2007/05/31

うだうだした時間

 朝五時半すぎ、そろそろ眠くなってもらわなきゃ困るのに眠くならない。
 まあ、いいかとおもっているうちに六時になる。
 午前七時には眠りにつきたいのだが、その気配がみじんもない。
 そうこうするうちに腹が減ってくる。
 腹がふくれたら、眠くなるか、それともますます目がさえてしまうか。
 ちょっとした賭けだな。

 でもメシを作るのがめんどうだ。
 コンビニでなんか買うか、駅前の立食いそばに行くか。
 ここで外出したら、また眠りから遠ざかってしまいそうだ。
 どうしたものか。

2007/05/28

猟奇王とネットカフェ

 深夜、近所の漫画喫茶に行った。雑誌をチェックしたり、コピー機(一枚二十円)したり、仕事部屋がわりに使っている。
 深夜の六時間パックだと千円くらいで泊まれるところもある。サウナやカプセルホテルより安い。
 旅先ではよく宿がわりにしていた。おそらく漫画喫茶での宿泊日数だけならひと月は軽くこえるとおもう。自慢ではないが、二十四時間営業のコインランドリーに泊まったこともある。

 テレビのドキュメンタリー番組で「ネットカフェ難民」を見たとき、川崎ゆきおの『小説猟奇王 怪奇ロマン派怪人譚』(希林館、一九九八年四月刊)をおもいだした。

『小説猟奇王』には、ファミリーレストランで三ヶ月生活している男が出てくる。男の名は、怪傑紅ガラス。紅ガラスは猟奇王のライバルである。

 紅ガラスは猟奇王と次のような会話をかわす。
「貴様を追いかけ続けていた。こんなところで出会うとはな」
「お互い場違いな場所じゃな」
「まあな……だが私はこの場所に馴染んでいる。今では生活の場だ。いや、正しくは居住者とでもいうべきか」

 紅ガラスは、三ヶ月前にビフテキを注文し、その後は水とセルフサービスのサラダでどうにか飢えをしのいでいる。

「この店は二十四時間営業で、エンドレス営業じゃ。そして私は客であり続けるわけだから、当然この席に座り続ける権利を獲得しておる。おかげで雨露もしのげるし、横になって寝ることもできる。さらに起きたあとは洗面所で歯も磨けるし、タオルで体も拭ける」
「つまり、居ついておるわけか」
「アジトと呼んでもらいたい」

 かつて紅ガラスは正義の味方だった。しかし生活に追われてそれどころではない。猟奇の帝王、猟奇王の境遇も似たようなものだ。
猟奇王はいう。
「確かにそうだ。正義だ、悪だ、と宣言して走っている余裕などない。存在しているだけで、目一杯だ。それはわかっておる。それはわかっておるが、それを肯定してしまうのはあまりにも寂しいではないか」

『小説猟奇王』が出た一九九八年ごろ、定収入になっていたPR雑誌が廃刊し、テープおこしのアルバイトで食いつないでいた。ほんとうに「存在しているだけで、目一杯」だった。
 さらに風呂なしアパートの隣の部屋にすこしヘンなおじさんが引っ越してきて、毎晩壁を蹴られたり怒鳴られたりするようになった。

 自分の生活を守るには金がいる。
 生活のたて直しのためにタバコを減らし、自炊を増やすことを決意した。本やレコードを売りまくった。
 とにかく心が休まるところに引っ越したかった。
 ちょうどそのころ友人に「どうせなら風呂付きの部屋に引っ越せば」といわれた。

「家賃が高くなるけど、その分、仕事しようって気になるよ」

 ほんとうにそうだった。風呂なしアパート住まいのときは、しょっちゅう気のむかない仕事を断っていた。しかし風呂付の部屋に引っ越してからは、そうもいかなくなった。生活を維持したいという目標が、勤労意欲につながることを知った。

 働いて、家賃を払う。働いて、メシを食う。
 いまだに月末、家賃を払うと、今月ものりきったという気分になる。

(……続く、と書いたが続かなかった。すみません)

2007/05/27

まほろばとコクテイル

 京都二泊三日、古本屋と書店をかけあしでまわり、飲みっぱなしの六十時間。途中、寝たり食ったり河原でぼうっとしたりもした。連日、晴天。最高気温は三〇度ちかくなる。

 二十二日は午後六時に六曜社で扉野良人さんと待ち合わせをしていたのだが、すこし時間があったので古本屋をまわっていたら、キクオ書店を出てちょっと歩いたところで、扉野さんとばったり会う。
 六曜社に行ってコーヒーを飲んで、細い路地の奥のほうにある店でお酒を飲んで、木屋町通りのわからん屋でオグラさんのライブを見る。
 四十一歳のオグラさんが、二十三歳の若いミュージシャンと共演する。年の差十八歳。オグラさんは彼らが生まれる前から人前で歌っていることになる。

 二十三日に京都のまほろばでオグラさんと「オルガンとフルホン」というライブと対談をした。オグラさんは「単身赴任ツアー」で五日間、飲み続けている。

 ライブはほんとうによかった……とおもう。そして「盛り上がらないトーク」とオグラさんの前ふりではじまったオグオギ対談は、オルガンの話もフルホンの話もせず、貧乏話と酒の話に終始した。マイクから離れるたびに「もっと近づかなきゃだめだよ」とオグラさんに注意される。

 オグラさんとはじめて会ったのは、高円寺の南口の神社の前の公園だった。十年くらい前か。阿波踊りのときだったか誰かの誕生日会だったかは忘れた。その後、長年のご近所付き合いを経て初共演となった。

 滞在中、扉野良人さんにはほんとうにお世話になりっぱなしだった。

 二十六日は高円寺の古本酒場コクテイルで出版記念パーティー。
 司会は石田千さん。石田さんの最初の単行本の『月と菓子パン』(晶文社)も中川六平さんが担当者だった。
 お祝いの言葉とお酒とおいしいものをたくさんいだたいて、どうしていいのかわからなくなるくらいうれしくて、ずっと酒を飲んでいた。
 
 喜びを表現するのはむずかしい。感謝の気持もそうだ。
 いろいろありがとう。
 狩野さん、おつかれさま。

 最後は午前三時くらいまで部屋飲み。楽しかったです。

 酒がすこしずつぬけて、日常がもどってくる。
 まあ、日常といっても、本を読んで酒を飲んで現実逃避ばかりしているわけだけど……。

 これから西部古書会館にいってこようとおもう。

(追記)
 六月十日(日)に古本酒場コクテイルでオグラさんといっしょに「オルガンとフルホン」(午後七時くらいから)を開催します。
 青ジャージ、800ランプ時代の曲も演奏してもらう予定なのでファンは必見です。

 詳細はまた後日。

2007/05/22

収集人生

 荻窪のささま書店に行った。いろいろ本を買ったけど、その中でも高木実の『小さな地図への旅 地図切手の世界』(旺文社文庫)がおもいのほか面白くて、名曲喫茶ミニヨンで読みふけり、家に帰ってからも熟読した。

 小学生のころ、切手ブームでわたしも当時は記念切手を集めていた。すぐ飽きた。でもとくに切手マニアではなくても、この本はたのしめるにちがいない。
 どんな小さなことでも深くほりさげていけば、おのずと広い世界に通じる。そのことを証明しているような本なのだ。

『小さな地図の旅』は、切手のなかでもさらに「地図切手」についての本である。著者は地図の描かれた切手のコレクターである。「地図切手」をテーマに一冊の本を書き上げてしまうことも驚きだが、「地図切手」から歴史から国際情勢(竹島問題や西沙・南沙諸島問題など)まで、話題は縦横無尽におよび、コレクションについて思索は、あらゆるマニアに共通する普遍性に達している。

“解放区切手”と称される中国東北地域の地図が描かれた切手がある。一九四七年九月一八日に発行された中国内戦中の中共解放区でつかわれた切手だそうだ。旧満州地図の描かれた切手は、文字通り“幻の切手”だった。世界中の切手コレクターのバイブルといえるようなアメリカのスコット社のカタログにもこの地図のことは書かれていない。
 それはなぜか。

《このスコット・カタログには、全世界のありとあらゆる切手が簡潔に解説されているが、ただアメリカの国情が反映されていて、アメリカと国交のない国々の切手は掲載されていない》

 それゆえニクソンが訪中した一九七二年の版までは、「新中国と中共解放区の切手は一枚たりとも紹介されなかった」のだという。この本が刊行(単行本は一九八一年)されたころの東西冷戦構造も、切手収集家に大きな影響を与えている。

 正直、絵はがきとかマッチラベルとか紙ものを集める人の気持がよくわからなかったのだが、コレクションへの情熱と知識が高まれば高まるほど、たった一枚の切手からでも、いろいろなことがわかることを知り、わたしは紙ものマニアにたいする考え方をあらためた。奥が深いんだ。
 よくよくかんがえてみれば、古本の収集にしても、函とかカバーとか帯があるかないかで、値段がぜんぜんちがってくる。文庫本なんかだと、カバーがないと売り物にならず、捨てられてしまうこともある。
 古書価についていえば、中身の活字よりもカバーや帯のほうが高いのではないかとおもうことがある。カバー付だと一万円以上する本が裸本だと千円くらいで売られているときがある。
 そうなってくると、古本は見かけが九割なのかもしれないとかんがえざるをえない。

《本来、収集などというものは、未完成な無限なものを、少しでも完成に近づけようと、コツコツと努力して追求し続けるプロセスそのものなのかもしれない。山あり谷ありのプロセスにじっと耐えていく持続性が不可欠であり、その追求過程を通して、思いもかけぬさまざまな体験や愉しみが派生してくるといえるのではないかと、一人心の中で独断的につぶやき続けている》(第一章 “集める”愉しみ)

 わたしもかれこれ二十年くらい古本を収集している。といって、コレクターというほどの情熱もなく、読んだ本はけっこう売ってしまう。でもあるジャンル、ある作家の本に関しては、すこしでもコレクションを完成に近づけたいというおもいはある。
『小さな地図への旅』を読んでいて、自分はまだまだだなあとおもった。
 いかに趣味への情熱の継続させるか。すでにそんなことを考えてしまうということは、その情熱は衰えつつあるということかもしれない。やみくもにあるひとつのジャンルを追いかける。でもだんだんその難易度があがり、行きづまってくる。そして停滞する。いつだってそうだ。あらゆるコレクションがそうだろう。

 コレクターの世界は、けっこう共通点が多い。
 切手コレクターは「コレクター本人の存命中、家族の者達は、自分達のものをあまり買ってくれないで、お父さんはあんな紙切ればかりにお金と時間をつぎ込んでという反撥感を、潜在的にせよ、持ち続けている」という。
 だからコレクターが亡くなると、遺族はこれまでのうっぷんを晴らすかのように「存命中の努力の結晶 」ともいえる切手コレクションを売り払ってしまう。そのおかげで「後続の切手コレクターにとっては、なかなか入手できない切手を収集するチャンス」もまわってくるのだ。
 古本も同じだなあとおもってため息が出る。

《自分がこの世との別れを告げる日まで、自分なりの何かを追求し続け、この世にいささかなりとも自己の存在証明としての足跡を残したいものだと思うのは、万人共通の願望といえないだろうか》

 その願望を実現するためには、一日二十四時間の中に「自己の関心事に対する自分一人の自由な時間を、それこそ強引にでも、割り込ませて、それを定常化させること」が必要だという。
 著者の高木実さんは、新日鉄勤務のサラリーマンで、会社勤めをしながら、ライフワークの「地図切手」収集に打ち込んでいる。

《宇宙の歴史からみれば一瞬ともいえる短い人生、この人生を自分なりに自己を完全燃焼させて悔いないものにしたいという願望だけは、哲学者に負けず劣らず私も強く抱き続けている》

 その自己の存在証明と完全燃焼の対象が著者にとっては「地図切手」なのだ。
 なんだかよくわからないが、勇気づけられる本だ。

2007/05/21

なんだかなあ

 忙しいわけでもないのに時間がほしいなあとおもう。忙しい人ならもっとそうおもうだろう。とはいえ、時間があったらなにをするのかというと、結局、ぼーっとしたり、散歩したり、掃除したりするだけだ。そういう時間がもっとほしいのだ。いくらあってもいい。

 用もなく電車に乗って、あまり知らない町の古本屋に行ってみたい。そういうことを最近あんまりしていない。どうしても神保町とか早稲田とか中央線沿線の中野駅から吉祥寺駅間とか、いちどに何軒も古本屋をまわれるところばかり行ってしまう。知らず知らずのうちに効率主義に毒されているようだ。

 知らない町の古本屋をたずねたら、その日が定休日で閉まっている。しかたなく、商店街を歩きまわって、どうってことのない喫茶店でコーヒーを飲んで、百円ショップをのぞいて、別にそこで買わなくてもいいようなものを買って帰るなんていうのも、わるくない気がする。
 帰りの電車で「なんだかなあ」とおもうのだけど、すくなくとも家でごろごろしているよりはましな一日といえるのではないか。

2007/05/20

銭湯

 疲れがたまっている気がしたので、洗面器にシャンプーと石鹸とタオルをいれて、ひさしぶりに高円寺の小杉湯(木曜定休)に行った。土曜日は変わり湯なのだが、この日はゆず湯だった。もちろんいつも通りミルク風呂もある。

 今、銭湯の値段は四三〇円だけど、わたしが上京した平成元年は二八〇円、しばらくして二九五円になった。当時は回数券を買っていた。高円寺で最初に住んだアパートも、その次に住んだアパートもなみの湯(土曜定休)と小杉湯の近くで、いずれの銭湯も深夜一時すぎに終電で帰ってきてもまだ営業しているので、ずいぶんお世話になった。
 自由業の特権をいかして平日の午後三時半に銭湯に行くと、多少いやなことがあっても、こんな時間にのんびりお湯につかれるんだったら、まあいいかなという気分になる。

 湯船につかりながら、「これからどうしようかなあ」なんてことをかんがえた。

 もちろん風呂上がりにすることといえば、酒を飲む以外ない。

2007/05/17

オルガンとフルホン

 ご近所付き合いをしている手回しオルガンミュージシャンのオグラさん(元・青ジャージ、800ランプ)がこんど名古屋、大阪、和歌山、京都で「単身赴任ツアー」というライブをやるというので、それにあわせてわたしも京都にあそびに行くことにした。

 すると左京区在住の扉野良人さんが「まほろばでも、オグラさんのライブできませんかねえ」と電話があった。「まほろば」というのは、昨年夏に高円寺の古本酒場コクテイルの常連客が大挙しておしかけた、京都なのにものすごく中央線っぽい雰囲気(トイレに阿佐ケ谷の飲み屋のポスターが貼ってあったりする)の店である。

 店ではコクテイルでライブをやったことのある薄花葉っぱのボーカルの女のコも働いている。
 この企画はぜひ実現させたいとおもい、さっそく、そのことをオグラさんにつたえると、即OKの返事。ただ「おれ、京都に知り合い全然いないだよ、ソロは無理だよお。たぶんお客こないだよ」とすこし弱気になっている。それであれこれ話しているうちに「まほろば」でわたしとトークショー&ライブという形になった。

「オルガンとフルホン」 オグオギ対談 まほろば
 5月23日(水) 
 スタートは19:30〜
 チャージは1200円
所在地  〒606-8103
     京都市左京区高野西開町15(北大路川端下ル400m) ニシキマンション1F
アクセス 京阪出町柳駅下車徒歩15分または京都バス蓼倉橋下車徒歩すぐ
電話   075-712-4191
(http://www.lilyfranky.com/reg02/index.htmlに「単身赴任ツアー」の詳報あり)

 飲み屋では何百時間しゃべったかわからないけど、人前でオグラさんと話をするのは、もちろんはじめてだ。わたしの声は小さくてかすれていて聞き取りにくいとよくいわれる。しかもあがり症だ。
 それで京都に行く前にいちど打ち合わせをしようということで昨晩コクテイルで飲んだ。
「どんな話しようか」
「今決めなくてもいいんじゃない。どうせ忘れちゃうよ」
「そうだね」
 打ち合わせ終了。
 そのあとオグラさんの未発表曲をいろいろ聴かせてもらう。おもしろくてヘン。

 そうこうするうちに、六月にコクテイルでもオグラさんとトークショー&ライブをすることになった。さらに酔っ払って、ふたりで高速バスに乗って、漫画喫茶に泊まりながら、お互いの本とCD(『オグラBOX3枚組』ミディクリエイティブ)を売り歩く全国巡業をしようかという話になったのだが、オグラさんは半分くらい本気でいっていたような気がする。

……この話のつづきは京都で。

2007/05/13

JT

 先週末、のどが赤くはれていたので風邪かなとおもい、用心して緑茶でうがいし、休み休み仕事をしていたのだけど、ふと気をぬいた瞬間、熱が出た。

 一昨日はアルバイトを休み、なんどか汗をかいたおかげで昨日はだいぶ楽になった。
 風邪をひいたら、なにはなくともリンゴジュースを買いに行き、ねぎとほうれんそうと卵の雑炊を作る。寝て起きたらすぐ食い、また寝る。たいていそれで治る。
 病人になると、気が弱くなる人もいるが、わたしは逆かもしれない。感情の抑制がうまくできず、怒りっぽくなる。そういう自分がまた腹立たしい。自分の感情をコントロールしたいという欲求がつよいのかもしれない。そうしないと、体力がもたない。しかし感情をコントロールするにも体力がいる。感情のコントロールに体力をつかうから、すぐ疲れるのかもしれない。

 風邪をひいたり、いらいらしたり、気持が沈んでいたり、疲れがたまっていたりするときに聴きたいレコードというのがある。
 アコースティックで声がやわらかくてテンポが早くない、地味なポップス。ようするに聴いているうちにちょっと眠くなるような音楽がいい。

 風邪をひくと、いつもジェームス・テイラーの「ワン・マン・ドッグ」というアルバムを聴く。効き目が薄くなると困るから、困ったときにしか聴かない。いちばん好きなミュージシャン、いちばん好きなアルバム、ふだんそういう質問をされると、なかなか即答できないのだけど、結局、自分が弱っているときに聴きたくなるミュージシャン、アルバムがそうなのかなあとおもう。

 長くつきあえる友人というのも、そういうところがある。

2007/05/08

居冷先生

 ああ、いかん、どうも心が弱まってる。きっと疲れのせいにちがいない、とおもい、なるべく余計なことをかんがえないようにする。

 低迷しているときの読書は古典にかぎる。いつもはたいていそういうときは『荘子』か『菜根譚』なのだが、たまには気分を変えて『抱朴子』(『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経 中国古典シリーズ』平凡社)を読んでみることにした。

 抱朴子(本名は葛洪。二八四−三六三)は、呉の人。序で、自分には生まれつきとびぬけた才能もなく、あくせく生きるのもいやだから、出世の道をあきらめ、貧窮の生涯に甘んじることにしたというようなことを述べている。


(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/05/07

第二回往来座「外市」

 五月五日、六日に行われた古書往来座の「外市」に参加してきた。
 初日はいい天気で午前中からたくさんの人がきていた。わたしは一箱古本市でも活躍した往来座特製の「ホンドラベース」(鯉のぼり付)を借りて古本を売る。一冊百円から三百円。
 午後一時から仕事でぬけて夜八時にふたたび往来座に戻る。

 午後九時前に向井さんに自転車を借りて、旅猫雑貨店にはじめて行った。
 萩原マリエの『ぼくのフライパン 男がつくる料理と知識』(新評社)をけん玉に成功して一割引で購入する。最近、自炊をサボり気味だったので気合をいれようかとおもって。
 雑司が谷は町並が昭和っぽくてのんびりしていてなごむ。いわゆるチェーン店もあんまりなく、小さな古い店が多くて妙に落ちつく。

 午後十時で初日の「外市」は終了。翌日の雨に備えて後片付け。大勢で本棚を移動したり、本を運んだり、文化祭みたいだった。
 帰りに古書現世の向井さん、立石書店の岡島さん、退屈君と居酒屋で軽く食事をする。ずっと働きづめの向井さんは眠りながら喋っている状態(それなのに話は妙に的確)で、店を出るとき、みんな入口とは逆にむかって歩いているのに誰も気がつかなかった。

 二日目はあいにくの雨。午前中からの活動になれてなくて頭がぼーっとしていて、東西線に乗ってしまったのに気づかず、高田馬場で山手線にのりかえて目白に行く。高円寺—目白間は本来なら百六十円で行けるのだが四百円もかかってしまった。
 この日は前の日に売れ残った本をすこしひっこめ、価値があるんだかないんだかわからないけど、探そうとおもうと苦労しそうな雑本を何冊か投入してみる。
 昼すぎいったん仕事のための家に帰る。のどが赤くなっていたので緑茶でうがいし、リポビタンDを飲んですこし横になる。体力のなさがうらめしい。夕方五時の撤収作業までにはなんとか回復する。

 売り上げは五十二冊で一万千百円。出店費の五百円をひいて一万六百円。このお金は大切につかいたい。
 この日も池袋で打ち上げ。翌日、午前中しめきりの原稿をかかえていたのでウイスキーの水割三杯までと決めていたのだが、たぶん、五杯くらい飲んだような。でも水割は『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)の塩山さん曰く「酒をスポイトでたらしたような薄さ」だったので、まったく酔わず。
 池袋駅から代々木駅まで行ってホームの階段を上り下りせずに総武線に乗り換える『ダンドリくん』(泉昌之)方式で帰る。新宿で乗り換えるより楽だし、席に座れる確率もはるかに高い。

 朝、なんとか仕事をかたづける。
 この二日間、まったく本を読まなかった。
 とはいえ、よく考えてみれば、ずっと古本屋にいて何万冊の本の背表紙を見続けていたわけだから、読んだ文字の量はそうとうなものになるのだが。

2007/05/05

阿佐ケ谷にて

 阿佐ケ谷でちょっとした会合があり、部屋でごろごろしていたらたぶん寝てしまうとおもい、午後一時半ごろ、家を出る。天気もよく、半袖の人がけっこういた。わたしは長そでのシャツにジャケットを着ていて、町中でひとり季節にとりのこされていた。
 風船舎に行くと、若い店長さんに阿佐ケ谷でパラフィン紙を安く売っている文房具を紹介してもらった。近所の文房具屋のパラフィン紙が十五円から三十円になったという話(「パラフィン」/『古本暮らし』)を読んで教えてくれたのだ。

 風船舎は、阿佐ケ谷の一番街という、けっしておしゃれとはいえない飲み屋街にあるのだが、店内もきれいで本の趣味も洗練されている。そんなお店で一枚十五円のパラフィン紙の話をして、「阿佐ケ谷のどこでごはんを食べますか」と聞かれたので、「ええと、南口だとはなまるうどん、北口だとなか卯です」と答えてしまい、人生の先輩(年齢だけ)として、これでいいのかと考えこんでしまった。でも店長さんは「ぼくもはなまるうどん行きますよ」といってくれたので親近感をおぼえた。

 菊地康雄の『青い階段をのぼる詩人たち 現代詩の胎動期』(青銅社、一九六五年)という本を買った。大正期のアナキスト詩人についてかなり頁をさいていて、知らない詩人がいっぱい出てくる。

 店を出て、文房具屋の場所をたしかめて(棚に「パラピン」と書いてあった)、こんどは北口を散歩する。
 ひさしぶりに阿佐ケ谷の名曲喫茶に行こうとおもったのだが、入口にオーディオ機器に影響を与えるため一部を禁煙にうんぬんという貼り紙があったのを見て引き返す。
 結局、喫茶プチに入る。ひょっとしたら外食費よりも喫茶店代のほうが高い生活を送っているかもしれない。
 かんがえようによっては貴族みたいだ。

 そうこうしているうちに午後四時前になったので、待ち合わせ場所の朝の五時まで営業しているそば屋に向かう。
 ちょうど岡崎武志さんと川本三郎さんが並んで入ろうとしているところだった。
 最初は熱燗を飲んでいたのだが、店員さんがまちがえてもってきた冷を「それ、飲みます」といって飲んで、店を出たとたん酔いがまわる。
 川本さんにいわれた「吉行淳之介や色川武大を古本で読む世代なんだねえ」という言葉が印象に残った。川本さんに「阿佐ケ谷だと、どこでゴハンを食べますか?」と質問したかったのだが、いいそびれてしまった。

2007/05/03

古谷サロン

 昨日は昼すぎに仕事に出かけるつもりが、起きたら不覚にも午後四時半だった。いつの間に寝てしまったのかそれすらもさだかではない。午後三時ごろに書肆アクセスに行くつもりだったのに着いたのは午後六時だった。午後七時ごろには帰宅しているはずだったのに高円寺に着いたのは午後九時すぎであった。
 これでは予定が立てられない。人と約束ができない。
 目覚まし時計をセットすればいいだけの話なのだが、どういうわけかそれができない。
 性格はどちらかというと几帳面なほうだとおもう。ところが、からだがいうことをきいてくれない。その結果、どうしようもなくルーズな人間になってしまうわけだ。
 しょうがないやつだなあとあたたかくみまもってくれる人間関係を頼りに生きてゆくしかない。そのかわり、わたしも他人の遅刻には寛容になろうとおもう。

 いろいろ反省した後、先日、古書往来座で買った古谷綱武著『弱さを生きる 希望を見失ない絶望したとき』(大和書房、一九七〇年五月)という本を読むことにした。
 カバー扉には「人間の弱さをはね返す知性と勇気!! 無力・苦悩とたたかう心得」と書いてある。
 今の気分にぴったりの本かもしれない。でもそんなつもり買ったわけではない。
 この本の「忘れられない友人」という章には、太宰治、中原中也、川端康成、大岡昇平といった作家が出てくる。

《二回目の同人会は、私の家でひらかれたが、その席で私は、太宰という男をはじめて見た。終始ほとんど口をきかないですわっていたが、和服すがたのきちんとした身なりをしていて、貴公子然とした印象が、きわだっていた。そして『海豹』の創刊号に発表されたのが、和紙二百字原稿用紙にきれいな毛筆の字で書いてい「魚服記」である。つづいて第二号から第四号まで三回にわたって「思い出」が連載された。これは四〇〇字詰原稿用紙にペン字で、しかしたたずまいのきちんとした文字の原稿だった。そういえば、太宰の毛筆の原稿は、その後も私は見たこともないし、「魚服記」は、はじめて出す原稿ではあり、大いに気どっていたのかもしれない。太宰にはそういうところがあった》(「太宰治との出会い」)

 さらに昭和三年に旧制成城高校文科の同級生だった大岡昇平の紹介で中原中也と知りあう。当然、小林秀雄とも会っている。
 その後、中原中也、小林秀雄と長谷川泰子が三角関係におちいり、いろいろあって、小林秀雄が家出をしたとき、古谷綱武は「ぼくも、小林捜しに東京の街をあるかせられた」という。

《小林を失った泰子は、東中野に住んでいたぼくの家のすぐ近くに、ひとりで下宿するようになって、小林の書きほぐしの原稿やメモのはいったカバン一つを、唯一の財産かのようにしていた。逃げ出した小林のことが忘れられなかったのであろう。一時は、一日に一度か二度はぼくの家にきて食事をしていたほど、時間をもてあますゆき所のない女になっていたのである》

 そのころ中原中也は、泰子がふたたび自分のもとに帰ってくるのではないかと期待していた。
 しかし、泰子は「中原をおそれ避けるようにさえしていた」とのこと。

《そのふたりが偶然ぼくの家で出会ってしまって、取っ組み合いの大げんかになったこともある》(「中原中也のこと」)

 こんな話が『弱さを生きる』という題名の本に書かれているとは、ちょっと意表をつかれた。大和書房の銀河選書はあなどれない。

 もう一冊、往来座で買った古谷綱武の『自分自身を生きる 日日を美しく生きるために』(大和書房)も今の仕事の上でたいへん参考になる話が書いてあった。

《本をよんでいると、ふと、ひらめきのように、自分にとってのある新しい考えが、心にわきおこってくることがある。読書は、心の活動に、そういうしげきをあたえてくれるものである。
 ぼくはそういうときには、本をおいてすぐに、そのひらめいてきたことをメモしておくことにしている。それは貴重なものなのに、一瞬に心をよぎっていって、あとになると、もう思いだせなくなっていることが多いからである。しかもそのひらめいてきたことのなかには、あとでよくかみしめてみるべき、自分をそだててくれる栄養がひそんでいることを、けいけんで痛感してきているからである。書評文でも、そのふとひらめいてきたことを書きこまれている文章には、お座なりでない、個性的な生気が光っているようにぼくはおもえる》(「読書その感想」)

 書評の仕事をしている身としては、たいへん有意義な意見だ。たしかに、自分の納得できるものが書けたとおもうときは、なにかしら、ひらめきのようなものがあったときのような気がする。
 ちょっとちがうけど、書店で本を見ているときも、中身はわからなくてもピンとくるものがあって手にとった本は、けっこうおもしろいことが多い。本棚の前を通りすぎようとすると、本に呼びとめられて、なぜだかわからないが、手にとらされてしまう。

 今回の古谷綱武の本はまさにそうだった。

2007/05/02

世界のわめぞ

 昨日もあいかわらずの昼起き、小雨がふっている。傘をさして都丸書房に行って、OKストアで買い物して、卵ピラフを食ったらまた眠くなる。
 午後六時すぎ、岡崎武志さんからの電話で起きる。
「ひょっとして寝てた?」
「あの、ちょっとだけ、うとうとと」
 目がさめたので、散歩に出かけ、今日はひまだなあとおもっていたら、古書往来座に行く用をおもいだした。
 もう五月だったんだ。
 家に帰って、これから向いますと古書現世の向井さんに電話し、電車に乗る。
 往来座につくと、向井さん、旅猫さん、リコシェさんも来ている。往来座の瀬戸さんから『詩人会議 増刊号 黒田三郎』(一九八九年二月臨時増刊号)をプレゼントしてもらう。写真がいっぱい。黒田三郎の手紙や講演録も付いている。これはうれしい。おお、天野忠のエッセイまで収録されている。すごい。

 往来座の外の均一棚から三冊、あと店内で阿佐ケ谷将棋会のメンバーでもある古谷綱武のエッセイ集(自己啓発本?)『自分自身の人生 日日を美しく生きるために』(大和書房)、『弱さを生きる 希望を見失ない絶望したときに』(大和書房)を買う。

 浅見淵の『昭和文壇側面史』(講談社文芸文庫)によると、浅見淵も(古谷氏と)「一時期、たいへん親しいつきあい」をしていて、尾崎一雄も下落合の古谷綱武の家の近所に引っ越し、「毎日行き来するように」なり、さらに丹羽文雄、壇一雄、中村地平、太宰治、木山捷平とも交流があったそうだ。

《古谷君は鷹揚で話好き客好きなところへ、生まれつき好奇心の強い感激家で、また、理解力も鋭敏で、ことに才能のある文筆の士を敬愛していたから、終始だれかれが出入りしてサロンのような趣きを呈していた。揚句の果ては、古谷君に生活的余裕があったので、賑やかな酒宴となった。いまから考えると、みんなの憩いの場となっていたわけで、それによってみんなはいかに力づけられたことか》(「古谷サロン」/『昭和文壇側面史』)

 今年の正月に京都に行ったとき、扉野良人さんとも、戦前の下落合、中野はおもしろそうだな、という話をしていたのだ。村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らの「Mavo(マヴォ)」のメンバーも下落合で飲んでたし……。もうすこし生活が落ちついたら、このあたりのことを調べてみたいとおもう。

 話がそれたけど、古書往来座で『古本暮らし』(晶文社)にサインをしてきた。識語も十種類くらい。ぜんぶおもいつき。最後の一冊は、机の上に合った日本酒のラベルを見てそのまま書いた。
「アルコール分15度以上」
 わたしはとても気にいっているのだけど、まわりの反応はあまりよくなかった。不安。
 でも往来座の奥の机は、居心地よかった。

 そのあと手羽先で有名な「世界の山ちゃん」に行く。新宿にあるのは知っていたが、池袋にもあったんだ。一九八八年ごろ、名古屋の予備校に通っていたときに、今池店にちょくちょく行ってた。十九年ぶり。
 山崎一杯四百円、安っ。でも酔っぱって味わからず。
 向井さんと「世界の山ちゃん」に対抗して「世界のわめぞ」案をかんがえる。
 いやあ、食った、飲んだ。
 そして家に帰ってすぐ寝る。
 昨日から今日にかけて二十時間くらい寝た計算になる。