2008/09/18

文学的自己肯定について(再録)

 小冊子『借家と古本』(スムース文庫、コクテイル文庫)には、友人が作っていた「線引き屋」ホームページに間借り連載していた「文壇高円寺」の原稿をいくつか収録しているが、収録していないものもある。
 収録していないもののひとつに「文学的自己肯定について」という原稿がある。読み返すと、いろいろ甘酸っぱいものがこみあげてくる文章だが、ここ数日にわたって考えている「精神の緊張度」と関係しているとおもうので再録してみたい。

《「文学的自己肯定について」

 先日、自己肯定について友人と話し合った。
 もちろん前向きな意味での自己肯定ではない。退廃思想もしくは退廃体質を抱えた人間がなんとかぎりぎり世の中と折り合っていけるところを見つけ、ちょっとは安心したいものだ、という話である。

 勤勉さを強要されることは苦手だ。嫌いだし、場合によっては憎み、呪うことすらある。そんな自分の感覚に普遍性があるとは思っていない。しかし、少なくとも自分のまわりの友人たちとは共有している、ある意味でかけがえのない感覚でもある。
 ミもフタもないことをいえば、そういう勤勉さを要求される局面では、自分の持ち味が出せない。長年の癖であり、その癖に愛着もある。

 そんなわれわれを目障りで非効率的で非合理な存在だと思って嫌う人がいること。そしてそれは結構世の中の多数派であること。そしてそれが正論であり、良識であり、通りのいい意見であること。
……は、悔しいけど納得はしていないが理解しているつもりだ。しかし、人のいう通り、きちんとしてもいいことがなさそうな気がする。

 でも私は世間とは違う意味で勤勉であったりもする。自分の中の内圧や衝動を高めていくために、妙な自己抑制をしていたり、生活におけるさまざまな不都合、犠牲にも耐えている。それは傍目には無意味に思えるような、くだらない行為であるだろうし、過去を振り返れば冷や汗の連続の愚挙も数多い。そして一貫性がない。同じやり方をしていてはマンネリ化し、刺激をどんどん強めていくしかなくなり、破綻してしまう。

 というわけで、今、自分の内圧を目一杯高めて文章を書くのがいいのか、それともある程度生活を整え、余裕のある状態で書くのがいいのか。そんなことについて、いろいろ思案している。

 余力で文章を書いて面白くなければ、ただ楽をしていることになる。
 生活習慣がだんだん骨絡みになると、もう他人があれこれいったところでどうしようもなくなってくる。私の朝寝昼起の夜型生活はもうかれこれ十年以上にも及ぶ。ヘタに規則正しい生活をすると、からだの調子を崩す。また物心ついたときから、体力のなさを自覚し、なぜ自分をみんなと同じように扱うのか、みんなと平等であることを強いるのか、と言いがかりとしか思えない反発心を大事に育ててきた。

 自己肯定と他者肯定のポイントは、その点ではわりと誠実に一致させているつもりである。でももうちょっと他人に寛大になった方がいいと思うこともある。

 勤勉さの強要は困る。しかし、いっとくけど、それをまるっきり否定するつもりはない。こちらとしてはできるだけ尊重したいと思っている。

 年とともに、堕落し、狡猾になった。それなりに世の中にもまれた結果の心境の変化である。立場の対立だけでなく、お互いの信頼を前提としながら、いかに対立した意見を交わしあえるか。一刀両断とか、斬り捨てという行為よりも、より渾沌に耐え、自分の実感を深めながら、他人を許容する。

 そういう関係を自分の理想とするようになった。

 ハンパな部分を批判するのは簡単であるが、そのハンパさが自分としてはどうすることもできない場合、そこを否定してしまっても、幸せになれないような気がするのである。むろん、そのハンパさがわかりやすい実害を人に及ぼしてしまうのであれば、思慮が浅いと反省したい。しかし、だからといって、そんなにすぐに気持を切り替えられるものじゃないし、切り替ったとしてもぎくしゃくするだろう。なんにせよ、気長に構える必要がある。

 考え方、行動の変化は自分の内面をつきつめていった結果というよりは、外部の変化、自分をとりまく状況の変化に迫られるケースが多い。それは悪いことばかりではない。ただあまりにも外の変化に合わせてばかりいると、自分の中にある愛着が弱ってくる。しかし、その愛着を抱えていることが苦しくなる状況の変化というものもある。自分の意志だけでは、なかなか自分を変えていけるものではないように思う。

 私だって「子どもができた」とか「親が倒れた」とかってことになったら、自分のわがままをある程度抑制して、勤勉に働くかもしれない。しかし、そんなことを今から想定し、先回りしておかなければならないとは思わない。戦争になったら、大地震がきたら、隕石が落ちてきたら、もしくは病気になったら……。
 ということはよく考える。むしろ暇をもてあます身、考えすぎるほど考えている。現在の行動の指針は、どうにもならないことを前提にしていると、どうにも窮屈になって、思考、行動が硬直化する。またあまりにも楽観的な前提とした指針は、状況の変化にせまられると脆い。

 とはいえ、自分が自覚して生きてきた時間、なんとかなってきたという手ごたえを軽視した指針など、向き不向き以前に実行する気になれない。

 自分になじむ形で、強固な指針を作っていきたい。できることならその指針が、世界のためとまではいかなくとも、自分の周囲の人には迷惑にならず、多少なりとも役に立ったりすることができればいいなと思う。もちろんそこまで思えるようになるためには、ちょっとした余裕が必要で、そうした余裕をもてる状況をいかに築き上げていくかも問われてくる。またこの余裕というのもクセモノで、表現に関しては、自分の精神の衝動を抑えてしまう効能もある。なにかが足りない、まだ届かないという焦り、危機感が、余裕にとっては邪魔になる。満たされることによって、表現する必要がなくなってしまうこともある。もちろん、そのくらいで満たされてしまうようなものは、そもそも「表現する必要がないもの」なのかもしれないが……。

 いや、衝動の昇華の仕方、それこそが表現の核だと思うのである。
 腹が立つ。だから殴る、蹴る、罵倒し尽くす。単純に衝動の昇華ということだけを考えたら、それでいいわけだ。当然、やり返されるというリスクもあるが。なぜ言葉で表現したいか。なぜよりよい表現がしたいのか。

 論敵を倒すということが目的ならば、相手に物理的ダメージを与えることで事足りる。また、お前はきたない、くさい、せこい、ずるいと貶す、恫喝、脅迫で精神的にまいらせる。矮小なエピソードの数々を暴露、脚色し、発言者の立場を貶める。さらにいえば、裏で糸をひいて、発言の場そのものを潰すのも手っ取り早いか。

 いってることとやってることが矛盾している。当たり前だ。矛盾せずにやれたら、なんで考え、悩むものか。自分が明日からどう生きていくかのために、私は考え、それを言葉にしているのである。私は自分の書くものに、自分の理想を常に託している。できれば、そうありたいという希望も書く。またその考えをガチガチに定めず、振り切らず、ほどよく振幅しながら、ほどよく落ち着き、身になじませていきたいと思っている。

 こうした面倒な手続きそのものが、私は好きだからというのもあるし、ある意味では臆病な考え方なのだろうとも思う。勝ち負けや力の差がはっきり出るような局面はできるだけ回避したい気持が、まぎらわしい迷走に向かわせてしまうのだろう。

 腕力で解決できるなら、表現しようとは思わないだろう。
 生活の持続と衝動の持続のかねあい。

 簡単に結論の出せない問題に取り組むこと。そして簡単な結論が出ている問題にも一ひねり、二ひねり考えてみること。ある意味、世の中の無駄を引き受けることで、現実生活のさまざまなマイナス要因を相殺、突破していくこと。

 それが文学のひとつの道のように思う。また自分自身の拠所である。勝つことが目的なら、気の済むまで殴り合いをしてくれと思う。(1998年10月18日)》

……昔からこんなことを書いていたのです。