2008/09/18

続々・精神の緊張度

《今、自分の内圧を目一杯高めて文章を書くのがいいのか、それともある程度生活を整え、余裕のある状態で書くのがいいのか。そんなことについて、いろいろ思案している》(前掲「文学的自己肯定について」)

 二十九歳のわたしは「精神の緊張度」ではなく「内圧」といっている。でも意味するところは近いとおもう。今、読むと、言い訳やら誰かにたいする反論やら、そういうものがごちゃまぜになっていて、何がいいたいのかわからないところもある。
 当時の事情をすこし説明すると、商業誌の仕事を干されていて、まったく先の見えない状態で、生活も情緒も不安定だった。

 それはさておき、そもそも「精神の緊張度」という福田恆存の発言はどういうものだったのか。
 西秋書店のNさんに電話をして、臼井吉見監修『戦後文学論争』(上下巻、番町書房、一九七二年刊)の在庫を確認してもらう。
「ありますよ」
「じゃあ、今からとりに行きます」

 福田恆存の「精神の緊張度」発言は「風俗小説論争」のときの座談会(「批評家と作家の溝」)のときのものだ。出席者は、丹羽文雄、井上友一郎、中村光夫、福田恆存、河盛好藏、今日出海、初出は「文學界」(一九四九年十二月)である。

 この座談会で、福田恆存は、丹羽文雄の作品には、生涯を通して追求しているものがないとかみつく。丹羽文雄は「何を書いても丹羽文雄の小説だと思ふ。それ以外に何があるかね」と反論する。
 それにたいして福田恆存はこういう。

《福田 それは判るんですよ。その點で丹羽さんが非常なモラリストであることは肯定しますよ。だけど、意見とか、見識ぢやないんです。僕の要求するのは、その作家の生活における精神の緊張度みたいなものですよ。これはどんな題材にぶつかっても生涯一つだ。さういふものがわれわれにとつて文學の魅力だと思ふ》

 ちょっと記憶とちがった(※記憶といっても、座談会を読んだ記憶ではなく、臼井吉見のエッセイで読んだときの記憶である。ちょっと補足)。この座談会は考えさせられることが多かった。とくに福田恆存と井上友一郎のやりとりがおもしろい。主役は丹羽文雄と中村光夫なのだが、後半、ふたりともかすんでしまっている。

《福田 例へば現代の風俗とか一般世態、人情さういふものを小説家が書く場合に、完全な肯定の上に立つているとしか思へないんですよ、作品を讀んだところでは。
 井上 懐疑がないといふ意味ですか。
 福田 懐疑もないし、人間の理想、理想的な人間像、人間關係の夢、社會状態がかうあつたらいいとかいふ夢、人間である以上はいろいろ理想があるでせう、それを……。
 井上 しかし理想といふものは具體的なものでせう。
 福田 ええ。それに動かされるやうなことは、風俗作家の中に全然ないんぢやないか。人間とはかうありたいといふ氣もちがない。全然ないか、或は非常に低過ぎる……。さういふことが不滿ですね》

 福田恆存は冴えまくっているのだが、冷静に読むと、井上友一郎が発言をひきだしているようなところもある。
 井上友一郎は聞き上手な印象を受けた(ただ単に焚きつけているかんじもなくはないが)。できれば「精神の緊張度」の話をもうすこしを展開させてほしかったとおもう。