2007/04/02

友情の強度

 黒田三郎は、『小さなユリと』で政治性のある詩をつくらなくなったかのように見えた。ところが、この詩人はそんなに単純ではない。

《『羊の歩み』の中のある詩は、自民党系の新聞『今週の日本』などに発表されている。これが次の詩集『ふるさと』では『民主文学』、社会党系の『社会新報』などに発表されるようになり、さらに晩年の詩集『死後の世界』の詩のあるものは、共産党系の『詩人会議』に発表したものであり、やがて自らこの『詩人会議』という詩人団体の委員長となった。エッセイはしばしば『赤旗』に発表される。このあたりにいまだにわかりにくい黒田の一つの変貌がある》(観賞、飯島耕一/『現代の詩人4 黒田三郎』中央公論社)

 一九六九年三月、長年の友人で黒田三郎のほとんどの詩集を出版してきた昭森社の森谷均が亡くなった。飯島耕一によると、当時、神田神保町にあった昭森社の事務所には、書肆ユリイカ、審美社などが同居していた。ユリイカの編集人伊達得夫もずっと森谷と机を並べていたそうだ。
 この年の十二月、黒田三郎は五十歳でNHKを退職する。当時、定年は五十五歳だったので、あと五年残しての退社ということになる。森谷均の死とは無関係ではあるまい。

 飯島耕一がいうところの「わかりにくい黒田のひとつの変貌」について、鮎川信夫はシビアに分析している。

《鮎川 とかくぼくらの考え方っていうのはいつでも沈滞していて、気分が重たく、実存主義的だったんだけどね。サルトルの「嘔吐」はロカンタンっていうのが主人公なんだけど、生活的にはあれに近い感じになっちゃう。何処にも出口無しって状態でね。たまにいい詩が書けりゃいいや、って程度で、あとは全部八方塞がりって感じになっちゃうでしょ。だからそういう状態っていうものは、普通の人には耐えられないんだろうね。それよりは、間違ってようとなんだろうと、他者との連帯っていうか、隣人と手を繋ぎたいって感覚の方がロカンタン的実存よりは、ましだということになるでしょう》(「戦後の歴史と文学者」/鮎川信夫、吉本隆明著『詩の読解』思潮社)

 鮎川信夫は、かつて「純粋詩」をやっていた福田律郎の晩年もそうだったという。「純粋詩」が潰れたあと、彼のところを訪ねたら、家の中じゅう選挙のポスターが貼ってあった。鮎川は「ある意味で希望に輝いていたんだなあ」と回想し、それと同じかんじを黒田三郎にもいだいたと語っている。
 森谷均の死によって、黒田三郎も死を意識したのだとおもう。死、あるいは衰えを意識したとき、人の行動はいろいろ分かれる。最後の最後まで自分の小さな世界を掘り下げようとするか。それとも自分のことはどうでもよくなり、政治とか宗教とか、大きな世界に身を捧げるか。このあたりのことは、わたし自身、そういう齢になってみないとわからない。

 鮎川信夫は北川透との対談で黒田三郎を批判したことについても、次のようにふりかえっている。

《鮎川 あれは思っていることを言っただけで、むしろかなりぼくとしては控え目なんですよ。だけど、「詩人会議」の人たちから見ると、黒田をバカにしてるようにみえたんでしょうね。でもそれは全く嘘だね。(中略)だってバカにしたって仕様がないし、第一、黒田と知り合ったのは戦争前だからね。彼の晩年、十年そこそこの人とは違うんで、こっちは四十年ぐらいの付き合いがあるんだからね。言葉を交わさなくたってお互いに書いたものは全部見てるし、本も全部交換してるんだからね》(「戦後の歴史と文学者」)

 わたしはちょっと誤読していたかもしれない。
 鮎川信夫の黒田三郎批判は、『荒地』のメンバーにとって、たいしたことではなかった。そんなことは日常茶飯事だったのだ。『荒地』がそういう人間関係だったことは、つい先月読んだばかりの田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)にも言及されていた。ただそういうことをきちんと受けとめられるだけの経験がなく、ちゃんと理解できなかったのである。

《詩の批評では詩壇的といっていい傾向がないわけではない。その一つに、本当に言いたいことは伏せておいて攻撃する態度をあげたい。かつて僕が黒田三郎について発言したことに対する「詩人会議」の連中の攻撃は、そのようなものであった。黒田三郎については「詩人会議」より僕の方がずっとよく知っているし、黒田がそのことで怒るなどということは仮定としてもありえない。また怒ったところで、どうということもない》(『一九八四年』の視線/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)

『荒地』の中桐雅夫も、やることなすこと鮎川信夫に反対を表明する行動をとった。それは半ば、嫌がらせに近いものだった。黒田三郎の件で鮎川信夫と「詩人会議」が論争になったときも、日頃共産党嫌いだった中桐は、急に彼らにシンパシーをかんじ、嬉しくてそわそわしていたという。

《一時が万事そんな風だったから、私としてはかなり鬱陶しく思うことがあった。彼の反対行動は、どこまでやったら私が怒るか、それによって友情の強度を試しているようなあんばいだったのである》(「『美酒すこし』解説」)

 わたしは友情の強度という言葉にしびれた。
 中桐の訃報に接して、鮎川信夫は通夜に行かなかった。その死顔を見たくなかったし、中桐も見せたくないだろうと考えたからだという。

《一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか》(「『美酒すこし』解説」)

 黒田三郎も中桐雅夫も大酒飲みだった。とくに黒田三郎の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。
 追悼を趣旨した対談で、鮎川信夫が黒田三郎を批判したのも、彼らの友情の証であり、半ばヤケクソで喋っていたのではないか。うーんなんというか、面倒くさい友情だなあともおもう。