2008/11/06

温故知新

 昨日は家事に専念。掃除。本の整理。毛布と布団カバーの洗濯をする。コタツ布団を出す。午後は歯医者。治療費二千円ちょっと。あと一回で終わる。合計七千円くらいになる。前もって教えてくれた。夕方、うどん作る。夜、うどんの残りつゆを利用してブリ雑炊を作る。

 京都百万遍の古本市で平野謙の『志賀直哉とその時代』(中央公論社)を買った。三冊五百円の均一の残り一冊何にしようかなとおもって手にとって目次を見たら、すこし前に孫引きした「浅見淵」に関する文章が収録されていた。
 浅見淵は『続昭和文壇側面史』の中で室生犀星が、亡くなるまでにふたりの女性の面倒をみていたという話を紹介し、「犀星の晩年の作品が、色っぽかったゆえんの謎も、これで解明されそうである」と書いている。その指摘を読み、平野謙は「浅見さんの人間智」と評した。

「人間智」という言葉にいだいていた印象とは微妙にちがうのだが、単に言葉の意味を読み解いて文学理解するだけでなく、作者の生理のような部分まで認識する力が浅見淵にはあったのではないか。

 浅見淵、あるいは尾崎一雄もそうだが、わたしが彼らの作品を読みはじめたときは、完全に時代遅れの作家ということになっていた。

 日本の近代文学は、西洋より遅れているとおもわれていて、当時の知識人は、新しい思想、文学を西洋に学ぶことが多かった。海外の新しいものを学んだ人が古いものを学んだ人を駆逐する。そうやって世代交代してゆくうちに、だんだん西洋と日本の差がなくなってきた。

 すると、今度は新しいか古いかということより、視野が広いかどうかということが問われるようになる。私小説は古いのではなく、単なる身辺雑記で視野が狭いと批判される。世の中を俯瞰する視点があるかどうか。どれだけさまざまな文化に精通しているか。批評の世界はその高さを競うようなところが今でもある。
 俯瞰する視点が高くなればなるほど、視野は広くなるけど、その結果、あらゆるものが等価なんだというような思想も出てくる。

 その考え方からすれば、古いものにもプラスとマイナスがあり、新しいものにもプラスとマイナスがあるともいえる。わたしが「精神の緊張度」とか「人間智」といったことを考えているのも、そこに何らかのプラスの要素があるのではないかとおもってのことだ。

 平野謙は「人間そのものに対するみずみずしい好奇心みたいなもの」が「昨今の若い批評家」には欠乏しているといって、物議をかもしたことがある。浅見淵が亡くなった一九七三年ごろの話である。

(……未完)