写真集を見せてもらう。

 自転車を返して岡山へ。わたしは京阪から阪急に乗り換え、私鉄で神戸に寄りたい。藤井さんは青春18きっぷで岡山に行きたい。京阪の四条で別行動、倉敷の蟲文庫で待ち合わせすることにする。
 三ノ宮のから元町のガード下を通って、喫茶店で休憩して海文堂書店に寄る。

 倉敷の蟲文庫に着くと、武藤ボエー画伯、日焼けサンダル王子、ネギっちょが宴会中。しばらくして藤井さんが合流。「曇天画」開催中のせいか、曇りのち雨。
 飲みながら、しきりに「倉敷にいる気がしない」とぼやきあう。
 そのあと蟲さんの家で合宿。ひとりでひじき一皿食ってしまう。

 翌日、駅前のラーメンからうな丼までやたらメニューの幅が広い居酒屋で昼酒を飲む。
 倉敷駅の改札前で万歳見送りをされ、郷里の三重へ。

2010/08/10

限度の自覚 その七

 際限なく「限度」をひろげていこうとすれば、いつかは破綻する。あらゆることを犠牲にし、自分の好きなことだけにのめりこめるような人は、そもそもどこかおかしい……のではないか。

 自分はそういう人間ではないとあるとき気づいてしまった。
 今はぱっとしなくても、いろいろな課題をひとつずつクリアーしていけば、どうにかプロのライターとして食っていけるようになるのではないか。
 なんとなく、文章の職人みたいなものになりたいとおもうようになった。
 九〇年代半ばに雑誌の廃刊があいついだのは、かけだしの身にはつらかった。あっという間に仕事がなくなった。

 ひまになったから、どこまでだらだらできるか、その限度を試してみた。怠けていただけ、といってもいい。自堕落方向の「限度」がひろがるにつれ(それはそれでそれなりの快楽があるのです)、さらに「野心」は衰える。

 わたしの「無謀な野心」は空回りしながらどんどんしぼんでいった。しぼんだ野心をもういちどふくらませるのはむずかしい。

《僕等のような凡人の抱く理想は多くの場合その実生活の要求を殺し切る強さはない。芸術や宗教に職業として携わる人々も正直のところ出世もしたいし金もほしいというのが大部分である》(「幸福について Ⅱ」/中村光夫著『青春と女性』)

 こうした理想を中村光夫は「世俗の野心」という。
 わたしにも「世俗の野心」がある。
 すこしは金がないと仕事を続けられない。すこしは偉くならないとずっと不本意な扱いが続き、おもうような仕事ができない。
 しかし「世俗の野心」を充たすための努力も楽ではない。だから、斜に構えて、初手から投げてしまっていたところもある。

 ほんとうは「無謀な野心」をもって、ジタバタしながら、自分の「限度」いっぱいまで突っ走ってみたかった。でもそれができなかったのは、自分の「限度」だったともおもう。

(……しばらく休みます)

2010/08/07

限度の自覚 その六

「あれもしたい、これもしたいとおもっていたのに、時間が経つうちに、これしかできないになってくる」と書いたが、これもまた「限度の自覚」といえるかもしれない。
「これしかできない」になったときに、悩みがなくなるといえば、なくならない。ただ、すこし悩み方が変わる。
 これしかできない自分はどうすればいいのか。それがわからない。たぶん万人共通の答えはない。だからそのつど自分だけの答えを作るしかなくなってくる。

「無謀な野心」と「限度の自覚」の調和点について考えるつもりだったのだが、どんどん話がズレていく。おそらく「無謀な野心」と「限度の自覚」は対立概念ではない。

 中村光夫の「限度の自覚」という言葉は、カミュの「すぐれた芸術作品は、作者の限界の自覚から生まれる」という言葉を意識したものだ。その言葉を受け、中村光夫は「こういう幸運は誰にも恵まれるわけには行かない」とも述べている。

 ひとつのことに打ち込んで、ギリギリまで自分を追い込んだ結果、自分の限界を知る。しかし環境や許さなかったり、時間がなかったりして、そういう経験はなかなか積めるものではない。
 限界に挑むには何より体力がいる。

 二十代のころは、数メートル単位で限度がひろがっていくかんじだったのだが、三十代になると、数センチ単位、四十代になると、数ミリ単位といったかんじになってくる(当社比)。
 気持にからだがついていかない。その逆もある。限度が見える。見て見ぬふりをしても、ごまかせなくなる。こんなことは誰にでもある、珍しいことではない。今おもうと四十歳のちょっと手前くらい、思春期とはちがった形の不安定な気持になることが増えた。

 そんなときに中村光夫を読んで救われた気がした。自分と同じだ、とおもう症状がいっぱい出てくるのだ。新しい小説がわからなくなったり、歴史に興味が出てきたり、これまでの半生をやたらふりかえるようになったり……。
 その症状をすべて肯定するわけではないが、あるていど受け容れて、そのときどきの自分にできることを探すしかない。そんなふうにおもえるようになった。

 同時に「無謀の野心」は持ち続けたほうがいいともおもう。しかし「無謀」を「無謀」とわかるようになると、もはやそれは「無謀」ではない。

(……まだ続く)

2010/08/05

雑誌の曲り角

 出版不況というのは、若者にお金がまわらないことが問題なのかもしれない。若者にお金がないから、中高年を対象にした本や雑誌が増える。金儲けと健康に関する企画ばかりになる。だから編集者になりたい、ライターになりたいとおもう人がどんどんいなくなる。

 かつての雑誌は情報格差に依存していたところもある。
 大半の読者は、海外の流行を知らない。だったら最先端のアメリカやヨーロッパの文化を紹介しよう。
 中・高生のころ、わたしがラジオの洋楽番組を聞いたり、音楽雑誌を読んだりしたのも、田舎にいて情報に飢えていたからだ。知らず知らずのうちに、いつかは自分も情報を送る側の仕事がしたいとおもうようになった。

 今だって情報の飢えはあるだろう。でもその飢えは、かつてのそれとはちがってきている。インターネットで検索すれば、ただ同然で、昔、中古レコード屋で血眼になって探していたミュージシャンのライブ映像を見ることもできる。

 二十代のころ、エロ雑誌の仕事をしていたことがある。そこでは何を書いてもいいという雰囲気があった。雑誌を買う人は、グラビア目当てだから、中の文章なんかどうでもよかったのだ。すくなくとも、雑誌の売り上げには貢献しない。
 ストリップの合間の漫才みたいなものといえば、わかりやすいだろうか。

 グラビア目当ての雑誌に文章を書く。おもしろいものを書けば、次の仕事につながる。最初は無署名だけど、運がよければ、そのうち署名の原稿が書けるようになる。署名の原稿が書けるようになると、他の雑誌でも仕事がしやすくなる。

 フリーライターの仕事は「仕事があるうちに次の仕事を探せ」という鉄則がある。
 では、最初の一歩はどうするのか。今も昔も、新規参入がむずかしい。
 雑誌の創刊ラッシュのときは、人手が足りないから、実績がまったくない素人でももぐりこむ隙間がいくらでもある。わたしもそうやってこの世界にもぐりこんだ。新刊書店で雑誌を立ち読みしていると「スタッフ募集」みたいな告知が出ている。同じ人が何本も原稿を書いている雑誌、若い書き手の原稿がたくさん載っている雑誌、ふざけたペンネームの書き手が多い雑誌が狙い目である。

 それで運よく、編集部に呼ばれて、仕事にありついても、食っていける保証はどこにもない。
「三号雑誌」という言葉があるように、創刊から三号で潰れてしまう雑誌も多い。雑誌ではなく、出版社が潰れてしまえば、原稿料を貰えないこともある。

 そうなれば、いきなり窮地である。

 長くフリーで仕事をしている人は、何度もそういう目にあっているとおもう。わたしも金に困るたびに、あのときの未払いの原稿料があれば、とおもいだす。
 親が金持で、自宅住まいで家賃と食費を考えずにすむような境遇だったら、とおもうこともある。
 でも三十歳すぎて、収入がほとんどないような状態で親と同居というのは、それはそれでプレッシャーがあるだろう。自分の生活費分はアルバイトで稼いでいたとしても、何かと文句をいわれるにちがいない。

 夢とか憧れとか、そういうのがないとやっていけない仕事にもかかわらず、不況になって、どんどんそういうものが削ぎ落ちてきている。
 そして雑誌の「雑」にあたるようなものも求められなくなってきている。
 誰それの連載を目当てに雑誌を買うのではなく、連載の単行本化を待つ。漫画はすでにその傾向があるが、文章だってそうかもしれない。

 たまたま自分の好きな作家が連載しているから買って、それで知らない作家の文章を読んで、「こんな人いたんだ」というようなことが、雑誌のおもしろさにはあるとおもうのだが、検索でピンポイントで目的地に行き着くことに慣れてしまうと、お金を払ってまで自分で探すのは面倒くさくなる。

 知らないことを知りたいとおもう。その知ることが簡単になっている。
 わたしが古本屋で古雑誌や雑本を探すのは、そこに意外性があるからだ。それこそが雑の魅力だ。
 不便で面倒くさいおもしろさを啓蒙する。
 今、そういうことが雑誌作りに求められている気がする。

2010/08/04

イケブックロ

 ノートパソコンの上に保冷剤を置きながら仕事する。

 夕方、散歩。気温に慣れる修業のつもり。都丸均一のち北口あずま通り古本屋(新店舗が!)のちOKストアに行く。

 その新店舗で森銑三著『古い雜誌から』(文藝春秋新社)を買う。短い随筆ばかりで息抜きの読書にもってこい。
 寿司に関する話で「お上品ぶるといふことは根本を忘れるから起ることだ」という一文があった。
 東京に来て驚いたことのひとつは、寿司屋の人がエラそうなことだった(もちろんそうじゃない人もいっぱいる)。

 わたしの感覚だと、漁師のほうが寿司職人よりエラくなければおかしい。どう考えても、そっちのほうがたいへんな仕事だとおもう。

 そのあと北口庚申通りの高円寺文庫センターに行く。新刊本と古本の店(というか大半が古本)としてリニューアルしていた。入口は百円均一。店内の棚はまだ埋まっていない。かすかに動揺する。近所に新しい古本屋ができたらうれしいはずなのだが、それとこれとは話がちがう。同じはずがない。

 高円寺文庫センターは(かつて)中央線を代表するサブカル系の書店だった。

 ひょっとしたら今の日本の若者はもう新刊本を買う余裕がなくなりつつあるのではないか。月の手取りが十数万円で、家賃と食費と光熱費と携帯電話代を払ったら、ほとんどお金が残らないという生活をしていて、実用性のないサブカル漫画を買う余裕がどこにあるんですか、月に一回、インターネットカフェの三時間パックで漫画を十冊読むのがいちばんの贅沢ですよ、みたいなことになっているのではないか。

 そういう現実もあるとおもうのです。あくまでも想像ですが。

 とまあ、ぼやいたあとになんですが、告知を。


■イケブックロ〜わめぞの古本・雑貨市

池袋駅の近くで古本1万冊! 池袋に本の文化が根付きますように、街の中に本がいつでもありますようにという思いをこめてイケ「ブック」ロ。真夏の池袋に3日間だけ「本のオアシス」が出現します。(財)としま未来文化財団さんとの共催企画です。

■会期
2010年8月6日(金)〜8日(日)
10:00〜20:00(最終日17時まで)

■会場
豊島区民センター1階 総合展示場
豊島区東池袋1−20−10
http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/

……それから中野ブロードウェイのタコシェに『活字と自活』のサイン本あります。お近くの方はぜひ。

2010/08/02

限度の自覚 その五

 どんな人間にも「限度」がある。いちばんわかりやすい「限度」は「時間」だろう。
 青年が中年になるにつれ、一生かかってもできそうにないことが見えてくる。
 もっと時間があれば、とおもうのだが、人間に与えられている時間は無限ではない。フリーライターの仕事でいえば、しめきりがある。

「無謀な野心」は、時間の壁に阻まれる。時間の壁を意識してはじめて諦めもふくめた自分の限度を知る。お金もそうだ。ただ、あればいいというものではない。食うに困らないくらい十分な金があったら、わたしは怠けるだけ怠けてしまうだろう。

 どんな仕事でも十年くらい続けていると、なんとなく、自分の限度みたいなものが見えてくる。その限度が見えてくるにつれ、「無謀な野心」が失われてくる。あれもしたい、これもしたいとおもっていたのに、時間が経つうちに、これしかできないになってくる。
 自分の限度だけでなく、まわりの状況も見えてくる。不景気だし、出版の世界の展望はけっして明るいものではない。とくにフリーは……。愚痴はよそう。

 はじめのうちは、早くたくさん書く技術を身につけると、それなりに役に立つが、時間に限りがあるように、書ける枚数にも限りがある。何を書くかではなく、何枚書くかで、収入が決まる。量よりも質なんてことをいっていると収入が減る。しかも量と比べて、質の評価は曖昧だから、どんなに時間をかけて、丁寧に書いても、つまらないといわれたら、それまでだ。

 三十歳前後、量で勝負する世界で限度が見え、質の世界で勝負する困難さが見え、八方塞がりの状態にいることを自覚した。

 おそらく「無謀な野心」も現実にたいする「無知」と関係している。
 自分の能力にたいする錯覚が「無謀な野心」を生む。時に、それが無理だとおもわれることを可能にする。すくなくとも人を前進させる力にはなる。自分では気づかないままやっていて、後からふりかえって、わかることもある。

 しかし、いつかは考えないと、先に進めない局面を迎える。先に進めなくなって、元の道に戻ったり、迂回路を探したり……この文章もそうだ。そのまったく大丈夫ではない状況をどうやって楽しむか。
 ある種の文学は、八方塞がりの、ぱっとしない、低迷期を乗りきる知恵の宝庫でもある。

(……まだ続く)

2010/08/01

限度の自覚 その四

 考えが行き詰まってきたので、中村光夫の『青春と女性』(レグルス文庫)を読むことにする。
 すると、こんな文章に出くわした。

《人々は普通青年は人生を知らぬという。だがこういうとき彼等は人生とはまさしく人生を知らぬ人間によって築かれるという大きな事実を忘れている。彼等は結婚するとき、果して結婚生活とは何かを知っているであろうか。まためいめいの職業を選んだとき、彼等は果してその職業が実地にどのようなものか知っていたであろうか》(青春について)

 知らないうちに何かを選択したり、決断したりする。青年といわれるような年齢のときは、当り前のようにそうしてきた。
 仕事の選ぶのも恋人を選ぶのもたいてい曖昧だ。どんなに突き詰めても、結局、なんとなく、好みに合っていたといった程度の理由しか出てこない。いや、これはわたしのこと。

 では「限度の自覚」とは「人生を知る」ことなのか。

 前述の文章のあと、次のような言葉が続く。

《青春とは僕等が人生の未知に対して大きな決断を下すべきときであり、その決断がやがて僕等の生涯を支配するものだからである》

 若いころの決断に多少は抗ったとしても、なかなか大きな変更はきかない。(うっかり)決断してしまった人生にたいし、どんどん時間を注ぎ込む。その時間が長くなれば長くなるほど、引き返しにくくなる。
 未知だった人生は、やがて既知もしくは半知半解くらいになる。何かを習得するための時間や手間にしても、まったく予想のつかないものではなくなる。
 毎日が同じことのくりかえしのようにおもえてくる。そのくりかえしにたいする免疫のようなものもできてくる。

「無謀な野心」と「覚悟の自覚」の調和点というのは、ひたむきさを持ちつつ、地道なくりかえしにたいする忍耐を身につけた状態といえるかもしれない。ひたむきさ、と同時に、地道さ、いいかえると、マンネリとおもえることに耐える力がないともの作りは持続しない。

 その状態は、意識して作ることができるものなのか。それとも自分では気づかないうちにすぎさってしまうものなのか。

(……まだ続く)

2010/07/27

山田風太郎エッセイ集成

 ここ数日、午前四時前後に集中力が切れる。
 空腹のせいか夏バテのせいかその両方か。
 自分がどんどんだめになっていくような気がする。
 腹が減ると怒りっぽくなる人もいるが、わたしは不安になることが多い。気持を鎮めようと、ひやむぎをゆで、肉と野菜をいっぱいいれたにゅうめんを作る。
 食い終わった途端、ウソみたいに気分が晴れる。杉山平一の「人生は空しい、と思って、ふと気がついてみると、お腹が減っていたということがある」(『低く翔べ』リクルート出版)という言葉に今日も感謝する。

『ちくま』八月号で山田風太郎エッセイ集成の五冊目『人間万事嘘ばっかり』(日下三蔵編)が刊行されたことを知った。これで完結。それにしても、こんなに単行本未収録のエッセイがあったとは……。それをまとめた編者には頭が下がる。感謝してもしきれない。

《よく若い人から職業の選択についてきかれ、そんなとき人生ただ一度、出来るなら好きなことをやれと答えることにしているが、経済の問題もあるからみんながそういうわけにもゆくまい》(職業の選択)

《そうだれもかれもが人迷惑をかまわず、やりたいことをやったら世の中はメチャクチャになるではないかといわれそうだが、なに、大丈夫だ。そう思うだけで、何もやれない人間がこの世の九十九%だからである》(新年の大決心)

《それは逆境の中にあって、私が「したくないことはしない」というやり方で通してきたことだ。
 一見傲慢なようだが、反対だ。「やりたいことをやる」という人々のまねはとうていできないから、「せめてやりたくないことはやらない」という最低の防衛線を考えたにすぎない》(したくないことはしない)

 山田風太郎のエッセイを何度も読みたくなるのは、こういう考えにふれたいからだ。
 やりたいことができるようになるまでの道のりはたいへんだ。そのためにはしたくなくてもやらざるをえないこともある。
 わたしはそれを自分で決めたい。

……最低の防衛線。いい言葉をおぼえた。
 ちなみに明日七月二十八日は山田風太郎の命日である。

2010/07/24

文壇高円寺古書部フェア

 仙台のbook cafe 火星の庭で「活字と自活」出版記念——文壇高円寺古書部フェア(七月二十二日〜八月二十四日)を開催中。

・book cafe 火星の庭  〒980-0014 仙台市青葉区本町1-14-30 ラポール錦町1F

・営業時間:11時〜20時 (日・祝日は19時まで) 定休日/毎週火曜・水曜 

 二〇〇八年七月に「古本の森文学採集」という企画のさい、古本を販売させてもらうようになって早二年。以来、仙台に頻繁に通っている。東京から新幹線だと一時間半。駅をおりた途端、ふと疲れがとれる気がする。からだが軽くなる。なぜかよく眠れる。最初は気候が合っているのかとおもったが、たぶん、それだけではない。

 ふだん不必要に緊張して生きているのだろう。ただ道を歩いているだけでも、人とぶつからないように気をつける。距離をとる。人の流れに自分を合わせる。無意識のうちにそうしている。それほど人口が過密ではないところに行けば楽かといえば、今度は、生活環境がちがいすぎて、別の緊張が生じる。

 仙台は都会だが、東京ほどの過密さがなく、のんびりしている。歩道(並木もきれいだ)が広い。飲み屋がいっぱいあって、食べ物もうまい。ほんとうにいいところだとおもった。というわけで、文壇高円寺古書部フェアの最終日に合わせて仙台に行きます。期間中、補充もどんどん送ります。よろしくおねがいします。

2010/07/23

ちょっと休憩

 子供のころ、毎年夏は海のそばですごした。
 速く泳ぐ方法と長く泳ぐ方法はちがう。昔、浜島育ちのオジに、遠泳のコツは、力を抜いて、楽に泳ぐことだと教わった。
 あと息継ぎは規則正しく一定のリズムで、とも。

 力を抜くことがむずかしかった。力を抜くとすぐ沈んでしまう。でも、いつの間にか、不格好ながら、そこそこ長く泳ぐことができるようになった(速く泳げるようにはならなかった)。

 ある日、突然、何かコツをつかむ。それまではどんなに考えてもできなかったことが、何も考えずにできるようになる。
 もちろん、いつまで経っても、できないことはいろいろある。
 できる、できないを分ける境目みたいなものは何なのかということが気になる。

 力を抜いてばかりいると、やる気がないとおもわれる。力を抜かないと、やる気が続かない。

 行き詰まるたびに力を抜く。だからふんばりがきかない。
 たぶん力を抜く以外にも、いろいろなコツがあるのだろう。

 溺れないことばかり考えていると、そもそも泳がなければいいという気持になってくる。

 脱力もむずかしいとおもう。 

2010/07/22

限度の自覚 その三

 考えがとっちらかっている。「芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません」という中村光夫の言葉をもういちど考えてみる。
 三十歳か、そのちょっと前あたりから、いい気になっていられる時間がだんだん減ってきた。
 かならずしも自分が正しいとは限らない。謙虚であることも大切だ。しかし気がねばかりしていると何もいえなくなる。

 中村光夫のいう「無謀な野心」と「限度の自覚」は、芸術の仕事にかぎらず、何か新しいことに挑戦するときにぶつかる問題かもしれない。自分の力を計る能力が発達しすぎると、ひたむきさが失われてしまう。ほんとうは未知数な状態なのに早い段階で限度を自覚してしまうのはもったいない。
 なぜ「無謀な野心」を持つのか。錯覚か。勘違いか。「無謀な野心」は自分の伸びしろを信じる気持もふくまれている。
 今はうまくできないかもしれないけど、きっとできるようになるという根拠のない確信……そういう確信はすごく大事だ。でも大人になるにつれ、そういう確信をもちにくくなる。

 たとえば、店をはじめる。何年も修業し、十分貯金をして、万全な状態でスタートを切れるにこしたことはない。
 自分が好きな店、あるいは好きな店主はそうした計画性があまりない人のほうが多い。
 見切り発車。いきなりピンチの連続。その結果、修羅場をくぐり、しなくてもいい苦労をいっぱいして、あっという間にいろいろなことを学ぶ。

 もちろん、水泳初心者がいきなりドーバー海峡を横断に挑戦しようとすればまわりは止めるだろう。今の自分がどのくらい泳げるのか。もっと泳げるようになるためには何が足りないのか。溺れないためにはどうすればいいのか。そうした試行錯誤をしているうちに「限度の自覚」につきあたる。
 あるとき自分は速く泳げないことに気づく。だったら好きなところを好きなように泳げばいいんだと開き直る。

「無謀な野心」と「覚悟の自覚」の調和点というのはそういう状態なのかもしれない。

(……まだ続く)

2010/07/19

限度の自覚 その二

 中村光夫の回想記を読んで、「考えなければならないこと、あるいは考えすぎてはいけないこと」があると書いた。

 十代、二十代で熟練作家の佳品をいろいろ読んでいるうちに、自分は書けないとおもったり、自分のやっていることが無意味におもえたりしてしまうことがある。

 今は昔よりも情報量が増えて、あっという間に検索でわかる。便利な反面、どんなにマイナーなジャンルであっても、上には上がいることもすぐわかってしまう。

 中村光夫の場合でいえば、同時代に小林秀雄がいた。フランスにいた中村光夫は小林秀雄に長い手紙を書いた。
 何をどう書いていいかわからなくなったときに、尊敬する先輩に手紙を出すような気持で文章を書けばいいのではないかと気づく。その結果、あの「です調」の文体になった。

 誰に向けて書くか。別に特定の個人でなくてもいい。漠然とでもいいから、伝えたいという気持がないと言葉が冷めてしまうような気がする。

 話はズレるが、わたしが二十代のころは「若者を啓蒙しなければいかん」という使命感をもった編集者がけっこういた。
 いつの間にか、そういう考え方は時代遅れといわれるようになった。とにかく売れるものを作らないといけない。

 理想がなくなると、退廃をまねく。
 退廃すると、戦わなくなる。
 何をいっても無駄。仕事は仕事と割りきる。おかしいなとおもうことがあっても、文句ばっかりいってると干される。そうこういっているうちにだんだん無気力になる。

 不毛な戦いをするひまがあったら、自分の好きなことをやったほうがいいのではないかとおもったことがある。
 趣味や生活をないがしろにすると、それはそれで退廃するとおもうからだ。

 昭和十八年、日本の戦況が悪化するにつれ、日常生活がだんだん乏しく、不潔で、不便になっていった。
 中村光夫は、そうした生活にだんだん馴らされ、むしろ当り前のようにおもうようになったという。

《そのくせ一杯の酒、一碗の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体がどことなく囚人の集団に似てきました》(窮乏のなかで/『憂しと見し世』)

 戦時中ほどの窮乏ではなくても、先が見えず、まったく成長の感覚が味わえない仕事をしていると、「芯から働く力」がなくなってくる。

 今、そういう職場、増えているのではないか。
 でもそこから抜け出したところで、そう簡単には食っていけない。

(……続く)

2010/07/17

限度の自覚 その一

 ふと中村光夫、来年、生誕百年だということに気づく。一九一一年二月五日生まれ。
 この何年か、中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』、『文学回想 憂しと見し世』(いずれも中公文庫)をくりかえし読んでいる。
 たんなる趣味や教養をこえた、大事なことが書いてあるような気がするのである。今の自分が考えなければならないこと、あるいは考えすぎてはいけないことが……。

 戦前戦中の文壇において、中村光夫は日本の戦争と関係ない文章を書いていた。当時のことをふりかえり、「芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません」という。

 そしてそのころの作品には、若くなければ書けない、ひたむきなものがあったと分析している。

《書きたいという欲求だけで、作品が出来るものではない以上、力の配分は、スポーツの試合におけると同様、芸術の制作に重要でしょう。
 しかし自分の力を計る能力が発達すると同時に、制作の野心が減退することも事実です。芸術家の幸福とは、無謀な野心の適宜な衰えと、限度の自覚による能力の充実とが、ちょうどある調和点に達したとき、決定的な制作の機会に恵まれることです》(「文学界」と「批評」/『文学回想 憂しと見し世』)

 目の前の仕事と将来の仕事、どちらも大事な仕事であり、手はぬけないが、時間には限りがある。
 自分を律し、無理のなく、破綻しない形で、文章を書こうとする。そうすると、ひたむきさを失う。
 いっぽう昔と比べて、今はいい気になったり、調子にのったりすることへの批判が、厳しくなっている。
 その結果、文学にしろ音楽にしろ、抑制のとれた隙のない作品のほうが評価されやすくなる。
 無謀な野心と限度の自覚。この両極に針をふりきることなく、行ったり来たりするのが理想なのかもしれない。

 わたしの場合、自分の力を省みず、勘違いとおもいこみとそれなりの情熱をもって、将来の進路を決断した。当然のように、壁にぶつかり、食うや食わずの時期を経て、だんだん高望みしなくなった。

 しかしそれだけではつまらない。
 自分の力以上のことに取組むことを避けてしまうようになるからだ。

 無謀な野心をもった大人と知り合うことは、ほんとうに大事だ。無謀な半生をすごしてきた人を見ると「これでいいんだ」「まだまだいける」とおもう。
 
 五日連続、ペリカン時代で飲む。

2010/07/12

活字と自活の話

 まもなく(七月十三日予定)、新刊『活字の自活』(本の雑誌社)が発売になります。
 表紙は山川直人さんに描いていただきました。古本屋と中古レコード屋と喫茶店のある町の絵。すごく気にいってます。

 昨日、西荻ブックマークで古書現世の向井透史さんとトークショー。

 三年前にメルマガの早稲田古本村通信で「高円寺だより」という連載をはじめたころ、向井さんから「今二十代くらいの若い人に向けた文章を書いてみては」というようなことをいわれた。
 ちょうど同じ時期に、無責任な立場ながら、わめぞの活動に参加させてもらうようになり、それまでどこにいっても若手だったのが、いつの間にか、自分が年輩組にいることに気づいた。
 仕事が長続きしない。人間関係がうまくいかない。生活に困っている。
 今の二十代で本に関する仕事をしている人の境遇は、わたしが二十代のころよりもはるかに厳しい。

 若い人といろいろ話をしているうちに、こうすればよかった、ああすればよかった、とおもったことがある。昔の自分にやれといっても、たぶん、できなかったことかもしれないけど、そういうことをいったり、書いたりしてもいいのではないかとすこしずつ気持が変化していった。
 そのきっかけになったのが、向井さんの一言だったのである。

『活字と自活』は、不安定な仕事をしながら趣味(読書)と生活(仕事)の両立する上での試行錯誤をつづったコラムとエッセイを集めた本といえるかもしれない。

 トークショーの最後のほうで、しどろもどろになりながら、今回の本で紹介している中井英夫の『続・黒鳥館戦後日記』のことを話した。
 西荻窪のアパートに下宿していた若き日の中井英夫は「僕に、どうにか小説を書ける丈の、最低の金を与へて下さい」と綴っている。
 この日記には次のような理想の生活を書いてある。
 お客がきたら米をごちそうし、一品料理でもてなしたい。新刊本屋、古本屋をまわって好きな本を買い集めたい。レコードがほしい。ウイスキーや果実酒を貯蔵したい。友達に親切にしたい。芝居や映画が見たい。
 自分の生活が苦しいときに、現実を忘れさせてくれるような壮大な物語を読みたいとおもうときもあるのだが、どちらかといえば、わたしは直視したくないような現実をつきつけられつつ、それでもどうにかなるとおもえるような本が好きだった。

 気がつくと、トークショーでは貧乏話ばかりしていた。

2010/07/06

ミケシュの謎

 金曜日、西部古書会館。初日の午前中に行く。

 気長に探すつもりだったジョージ・ミケシュの『これが英国ユーモアだ』(中村保男訳、TBSブリタニカ、一九八一年)があった。二百円。ミケシュの翻訳本で読みたかったものはこれでほぼ揃う。

 ミケシュの本にかぎらず、英米のコラムやエッセイは、ビジネス書や自己啓発書みたいなタイトルの本(例:ジョージ・マイクス著『不機嫌な人のための人生読本』ダイヤンモンド社)が多く、古本屋のどこの棚にあるのか見当をつけにくい。この見当がつかないまま本を探している時期が楽しいともいえる。未開拓の領域が広がっているかんじがすると、古本屋通いにも熱がはいる。もちろん未開拓であれば何でもいいというわけではなく、何かしらのフックがないといけない。

 日頃、ぼんやり考えていることが、こんがらがって、形にならないまま、自分の中に沈殿している。ところが、ある本を読んだ途端、沈殿していたものがかきまわされて、もういちど考えてみようという気になる。考えがこんがらがるのは、わたしの問題点の立て方がズレているからだろう。とくに正論と自分の思考との“ズレ幅”を把握できていないときに混乱しやすい。

 ジョージ・ミケシュはそうした世間と自分との“ズレ幅”をよくわかっている気がする。正論や常識からすれば、間違っているとおもわれる意見や主張でも、直せばつまらなくなるところは直さない。他人からすれば、欠点であっても、それがあるおかげでもの考えたり、文章を書いたりすることもある。ミケシュのエッセイやコラムは、理路整然とした文章から導き出せない結論に辿り着くことが多い。しかも結論付近でお茶をにごす芸(煙に巻く芸)が素晴らしい。

 ミケシュは、ユーモアには、よいものとよくないものと謎がふくまれているという。

《よいのは、ユーモアが面白いということで、悪いのは、ユーモアが攻撃的性格を帯びていること、謎なのは、いったい、私たちは何がおかしくて笑うのかということなのである》(「ユーモアとは何か」/『これが英国ユーモアだ』)

 ユーモアについて論じた一文だが、ミケシュの考え方は、善悪の分別よりも、答えが出ない謎に向かう。否、わざわざ謎を探しているといったほうがいいかもしれない。わたしが読みたいのは「いいかわるいか」という議論を混乱させる謎に充ちた本である。でもなかなかそういう本は見つからない。

2010/07/01

ふぉとん叢書

 三木卓著『雪の下の夢 わが文学的妄想録』(冬花社)を読んだ。今年二月に刊行されていたのだが、まったく気づかなかった。
「ふぉとん」という文芸誌に書いたものを中心にまとめたもので、わたしはその雑誌のことも知らなかった。
 この本のあとがきを読んでいたら、その文芸誌を「自分にもよくわかっていないことを考える場にしよう、と思った」と記してあった。

「現場をめぐって」「今の文学について」「批評について」といった文学エッセイもおさめられている。

 宮沢賢治は、没後、その作品が見出され、今なお読みつがれている。しかし同時代の文化にかかわることはできなかった。

《いうまでもなく、それは作家の責任ではない。作家は内心の声にしたがって書くよりない。精一杯仕事をしたとき、それが無人島に生まれついて、そこで一人で生きたのではないかぎり、必ず時代と社会にかかわるものとなるはずである。それに、どう現在の読者がプラグを接続することが出来るか》(現場をめぐって)

 この文章は、自分の中でくすぶり続けている不安定な気分をすこしだけ和らげてくれた。
 誰もおまえのことなんか知りたくない——そうおもう人が大多数であることを前提に文章を書いている。
 とはいえ、わたしが好んで読んでいるのは、いってもしょうがないようなことが書いてある本なのだが。

 わたしも「自分にもよくわかっていないこと」を考えようとおもいながら、文章を書くことが多い。小学校高学年くらいのころからそうしていた。書かないと考えることができない。
 癖であり、習慣であり、職業病である。

 仕事の場合、なるべく読みやすくしよう、できればおもしろくしたい、とおもいながら書くよう心がけている。
 その技術が身につけば、考える幅も広がるということはあるかもしれない。

 すこし前にペリカン時代に行ったら、カウンターの上に三木卓のエッセイ集と同じふぉとん叢書の東賢次郎著『レフトオーバー・スクラップ』という短篇集があった。昔、旅先で知り合った人が書いた本だと聞いた。飲みながら読んで、冒頭から引き込まれ、圧倒される。現実と非現実のまざり方が色川武大みたいだなともおもった。

 どうしてこんなにすごい作品がもっと話題になっていないのか不思議でしかたがない。

 元編集者で今は京都でミュージシャンをしているらしい。

2010/06/23

チョコレートウーマン

 手まわしオルガンミュージシャンのオグラさんの名曲「チョコレートウーマン」がYouTubeにアップされています。 http://www.youtube.com/watch?v=6dG4_xjsCPo  後ろに豆太郎も映ってますね。

(以下、メモがわり)

 仕事の合間、菅原克己著『詩の鉛筆手帖』(土曜美術社)を再読する。

《中村恭二郎氏は、雑司が谷の、樹木が鬱蒼と茂った大きな邸の一部に住んでいて、ぼくが行ったときには、風邪をひいているといって、ベッドに寝こんでいた。(中略)ぼくの詩を見て、たちまち、君は室生さんが好きだね、と見抜き、「だが最初に室生犀星の影響をうけるということは、たいへんいいことだ。君の詩はナイーブでいい。自分の生地のものをなくさないように勉強しなさい」と教師のようなことを云った》(「〈先生〉の思い出」)

 以来、菅原克己は中村恭二郎が自分の〈先生〉となった。中村恭二郎の詩集が読みたくなり、夜中、日本の古本屋で検索する。予想はしていたが、安くはない。でも気がついたら、注文ボタンを押していた。売っていた店が予備校時代によく通った名古屋の古本屋だったせいもある。

「自分の生地のものをなくさないように勉強しなさい」という〈先生〉の言葉に、菅原克己は勇気づけられたのではないか。「自分の生地」を大切にしなければならないのは、詩作にかぎったことではない。時として「自分の生地」はあまりいいものではない場合もある。それでもなくさないようにしないといけない……とおもう。

2010/06/20

仙台三十時間

 木曜日、雑司ケ谷のひぐらし文庫さんと午後発の新幹線で仙台に行く。午後三時すぎ着。松島観光をしていたわめぞの午前出発組とbook cafe 火星の庭で合流し、宿泊先のホテルへ。
(今回、わたしは仙台の予定も宿泊先もなにも知らずに家を出ている)

 夜、近藤商店でBook! Book! SENDAI!のスタッフと宴会。噂の犬山の五っ葉文庫さんに会う。
 そのあと会場のサンモール一番町商店街を見て、二日酔い防止の炭水化物補給のため、立石書店の岡島さんとなか卯でうどんを食う。午前一時すぎに寝ようとするが、なかなか寝つけなかった。

 金曜日、朝八時五十分にホテルのロビーの集合。寝坊して遅れる。
 本を並べはじめる。通りに人が増えてくる。
 昨年は、わめぞ縁日と一箱古本市の日にちがズレていたので、サンモールでのイベントは、はじめて見る。
 Sendai Book Marketは、家族連れが多く、いわゆる古本祭の雰囲気とはまったくちがう。
 なんとなく、のんびりしている。お客さんが一冊一冊ゆっくり本を選んでいる。
 高校生くらいの若い人が、草野心平の『雑雑雑雑』(番町書房)を手にとったとき、「それはいい本だよ」と心の中で念を送る。買ってくれてうれしかった。

 お客さんからもいろいろ話しかけられる。そういうことに慣れてなくてうろたえる。
 さらにジュンク堂のジュンちゃん作の鳥居とおみくじの前に座っていたら、何人もの人から拝まれる。
 ハチマクラの棚の前で人だかりができている。

 途中、仙台の中古レコード屋さんのヴォリューム・ワンの方を紹介され、近くにあるというので、店まで案内してもらう。
 ほしいレコードがいっぱいあったのだが、片づけのときに割れるかもしれないとおもい、CDを一枚だけ買う。

 日曜日の仕事がなければ、もう一泊して打ち上げに参加したかった。
 
 帰りの新幹線、外の景色を見ていたら、睡魔におそわれ気がついたら、大宮。仙台駅を出たときから武藤さんが、ずっと仙台駅の寿司屋で食ったナカオチの話をしていたのだが、起きてもまだナカオチ、ナカオチと騒いでいた。

 楽しかった。
 得たものもたくさんある。
 それは何かという話はまたいずれ。

2010/06/17

わめぞ、仙台へ

 驚異の集中力を発揮して、仙台に送る本の値付をする。ダンボール三箱。
 昼、立石書店の岡島さんと丸三文庫の藤原さんが集荷にくる。

《Book ! Book ! Sendai 2010》
◎Sendai Book Market わめぞ、仙台へ!
日時:6月19日(土) 11:00〜18:00(一箱古本市は16:00まで)
会場:サンモール一番町商店街
詳細はhttp://bookbooksendai.com/

 book cafe火星の庭で「古本の森文学採集」を開催したのが二〇〇八年七月。時同じく文壇高円寺古書部として、仙台で古本を販売するようになった。
 二年くらい前、前野さんと飲んだときに「文学、売りたいんですよ」といわれたのが、そもそものはじまりである。以来、「文学を売る」ことについて、ずっと考えつづけている。

 文学のおもしろさを知るきっかけになるような本、文学の奥の深さが味わえるような本、そして文学にやみつきになるような本……。
 そういう本を並べていきたい。

 ちなみに今回の一押しは『辻潤選集』(五月書房)です。
 それから『sumus13 まるごと一冊晶文社特集』(二刷)を十冊出品しました。
 ぜひ手にとってみてください。

2010/06/15

叡電で古本を売る

 土曜日、西部古書会館で恒例の「大均一祭」に行く。初日は二百円均一の日。値段を気にせず、目についた本を七、八冊買う。

 月曜しめきりの原稿を書いて送って夕方三重へ。小学校の同窓会の通知が届いていた。五月にあったらしい。上京後、小学校・中学校の同級生とは誰とも会ってない。
 日曜日、父に白子駅まで車で送ってもらい、近鉄特急で丹波橋駅、京阪にのりついで出町柳に到着する。だいたい二時間半くらい。

 電車に乗ると本をいれたダンボールが座席の上に置いてある。右隣が100000tさん、左隣がダンデライオンの中村さん。向いの席のエンゲルス・ガールさんがLP盤をずっと抱えている。その隣がインターネット古書店の固有の鼻歌さん。固有の鼻歌さんの本がすごかった。

『sumus』のメンバーは岡崎武志さん、山本善行さん、南陀楼綾繁さん、扉野良人さんとわたしと五人も参加している。この日、真っ先に売れたのが『コルボウ詩集』。さすが京都。

 電車が動く、窓に立てていた本がパラパラ落ちてくる。八瀬比叡山口まではあっという間だった。到着してからも古本を販売。ライブやDJもあった。車内のスピーカーから風博士の歌が聞こえてくる。
 二往復でどうにか目標の交通費分の売り上げを達成する。千円〜二千円の本がよく売れ、三百円〜五百円の本が売れ残った。「わめぞ」とは逆の現象だ。おもしろかった。打ち上げも。
 古本史(?)に残るイベントとして語りつがれることであろう。

 今回出品分の残りはガケ書房で売ってもらうことになりました。まだまだいい本ありますよ。
 詳しくは『小説すばる』連載の「古書古書話」に書く予定です。

2010/06/10

うーん、うーん

 一箱古本列車の本、箱づめ終わる。重い。つめこみすぎたか。ガケ書房のUさん、すまぬ。

 日曜から断酒して仕事するも、ちっともはかどらない。
 親知らずが虫歯になっている。もうすこし早く抜いておけばよかった。ひまはあるのだが、今は行く気がしない。

 すこし前に深夜のテレビで、豆腐屋はなぜ豆腐を朝早く作るのかというクイズをやっていた。
 答えは一日のうちで気温の変化が少ない時間帯(午前一時から午前六時)だからということだった。

 わたしが仕事をするのもその時間帯であることが多い。ということは、長年の昼夜逆転生活は、理にかなっているのではないか。人は、自分に都合のいい情報を信用する傾向がある。
 その日の調子が、気候や気温に左右される。昔からそうだった。年々ひどくなっている気もする。

 横光利一著『覺書』(金星堂、一九四〇年刊)所収の「書けない原稿」という随筆にも、そんな話が出てくる。
 天候はからだの細部に影響する。三十歳すぎると、天候が人間の運命を支配するとまでいう。

 横光利一は、頼まれた原稿をすべて引き受ける。しかし、引き受けた原稿は、かならずしも書くべきだとはおもっていない。

《何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ》

 だから、書けないときには書かない。すると、不義理をしている編集者にたいし、いつか気にいった原稿が書けたときに送らねばすまぬという気持になるそうだ。
 たしかにそのとおりだ。そのとおりだが、虫のいい話だという気もしないではない。
 無名の書き手が、横光方式を採用すれば、おそらく二度と原稿を頼んでもらえないだろう。いくら渾身の原稿が書けて持ち込んでも、門前払いをくらうかもしれない。

 横光利一は原稿が書けないとき、家の中を歩きまわる。ふと気がつくと、便所にはいっている。こんなところに何しに来たのかとおもい、便所を出る。格子に頭を叩きつけながら「うーん、うーん」と声を出す。

 パソコンが熱くなって、変な音がする。
 これ以上、仕事をするなというシグナルだと判断し、今日は寝ることにする。

2010/06/03

一箱古本列車

告知です。

左京ワンダーランド〈ファイナル〉イベント
『風博士と行く一箱古本列車 inエイデン号』

2008年3月より定住所を持たず、CDとライブと古本の売り上げだけで各地を転々とし生活しているミュージシャン、風博士の4thアルバム『SOMETHING OF MUSIC』の発売を記念して、レコ初記念ライブと、2005年に東京の不忍ブックストリートで始まったフリーマーケット形式の一箱古本市を、左京ワンダーランドのエリア内を走る叡山電車の車両内で開催いたします。

今回このイベントでは、風博士のワンマンライブ(投げ銭制)、一箱古本市に加え、フリペとミニコミ『ぱんとたまねぎ』発酵人が選ぶ、左京区のパン屋10店舗による「ワン(1)ダーパン」の販売あり、ちせのチャイ、なやの珈琲の出張店舗あり、hellbent labのTシャツ・エコバックの販売、風博士もりあげ隊による古い本の詠みうたい、DJ堀部篤史による列車にちなんだ選曲Party、パウロ野中のタロット占いコーナーなどなど、盛りだくさんの内容でお送りしたいと思います。

【日時】2010年6月13日(日)
(1)12:45集合−15:10頃解散 (2)15:15集合−17:40頃解散
【場所】叡山電車・出町柳駅集合→八瀬比叡山口駅(約90分間停車)→出町柳駅解散
【参加費】¥500(乗車賃含む)
※ご予約の方は、ガケ書房へ電話(TEL 075−724−0071)もしくは店頭にて受付。
お名前・電話番号・チケット枚数・(1)(2)どちらの列車がご希望か、お伝えください。
※尚、満員電車の際、ご乗車をお断りする場合がございますので、ご予約のほうをお勧めいたします。あらかじめご了承ください。

【Live】風博士、風ヘルパー〔水瓶(アコーステイックトリオ)×田辺玄(WATER WATER CAMEL )〕
風博士もりあげ隊〔下村よう子(薄花葉っぱ)×にしもとひろこ(たゆたう)×ファンファン(吉田省念と三日月スープ)〕

【Dj】堀部篤史(恵文社一乗寺店)

【Furuhon】
Hedgehog Books and Gallery、東京コーヒー(パウロ野中)、りいぶる・とふん(扉野良人)、株式会社ひつまぶし(ガケ書房店主)、ラヴラジル書店(風博士)、LOVE 33 BOOKS(恵文社一乗寺店店長)、ヲトメ堂書店(京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース)、岡崎武志堂(岡崎武志)、思いの外〜京都風来列車編〜、町家古本はんのき、文壇高円寺古書部(荻原魚雷)、古本けものみち(南陀楼綾繁)、固有の鼻歌、古書コショコショ、古書善行堂(山本善行)、エンゲルス・ガール、デマエ書房(山崎書店店主)、メリーゴーランドKYOTO(京都店店長)、Just add Life、100000t

【Pan】
パンドラディ、パン工房RK、ちせ、GREEN GABLES DREAM、machikado-kitchen tonto、
東風、テクノパン、'apelila、 Sarah moon、 yugue

【Drink】チャイ(ちせ)、珈琲(なや)

【T-shirt・Ecobag】hellbent lab

【Tarot】パウロ野中(鑑定料 一件¥2000 ※ご希望の方は、ご予約の際に「タロット希望」とお知らせください)

2010/05/31

岡山から

『活字と自活』(本の雑誌社)所収のいちばん古い原稿は二〇〇四年春くらいの『クイック・ジャパン』のコラム。六年分の原稿を読んでいて、自分の文章の中に、そのときどきに飲んだり遊んだりしていた友人の言葉や考え方がずいぶん溶け込んでいることに気づいた。

 刊行は七月十三日くらいの予定です。

 土曜日、岡山からカメラマンの藤井豊さんが上京する。今回の本は藤井さんが十年くらい前に撮った高円寺の写真が随所に出てくる。
 深夜〇時すぎ、コクテイルからペリカン時代に行く途中、道でだるまさんがころんだをやっている家族がいる。藤井さん、「写真とってもええっすか」と話しかける。

 ペリカン時代の増岡さん、原さんと藤井さんが会うのは十年ぶりくらいだったのだが、まったくそんなかんじがしない。高円寺にいたころの藤井さんが、いかに変だったかという話題がつきない。
 もともと藤井さんの同級生のライターが高円寺に住んでいて、「地元におもしれえやつがおるんじゃ」というので「遊びにきたら」と電話したら、その翌日くらいにすぐうちに遊びにきて、気がついたら、高円寺に住むようになった。
 その後、知り合いの職場(在日フィリピン人向けの新聞を作っている)に藤井さんを送り込んだところ、なぜか道で弁当を売っていた。
「何しているの?」
「ようわからんけど、こういうことになってしまったんじゃ」

 岡山に帰ってからは「今、畑やっとります」「今、牡蠣の殻むきやっとります」と連絡があるたびに仕事が変わる。
 今は家具の会社で働きながら、写真を撮っている。

 六月、倉敷の蟲文庫で藤井さんは「僕のおばあちゃん」という個展を開催(六月十八日〜七月二日)。
 藤井さんのおばあさんは、麦稈真田(ばっかんさなだ)編みの名人だったという話を聞いたことがある。

 さらに蟲文庫では「武藤亮子 個展『曇天画』」(八月十日〜二十二日)という企画もあります。

 それから七月、トークショーをします。

・西荻ブックマーク vol.44
「つれづれなるままに古本」
荻原魚雷、向井透史(古書現世)
7月11日(日)
場所:今野スタジオマーレ
開場:16:30/開演:17:00
料金:1500円
定員:30名
要予約

http://nishiogi-bookmark.org/2010/nbm44/


※当日、会場で(なんとか間にあえば)単行本の先行発売させていただく予定です。

2010/05/22

上林暁展

 知り合いの古本屋さんに、杉並区立郷土博物館で、写真展「杉並の作家たち 上林暁展 闘病の作家 その作品と生涯」という企画が開催中であることを教えてもらいました。
 六月二十日(日)まで。
【開館時間】午前九時〜午後五時
【休館日】毎週月曜日・毎月第三木曜日(祝日・休日の場合は、翌日)

 同時開催の「杉並文学館」の特集では「上林暁 文学への情熱」という企画もあり、上林暁が左手で書いた原稿なども展示されるそうだ。

 また五月二十三日(日)には「杉並文学館」で上林暁の創作活動を支えた妹・徳廣睦子さんの講演会もあります。

 講演「兄の左手〜看病と創作の思い出」
【日時】五月二十三日(日) 午後二時〜四時(午後一時から整理券を配布)
【講師】徳廣睦子 聞き手「あかつき文学保存会」代表・萩原茂
【定員】六十名(先着順)

 天気がよければ、自転車で行ってこようとおもう。
 最近、『諷詠詩人』(新潮社)を読み返して、ひさびさに上林熱にやられました。

・杉並区立郷土博物館(http://www2.city.suginami.tokyo.jp/histmus/index.asp

2010/05/21

本の題

 本の雑誌社から出る単行本のタイトルは『活字と自活』に決まりました。
 このブログで書いた「十年前」を加筆した文章の改題作のタイトルでもあります。

 好きなことを仕事にする。しかしほんとうに好きなことを仕事にすると、それはそれで次々とむずかしい問題が出てくる。自分のほうから、むずかしい問題が出てくる方向に突き進んでいってしまうといったほうがいいのかもしれない。

 誰かにいわれたことがそのとおりにできても、場合によっては、マイナスになることがある。いまだにその見極めはむずかしい。
 何を書くかどう書くかといったことにしても、自分の感覚で選んでいくしかない。
 開き直るわけではないが、その感覚はまちがっていてもいいのである。まちがっていると自分でわかる前に修正してしまうのはよくない。人にいわれてすぐ修正する癖を身につけてしまうと、自分のやりたいことがわからなくなる。

 友人のミュージシャンが、わかりやすくてノリのいい曲を作った。わたしが「いい曲だねえ」とほめたら、「ええ、そうか。ぜんぜんおもしろくないとおもったんだけどなあ」という。
 写真家の友人も、同じような反応をよくする。こちらが見てすぐ「いい」とおもうような写真をほめてもちっとも喜ばない。
 逆に本人が気にいっている写真を見せてもらうと、どこがいいのかまったくわからない。

 多くの人が「いい」とおもうものと自分が「いい」とおもうものが重なるのは理想なのかもしれないが、わたしはそこがずっとズレている人の表現が好きである。
 十代二十代のころは、多くの人がそうしたズレを抱えている。でもそのズレはいつの間にかなくなってしまう。

 わたしも二十代のころは、いろんな人からああしろこうしろといわれた。
 いわれたことをすぐやると、たいていおかしくなる。中にはありがたい忠告や助言もあった。でも自分に合わないことをやっても、なかなかうまくいかない。
 他人の意見というのは、頭の片隅におぼえておいて、ときどきおもいだすくらいでいいのではないか。

 時には他人の意見とぶつかりあうことも大事なのだが、ぶつかってばかりいると、いつの間にか角がとれてしまうこともある。
 角がとれてしまうのは、かならずしもいいこととはかぎらない。
 最近、よくそうおもう。

2010/05/10

京都と仙台で

 日曜日、歩いて中野に行く。まんだらけでブロンズ社の『もうひとつの劇画世界 あすなひろし集 心中ゲーム』(一九七三年刊)を買う。装丁が羽良多平吉さんだったとは……。「もうひとつの劇画世界」はハードカバーのシリーズ。巻末の刊行予定には永島慎二や松本零士の名前もあるが、わたしは見たことがない。

 古書うつつに行くと田中小実昌の『ひとりよがりの人魚』(文藝春秋、一九七九年)がある。田中小実昌はいつも古本屋に並んでいてほしい作家なのだが、ほんとうに見なくなった。当り前のことだけど、古本屋通いの時間が減ると、いい本が買えなくなる。最近、そのことを痛感している。誰も興味がなくて、自分だけがおもしろいとおもうような作家なんてほとんどいない。

 田中小実昌もそうだが、最近、梅崎春生も見かけない。本がないから見ないのか、すぐ売れるから見ないのか。たぶん後者ではないかとおもう。帰りにサンモールの入口付近の総菜屋でイカメシを買う。

 来月、京都の古本イベントに参加することになった。二月くらいに話を聞いて、その後、すっかり忘れていたら、ますますおもしろそうな企画になっていた。

・叡山電車×左京ワンダーランド 特別企画「風博士と行く一箱古本列車 inエイデン号」

【日時】2010年6月13日(日)  13:00〜15:00 15:30〜17:30(2回運行)

【会場】叡山電車(2両編成) 出町柳駅→八瀬比叡山口駅(約1時間半停車)→出町柳駅

                 * 

 翌週は6月19日(土)には、Book! Book! Sendai 2010の「一箱古本市」も開催。こちらも参加する予定です。

【会場】仙台、サンモール一番町商店街

『spin』七号の特集は「ブックイベントのたのしみ」。巻頭に昨年十二月に神戸の海文堂書店で開催された南陀楼綾繁著『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)の刊行記念トークショーが収録されている。出演者は、南陀楼綾繁さん、石川あき子さん(Calo Bookshop & Cafe)、貸本喫茶ちょうちょぼっこの郷田貴子さん、真治彩さん、次田史季さん。

2010/05/09

タイトルは未定

 高円寺の中通り商店街に移転して営業を再開した古本酒場コクテイルにくわえ、駅のちかくの南口のガード沿いの向いにペリカン時代という友だちの店がオープンした。あまりにも居心地のよくて、ついいりびたってしまい、午前三時くらいになっている。

 たまに痛飲し、無意味で無駄な時間をすごすことが、明日か明後日くらいの活力につながることもある。

 今、本の雑誌社から出る予定の単行本を作っている。編集の宮里潤さんとデザイナーの中嶋大介さんと三人でああだこうだいいながら、あちこちに書いた原稿を集めて、こねまわしながら本の形にしていく作業が楽しくてしかたがない。
 ふたりから次々とアイデアが出てきて、自分ではおもいつきもしないような、おもいついても形にできないような形になっていく。「そうきたかー」とおもいながら、毎日、文章を書き直している。

 前回の本のとき、ペンで直そうとしてぐちゃぐちゃにしてしまった失敗をふまえて、初校のゲラは鉛筆で直すことにした。すでに真っ黒である。なかなか自分の文章を他人の目で見ることができない。
 今回の本の文章はとくにそう。

 本と音楽と友人とのたわいない話ばかり書いている。ぐうたらして、不貞腐れて、ときどき何もかもいやになる。そんなときに読みたい本や聴きたいレコードがあり、酒を飲みたい友人がいる。
 ありがたいなあ、とおもう。

 わたしもそんなときに読めるような本を作りたい。
 どこからでも読めるようなコラム集になれば、とおもっている。

 本文中には写真やカットもはいる……はず。
 順調にいけば、六月末刊行予定。

2010/04/26

外市二十回

 土曜日、ささまのN君主催の焼肉会(高円寺・二楽亭)、その後、コクテイル。まっこりを飲んでいたら、ウイスキー以外の酒飲んでいるところをはじめて見たといわれる。
 わたしはビール以外の酒はなんでも飲む。

 日曜日、西部古書会館。初日は行けなかったが、いい本があった。
 長年の探求書だった『プレイボーイ傑作選』(荒地出版社、一九六八年刊)が三百円はうれしい。

 衣替えのため、洗濯機二回まわす。冷凍庫の食材一掃うどん作る。
 仕事(『ちくま』)の合間、外市の値付作業をする。

◎2010年5月1日(土)〜2日(日) 雨天決行
第20回 古書往来座 外市 〜軒下の古本縁日〜

 今回のゲストは古書ダンデライオン(京都「町家古本はんのき」)。
 ブログを見たら「店主が行けるかどうかは、まだ微妙」とあった。来てほしいなあ。後先考えず、来たほうがいいとおもうなあ。

 この三年くらいのあいだ、福岡や名古屋や仙台の本のイベントに行ったり、しょちゅう京都で古本を買ったり売ったりもしている。
 インターネットで本が買えるのに、なんで、わざわざ安くはない交通費を出して、あちこちの古本イベントに顔を出しているのかというと、同時多発といってもいいくらいの古本イベントの「草創期」を味わっておきたいからである。

 バタフライ効果というか、ほんのちょっとの小さな現象が、未来において大きな作用をおよぼすということはよくある。
 インターネットや電子書籍端末といった大きな動きも気になるが、ひとりの客、ひとりの店主が、何かをする、しないといった、小さな行動が、何年か後におもいもよらない変化を起こすということもある(ないこともある)。

 今、やっていることが、何になるのかわからない。でもわからないことをやっておくのは、大事なことかもしれない。すくなくとも、そのほうがおもしろい。

 ということです。

2010/04/23

寝ちがえ

 連休進行で切羽詰まっているところ、寝ちがえて、首がまわらなくなる。仰向けに寝ると、起きるときに痛くて、動くことができない。何年かおきに、ひどい寝ちがえをやってしまう。
 痛みの治療は、温めるか、冷やすかのどちらかで、いつも迷う。寝ちがえの場合は、冷やしたほうがいいらしい。
 ナボリンを飲んで、冷えピタを首に貼る。

 やむをえず、仕事を中断し、連休中の楽しみにとっておいた河合克敏『とめはねっ!』(〜六巻、小学館)と小山宙哉『宇宙兄弟』(〜九巻、講談社)をいっきに読んでしまう。

 今、「文系スポ根」というジャンルが注目されているらしいのだが(末次由紀『ちはやふる』など)、『とめはねっ!』は、書道漫画である。

 主人公は高校一年生の帰国子女で、気が弱くてぱっとしない男子、ヒロインは柔道部で将来有望の選手なのだが、ふたりはひょんなことから、書道部に入部してしまう。
『宇宙兄弟』は、宇宙飛行士を目指す兄弟の話で、雑誌の連載はときどき読んでいたのだが、なんとなく、話のテンポがゆっくりすぎて、ちょっと退屈かなとおもっていた。不覚だった。単行本であるていどの巻数をまとめて読んだほうがいいかもしれない。

『とめはねっ!』は人間関係があまりにも都合よくつながりすぎていたり、『宇宙兄弟』は運や偶然が重なりすぎているところもなきにしもあらずなのだが、どちらも読みはじめると、ほぼ予想通りの展開にもかかわらず、話の先を追いかけざるをえなくなる。

 読んでいるあいだ、首の痛みを忘れる。

(追記)
 温めるか、冷やすか。体質や症状にもよるとおもうが、わたしの場合、冷やすよりも温めたほうが痛みがやわらいだ気がする。

2010/04/20

仙台・閖上

 土曜日、仕事後、そのまま東京駅に行く。八重洲古書館を見て、新しくできたセルフうどん屋でうどんを食い、新幹線に乗って、電車の中でイビチャ・オシムの新書を読みながら、仙台へ。
 午後九時、ブックカフェ火星の庭に到着。ウィスキーを飲む。それから国分町のミステリーやSFのことにたいへん詳しい店主がいる小料理屋、近藤商店をはしご、うまい酒と料理(語彙不足)を堪能していたら、午前四時に。完全に時間の感覚がおかしくなっている。

 前野宅で昼すぎまで熟睡後、仙台文学館に案内してもらい、太宰治展を見る。記憶の底に沈んでいた小説の書き出しをおもいだす。そんなに期待していなかったのだが、書簡、ハガキ、着物、写真、あらゆるものから、ただ者ではない空気が伝わってくる。ひとつひとつの展示の前で足が止まる。人間の負の部分をいっぱい背負った才能の凄みに理屈ぬきでまいる。

 夕方、前野さんとバスで閖上(ゆりあげ)に行く。閖上は仙台の南東に位置する漁港。
 名取川の下流、橋でつながっているが、ほんとうは島らしい。魚市場、朝市もあって、ちょっと歩くと、目の前に太平洋が広がっている。絶景である。まったくリゾート化していない、昔ながらの海である。

「仙台のこんな近くにこんなところがあったんですね」と生まれも育ちも閖上のKさんにいうと、「こんなところって」と苦笑い。Kさんは四児の父親で、小学生の男の子ふたりもついてきて、はしゃぎまわり、走りまくる。

 昨年秋、Kさんとは佐伯一麦さんの読書会で知り合った。朝まで飲んだ。そのときに閖上の話を聞いて、行ってみたいとおもった。
 魚市場のちかくの寿司屋で赤貝丼をごちそうになる。
 そのあとKさんの家で宴会になる。笹屋茂左衛門という日本酒を飲む。酒がすすむにつれて、つまみと本(尾形亀之助、牧野信一、川崎長太郎など)が次々と出てくる。気がついたら、帰りの電車がない時間になる。

 こうなったら朝まで飲むしかない。一晩中、Kさんの文学熱に圧倒される。

 ふと気づくと、かかっている音楽がちがう。Kさんも、飲むと、即興DJになるタイプのようだ。
 わたしも酔うと、レコードやCDだけでなく、本や漫画をすぐ出して読ませようとしてしまう。ときどき、閉口される。

 結局、朝まで飲んで、雑魚寝。寝ているあいだ、Kさんの子どもが(ややおびえながら)足音を立てずにランドセルをとりにきていたという話を後で知った。

2010/04/17

どうすればいいのか

 会社や組織のことがよくわからない。多少はわかっているつもりのフリーライターという職業に関しても、百人いれば百通りの仕事のやり方がある。

 自分の経験や方法が他人に当てはまるともかぎらない。「これだ」とおもった方法だったとしても、時間が経つとしっくりこなくなる。

 文章を書くことは考えることだ。正解を出すことではない。今のところわたしはそうおもっている。正解はあくまでも自分にとってのものにすぎない。効率のいい方法ではないが、まちがえながら、そのときどきの自分に合ったやり方を探る。

 芸人は守りに入ると勢いがなくなる。鋭く切り込む芸風の持ち主が、肩の力をぬいて、場に馴染もうとしているうちに魅力を失っていく。力をぬいた芸風では、一枚も二枚も上手がいる。そうこうするうちに、次々と捨て身でやけっぱちの芸人が出てくる。

 家電芸人のような企画はある種の芸人にはあまりプラスにならない気がする。目先の仕事よりも、芸風を大事にしたほうがいいとおもうのだが、芸風そのものが時間とともに劣化してしまう場合もある。

 プロ野球の投手には、速球が武器の本格派とコントロールや変化球が武器の技巧派がいる。速球も変化球もコントロールもよければ苦労はない。そういう人は別格であり、たいていは何かしら苦手がある。不得意を克服しようとすると、得意なことがだめになることもあるし、得意なことばかりやっていても行きづまることがある。

 結局、いろいろ試してみて、修正を重ね続けるほかない。

 同人誌やメルマガ、ブログなどで原稿を書いていた人が、商業誌で仕事をするようになると、いろいろな編集部の方針や制約に戸惑い、ときには理不尽なことをいわれて途方にくれることがある。自分は「A」という仕事がしたい。でも「B」という仕事を頼まれる。「A」がやりたいという意志を貫き、仕事を断るか。それとも妥協して「B」をやってみるか。わたしもよく悩む。「B」をやっていると見せかけて、適度に「A」の要素をいれてみるとか、しばらく「B」をやってみて、信用ができたら「A」をやりたいと申し出てみるとか、いろいろなやり方がある。

 短期戦の場合、やるかやらないかの二択しかないが、長期戦の場合、経験を積み、信用を獲得するにつれ、自分の仕事の選択肢も増えていく。強気の直球の意見をいえば、通る人もいれば、逆効果の人もいる。逆効果の人の場合は、ストライクかボールかのギリギリのところを攻めてみたり、変化球をつかったり、「それでもだめなら次は?」と手をかえ品をかえ、すこしずつ自分のやりたい企画に近づけていく。もちろん、この方法も向き不向きがある。

2010/04/15

犀の本棚

 明日から開催のメリーゴーランド京都企画「犀の本棚」に出品します。文学、映画、音楽、漫画といろいろなジャンルの本を送りました。 以下は、告知——。

 メリーゴーランド京都企画 『晶文社50周年記念 犀の本棚』

 このたびメリーゴーランド京都では犀のマークの晶文社の刊行物を並べた小さな本棚を設置いたします。名づけて「犀の本棚」。2010年2月、晶文社は創業50周年を迎えました。文学であり、アートであり、詩であり、音楽であり、哲学であり、生活であり、カルチャーであり、思想であった犀の本の数々は、時代時代に新しい風を送りこんできました。つまりそれは、私たち本好きの胸に「生き方」を印してきたのではないでしょうか。

 寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」とは反語的な評言で、じつは書を胸に町へ出ることのスリリングさを言い当てています(*)。晶文社の本作りには、そのスリリングさの妙味が、いつも感じられました。 (*)晶文社刊に寺山修司の著作が見あたらないのも反語的なことでした。メリーゴーランド京都では、これまでに刊行された晶文社の新刊書、旧刊書を小さな本棚に並べてみようと考えました。版元では手に入らなくなった絶版古書も並べようと思います。けっして選りすぐったとはとても言えない、せいぜい100冊程の本が並ぶに過ぎません。それでも、並べた本の背から犀の大きさが伝わるような本棚を作りたいです。そして、皆さまにとって「犀の本」といって思いだす一冊や、こんな本があったと新たな発見がつまった本棚となるように心がけたいです。どうぞ皆さまのお越しをお待ちしております。

            メリーゴーランド京都 鈴木潤 三野紗矢香

◎開催期間

2009年4月16日(金)〜6月30日(水)

◎参加 BOOKONN 文壇高円寺 古本オコリオヤジ トンカ書店 蟲文庫 りいぶる・とふん 増田喜昭

〒600-8018 京都市下京区河原町通四条下ル市之町251-2 寿ビル5F 

http://www.merry-go-round.co.jp/kyoto.html

2010/04/11

ちいさな古本博覧会

 ふらっとコクテイルに行くと、古書窟揚羽堂、はらぶちさん、盛林堂の若旦那が飲んでいた。まぜてもらう。
 古本屋さんの古本の話はおもしろい。聞いたことがないような本の名前がいろいろ出てくる。しかも、それがびっくりするような値段で売れるらしい。奥が深い。

 軽く寝て起きて仕事をしようとおもっていたが、アルコールが抜けていないと判断し、退屈君にもらったカシオの電子辞書で遊ぶ。

 そのまま朝まで起き続けて、王様のブランチを見ていたら、一箱古本市の話題になり、南陀楼綾繁著『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)が紹介されていた。

 そのあと西部古書会館で開催のちいさな古本博覧会に行く。珍しい本がある。安い本がある。珍しくて安い本がある。
 袋いっぱいになるまで買ったが六千円ちょっと。新刊本で同じくらいの冊数を買ったら、いくらになるのだろう。
 池島信平著『編集者の発言』(暮しの手帖社、一九五五年)、『平野威馬雄 二十世紀』(たあぶる館出版、一九八〇年)など。

 その後、いったん家に帰る。
 午後から出先での仕事の予定があったのだが、午後二時からオグラさんのライブが西部古書会館でやると聞き、それを見てから行くことにする。
 古書会館でインチキ手まわしオルガン。客は本に夢中。けっこう試練というべき状況だったが、歌がはじまると通りすがりの人がけっこう立ち止まる。おもしろい。

 岡崎武志さんに東京堂書店で『sumus』にサインしてきたこと伝える。百五十冊。
 古本博覧会は、盛況だった。初日、かなり売れたみたい。二日目も期待。

 夕方、仕事先である作家の訃報の噂が飛びかっていた。

 深夜二時すぎ、インターネットの産経ニュースで「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去という記事を読む。享年七十五。

2010/04/08

午後二時の鈍行電車

 文明や国家、企業、メディア、個人にも、草創期、安定期、衰退期といったサイクルがある。サイクルはかならずしも一定していないし、スピードもちがう。

 安定期をのばすための工夫、試行錯誤はまどろっこしい。衰退期をしのぐ努力はむなしい。それより新しいことをはじめたほうが楽しい。技術革新のスピードが早いし、次々と新しいサービスが出てくる。地道にこつこつやっていると「まだそんなことやっているんですか」というかんじになる。

 十年、二十年と続く雑誌がだんだん減ってきている。昔からそういう傾向がなかったわけではないが、売り上げが落ちると、すぐ休刊になる。
 お金にならないことはやらない。面倒くさいことはやらない。お金にならなくて面倒くさいことはすぐやめる。
 長続きしない理由には、そういう気分があるとおもう。

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2010/04/06

上京当時

 休み休み、ぐだぐだと月末をのりきり、ちょっと気がぬける。平穏ということかもしれない。
 今より仕事をしていなかったころのほうが、もっとバタバタしていた。
 金がなくなる。あわてて仕事をする。原稿料は翌月とか翌々月払いだから、そのあいだ、アルバイトもする。翌月とか翌々月にまとまったお金がはいる。
 数ヶ月間、食うや食わずの生活をしていたところに、いきなりお金がはいってくるから、嬉しくなって、酒を飲んだり、本を買ったり、レコードを買ったり、旅行をしたり、引っ越したりして、とにかく、仕事をしなくなる。すると、また金がすっからかんになる。そのくりかえしで、落ちつかない。
 そのころは一年通して仕事を続けることができなかった。一年のうち半年くらいは遊んでいたかもしれない。

 どうしてそんなふうになってしまったかというと、仕事がおもしろくなかったからだ。やる気はあったのだ。ただ、そのやる気があだになっていたのだ。当時、(一部の)出版界の空気としては、「仕事なんて遊びだよ」というノリがかっこよく、田舎を捨て、大学を中退して、背水の陣みたいな気分で、何がなんでも筆一本で生きていこうとしていたわたしは完全に浮いていた。

 わたしはかなり面倒くさいやつだった。

 その面倒くささは、生来のわたしの性格に起因することは認めざるをえないが、多かれ少なかれ、地方出身者、さらにいうと工場の町(ヤンキー文化圏といってもいい)から脱出してきた文系の人間にはわりと共通する傾向ではないかとおもう。

 田舎で文学や音楽が好きだという人間は「屈折している暗いやつ」という評価を与えられた。そのため、文学や音楽は、自分のよりどころというか心の支えというか、それがないと自我が保てないくらい大切なものになる。
 わたしには文学や音楽を遊び半分で楽しむ感覚はひとかけらもなかった。その余裕のなさを文学や音楽を娯楽のひとつとして消費することができる境遇にあった人に、バカにされると腹立たしくてしょうがないわけだ。

 田舎にいたころは、わかりやすく「暗いなあ」という罵倒だったが、上京してからは「何、ムキ(マジ)になってんの」という冷笑に変わる。
 その冷笑にどう対処していいのかわからなかった。
 田舎ではこちらのことをバカにするやつはものを知らない人間が多かったが、東京ではバカにするやつのほうが知識や情報に恵まれていて賢いことが多いのである。

 愚痴っぽくなった。

 四月になると、上京当時のことをおもいだす。いまだにひきずっているなあという気持が半分、なんとなくうやむやになってどうでもよくなってきたなあという気持が半分といったかんじなのだが。

 今は昔ほど都会と地方の情報の格差はなくなったかもしれないが、それでも田舎から上京した人は、いろいろ悔しいおもいをするだろう。
 でも何年かすると、東京にもおもしろい人間もいれば、つまらない人間もいて、とんでもなくすごいやつもいれば、どうしようもないやつもいることがわかってくる。

 とはいえ、東京人の中には遊び半分をよそおいつつ、ものすごく努力しているやつもいるから、気をぬかないように。

2010/03/30

コクテイル再開

 土曜日、古本酒場コクテイルがリニューアル・オープン。午後七時、飲みに行く。まだ未完成だというが、いい店になっていた。座敷席もあって「鍋ができるね」と盛り上がる。あっという間に満席になり、帰ろうとおもうたびに、次々と常連客があらわれ、つい閉店時間まで飲んでしまう。居心地がいい。
 ふらふらになって帰宅する。

 日曜日、家にこもって仕事する。毎日新聞と『小説すばる』の原稿を書く。夕方、西部古書会館に行く(昨日も行った)。ここのところ、さかえ書房のシール付の本をよく見かける。
 すでに持っている梅崎春生の本、さかえ書房のシ−ル付を見てほしくなって買う。

 仕事のあいま、河野仁昭著『天野忠さんの歩み』(編集工房ノア)を読む。
 
 百貨店や出版社で働いたあと、天野忠は京都で古本屋をはじめる。自分の蔵書八百冊を店に並べたところ、めぼしい本はあっという間に同業者に買われてしまった。店をはじめるにあたって、何の準備もしていなかったようだ。
 その後、古本屋をたたんで、奈良女子大の教務課を経て、大学附属図書館の仕事を二十年くらい続けた。

《天野忠さんの退職は定年退職ではなかった。定年までにあと一、二年残っていたはずですが、勤務年数が年金をもらえる年数に達したから辞められたのです。なぜ辞めたのかというと、詩を書くことに専念したかったからです。年金で生活はなんとかやっていけるという条件がととのったわけです。わたしが知っている詩人ではNHKにつとめていた黒田三郎さんがそうでした》(天野忠さんの詩と晩年)

 天野忠と黒田三郎、ふたりとも好きな詩人なのだが、人物像がまったく重ならない。
 
 月曜日、夕方六時に起きて、午後九時すぎにコクテイル。またカウンターで古本を売らせてもらうことになった。水割四杯。もつ煮を食う。
 すこし前に来ていたアスペクトの前田君としゃべる。

 コクテイルの新しい店舗の場所がある中通り商店街のちかくには、一九八九年の秋から九八年の秋くらいまで住んでいた。当時はガード下を通って阿佐ケ谷にもよく行った。

2010/03/26

ふるほん横丁

 雨で、寒くて、洗濯物はたまり、原稿は書けず、飲みすぎて、からだがだるくて、頭がまわらない。インターネットの古本屋で片っ端から注文し、その支払いのため、郵便局と銀行を行ったり来たりしている。

 某地方の古書店、支払先が中国銀行のみという理不尽さに怒りをおぼえる。
 手数料だけで三百円ちかくとられてしまった。キャンセルすればよかった。
 これまでクレジットカードがなくて敬遠していたアマゾンの中古本が、コンビニ払いができることを知った。払い込み用紙をプリントアウトして、レジに持っていくだけでいい。
 たいへん便利なのだが、海外の古本屋とのやりとりは面倒であることがわかった。
 英国の古書店にジョージ・ミケシュの自伝(『How to be SEVENTY(七十歳になる法)』を注文したのだが、入金して十日くらい何の音沙汰もなく、忘れたころに本が届いたかとおもったら、背表紙はかすれて見えないし、中は線引だらけだった。文句をいおうにも、クレームをつけられるほどの語学力もない。完全に泣き寝入りというやつだ。びっしり線が引きたくなるくらいおもしろい本であることの証拠だと自分を納得させる。

『ちくま』の四月号で、ジョージ・ミケシュの本を紹介した(「ミケシュが見た日本」)。
 ここには書かなかったのだが、ジョージ・マイクス名義の『不機嫌な人のための人生読本』(加藤秀俊監訳、ダイヤモンド社、一九八六年刊)という本がある。

《もし歴史上の戦争のなかで、正当なものがあるとすれば、それは第二次世界大戦である。人類は、ドイツを統治した罪深き精神異常者をまっ殺しなければならなくなってしまった。そして、わたしたちやわたしたちの子孫は、それを実行した人たち——そして、他の多くの人たちに——に対して、あらたな暗黒時代を回避させてくれたことを感謝しなければならない。かれらは自由のために戦った……。ほんとうだろうか。西欧の人たちは、けんめいに正しく戦った、というかもしれない。そして、ロシア人たちも同様に雄々しく戦ったのだ。しかし、この勝利でかれらがえたものは、どんな形の自由だったのだろうか。スターリンの殺人的偏執狂は、三〇年代にも十分ひどいものだった。しかし、勝利ののち、自由という名のもとに、それはもっとひどくなったのである》(「自由=この悪しきもの」/『不機嫌な人のための人生読本』)

 これですよ、こういうエッセイがわたしは読みたいのですよ。ミケシュは、穏健な左派を自認していたようだが、かなりひねくれている。
 一見、ユーモア・エッセイ風なのだが、随所にシニカルな社会観、歴史観が見られる。

 仕事帰り、高田馬場駅前の芳林堂書店四階の「ふるほん横丁」に寄る。三月二十五日(木)からオープン。棚と棚の幅がゆったりしていて、本が見やすい。値段もわりと安目かも。

 一階の入口のところで、丸三文庫とフジワラさんと藤井書店のリボーさんが寒そうにふるえていた。

2010/03/23

みちくさ市

 昼起きて、みちくさ市。うっかり東京メトロ東西線直通に乗ってしまい、高田馬場から副都心線の西早稲田に乗り換え(乗り継ぎ料金にならないのだが)、雑司ケ谷に。来るたびにおもうのだが、鬼子母神商店街、東京というかんじがしない。といって、どこなのかと聞かれても、返答に困る。
 会場で本の雑誌の宮里さん、アホアホ本の中嶋さんと待ち合わせ。ぐるっと古本を見て、それから仕事の打ち合わせをする。
 池袋古書往来座に寄って、サンシャインシティ大古本まつりに行く。宮里さんは、昔、アルバイトでサンシャインの古本まつりを手伝ったことがあるという。しかし、三人揃ってサンシャインの中で迷う。

 深沢七郎著『流浪の手記 風流夢譚余話』(アサヒ芸能出版、一九六三年刊)が買えたのは嬉しかった。単行本と文庫はもっているのだが、この新書版(平和新書)は未入手だった。
 知り合いの古本屋さんには「たまに見るよ」といわれていたのだが、すくなくとも、わたしは店の棚に並んでいるところを見た記憶がなかった。『流浪』三点セット(新書・単行本・文庫)が揃うと、願い事がかなうらしい。おもいつきを書いてみた。

「風流夢譚」事件後の放浪生活を綴ったエッセイが収録されている本なのだが、「書かなければよかったのに日記」「言えば恥ずかしいけど日記」など、『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)に通じる深沢七郎の日記シリーズも読める。

「言わなければよかった」「書かなければよかった」とおもうことをどう書くか。ただ、あけすけに書くのではなく、躊躇したり、恥じたりしながら書く。
 深沢七郎はそのさじ加減が絶妙に狂っていてすごいとしかいいようがない。
 タイプはちがうけど、色川武大もそうかもしれない。

 ただ、深沢七郎や色川武大を知って、もっとこういう作家の本を読みたいとおもっても、なかなか見つからない。ほとんど行き止まりというかんじもする。まあ、わたしが停滞しているだけともいえる。

 読書の快楽は、読むタイミングにも左右される。
 深沢七郎は、まだ文学の免疫がついていないころ、金がなくてひまで活字に飢えていたころに読んだせいか、感激も大きかった。
 未知の作家、未知のジャンルを追いかけいるうちに、すれた読者になってしまうような気がする。

(お知らせ)
 ブックマーク・ナゴヤのリブロ大古本市、開催中。
 来月四月四日(日)は月の湯古本まつり。文壇高円寺古書部も参加します。

2010/03/17

ミケシュの日々

 ここ数日、よく眠れて、からだが軽い。
 睡眠時間は不規則で二、三時間ずつ寝て起きてというかんじなのだが、起きるたびに疲れがとれている。合計すると一日十時間ちかく寝ている。調子がいい。しかし、この生活だとあまり予定をいれることができないのが、難点である。

 日曜日、中野ブロードウェイセンターをふらふらしていたら、u-sen君に会う。コーヒーを飲む。
 古書うつつ、記憶をまわる。古書うつつには、金子光晴のサイン本が(何冊も)あった。吉祥寺のさかえ書房が閉店したという話を聞く。
 四階の古書ワタナベでハヤカワ文庫チェックをしていたときに、棚がぐらぐら揺れたので、カバンが当たったのかなとおもったら、地震だった。

 あおい書店で雑誌を買うつもりだったのだが、荷物が重くなっていたので、いったん家に戻る。高円寺の書店で探したが、見つからず、阿佐ケ谷の書店でも見つからず、夜八時すぎにもういちど中野に行く。
 もし、あおい書店になかったら、自転車で新宿のブックファーストまで行く覚悟だったのだが、一冊だけ残っていた。ほっとする。
 神保町では平積になっていた雑誌だったので油断した。探していたのは『g2』。

 月曜日、確定申告。自転車で行く。
 最終日は非常に混む。だからもうすこし早目に行きたいのだが、十年くらい前、すこし余裕をもって提出しに行ったときに、たまたまいじわるな担当者に当たって、今まで聞いたことのない書類が必要だとかなんとかいちゃもんをつけられ、そのまま帰ってきた。最終日にいったら、その書類なしで、あっさりハンコを押してくれた。
(※いまだにそのときに必要だといわれた書類がどんな書類なのか、よくわからない)

 火曜日、一日中、ぐだぐだと休むつもりが、本棚の入れ替え、換気扇の掃除、洗濯をする。
 仙台、火星の庭に文壇高円寺古書部の補充分を送る。
 夕方、ルネッサンスでコーヒー。帰りに南口の業務用スーパーでいろいろ買物をする。

 ようやくジョージ・ミケシュ(マイクス)の本を見つけた。『ふだん着のアーサー・ケストラー』(晶文社)がこんなに入手難だとはおもわなかった。ミケシュは“人間智”の深い作家だと確信する。イギリスの亡命文化人のネットワークも気になる。読みたい本を探していると、行動範囲が広がる。いつもより歩く。どこに向かっているのかわからなくなる。

2010/03/13

いろいろと…

 ブックマーク・ナゴヤの「第三回 リブロ大古本市」(3月20日〜4月18日)に出品する本の準備。とりあえず、百冊、送った。

 一箱古本市は二日にわけて、二つの商店街で開催予定。
日時:3/20(土) 11:00 〜 16:00
会場:円頓寺商店街 (名古屋市西区)
その他コンテンツ:
写真紙芝居&トークショー「B級スポット本ライターによるB級スポットの楽しみ方」(大竹敏之)
ストリートLIVE etc…

《一箱古本市 in 覚王山》
日時:4/3(土) 11:00 〜 16:00
会場:覚王山商店街・日泰寺参道 (名古屋市千種区)
その他コンテンツ:
「痕跡本てなに?」 トーク&一箱古本市痕跡本ツアー(古書 五っ葉文庫)
ストリートLIVE etc…

 蔵書は減らないが、棚は入れかわってきた気がする。
 今、これまであまり読んでこなかった傾向の本を集めはじめているのだが、数ヶ月経つと、好きな作家、読みたい本はことごとく絶版であることが判明する。いきなり壁にぶちあたる。
 わたしがいちばん読みたい作家の自伝にあたるような作品は翻訳されていない。作家の自伝、売れないのかなあ、そんなことないとおもうのだけどなあ。

 ある方からケストラーの『機械の中の幽霊』(ぺりかん社)をいただいた。
 また別のある方からハンガリーの思想家、科学者の話を一時間くらい聞くことができた。
 自分の意志ではなく、本と言葉につきうごかされて迷走しているかんじだ。それはそれで楽しい。

 神保町の三省堂書店の八階の古本市、予想していたより本が多くてびっくりした。

 今日は午前中、西部古書会館、昼、神保町、夜、荻窪のささま書店。ささまでアホアホ本の中嶋くんと偶然会い、邪宗門でコーヒーを飲む。
 パソコンのことをいろいろ教えてもらったが、便利すぎて人間はアホになるのではないかという話になる。

2010/03/10

懐疑論者

 外市翌日、一日中、部屋にひきこもる。読書数冊。時間があっという間にすぎる。

 今、アーサー・ケストラー著『機械の中の幽霊』(ちくま学芸文庫)を探しているのだが、まったく見つけられない。古書価も高くなっている。復刊の予定はないのか。

 疑似科学にたいする免疫をつけておく必要があるとおもい、ひまなときに科学の本を読む。オカルトも科学も同じくらいわからない。専門領域になると、素人には検証できない。ただ、そこにどのくらいの人がかかわり、どのくらいの時間とお金をかけて研究されたかというのは、素人なりの判断材料にはなる。

 先週の『週刊朝日』に「トヨタ叩きは米国の“謀略”」という記事があった。その中に「国防総省が開発した電子銃のようなもので、強力な電磁波攻撃がなされ、電子制御システムがやられたのではないか」(元帝京大学教授の宮崎貞至氏)というコメントが掲載されていた。

 もし事実だったら、とんでもないことだけど、証拠はあるのか。証拠もなく、こんなことをいって大丈夫なのか。
 そのあと「現実性に欠ける」という別の学者の意見も紹介している。

 わからないことを安易に信じないように常に自戒する。

 最近、大きな地震が起きるたびに米軍の電磁波のせいだとする陰謀論が出てくる。
 ほんまかいな。

2010/03/04

近況

 気がつけば、三月。
 ちょっと油断して背中に貼るカイロをつけていなかったら、腰痛の二、三手前の兆候が出る。からだを冷すとすぐこれだ。無理をせず、おじいさんのようにゆっくり動くしかない。

 月末しめきりの『小説すばる』と『ちくま』の原稿が一段落して、ちょっと気がぬける。
『小説すばる』は、先月亡くなった浅倉久志さんの編訳した『ユーモア・スケッチ傑作展』(全三巻・早川書房)を紹介した。
 あらためて浅倉さんの文章はいいとおもった。読みやすいだけでなく、ひっかかりもある。
『ちくま』でも『ユーモア・スケッチ傑作展』に出てくるハンガリー出身で英国に帰化した作家の本について書いた。

 今週末(六日・七日)の「外市」に出品する本の集荷にきてもらう。
 そのあと来週、発送予定のブックマーク・ナゴヤのリブロの大古本市の本の値段付する。

 昨日夕方、神保町に行った。
 畠中さんが東京堂書店の三階からふくろう店に移る応援イベントとして、石田千さんが今月のはじめから六日間店長(〜三月六日)をしている。

 買おうとおもっていた本を何冊か畠中さんにいうと、ふくろう店ではなく、本店にあることがわかり、取りにいってもらった。
 畠中さんが書肆アクセスにいたころ、しょっちゅう店にない本をあちこちに問いあわせて探してもらったことをおもいだした。

 神田伯剌西爾でマンデリン。家に帰って、先日高松で買ったうどん(乾メン)を作る。同じ商店街で「混合だし」というのも買ったのだが、とにかく、うまい。しかも、安かった。どうしてもっと買ってこなかったのかと後悔する。

2010/02/26

怪作にして傑作

 旅の疲れのせいか、頭がまわらん。こんなときは漫画を読むにかぎる。
 ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)は、すばらしい作品だった。

 古代ローマの建築家ルシウスが、タイムスリップして日本の銭湯や温泉にタイムスリップする。荒唐無稽としかいいようがない話なのだが、とにかく読まされてしまう。

 SFの要素よりも、ローマと現代日本の文化、そして時代の比較(ズレ)が、ふざけ半分まじめ半分に描かれている。

 ルシウスは、世界に名だたるローマ人としてのプライドをもっているのだが、現代の日本の銭湯にやってきて、「なんという文明度の高さ……!」とカルチャーショックを受ける。
 主人公にとって、富士山の絵もケロリンのおけも巨大な鏡も衣類かご、フルーツ牛乳など、見るものすべてが斬新なのである。
 彼は日本語がわからない。ゆえに、コミュニケーションはとれない。だが、建築家、技術者の目で日本の風呂文化を(ときどき誤解しながらも)どんどん吸収する。
 そして再び古代ローマに戻ると、日本で得た知見をいかして、新しいローマ風呂を次々と考案する。

 堪能、堪能。温泉に行きたくなる。

2010/02/23

小移動の記

 倉敷に行ってきた。蟲文庫で知久寿焼さんのライブ。独特の、不思議な詞とメロディを本に囲まれた空間で聴くというのは、たまらんでした。
 打ち上げも楽しく、あっという間に時間がすぎる。
 酔っぱらい運転(自転車)で駅前のビジネスホテルに帰る途中で道に迷う(約二十分)。コンビニの店員がものすごく親切に駅までの道順を教えてくれる。

 カメラマンの藤井豊くんと会い、翌日(日曜日)、高松に行く。宇野から高松までフェリー片道三百九十円。このフェリーが廃止になるかもしれないという。もったいない。
 高松から琴電に乗って、商店街(シャッターがしまっている店多し)をぶらぶらして、さぬきうどんを食い、讃州堂書店に寄る。地元の喫茶店を探すが、「ガストくらいしかない」といわれる。
 帰りは船ではなくJRで岡山に戻る。岡山から大阪に行って、ちょうちょぼっこに寄る。ブックオフに寄って、梅田のサンルートに(リニューアル記念かなんかで安くなっていた)。

 月曜、正月に三重に帰ることができなかったので、難波から近鉄で鈴鹿に行くつもりだったが、その前に京都に行く。阪急で河原町まで行って、六曜社に寄って、出町柳でレンタサイクルを借りて、恵文社一乗寺店、ガケ書房、善行堂をかけあしでまわる。
 思文閣の地下の店で鍋焼きうどん(わたしの理想の鍋焼うどん。いたって普通の味)を食う。
 京都滞在二時間半というのは最短記録かもしれない。

 京阪、近鉄を乗りついで帰省する。
 鈴鹿は不況らしく、ブラジル人がたくさん国に帰ってしまって、アパートやマンションがガラガラだという話を聞く。親の住んでいるマンションもあちこち不具合が出ている(なかなかお湯がでないとか)。
 ここ数年、親元に帰るたびに、新たな親族関係の謎を知ることになる。昨年亡くなった母方の祖母のところにいた謎のおばあさんが、祖父(大工・あまり仕事をしない人だったらしい)の乳母だったという事実が判明する。父方のほうにはいとこで編集者(漫画関係?)がいることも知った。

 周辺の県道はチェーン店銀座と化している。「まさかこんなところに」とおもっていたブックカフェらしき喫茶店はなくなっていた。そのあと焼肉屋か焼鳥屋になりそう。

 ベルシティ(ショッピングモール)のブックオフに行く。ドトールに買ったばかりの本を忘れる。取りに戻ったら、そのまま座席の上に置いてあった。
 鈴鹿ハンターで福助のあられとコーミソースを買う。財布の中を見たら、帰りの電車賃が足りないことに気づき、年金生活をしている親から金を借りることに……。

 夕方、名古屋に出る。エスカ(地下街)で格安チケットを買い、すがきやのラーメンを食って東京に帰る。

 三泊四日で八万歩くらい歩いた。
 これから仕事をせねばならぬのだが眠い。

2010/02/11

エレクトロニック・ジャーナリズム

 すこし前に、アマゾンの倉庫で働く人の映像を見た。巨大な倉庫の中をどこに何があるのかを表示する機械(コンビニやスーパーのバーコード読み取り機みたいな形をしている)を手に持ち、その番号にしたがって商品を探す。
 棚には本だけでなく、アマゾンで販売されている電化製品から雑貨まで無秩序に並んでいる。
 著者別や出版社別に並べてあるよりも、どんどん棚のあいているところにモノをいれ、機械の指示で探すほうが効率がいいのだそうだ。

 人間は機械が示す数字にしたがって動く。本も鼻毛切りカッターもぬいぐるみも同じ扱いである。いかに素早く数字の示す場所にたどりつけるか。仕事で問われる能力はそれだけである。
 そのうち商品探索運搬用のロボットが開発されるかもしれない。もしくは倉庫自体が巨大な自動販売機のようになるかもしれない。

 二十年くらい前、かけだしのフリーライターのころ、手書の原稿をワープロで打ち直すアルバイトがあった。たしか一文字五十銭という相場だった。しばらくすると、その仕事は手書の原稿をスキャナーで読み込んで、誤変換したものを直すようになった。
 その後、電子メールで原稿がやりとりされる機会が増えた。

 テープおこしの仕事もずいぶんやった。
 海老沢泰久さんの取材のテープをおこすアルバイトもしたことがある。その報酬でアップル社のノートパソコンとプリンターを買うことができた。

 仕事先ではじめて紀伊国屋書店のホームページを見たとき、あまりの便利さにおどろいた。
 これまである著者の本が何年何月にどの出版社から出ていたかということを調べるのは、かなり面倒な作業だった。著作リストを作るために何日も図書館に通った。それでもわからないことが多かった。
 インターネットですべて調べられるわけではない。でも検索ボタンひとつで大半のことがわかる。この大半のことがわかるのに、かつてはものすごく時間がかかったのである。

 アンディ・ルーニーの〔男の枕草子〕シリーズの『下着は嘘をつかない』(北澤和彦訳、晶文社、一九九〇年刊)に「エレクトロニック・ジャーナリズム」というコラムがある。

《ほとんどの新聞記者はいま、さまざまな形でビジネスに入りこんでくるテクノロジーのことを心配している。オフィスがコピー機器を導入しはじめたときに、カーボン紙の製造業者が感じたにちがいない危機感である》

 新聞はテレビ・ニュースが普及しても生き残った。
 しかし、ルーニーは「もし新聞自体が紙でなくなり、個人の家庭にあるコンピュータのスクリーンに呼び出す画像となる日が来たら、記者たちがこのビジネスなればこそ愛していたものの多くは消えてしまうだろう」という。

 二十年前のルーニーの懸念は、かなり現実化している。

(……続く)

2010/02/10

電子と古本

 あと数年もすれば、電子書籍はかなり身近なものになるだろう。わたしも巻数の多い漫画(さいとう・たかを『ゴルゴ13』や横山光輝『三国志』など)が電子書籍端末で読めるようになったら、すぐにでも導入したい。おそらくわたしは携帯電話(いまだにもっていない)よりも先にアマゾンのキンドルかアップルのiPadを買うような気がする。

 とはいえ、書籍の大半がオンラインで販売されるようになったら新刊書店はどうなるのか。

 ひとつ考えられるのは、幻想文学フェアとか旅行本フェアとか料理本フェアとか、雑誌の特集をつくる感覚で本を売ることのできる書店、書店員は今以上に重宝されるとおもう。

 また電子書籍端末が普及すれば、著者は出版社を通さなくても、著作を流通させることはそれほどむずかしくなくなる。すでにそのためのソフトも開発されたか、開発中だという話もある。

 そうなると出版社が著者に原稿料や印税を払うのではなく、著者が編集者にプロデュース料のような形で報酬をはらうようになるかもしれない。
 もちろん出版社の力やプロデューサーの才能で「売れる本」を世に出すということもあるだろう。

 わたしはインターネット配信で音楽を購入したことがない。レコードもしくはCDのようなモノの形をしていないといやなのである。本もそうである。本やレコードは、買うだけでなく、売る楽しみもある。
 しかしそういう楽しみ方をしているのは、ごく少数のマニアだという自覚もある。
 そもそもマニアは、たくさん売れるものより、絶版本や限定盤のような稀少価値のあるものを好む。
 電子出版が盛んになれば、紙の本はマニア向け商品として流通するかもしれない。ディスプレイで活字を読むことに抵抗感がある人は、少々割高でも紙の本を買うだろう。

 古本屋はどうなるのか。
 客の立場からすれば、この先も古本屋をまわって店の棚から本を探して買いたいとおもっている。しかし古書価が一万円の本が、電子書籍で千円で買えるとすれば……。
 
 漠然とおもっていることをいえば、行きつけの飲み屋で酒を飲むように、行きつけの書店や古本屋で本を買うようになればいいなとおもう。たとえば、店主や店員の人柄がよくて、常連客の憩いの場になるような店作りをする。もしくはガンコ職人の寿司屋のようにひたすら良質なネタ(本)で勝負する。安さあるいは蔵書量で圧倒する。いろいろなイベントをする。

 いずれにせよ、何らかの方向性を打ちだせないとかなり厳しくなるとおもう。それは電子出版以前の問題でもあるし、フリーライターにもいえることである。

(……思索中)

2010/02/07

SUMUS 晶文社特集

『sumus13 まるごと一冊 晶文社特集 付録・晶文社図書目録1973.5』(発売元・みずのわ出版)ができました。

 わたしも原稿を書いたが、今回の号はどんな内容になるのか予想できなかった。宅配便の箱を開け、袋をバリバリ破り、一冊取りだす。これはいいですよ。同時にこれはいかんともおもった。まだ未入手の晶文社の本がたくさんある。「あなたの好きな、思い出に残る晶文社の本を教えてください」というアンケートを読み、ほしい本が増えた。しかも入手の難しそうな本ばかりだ。

 晶文社は、エッセイ、コラム、インタビュー、対談など雑多な文章を寄せ集めた本、大きい本、小さい本、横長の本、遊び心のある本をたくさん作った。わたしが最初に読んだ晶文社の本は、山本善行さんも紹介していた『鮎川信夫詩人論集』だった。

《そのときには、さしたる考えもなく、いわばちょっとした気まぐれで選択したにすぎないと思われることでも、あとから振返ってみて、それが一生の大事に当たっていた、というようなことはままある》(「中桐雅夫」/『鮎川信夫詩人論集』)

 東京にいた鮎川信夫が、神戸にいた中桐雅夫が発行していた詩誌『LUNA』に参加することになったときのいきさつを回想した文章である。LUNAクラブは、若い投稿家の集まりで、戦後の『荒地』の母胎になった。どうなるかわからない偶然のなりゆきに身をゆだねる。わたしの場合、『sumus』に参加することでその面白さを味わった。

 というわけで。本日、早稲田の古書現世と池袋の古書往来座で『sumus13』を配本。

 古書現世から歩いて、途中、雑司ケ谷のキアズマ珈琲で休憩し、古書往来座に行く。古書現世で『思潮社35周年記念』の冊子を買う。はじめて見た。古書往来座では伊馬春部著『土手の見物人』(毎日新聞社)などを買う。

 数日前にちょうど古山高麗雄著『八面のサイコロ』(北洋社)の森敦との往復書簡形式の連載分を読み返し、伊馬春部の名前を見たところだった。『土手の見物人』の中には「“ぴのちお”回想」という阿佐ケ谷の話も収録されている。

2010/02/02

大村君のこと

 尾崎一雄の短篇に「大村君のこと」という作品がある。
 大村君は二十五、六歳の青年。会うなり、N・S先生を紹介してほしいと頼まれる。N・S先生は志賀直哉のことだろう。

「初対面で人柄も何も一切判らぬ人を、ある人へ紹介するといふのは、無理なことではないでせうか」とやんわり断ったものの、大村君は納得のいかない様子だった。

 しばらく大村君は「私」のところに出入りする。大村君は文学や美術について熱く語るが、薄っぺらな意見しかいわない。「私」が体調を崩して、布団で寝たままになっていても、お構いなしに幼稚な質問をくりかえす。
 そのうちN・S先生の家に勝手に伺い、しばらくして「来ても無駄だから」といわれる。N・S先生以外にも、あちこちで出入り禁止になっている。

 大村君は一流好みで自分に芸術の才能があると勘違いしている。芸術家は多かれ少なかれ、そういった気質がある。
 戦後、大村君は郷里に帰り、父や兄が経営している木綿織物の仕事を手伝うようになる。商売は好調で、書画を買い漁り、同人誌のパトロンのようなことをしている。「私」は大村君が地に足のついた生活人になってくれることを望んでいる。

 ひさしぶりに会うと、あいかわらず、大村君は、諏訪根自子のところでヴァイオリンを習いたいなどといいだす。
 当然、「そりや無理だよ」と諌められる。

 やがて商売が不調になり、相手にしてくれる友人知人はほとんどいなくなった。これまで集めた書画を売り払い、食いつないでいる。

《野心と功名心に鼻づらを引廻され、自分では何のことか判らず、がむしやらに右往左往してゐる大村君の様子は、動物や昆虫が、その本能に操られて一途になつてゐる様とひどく似てゐると思はれてならなかった》

 この作品を読んで、大村君には何が足りなかったのかと考える。


(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2010/01/25

怠け癖

 最高気温が十度以下になる日は、二時間以上外にいると、かなりの確率で体調をくずしてしまう。
 サッカーのカズ選手が休息をとるのも仕事のうちだといっていた。数々のカズ語録の中でこの発言だけはおぼえている。
 常々わたしもそのとおりだとおもっていたからだ。

 自分を甘やかしすぎているという説もあるが、ほどほどの怠惰というのは、人として素晴らしいことなのではないか。何事にもかえがたいものなのではないか。
 しかし、ほどほどを持続することは極めて困難なことでもある。
 つい怠けすぎたり、働きすぎたりしてしまう。

 すこし前の『AERA』に羽生善治さんのインタビューがあった。

《若い時は別に何も考えなくても決断する力ってあるんですよ》

《だんだん経験を積んでいろいろなことを知ると、選択肢が増えるので、最後の決断をする力の比重が大きくなってくる》

 そのため齢をとればとるほど思いきった決断をすることがむずかしくなるという。

《ちょっと粗削りな部分とか、危なっかしい部分は必ず自分の中に持っていないと停滞してしまうので。決まったサイクルの中をただ回るということになってしまいます》

『羽生善治 挑戦する勇気』(朝日選書)でも「経験が常にプラスになるとはかぎらない」という言葉がある。

《たくさんの経験を積み重ねてしまうと、考える材料が増えてしまう。考える材料が増えることで、かえって迷ったり、心配したり、怖いと思ったりする気持ちが働くことも多くなるわけです》

 あまりにも無計画のまま、何かはじめるのはそれはそれで問題があるかもしれないが、情報や経験に頼りだすと、わけのわからないまま行動することがむずかしくなる。もちろん経験を積む中で「粗削り」で「危なっかしい部分」を持ち続けることはもっとむずかしい。つまり、安定志向ではいかんということだ。安定志向になると、すぐに結果の出ないことや失敗のおそれがあることを避けるようになる。

 わたしの場合、まとまらないことを書かなくなる。
 現在、反省中。

2010/01/18

コクテイル移転

 ブログが更新できずにいる。寒くて、ずっとコタツにはいっているからだ。コタツのある部屋だと、インターネットにつなぐことができない。
 昨年中の疲れをとろうとおもってのんびりしていたら、怠け癖がついてしまった。

 蔵書減らしは目標の六割くらい達成した。まずまずの結果である。

 古本酒場コクテイルのあづま通りから移転するため、この一週間くらい通いつめていた。
 昨日は外市の打ち上げのあと、アホアホ本の中嶋くん、蟲文庫の田中さん、海ねこさんと午後十一時ごろ、店に行く。
  
 前野健太さんのライブもあり、最後の最後まで大盛況だった。そのあと桃太郎寿司に行って、ささま書店のNくんにごちそうになる。

 ここ数年、仕事の打ち合わせの大半はコクテイルでしていた。
 自分の部屋以外でもっとも長い時間をすごした場所かもしれない。

 新店舗は高円寺の北中通りで、三月上旬あたりから営業再開するそうだ。
 これまで以上のいい店になるとおもう。

2010/01/03

新春

 大晦日に風邪をひいて、帰省中止。熱は一日でさがった。
 正月を東京ですごすのはひさしぶりなのだが、この三日くらい家から出ずに、テレビを見て、本を読んで、寝てばかりいる。雑炊ばかり食っている。ホホホのホソキ、カカカのカズコのCMが鬱陶しい。

 年末から中古CD屋で買ったORPHEUS(オルフェウス)という一九六〇年末から七〇年代はじめにかけて活動したバンド二枚組のベスト盤を熱に浮かされたように聴き込んでいる。
 当時、流行したフォークロック(サイケ風)の音なのだが、いきなり円熟の域に達している。ボーカル、コーラスが渋い。難をいえば、印象が薄い。癖がない。ジャケットの写真を見ても、リーダーのブルース・アーノルドは丸顔、メガネ、ヒゲでコンピューターのプログラマーみたいだ。

 ひまつぶしがてら、インターネットを見ていたら、DON COOPER(ドン・クーパー)のホームページがあった。一九八〇年代後半に、恐竜の歌や昆虫の歌を集めたアルバム(たぶん子ども向け)を作っていて、最初は同姓同名かとおもったが、声も曲もまぎれもなく、七〇年代のドン・クーパーそのものだった。彼の人生になにがあったのか。でも顔は別人。ふっくらとして幸せそうな顔で笑っている写真を見て安心した。
http://www.doncoopermusic.com/about.php

 月日が経つと、なぜこの人が売れてこの人が売れなかったのかということがわからなくなる。渦中にいるときはもっとわからない。ちょっとした運不運、タイミングのズレが、気がつくと大きな差になっている。
 主流があり、傍流があり、傍流のそのまた傍流があり、そうしたいくつかの流れがある中で、「自分がどこにいるのか」を知る。知らないと流れに乗ることも抗うこともむずかしい。でもいちばんむずかしいのは「自分がどこにいるのか」を知ることか……今年最初の堂々巡り。
 
 古本であれば、一九七〇年代の文学やエッセイというのは、そんなに古いかんじがしない(すくなくともわたしには)。
 中古レコードの場合は、レコードからCDにきりかわり、楽器や録音技術の進歩がこの四、五十年で激変した分、一九七〇年代の音楽と今の音楽とのあいだには、けっこう大きな断層をかんじる。
 オルフェウスとドン・クーパーは同世代のミュージシャンで音質が似ているとおもう。声、曲調の「陰り」も通じるものがある。その「陰り」が、七十年代か八十年代のある時期に変質した。

 話は変わるけど、近い将来、中国の富裕層が中古レコードや古い漫画を買いあさりに来るのではないか。そうなったら、というか、すでにそうなっているという噂をちらほら聞く。
 好きな中古レコードや古本が安く買えるのは嬉しいが、所有しているレコードや本がどんどん安くなるのは複雑な気持である。
 この数年、レコードが安くなったなあと喜んでいたら、好きな中古レコード屋がどんどん閉店してしまった。
 中国の経済成長が日本の中古レコードと古本業界にどんな影響をおよぼすのか、およぼさないのか。それがわたしの生活にどう関係するのか。

 新年早々とっちらかったことを書きつらねてしまった。やっぱり病みあがりの酒はまわるね。