2009/08/04

批評のこと その七

 自分の考えていることに一般性はあるのか。ないとすれば、どのくらいないのか。世の中と自分のズレ、しっくりこないかんじ、そういうものを埋めるために、本を読んだり、文章を書いたりしているところがある。

 ここ数日、大岡昇平著『中原中也』(講談社文芸文庫)を読みかえしていた。

 中原中也の亡くなって十年後、大岡昇平は山口県の中也の故郷をたずねる。
 そこで告別式のときに飾られた無帽背広姿の中原中也の写真を見る。そして中原中也にたいする考えが変わったという。

《生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人の姿がここにある》

 中原中也は、詩を書いたから詩人になったのではなく、詩人にしかなれないから、詩を書くしかなかったという詩人だ。

 大岡昇平は『中原中也』の中で「多分富永太郎宛の手紙の下書」という一行のあとの小林秀雄の文章が紹介している。

《雨が降る何処にも出られぬ。実につらい、つらい、人が如何しても生きなければならないといふ事を初めて考へたよ。要するに食事をしようといふ獣的な本能より何物もないのだな。又それでなければ嘘なのだな。だからつらいのだな。芸術のために生きるのだといふ事は、山椒魚のキン玉の研究に一生を献げる学者と、何んの異なる処があるのか。人生に於いて自分の生命を投げ出して賭をする点で同じぢやないか。賭は賭だ、だから嘘だ。世には考へると奇妙なセンチメンタリスムが存在する者だ》

 二十代のころ、わたしは小林秀雄のこの「手紙の下書」を引用したエッセイを書いたことがある。

 小林秀雄は、「新人論」を書けといわれ、「僕の身のうちに青春が感じられる限り、新人という名前は、僕の興味を惹かない。(中略)ほって置いても消え易い火に、何故水をかける様な事ばかりしているのか」(「新人Xへ」/『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫)と語る。

「賭は賭だ、だから嘘だ」とおもう小林秀雄は、小説を書かなくなり、批評家になる。

 小林秀雄は「新人Xへ」で、いかに新しい批評方法を論議したとしても、その声は文壇を離れて遠いところまでとどくものではないというようなことも述べている。
 批評についてあれこれ考えていると「山椒魚のキン玉」という言葉が頭をちらつく。世の中の多くの人は、そんなものには興味がない。

 でも「人生に於いて自分の生命を投げ出して賭をする」ことは「嘘」なのか?

(……まだ続く)