2007/06/13

仮題

 酔っ払って、懐中時計をなくしてしまう。外出用の時計はこれしかない(携帯電話はもっていない)。
 この日は、中野のあおい書店に行って新刊本をチェックしてこようとおもっていたのだが、連日の深酒でへろへろになっていたので、家に帰って昼寝をする。起きたら、夜の十時半だった。
 飲んで寝て、飲んで寝て、なにもできずに一日がすぎてゆく。でも起きていたからといって、有意義な一日になるとはかぎらない。よくありがちな二日酔いの後遺症の「かっこわるいなあ、はずかしいなあ」というおもいが軽かっただけでもよしとしよう。

 翌日、あおい書店に行って、一時間くらい、店内をうろうろした。好きな書店にいるとそれだけで元気になってくる。ありがたいことだ。

 中野ブロードウェイの鉄道遺失物を売っている店に懐中時計を見に行くが残念ながらなかった。いったん家に帰り、高校の入学祝いに買ってもらった腕時計があったかもしれないと小物入れをあさっていたら出てきた。二十年以上前の腕時計が。ルック商店街のおもちゃ屋で電池交換し、そのまま青梅街道に出て阿佐ケ谷まで歩く。夏の暑さにからだを慣れさせるには歩くのがいちばんいい。

「第二回 永島慎二遺作展」開催中(〜六月十九日)の喫茶室コブでアイスコーヒーを飲み、ガード下を通って、途中、十五時の犬に寄り、竹宮惠子の『アンドロメダ・ストーリーズ』(原作光瀬龍、講談社コミックス、全三巻)を買う。

 ある日、知能の発達した機械が飛来し、人間を支配する。その支配方法は、人間に幸せな夢を見せること。そして機械の支配に王家の双子の姉妹が立ち向かうという『マトリックス』みたいな話だ。といっても『アンドロメダ・ストーリーズ』のほうが二十年くらい早いのだが。

 自分のおもいどおりの夢を見ることができる機械があったとする。最低限の栄養を摂取できるようなシステムもあって、ただひたすら夢を見ている状態……というのは、はたして楽しいのか。

 たとえば、本好きの夢とはなんだろう。

 自分の読みたい本が読み放題という状態だろうか。たぶんちがう。苦労して探すとか、金欠のときにかぎってほしい本が目録にいっぱい出ているとか、まったく知らない作家の本だけど、なんとなく買って読んでみたらおもいのほかよかったとか、いろいろしんどいことを経験することで作品のよさがわかるとか、仕事をしなきゃいけないのに漫画を読んでいるときの後ろめたさとか、そういうことをぜんぶひっくるめて読書はおもしろいわけだ。

 でも『アンドロメダ・ストーリー』のように、現実が荒廃しきっていて、新刊書店も古本屋もない世界だったとしたら? 現実の世界は本がなくて、冷暖房もなくて、食うや食わずの窮地。いっぽう仮想現実の中には古今東西の本があふれていて、寒さも暑さも飢えもない。

 迷うかも、それなら。

 そういえば、竹宮惠子は『地球へ』でも、コンピューターが進化し、神のような存在になって、人間を管理する未来を描いていた。

 機械の発達は、便利になってよい。でも人間のなにか、生物としてのなにかが失われていくような気もする。
 それこそ仕事に関していえば、わたしの場合、家にひきこもりっぱなしでも、どうにかなってしまうようになった。本もインターネットで注文し、編集者とはメールでやりとりできる。
 そんなふうになって、まだ十年ちょっとだ。
 十年前とくらべて、自分は変わったのか。微妙だ。同世代の編集者にいわせると、かえって忙しくなったという意見のほうが多い。
 わたしもハードディスクレコーダーに録りだめしているアニメを見るのに忙しい。