2007/06/05

わかっていながらそれが出来ない

 松尾邦之助の本を再読していたら、『癡人の独語』にアン・リネルのことが出てくるとあったので、『辻潤全集』(五月書房)の三巻を読むとにした。

《松尾君はアン・リネエルを「パリの辻潤」と呼んだが、勿論ジュルナリストの気転? で、誰も真面目にとるものはないであろうから安心するが、自分の考え方が彼に似ていることは少しも不思議とするに足りないばかりか、かなり共通的なもののあることだけは事実である》(「自己発見の道」/『癡人の独語』)

 辻潤は、アン・リネルを「インディビジュアル・アナアキスト」、つまり「無政府個人主義者」であるが、「系統はストア派」で、「ストイックの精神抜きにしては彼の所説を論ずることは出来ない」という。

 アン・リネルの話はさておき、辻潤の『癡人の独語』はなんど読んでもいい。読むたびに感化される。似たようなことをおもったり、書いたりしていることに後から気づくことがよくある。

《生きることになんの疑いも持たず、普通の習慣に従って無心に生きられたらどんなに気楽だろう、と自分はいつでも思うのだ。しかしそれが自分にはいつの間にか出来なくなってしまっているのだ。
 なにかしら漠然と物を考えているのが自分の生活の大部分になってしまっている。実行する能力が次第に減殺されてゆく——これはたしかに健康によくないことだと自分は十分わかっていながらそれが出来ないのだ》(「癡人の独語」/同書)

 昨日から今日にかけて、目的もなく、といっても、ぼんやりしているわけでもなく、起きているあいだ、ずっと考えごとをしている。
 休むときに休み、働くときに働く。そういうふうに気持をすぐきりかえられるようになりたい。仕事のときは、遊ぶことを、遊んでいるときは、仕事のことを考えてしまう。
 ずっと意識が散漫で、道を歩いているとき、路上に止まっている自転車やバイクにぶつかってばかりいる。シラフなのに。辻潤にいわせると、意識が散漫になるのは酒精中毒の症状だというが、ほんとうだろうか。

 気分転換しようと、高円寺の北口を散歩する。まもなく高円寺文庫センターが庚申通り移転する。今住んでいるところからはちょっと遠くなる。でも巡回ルートだからいいや。「琥珀」(上京以来、通いつづけている喫茶店)でコーヒーを飲みながら、『癡人の独語』を読む。なんでこんなにおもしろいんだ。

《人間というものはつくづくダメなものだ−−−これが現在の自分のありのままの感想なのであるが、勿論ダメなのは「人間」でなくて「自分」なのはわかりきっている。なにしろひどく叩きのめされたような気がして、頭があがらずひたすら降参している姿である。生きている間は所詮どうにもなるものではない》(「天狗になった頃の話」/同書)

 どうにもなるものではないなら、どうでもいいやという気分になったので、帰りにあずま通りのZQに寄ってみた。この店、かならずいいものがある。チャド・アンド・ジェレミーの「ビフォー・アンド・アフター」というCDを手にとりジャケットを見たとたん、これは買わないと一生後悔するとおもい衝動買い。
 英国のフォーク・ハーモニー・デュオの一九六五年のアルバム、ジャケ買いするの、ひさしぶりかも。
 これは誰がなんといおうと自然かつ必要な欲望だ。そしてチャド・アンド・ジェレミーは予想以上によかった。休日向きCD。

……なんか散漫だな。ここのところ、ずっとそうだ。うわのそら。充電期間とおもいたい。

(追記)
 その後、チャド・アンド・ジェレミーにすっかり魅了される。「The Ark(邦題:ノアの箱船)」は素晴らしい名盤だった。