2008/10/22

浅見淵

 平野謙が「人間智」の持ち主であると評した浅見淵に『昭和の作家たち』(アテネ新書、一九五七年刊)という本がある。

 この本の「はしがき」では、平野謙が文芸時評について「テキ屋仲間の符牒のようなこんな時評文を一体誰が読むのだろう」という文章を引きながら、文芸時評にたいする自分の考えを述べている。

《流行の尖端、流行の不易性、新しい精神乃至技巧、時代性、——つまり、文学の不易性といつたものを対照として、月々の雑誌小説から以上のような新現象を見出した時、それらの新現象の今日的な位置、意味、それから価値などといつたものが、時評家の勘にピンとくる。もともとはジャアナリズムの要請によつて雑誌小説を繙読したものながら、それらが時評家の興味を刺戟して、結果において却つて積極的に筆を執らしめているのではないか》

 文芸時評にかぎらず、批評の意義をいいつくしている。でも浅見淵のおもしろさはもっと別のところにある。

 かつて浅見淵は、尾崎一雄の「もぐら横丁」という小説について、「過去からの発掘ということは、同時に、なんらかの意味で、未来に繋がる芽を発掘するということになることに於て、初めて意義があるのではなかろうか」と批評した。つまりこの作品には、それがないと。

 それからしばらくして浅見淵は病床にいた尾崎一雄をたずねた。
 尾崎一雄は「前向き批評を書いていたね」と笑った。

《不図、前記の僕の言葉が、いかにも健康人相手に物をいつているような気がして来て、なんとなく赤面されたのだつた》

 こんなふうに赤面してしまう感受性こそが浅見淵の批評の魅力であり、平野謙のいう「人間智」もそれと関係あるのではないかとおもった。