2009/08/05

批評のこと その八

 動く前に考えるか、動いた後で考えるか。
 同じ考えるでも、ずいぶんちがうのではないかとおもう。

 仕事をしていても、引き受ける前にいろいろ悩むのだけど、(後悔もふくめて)引き受けた後に悩むことのほうが、得たものは多い気がする。
 現実のきびしさを突きつけられて、わかることはバカにできないものだ。

 昔、ある人の文章で、フリーの仕事をするのであれば、一年分くらいの生活費をためておいたほうがいいというような話を読んだことがある。
 フリーの仕事は、収入も不安定だし、失業保険もない。それはそれで有効な助言だとはおもうが、すくなくとも、わたしのまわりには、そんな堅実な計画を立てて、フリーになった人間はいない。
 わけもわからずはじめて、わけもわからず貧乏して、人に助けてもらったり、アルバイトしたり、それでもやめずに続けているうちに、いろいろ仕事をおぼえる。自分の能力(才能)の不足をおぎなったり、ごまかしたりする術を身につける。
 ふりかえると、ほんとうに冷や汗が出るようなあぶなっかしい道を歩んでいる。

 そういいつつも、二十年前にフリーの仕事をはじめるのと今とでは、条件がちがう。今のほうが、たいへんだとおもう。
 それでも条件のよしあしにかかわらず、やる人はやるし、続ける人は続ける。

 若き日の小林秀雄は、「賭は賭だ、だから嘘だ」といっていたけど、結局、何かに賭けるしかない。賭けないという人生を選ぶことだって、賭けの一種といえる。

 小林秀雄に「青年と老年」(『栗の樹』講談社文芸文庫)というエッセイがある。

 正宗白鳥は「つまらん」というのが口癖だった。それでも「つまらん」といいながら、あきもせず、本を読み、物を見に出向いていた。
 そんな正宗白鳥のことを「『面白いもの』に関してぜいたくになった人」と小林秀雄はいう。

《私など、過去を顧ると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始まったように思うのだが、さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ》

 四十歳を前にして、この文章を読み、ちょっと救われた気持になった。

 自分の感覚が鈍ったのが、好奇心が衰えたのか、あるいは「『面白いもの』に関してぜいたくになった」のか、何をしても、停滞感をおぼえることがふえた。
 若いころは、世間のかたすみでひっそり、好きなことを続けられたらいいなとおもっていたけど、年々、情熱の持続の困難さを痛感している。

 いろいろなものがつまらなくなっていく。
 自分がつまらなくなっていく。

 そうした気分から脱け出すには、どうすればいいのか。

(……続く)