2008/09/19

続々々・精神の緊張度

 福田恆存のいう「精神の緊張度」とは何だったのか。
「批評家と作家の溝」という座談会では、明らかにされていない。懐疑、理想、あるいはどんな題材にぶつかっても生涯一つといいきれるもの。そういわれてもなかなかイメージできない。
 この座談会は一九四九年、昭和二十九年におこなわれたと考えると、その時代にはあたりまえすぎて言葉にする必要のないような価値観を補足したほうがわかりやすいかもしれない。

 たとえばかつての文壇には「俗物」という批判があった。
 中村光夫の「文学の俗化」というエッセイでは、「俗物」を次のように説明している。

《俗物の第一の資格は自己の現在と事物の秩序にそのまま満足することです。ところが文学という表現の世界は、必ず現実に対する不満から生れます。詩ひとつ歌ひとつ作る創作衝動を分析して見ても、そこには現実の秩序からはみだした、表現の世界でしか充足されぬ或る感情がが働いている筈です》

 文士は「俗物」といわれることを恐れた。そういう文壇に蔓延していた強迫観念が、「精神の緊張度」のようなものを生み出していたのではないか。もちろん「俗物」というレッテルをはりさえすれば、相手を否定したことにつながるといった弊害もあったにちがいない。
「精神の緊張度」は、当人の理想の追求だけではなく、かつての文壇にはそうした緊張感があり、文学はかくあるべしというような理想があったことで作られるところもあったのではないか。
「風俗小説論争」は、文学における「理想の喪失」がほんとうのテーマだったともいえる。
「理想の喪失」と「精神の緊張度」は関係あるのかないのか。
 わたしはあるとおもう。安易な理想では「精神の緊張度」は高まらない。

 前回、井上友一郎を「聞き上手」と書いた。
「批評家と作家の溝」という座談会の前に、丹羽文雄、林芙美子、井上友一郎の「小説鼎談」という座談会があった。この中で、井上友一郎が、日本は近代小説の伝統が浅くて、小説を特別なものだというような観念ができているといっている。

《要するに、小説で身を修めるとか、心を鍛えるとか、本末顛倒してゐるような何かが有るのぢやないでせうかね》

 その結果、人間修業が基調になりすぎて、読者を楽しませること、酔わすことがないがしろになっていると。これもまたひとつの見識だとおもう。
 楽しい文学、酔える文学、わたしもそういうものが読みたい。楽しいだけではなく、作者の姿勢が、自分の生き方や人生に響いてくる文学も読みたい。
 今の目で「風俗小説論争」を考えると、読物として楽しい文学と作者の理想を追求する文学は分けて考えたほうがいいような気がする。

「精神の緊張度」とは、かくかくしかじかである。だんだんそうした定義がどうでもよくなってきた。
 それよりも福田恆存が、「精神の緊張度」という言葉をつかって文学を語った時代に興味がうつってきた。
 福田恆存のちかくには、小林秀雄や坂口安吾がいた。
 わたしが「精神の緊張度」という言葉からまっさきに連想した坂口安吾の「教祖の文学」は、小林秀雄批判である。小林秀雄は文学を批評しなくなり、古典や骨董の世界に向かった。坂口安吾はそのことに文句をつける。
 ところが、小林秀雄は小林秀雄で、文学ではなく、絵や音楽を批評するのはわからないからで、わからないことを論じるからおもしろいんだというようなことをいっている。
 骨董にいれこんだときは、まったく文章が書けなかった。金も時間もすべてつきこんだ。頭がヘンになるくらいのめりこんで、はじめて掴むことのできるものがある。小林秀雄は坂口安吾との対談でそんなことを語っている。
 こづかいの範囲で遊ぶのではなく、人生をかけて何かを追求する。
 そういった「精神の緊張度」のようなものこそ、福田恆存は「文学の魅力」といったのではないか。