2007/05/03

古谷サロン

 昨日は昼すぎに仕事に出かけるつもりが、起きたら不覚にも午後四時半だった。いつの間に寝てしまったのかそれすらもさだかではない。午後三時ごろに書肆アクセスに行くつもりだったのに着いたのは午後六時だった。午後七時ごろには帰宅しているはずだったのに高円寺に着いたのは午後九時すぎであった。
 これでは予定が立てられない。人と約束ができない。
 目覚まし時計をセットすればいいだけの話なのだが、どういうわけかそれができない。
 性格はどちらかというと几帳面なほうだとおもう。ところが、からだがいうことをきいてくれない。その結果、どうしようもなくルーズな人間になってしまうわけだ。
 しょうがないやつだなあとあたたかくみまもってくれる人間関係を頼りに生きてゆくしかない。そのかわり、わたしも他人の遅刻には寛容になろうとおもう。

 いろいろ反省した後、先日、古書往来座で買った古谷綱武著『弱さを生きる 希望を見失ない絶望したとき』(大和書房、一九七〇年五月)という本を読むことにした。
 カバー扉には「人間の弱さをはね返す知性と勇気!! 無力・苦悩とたたかう心得」と書いてある。
 今の気分にぴったりの本かもしれない。でもそんなつもり買ったわけではない。
 この本の「忘れられない友人」という章には、太宰治、中原中也、川端康成、大岡昇平といった作家が出てくる。

《二回目の同人会は、私の家でひらかれたが、その席で私は、太宰という男をはじめて見た。終始ほとんど口をきかないですわっていたが、和服すがたのきちんとした身なりをしていて、貴公子然とした印象が、きわだっていた。そして『海豹』の創刊号に発表されたのが、和紙二百字原稿用紙にきれいな毛筆の字で書いてい「魚服記」である。つづいて第二号から第四号まで三回にわたって「思い出」が連載された。これは四〇〇字詰原稿用紙にペン字で、しかしたたずまいのきちんとした文字の原稿だった。そういえば、太宰の毛筆の原稿は、その後も私は見たこともないし、「魚服記」は、はじめて出す原稿ではあり、大いに気どっていたのかもしれない。太宰にはそういうところがあった》(「太宰治との出会い」)

 さらに昭和三年に旧制成城高校文科の同級生だった大岡昇平の紹介で中原中也と知りあう。当然、小林秀雄とも会っている。
 その後、中原中也、小林秀雄と長谷川泰子が三角関係におちいり、いろいろあって、小林秀雄が家出をしたとき、古谷綱武は「ぼくも、小林捜しに東京の街をあるかせられた」という。

《小林を失った泰子は、東中野に住んでいたぼくの家のすぐ近くに、ひとりで下宿するようになって、小林の書きほぐしの原稿やメモのはいったカバン一つを、唯一の財産かのようにしていた。逃げ出した小林のことが忘れられなかったのであろう。一時は、一日に一度か二度はぼくの家にきて食事をしていたほど、時間をもてあますゆき所のない女になっていたのである》

 そのころ中原中也は、泰子がふたたび自分のもとに帰ってくるのではないかと期待していた。
 しかし、泰子は「中原をおそれ避けるようにさえしていた」とのこと。

《そのふたりが偶然ぼくの家で出会ってしまって、取っ組み合いの大げんかになったこともある》(「中原中也のこと」)

 こんな話が『弱さを生きる』という題名の本に書かれているとは、ちょっと意表をつかれた。大和書房の銀河選書はあなどれない。

 もう一冊、往来座で買った古谷綱武の『自分自身を生きる 日日を美しく生きるために』(大和書房)も今の仕事の上でたいへん参考になる話が書いてあった。

《本をよんでいると、ふと、ひらめきのように、自分にとってのある新しい考えが、心にわきおこってくることがある。読書は、心の活動に、そういうしげきをあたえてくれるものである。
 ぼくはそういうときには、本をおいてすぐに、そのひらめいてきたことをメモしておくことにしている。それは貴重なものなのに、一瞬に心をよぎっていって、あとになると、もう思いだせなくなっていることが多いからである。しかもそのひらめいてきたことのなかには、あとでよくかみしめてみるべき、自分をそだててくれる栄養がひそんでいることを、けいけんで痛感してきているからである。書評文でも、そのふとひらめいてきたことを書きこまれている文章には、お座なりでない、個性的な生気が光っているようにぼくはおもえる》(「読書その感想」)

 書評の仕事をしている身としては、たいへん有意義な意見だ。たしかに、自分の納得できるものが書けたとおもうときは、なにかしら、ひらめきのようなものがあったときのような気がする。
 ちょっとちがうけど、書店で本を見ているときも、中身はわからなくてもピンとくるものがあって手にとった本は、けっこうおもしろいことが多い。本棚の前を通りすぎようとすると、本に呼びとめられて、なぜだかわからないが、手にとらされてしまう。

 今回の古谷綱武の本はまさにそうだった。