2007/12/31

見ぬ世の友

 中村光夫は明治四十四年、西暦でいうと一九一一年生まれ。
 日米開戦のとき、三十歳だった。
 河上徹太郎に「政治に絶望」しているといわれた中村光夫は、文芸誌に「日本の戦争とは無関係」の評論を書き続けていた。当時をふりかえり、次のような感想をのべている。

《芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません。
 現代で芸術をつくる難しさの、過半はそこから来ているのでしょうが、この困難はふたつに大別できそうです。
 ひとつは、芸術家の外部からくるもので、権力の圧迫、商業主義の支配などが、その典型です。
 いまひとつは、時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目で、これが芸術家の内部に巣食う敵であるのは言うまでもありません》(「文学界」と「批評」/『憂しと見し世』)

 前者はわかるが、後者の「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」とはどういう意味なのか。
 ちなみに、このとき「いい気」になってやっていた仕事は「二葉亭四迷論」と「戦争まで」というフランス留学記だった。戦時中、「日本の戦争とは無関係」な評論を書いていた中村光夫だが、戦後は「日本の近代」との戦いがはじまる。

《明治以来、われわれの思想や感受性の動きは、表面めまぐるしい変化の連続のようですが、ちょうど同じコップにさまざまな飲物をかわるがわる注がれたように、外国思想の影響をうけてきたあとは、見方をかえれば、変ったのは、コップに注がれた内容だけで、コップの形はむかしから少しも変わらなかったと言えます。そして僕らが観念的にでなく、実際持ち得た「近代」とは、このコップであり、これだけが、あわただしい変転のなかで、かわることのない僕らの精神の実態と言えますが、この無意識の環から抜けださない以上、僕らに自分の本当の姿を見ることは不可能であり、どのような善意も人々を幸福にもしないし、自分を救うこともできないと思われます》(「第二の開国」/『日本の近代』文藝春秋)

 わかるようなわからないような言い方だけど、「無意識の環」あるいは「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」から逃れたいというおもいが、中村光夫にはあった。
 明治大正は「西洋かぶれの時代」だったと中村光夫は考えていた。

 最近、中村光夫の『近代への疑惑』(穂高書房、一九四七年刊)という本を入手した。その中に「影響論」という評論がある。
 一九三八年三月、中村光夫が二十七歳のときに書いたものだ。「今日世界を蔽う電信とラジオの網」は、世界をどれほど変えたのかと問い、そのことによって、「地球を小さな塊」に変え、われわれの精神を徒らに忙しくしたのではないかという。
 かれこれひと月、わたしは二十代のころのような読書に没入する感覚をとりもどしたいとおもいながら、中村光夫を読んでいた。そして「影響論」の中に、その答えを見つけることになった。

《書物を通じてその奥に生きる人間に觸れ、彼に同感し、または反撥すること、こゝに僕らの書物に對する興味を常に新鮮に保ち、またこれを僕等の血肉に消化する誤たぬ方法があるのだと僕は信じてゐる。そしてこれは何も僕一個の獨斷ではない。サント・ブーヴも正宗白鳥氏にしろ、古今の讀書の名人は、すべて實際かうした態度で書物に接してゐる。云ひかへれば彼等の想像力は、常にその日常接する人間に對すると同じ自然さで書物の上に働いてゐる。そして彼等が一つの書物を判斷する最後の言葉は、次のやうなものである。「一體この本のどこに、どういふ風に己は身につまされたか」と。おそらく、彼等の手にする書物は、すべてこの問ひに答へることによつて彼等の身になるのである。そして彼等の批評に絶えず或る新しさを與へる素朴な健康性も、またこゝから生れると僕には思はれる》

 年々、活字を血肉にしたり、身につまされたりする読書から遠ざかっている。手っ取り早く、知識を得ようとすれば、書物の奥にいる人間に届かない。そんな当たり前のことを忘れていた。「影響論」はおよそ七十年前に書かれた評論だが、中村光夫は「現代における印刷物の氾濫は、僕等からめいめい自分でものを考へる力も殆ど奪ひ去ってしまつてゐる」という一文もあった。

《したがつて、僕等の精神は、絶えず消化の出來ぬ言葉を一杯に詰めこまれる状態に生きるほかはない。そしてこれらの言葉は僕等の頭のなかで不消化のまゝ、次々に新しいものに代つて行く》

《知識の普及の異常な容易化が、人間精神の本來の機能の異様な衰耗と相通ずる點に、現代文化の最大の病弊が横たはるのではなからうか。(中略)言葉が僕等の精神に與へられた唯一の思考の要具である以上、言葉を粗略に扱ふ人間はかならずその言葉に復讐を受けずにはゐない。言葉を粗略に扱ふとは、粗略に物を考へることだ》

 くりかえすが、これは一九三八年に書かれた文章なのである。それから七十年、印刷物の氾濫は当時の比ではないし、テレビ、インターネットも登場した。ますますわたしたちは、消化しきれないほどの言葉に精神がさらされている。
 不消化の言葉が蓄積するにつれ、「精神の生きた機能」や「自分でものを考へる力」が麻痺していくと中村光夫はいう。

 また中村光夫は「見ぬ世の人を友とする」ことこそ、読書の歓びであるという。この「見ぬ世の人……」云々というのは、吉田兼好の「徒然草」にある言葉だ。

 わたしは中村光夫が生涯に書き残した文章の、まだほんの一部しか読んでいない。でも何かあるとかんじたのは、期せずして「書物の奥の人間」に触れてしまったからなのだろう。いい読書をすると、「書物の奥に人間」が自分の中に住みはじめる。

 中村光夫、友だちになれるだろうか。

2007/12/27

なしくずし

 年末進行、忘年会、いろいろあって、更新停滞。
 寝ちがえて、からだが動かすのもしんどい状態になる。こんなにひどい寝ちがえは久しぶりだ。首がまわらない。

 中村光夫の『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)を読んでいて、ようやく戦前から戦中の文学の世界になじんできたところで、中断してしまった。一人の作家の本をずっと読み続ける集中力がなくなってきている。その時間を捻出するのもむずかしい。
 二十代のころは読書に没頭することなんてわけなかった。逆にのめりこみすぎないようにブレーキをかけないと仕事に支障をきたすのが悩みの種だった。今は読書に没頭する感覚をとりもどすために、あがいているかんじだ。

 戦前戦中の言論弾圧の激しかったころの「時代の空気」が、わかるようでわからない。
 反体制でなくても、ちょっとした発言でも取締りの対象になるという状況下で、文章を書いたり、本を出版したりする仕事を続けるのは、たいへんなことだった。軍の批判なんか、まったくできない。ちょっとしたことで警察につかまってしまう。文学者の集まりなんかにもスパイがまざっていたという。
 弾圧の対象は、マルクス主義から自由主義にまで拡大されていった。

《自由主義は、マルクス主義と違って、本来あいまいにしか定義できないものです。したがって、そのレッテルは誰にも簡単に貼れるので、それが罪悪とされるようになったのは、一部の御用思想家以外は誰でも、当局の意のままに犯罪者として拘引できるということです》

 今の世の中なら、かつての戦争、軍国主義を批判することはいくらでもできる。しかし、当時その流れを食い止める方法はあったのかどうか。

《当時の軍人たちのやりかたは、戦争をまず勝手に起しておいて、これを口実にして政権を壟断し、国内を統制し、支配しようとするので、そのために平和の到来を何よりも恐れて、戦争を神聖化し、永久化しようとする傾きさえそこから生まれました》

 中村光夫は、日本の軍国主義に疑問をもっていたが、河上徹太郎に「君は政治に絶望しているから駄目だ」といわれた。しかし時勢に協力したり、抵抗したりする河上徹太郎のような人がいたおかげで、「僕はいい気になってやりたいをやっていられた」と中村光夫はふりかえっている。
 ほかにも当時の日本のあり方はおかしいとおもっていた人はいた。しかしそれを口に出していえば、政治家は除名され、文学者は表現の場所を失う。批判すればするほど、取締りが強化される。
 そんな状況になったら、どうすればいいのか。
 かつてのような軍国主義の復活を危惧しているわけではない。
 でも『文学回想 憂しと見し世』を読んでいると、とにかく身につまされるのだ。
 昭和十八年、日本の敗色が見えはじめると、だんだん日常生活が、乏しく、不潔で、不便になった。

《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。(中略)そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》

 馴れるということに、常に警戒心を持っていないとまずい。貧乏だけでなく、浪費だってそうだ。馴れてしまって、破滅をむかえる。いざ経済危機や食料難に陥ってしまえば、個人としては、ほとんどなす術がない。

《昭和十九年になると、敗戦の徴候はますますはっきりして来ました。と言うより、もう勝てるとは誰にも思えなくなったが、負けたら一体どうなるのか、どうすればよいのか、見当がつかない状態といった方が当っているかも知れません》

 見当がつかなくて、手をこまねいているうちに、被害はどんどん拡大する。
 無為無策、打つ手なし。
 これは戦時中にかぎった話ではない。

2007/12/17

厄介な才能

 特別区民税・都民税の督促状の払込み期限がすぎてしまったので、杉並区役所に行く。ついでに阿佐ケ谷の文房具屋でパラフィン紙を三十枚買う。そのあと区役所に行ったら、払込用紙を忘れてきたことに気づく。面倒くさいので、そのまま荻窪のささま書店まで歩く。そのあとCO-OPのインスタントラーメンを買う。CO-OPは高円寺にないので、いつもささま書店に行ったついでに寄る。
 たぶん、そのときだろう。パラフィン紙を置き忘れたのは。ああ、四百五十円が。うう。
 荻窪から丸ノ内線で新高円寺駅に行って、「七つ森」で休憩しているときに気づいた。戻る気力なし。
 中村光夫のことばかり考えているせいかもしれない。
 以下は、年末進行の最中、しめきりのあいまに書いた原稿を公開です。
         *
 中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』(中公文庫)に、中原中也という、人としてはかなり厄介だけど、とんでもない詩の才能をもった人間のことを回想するくだりがある。
 中原中也は、昭和を代表する評論家である中村光夫ですら、自分を凡人だとおもわせてしまうような存在だった。しかし中原中也は凡人たちに嫉妬した。詩をつくる以外、生活能力とよべるものが何もなかったからだ。
 かつて、中原中也は「俺の詩はみんな筋金がはいっているからな。ぶったって、たたいたって、四十年や五十年は」というようなことを中村光夫にいったそうだ。

《実際、おれの作品にはおれの命が注ぎこんである。だからそれは生きるに違いないという自負だけが、不幸と孤独のなかで氏を支えていたようでした。
 この自負は正しかったのですが、氏の心を安らかにするほど、確固としたものではなかったようです》

 そのせいかどうか、中原中也は同時代の作家の悪口ばかりいっていた。中村光夫もそのとばっちりをくらったひとりだ。ビール瓶で頭を殴られたり……。
 その後、中村光夫は鎌倉から東京に引っ越し、中原中也と疎遠になった。

 中原中也の「生きていること自体が苦痛であるような」挙止は、その美しい詩句とつながるのか、そうではないのか。詩人の人生は、通常人とはちがうものなのか。
 中村光夫はそんなことを考えていた。

 世の中とうまく折り合いがつかないから、表現や趣味の世界にのめりこんでしまうということはある。そういう世界にのめりこみすぎてしまって、生きがたい人になってしまうということもある。
 中原中也ほどの才能があるかどうかは別にして、わたしのまわりにも、しょっちゅう不用意としかおもえない衝突や摩擦をひきおこしてしまうことによって、せっかくの能力をうまく活かせていないとおもう人間が何人かいる。
 もったいないとおもうが、ちょっとうらやましい気がすることもある。
 友人のひとりは、とにかく楽に生きている連中が許せない。自分はこれほどまでに生活やらなんやらを犠牲にして、ものを作っているのに、相手はただの仕事としか考えていなかったりする。
 そうすると、「どうしてもっと苦しんで、もっとおもしろいものを作ろうとしないんだ」と不満におもうわけだ。
 世の中と折り合えないから、文学やら音楽やらの世界に来たつもりなのに、そこもまたつまらないルールが支配しているのか、要領のよさがものをいうのか。そういいながら憤ったり、嘆いたり、やる気をなくしたりする。

『今はむかし』を読みすすめていると、こんな文章に出くわした。

《むろんこれは詩人だけの問題ではなく、小説家でも批評家でも、同じことなのですが、ふつうの文学者には遊び、あるいは余裕があります。この常識人という反面で、彼は人生に触れ、そこから養分を吸収するのですが、ときにこれがすぎて、彼のなかの芸術家まで人生と溶け合ってしまうことがあります。しかし、その人自身はそれで幸福であるわけです。
 ところが中原氏の場合は、そういう余裕や遊びはまったくないので、氏と人生、社会との間にはただ断然があるだけです。こういう言い方は誇張と聞こえるかも知れませんが、若かった氏がそう生き、また若かった僕らの目に氏がそう見えたはたしかです》

 遊びと余裕。人生、社会との断絶。
 わたしは遊びと余裕を必要とする。ただ、余裕がありすぎると、切実に本が読めなくなり、文章も書けなくなる。
 あるていど、与えられた条件で自分のできる仕事をこなすという技術がないと暮らしは安定しない。
 その安定とひきかえに失ってしまうものもある。なにもかも、というわけにはいかないのは、世の常だ。

 中村光夫にしても、若いころは、論争相手の大家にむかって「齢はとりたくないものです」といい、物議をかもしたことがあった。
でもいずれは自分も齢をとる。
 四十代、五十代になったとき、自分はどうなっているのか。そんなことを今から考えていても、たぶん、そのときにならないとわからないんだろうなあ。

2007/12/10

文学共和国

 問:中村光夫の本で、今、新刊書店で買える本は何冊あるでしょうか?
 答:一冊。三島由紀夫との共著『対談 文学と人間』(講談社文芸文庫、二〇〇三年刊)のみ。

 ただし中野区と杉並区の図書館には中村光夫全集が揃っているようなので、とりあえず一安心だ。
 昨日から中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』『文学回想 憂しと見し世』『戦争まで』(中公文庫)の三部作を読んでいる。
 学生時代に先輩の高見順から、文壇デビューしたあとの心がまえを教えてもらったり、小林秀雄や中原中也や青山二郎といっしょに飲んだりしている。そういう場所に居合わせることも才能だとおもう。
 この三部作は再読だけど、読みはじめると、この世界にずっとひたっていたいという気分になって、読み終えるのが惜しくなる。
 中村光夫は、学生時代に左翼文学の同人誌にかかわっていたことがある。でもしだいに関心が薄れていったという。

《要するに、そのころ僕が気付いたのは、世の中の不正や不合理は相変わらずであるにしろ、自分にとって革命とは厭世の一形式にすぎず、結局、年少な嫌人家である自分に、たしかな元手は自分自身しかないということです》

 そう考えつつも、中村光夫は「その元手が、あまりゆたかなものではなさそうだ」と悩んでいた。わたしは「元手」という言葉が好きなのだが、これは吉行淳之介の影響かもしれない。

『今はむかし』を読んでいて、印象に残ったのは「文学共和国」という言葉だった。
 中村光夫は、横光利一が「純粋小説論」を発表したころの反響を回想し、次のように語る。

《当時の僕は、国境と時代を越えたひとつの「文学」を信じていました。西洋という子供のときからことばで聞いているだけの世界を理解しているつもりでいました。同時代の多くの人々と同様に、世界の中心は西欧であり、日本は辺境と思っていましたが、文学という形のない共和国では市民はだれもが平等、少なくともそうあるべきだと信じていました》

 さらに中村光夫は、今の日本の社会を描くには、十九世紀の西洋を代表する作家たちの技術が必要で、近い将来、そうした技術をきちんと消化した作家がわが国にもあらわれるだろうと考えていた。

《当時の氏(小林秀雄)はやはり世界的な文学共和国の住人であり、その地図には横光(利一)氏や僕と大差なかったのです》

 そんな「文学共和国」を夢見ていた中村光夫だったが、そのころの純文学作家、批評家は貧乏だった。

《むろん、だからといって卑屈になったり、恥じたりすることはまったくなく、金はなくともみんなしたいことはしていたし、今では考えられない爽やかな貧乏でしたが、大体がその月暮らし、住居は借家で、電話はひいていない、というのが一般の状態でした》

 わたしは「世界の文学」ということはほとんど考えたことはない。むしろ中村光夫が批判しているような日本の私小説が好きである。私小説が世界に通用しないともおもわない。時代とか、読んだときの年齢とか、そうしたちがいは大きい。私小説の全盛期だったら、わたしも私小説を読まなかったかもしれない。
 中村光夫は時代をこえて読まれてほしい。中村光夫が夢見たような日本の文学も読んでみたい。

 話はかわるけど、中村光夫は、大学三年生くらいから文芸時評の仕事をしている。今では考えられないし、当時でも「早すぎる」という反対者がいたようだ。中村光夫自身、知識や経験不足でうまく書けないこともあったと述懐しているが、そういう失敗もふくめた場数をふんでいかないと成長しない。

 編集者はもっと冒険してもいいのではないかと……。

2007/12/08

中村光夫を読んで寝る

 これからすこしずつ中村光夫を読んでいこうとおもっている。そうおもいながら、五、六年の月日が流れている。全集を買おうかなとおもったら、高いんだね、知らなかった。
 読みたいのは、エッセイと文学論関係だけなので、地道に集めることにする。
 中村光夫に「作家の文明批評」と題するエッセイがある。初出は一九四七年八月の『文學界』で、わたしは『百年を単位にして』(芳賀書店、一九六六年刊)で読んだ。

《作家はその生きる時代の性格を把みこれを批評する間に、まずその与えられた環境のなかで、どういう風にうまく立廻るかを考えるようになりました。「現実」という合言葉が、この場合絶好の遁辞になりました。これは世の中が世知辛くなったためかも知れませんが、同時に文学の堕落だったと言えましょう》

《その日暮らしの無気力、自分の無能にさえ気付かぬ怠惰、お互に自分だけ有利な地位をしめようとするこすからい競争心、こういった気風が、——戦後の社会一般と同様に——文学界を風靡しているようです。文学とはこんなところまで「時代の鏡」にならなければならないのでしょうか》

 文学が「時代」にたいする何らかの役割を担っていたというのは、昔話になってしまったという気がする。テレビやインターネットのスピードにはかなわないし、活字の分野でいえば、週刊誌、新書、漫画がかろうじて「時代の鏡」になっているかもしれない。もしくはケータイ小説か。
 中村光夫がこのエッセイを書いたのは、三十六歳のときである。昔の批評家は二十代、三十代でこういうことを考えていたのかとおもうと、ちょっと感慨深いものがある。

 その日暮らしの無気力にどっぷりつかっている。
 世の中が複雑になった、というのは言い訳にすぎないが、文学は文学、政治は政治、経済は経済、科学は科学、さらにそれぞれのジャンルの専門化が進んで、大まかに文明を論じる余裕がなくなった。
 わたしが無気力になっている理由をあげるとすれば、「なにをいってもしかたがない」とか「なるようにしかならない」といった諦めの気分があるのはたしかだ。

 中村光夫というと「私小説批判」の人という印象があったのだが、読んでみて、そんなに単純ではないこともわかった。

「自分と他人」と題するエッセイでは、「自分のために小説を書くのと、他人のために書くのと、どっちがむずかしいか」と問いかける。

《私小説の作家は、他人を描くむずかしさを捨て、自分を描くむずかしさに徹することで、ともかく一つの新しい道をひらいたのですが、今日の作家はこういう根本の問題にふれないところで、自分の職業を成り立たせているようです》

《考えてみればものを書くという行為が自分のためだけということはありえません。放っておけばそのまま消えてしまう思想や感情を紙の上にのこすのは、ひとりの読者を予想してはじめて成り立つことで、この読者は、かりに自分であっても、いまの自分とは他人です》

《他人のために書くことは、今日の多くの作家にとって、他人の思惑に忖度して気に入りそうなことを書くことです。この場合、彼が読者に示すのは、彼のなかの計算された部分だけであり、両者の間に芸術的交流はおこりません。こういう計算のもとに文学(芸術)がつくれると思っている人は、他人を面白がらせようと思えば、思いどおり面白がらせることができると考えている点で、自他の区別がはっきりしない精神の持主です》

 中村光夫の意見にかならずしも同意するわけではないが、「根本の問題」を考えさせられる人だとおもう。さらっと読めるが、考えはじめるとキリがない問題でもある。
 中村光夫には「文学信仰」がある。

《中村 もっともらしくいえばね、ぼくなんかも同じだな。やっぱり信じるに足るものは文学よりほかないんじゃないか、せめて文学を信じたいというような気持にいろんな原因で青年時代になるでしょう。
 三島 なるね。
 中村 その点は少なくとも戦争中くらいに文学を志した人までは同じじゃないかと思うんだ
 三島 ぼくも絶対そうです 〉(中村光夫、三島由紀夫『対談 人間と文学』講談社文芸文庫)

 いろいろ本を読んでいるうちに、自分が好きになる作家、詩人は、いずれも「文学信仰」の持ち主だったということに気づいた。
 はっきりそのことに気づいたのは、二十代後半くらいで尾崎一雄の「暢気眼鏡」を読んだときだったのだが、吉行淳之介や鮎川信夫も文学にしか「自分の生きる場所」はない(なかった)というようなことをいっている。
 中村光夫は、いまの人は自由で、追いつめられていないから、金を儲けようとか、名声をえようとか、そういう気持で文学をやっていて、でもそれはそれで不純とはいえないともいっている。また人間、齢をとると、視野が変わってきて、だんだん文学でなければいけないとおもえなくなってきているとも……。
 そんな話を三島由紀夫と対談していたころの中村光夫は五十代半ばすぎである。

 ひょっとしたら「文学信仰」が弱まっているから、わたしは無気力になっているのかもしれない。すくなくとも切実に本が読めなくなっている。活字にたいする飢えがいやされてしまったからだろうか。それもあるとおもう。齢をとって、本を読んでも、自分の考え方や感じ方をゆさぶられることがすくなくなったせいもあるだろう。「文学信仰」を強化するような読書に励むか、それとも青年時代の「文学信仰」が薄らいでしまった先の読書のありかたを考えたほうがいいのか。
 その先の読書生活を充たしてくれる本はあるはずだ。毎日のように新刊書店、古本屋に通い、読みきれないほどの本を買い漁り「読書疲れ」している人間のための文学が、きっと。

 中村光夫はけっこういけるかも。

2007/12/03

地盤さがし

 日曜日の駅前の薬局で「温楽」(衣類に貼るカイロ)を「箱」買いする。去年から、外出時には欠かせなくなった。三十個入りで六〇〇円くらいなので一個二〇円。年間九〇個つかうとして、一八〇〇円。このカイロのおかげで、二、三回は風邪をひかずにすんでいるかもしれない。

 昼前に西部古書会館に行く。少年サンデー編集部=編、根岸康雄=取材・文『オレのまんが道』(全二巻、小学館)を買う。「温楽」三十個分とほぼ同じ値段だった。まんが家のインタビュー本なのだが、刊行年が一九八九年、一九九〇年ということもあって、今となっては貴重な本になっている。
 なかでも若いころの浦沢直樹が「ぼくは売れることがまんが家としての第一条件だと思う」という発言は興味深い。

 かけだしのころ、編集者から「いい作品だけども、これじゃ売れない」といわれた浦沢直樹は、いちから漫画の勉強をしなおそうと決意する。

《半年間ペンを持たずに、バイトのかたわら本を読みまくり、映画を見まくった。その中で、自分にとって面白いものはどれだったか、逆に面白くないものはどれか、ベストテンみたいに並べて、自分の中でメジャー性を捜す作業をしたんです》

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/11/28

薄花葉っぱと…

 二十八日、下北沢の「ぐ」で薄花葉っぱのライブ。
 京都から来た扉野良人さん、あとオグラさん、東京ローカル・ホンクのアラケンさん、以前、京都のまほろばに出演したというオオノシンヤさん(山村暮鳥の詩に曲をつけて歌っているミュージシャン)たちと同じテーブル、こういう場所でライブが見られるのはほんとうに幸せだ。
 歌、演奏がいいだけでなく、それ以上のものがあって、とくに場の空気を音で変えていく力にのまれて、楽しくなって、どんどん酒がすすむ。

 ライブのあと、深夜一時くらいに薄花葉っぱ一同がやってきて、わが家で宴会がはじまる。
 気がつくと、年齢不詳のただ者ではない雰囲気の人がいて、「誰だろう」とおもいながら話(おもしろいんだ、これが)を聞いていたら、ドラムの小関純匡さんだった。

 オグラさんと小関さんは共通の知人がたくさんいて、お互い、二十年以上音楽を続けていて、この日が初対面というのも不思議だった。
 ライブを見て、そのあとミュージシャンと飲むと、いつもいろいろ刺激を受けるのだが、これが自分の中でどう作用するのかさっぱりわからないところも楽しい。感覚の鋭い人が多いから、緊張する。
           *
 数日前、扉野良人さんと中川六平さんと吉祥寺のいせやで昼ごろから飲み、そのまま古本屋めぐりをした。トムズボックスに行って、土井さんからいろいろ貴重な話をうかがい、そのまま吉祥寺をぶらぶらしていたら、ギターケースを背負った前野健太さんがむこうから歩いてくる。吉祥寺に行く前うちで扉野さんと先日発売された1stアルバム『ロマンスカー』をいっしょに聴いたばかりだった。

 来月、京都でライブがあるそうなのでお近くの方はぜひ。

「KOIしにKOI 番外編」12月22日(土)18:30 OPEN/19:00 START

出演 有馬和樹(おとぎ話)、前野健太

前売 ¥1500 当日 ¥2000(共に1ドリンク別)
         *
 さて今日から日常。頭を切りかえて、仕事だ。
 まもなく連載が二本はじまる。
『小説すばる』とPR誌『ちくま』(三ヶ月に一回)です。たぶん新年号から……かな?

 今までのやり方(気がむいたときに好きなことを書く)では続けられそうにないから、いろいろ試行錯誤するしかないとおもっている。

2007/11/18

大阪、京都

 十五日(木)、昼からアルバイト……をそうそうに切り上げて、夕方、のぞみで大阪に行く。梅田に着いのは午後六時前、大急ぎで梅田第三ビルの古本屋に行って、第四ビルのめん次郎できつねうどんを食う。
 かっぱ横丁の古本街をかけぬけ、萬字屋書店で大宅壮一の『青春日記』(上・下巻、中公文庫)を買う。あるところにはあるのだろうが、なぜかわたしの前にはあらわれてくれない本だった。
 最近、そういう本が見つかると、うれしいような、さみしいような気分になる。
 二十代のころから探している本が何冊かある。当り前だけどそういう本は年々すくなくなってきている。十年も古本屋をまわっていれば、自然とそうなる。

 大宅壮一の日記は、古本屋の話からはじまる。

 大正四年、七月二十七日の大宅少年が、空掘の古本屋で本を見ていて、棚の上の本をとるために、風呂敷包をおいた。
 夢中になって本を見ていたら、いつの間にか包がなくなっている。
 盗まれてしまったのだ。

《ああ大変な事が出来た。この中には幾程金銭を出しても求める事の出来ないこの四月から一日もかかさず書いた僕の努力の結晶ともいうべき『生徒日誌』が入っているのだ。その他学校で借った『少年』も昨夜、夜店の古本屋をあさって買求めた四五冊の本もすっかり取られてしまった。ああどうしよう、どうしたらよかろうか。今更ながら自分の不注意がうらめしかった》(大正四年七月二十七日の日記)

 こういう日記は、寝る前に四、五頁ずつゆっくり読みたい。

 阪急古書のまちから歩いて中崎の珈琲舎書肆アラビクに行く。BOOKONNの中嶋大介さんと待ち合わせ。ウイスキーを飲んで、そのあとコーヒーも頼んでみる。店長さんに芦屋古書即売会の目録を見せてもらう。十一月二十三日(金、祝日)か。行きたいけど、無理。

 先月、東京から大阪に引っ越した学生時代にいっしょにミニコミを作ったり、玉川信明さんの読書会に参加していた友人もアラビクの近所に住んでいる。その日は「大人の接待」で何時に仕事が終わるかわからないとのことだった。
 中嶋さんから最近の大阪の古本屋事情を教わる。
 店をかえて、午後十一時くらいに、友人がかけつけ、三人で軽く飲んだあと、ファミレスで深夜二時ごろまでしゃべる。
 学生時代に戻った気分だった。

 十六日(金)、京都に向う。とりあえず、河原町のサウナ・オーロラに行って、仮眠室で一時間ほど寝る。新しくできたブックファーストに寄ってみた。はじめて入った記念に喜国雅彦の『本棚探偵の回想』(双葉文庫)を買う。蒐集の対象(喜国氏はミステリ専門)はちがえど、共感するところ多し。

 阪急百貨店の八階のうどん屋で五目あんかけうどんを食う。
 昼の三時に六曜社で、扉野良人さん、北村知之さんと待ち合わせ。北村さんはほんのちょっと前にスマートで「sumus」同人の山本善行さんと林哲夫さんと会っていたという。六曜社に行く前に、スマートのちかくを通ったのだが、気づかなかった。残念。
 しばらくして扉野さんが来て、お寺に行って、大阪から来る中嶋さんを待つ。
 講談社文芸文庫の品切本の話で盛りあがる。
 夕方六時、中嶋さんと合流してタクシーで「拾得」に向う。
 東京ローカル・ホンクと薄花葉っぱ(女子部)のライブ。店にはいると、近代ナリコさんもいた。
 北京在住のアメリカ人のホンクのファンが観光をかねてこのライブに合わせてわざわざ京都に来ていた。もともとくるりのファンで、喫茶ロックを聴いて、ホンクの曲を知ったそうだ。

 ライブは無事終了。旅先で聴く「ハイウェイソング」は格別だ。打ち上げもたのしかった。
 そのあとホンクのメンバー、スタッフといっしょに扉野さん家のお寺に行く。
 夜中の一時すぎにみんなで風呂に行こうということになったが、夜遅くまでやっているという銭湯は閉まっていて、結局、サウナ・オーロラに行くことになった。十二時間以内に二回も同じサウナに行くことになるとは……。
 さっぱりして、また寺に戻り、布団をひいて、ザコ寝。合宿みたいだ。京都だから修学旅行かな。扉野さん、さまさまだ。
 ふと、こんな楽しいことって、あと何回くらいあるんだろうとおもう。
 楽しい時間はあっという間にすぎてしまう。

 旅先では、目や耳、全身の感度があがっているような気がする。
 東京にいるときも、この感覚を忘れないようにしたいとおもうのだが、これがなかなかむずかしい。
 ホンクのメンバーは、みんなわたしより齢上なのだけど、小学生がそのまんま大人になったみたいなところがある。
 とりあえず、バカなところをいきなり全開で見せて、あっという間に場にうちとけてしまう。
 十年くらい飲んでいて、ようやくそのすごさがわかってきた気がする。彼らなりにいろいろな場数をふんできて、そうなったのだろう。

《すてきな思い出のすべて
    すてきな持ち物のすべて
 はぎ取られてもそこに 残る小さな光
 それが僕らさ それが僕らさ そうだろ
    それが僕らさ 僕らは光さ
 それが僕らさ すべてを失くしたとしても
    そこに残る光さ 僕らは光さ》
   (「生きものについて Beautiful No Name」)

 あるときは「光」は、「音」だったり、「命」だったり、あるいは言葉にはならない「何か」だったりするのかもしれない。
 ここまで書いて、ふと耕治人の「一条の光」という小説のことをおもいだした。

《小指の先ほどの鼠色のそのゴミは、生まれたような気がした。見つめていると、生きているように感じられた。不思議なことが起きた。そのゴミを起点として、一条の光が闇のなかを走った。私は闇のなかに、いつのまにか、いた。一条の光は私の過去であり、現在だ。それは父母であり、兄妹であり、私の出身校であり、勤め先だった。結婚でもあった。要するに私の生涯だった。生涯を一条の光が貫いたのだ。それは太くもあれも細くもあった。私はワナワナ震えた。身動きができなかった。コレダ! と思ったのだ》

 きっと人生には「コレダ!」とおもう瞬間があるのだとおもう。
 わたしはまだ「光」を見ていないけど、あっちこっちふらふらして、友人と付き合ったり別れたり、学校や仕事をやめたり、いろいろな偶然や必然が積み重なりながら、行き当たりばったりに生きていて、なんでこんなふうになってしまったのかわからなくなることもある。でも「これまでのこと、いいこともいやなこともなにもかも、そういうことがあったから、今があるんだ」とおもえる瞬間がある。

 十七日(土)、午前十一時、のぞみで東京に帰る。そのままアルバイト先に直行し、夜七時まで働く。
 自分にこんなに体力があったことに驚くが家に帰って、十二時間くらい寝て、十時すぎに起きた。NHKの将棋を見て、また寝ると、午後四時半になっていた。

 西荻窪の「昼本市」に行きそびれた。皆勤賞だったのに。不覚。

2007/11/13

荻窪あたりで

 月曜日、起きたら昼の三時半。体内時計がおかしくなっている。
 昼間は原稿が書けないので、洗濯して、夕方から荻窪のささま書店に行く。

 秋山清『近代の漂泊』(現代思潮社、一九七〇年刊)、小野十三郎『詩集 大阪』(創元社、一九五三年)、『砂上の会話 田村隆一対談』(実業之日本社、一九七八年)、『耕治人全詩集 昭和五年〜昭和五十五年』(武蔵野書房、一九八〇年)を買う。
 ひさしぶりに行ったら店内の棚がずいぶん入れ替わっていた。ほかにもほしい本が五、六冊あったけどガマンする。
 野呂邦暢のあの本もあった。相場より安かったからすぐ売れるとおもう。

 荻窪のco−op(高円寺にはない)で、インスタントの「北海道醤油らーめん」(常備品)を買い、そのあとタウンセブンの地下の食品売り場で東信水産の焼きさば棒寿司を買う。一パック三百九十円。しかも二割引。ここの焼きさば寿司、絶品だとおもう。

 家に帰ってから、昨日の鍋の残りを使いきるために豚汁を作る。

 秋山清の『近代の漂泊』を読んでいたら、植村諦のことが気になり、夜中「日本の古本屋」で植村諦の『鎮魂歌』(青磁社、一九八〇年)を注文した。

 この本、小野十三郎、向井孝、秋山清があとがきを書いている。

2007/11/12

植草甚一展雑感

 ここ数日、漫画を読んで、寝てばかりいた。急に冷えてきたので、からだもあたまもちゃんと働いてくれない。 季節の変わり目は寝ても寝ても眠い。休むときは休む。ちょっとなまけて、体力と気力を充填し、すこしずつ調子をとりもどす。

 長年の自分研究によって無理して調子を崩すよりも、わざとだらけて調子を落としたほうが、疲れていない分、回復が早いことがわかってきた。休んでばかりいると、どんどん衰えていくのではないかという心配もある。

 日曜日、小雨ふる中、世田谷文学館で開催中の「植草甚一 マイ・フェイヴァリット・シングス」展を見に行った。世田谷文学館はひさしぶりだ。前に行ったのはいつだろう。二〇〇二年の山田風太郎展以来か。その前が吉行淳之介展だったからこれが三回目である。

 わたしは植草甚一の本をあまり読んでいない。ミステリ、ジャズに興味がなく、洋書は読めず、映画もそんなに見ない。学生時代に古本屋をまわりだしたころには、すでに植草甚一の本には古書価がついていて、著作数が多いから敬遠していたというところもある。アメリカから日本に本とレコードを送ったら、その送料が五十万円くらいかかったというコラムを読んで「住む世界がちがうなあ」とおもった記憶がある。ただその日、最初に入った古本屋でかならず一冊は買うとそのあといい本が買えるという植草甚一のジンクスはけっこう実践している。一冊は買おうとおもって棚を見ると、それなりに集中するし、目つきが変わってくる。そういった効果があるのかもしれない。

 世田谷文学館の帰り、京王線の芦花公園駅の北口のほうを散歩する。昭和というか、うらさびしい町という印象だった。新宿の京王百貨店のデパ地下で天むすを買って、高円寺に帰る。夜は豚肉の鍋を作る。

2007/11/09

東京ローカル・ホンク

 来週また関西へ。今年の秋に二枚目のアルバム「生きものについて」MINE'S RECORDS(MR-001 / ¥2,415 税込)が出た東京ローカル・ホンクのツアーに同行……ではなく現地で合流する。

 十一月十六日(金)の京都「拾得」で、薄花葉っぱと共演と聞いて、これはもう行くしかないと。今回は久々に大阪の古本屋もまわりたいとおもっている。

 東京ローカル・ホンクは高円寺の公園で飲んでいるときにペリカンオーバドライブのメンバーから、ドラムのクニさんを紹介してもらい、ライブを見にいったら、C・S・N&Yみたいなコーラスで演奏がめちゃくちゃうまくてビックリした。当時は「うずまき」という名前だった。十年くらい前の話だ。とにかく、生で見てほしい。

「生きものについて」も聴いてほしいです。詳しくは東京ローカル・ホンクHP

2007/11/07

買物

 物価上昇がニュースになっているが、今のところ高円寺の商店街で買物をしている分にはその影響はさほどかんじられない。車に乗ってないせいかもしれない。
 夕方「外市」の売り上げ金を握りしめて、近所の古着屋に行く。スティーリー・ダンの眼鏡の人(もしくはアメリカ人のオタク)が着たら似合いそうなかんじのネルシャツが買えた。八百四十円。

 そのまま鳥のもも肉と切り落としベーコンを買ったあと、ららマート、西友、OKストア、東急ストアと高円寺駅周辺の主要スーパーをまわる。火曜日は冷凍食品その他が安い日なのだ。
 その冷凍食品売り場で冷凍うどんの三個入りを買うか五個入りを買うかで迷っているところを大家さんに見られる。そのあとレジで先日知りあったばかりの編集者とばったり会う。

 金がはいると、まず食料を買ってしまうのは、貧乏な家に生まれたせいだとおもう。

 夜、ほうれん草とベーコンの塩にんにく味のスパゲティを作る。

 ベーコンとほうれん草とにんにくをオリーブオイルでいためて、適当に塩コショウで味つけてして、パスタをいれてかきまぜたら出来上がり。ベーコンのかわりに豚バラ肉をつかうこともある。

2007/11/06

外市を終えて

 第5回往来座「外市」も無事終了。
 アクリルたわし十個完売。

 自信を持って出品したシングルレコードの東京ぼん太「あんたしっかりしてンね」(コロムビア)は売れず、梓みちよの「売れ残ってます」(キングレコード)も当然のように売れ残った。

 打ち上げ会場は池袋の世界の山ちゃん。
 オグラさんも参加。ラジカセで豆太郎のテーマ曲を聞かせてもらう。
 その後、無謀な企画(オグラさんと浅生ハルミンさんといっしょにバンド結成など)で盛りあがるも、酔いさめたとたん完全に自信喪失。
 すこし酒をひかえよう。だめだ。

 家に帰っていったん寝て、朝七時ごろから月曜日しめきりの原稿にとりかかり、昼前になんとか書き終える。

 また寝る。気がついたら、夕方の五時、外はもう暗い。
 風呂にも入らず、ひげもそらず、ひたすらだらけているうちに深夜になる。
 漫画を三冊(※1)読んだ。
 コタツとストーブを出した。

 こんな日ばかりだとそれはそれでつらいのだけど、こういう日がまったくないのもつらい。

※1 稲垣理一郎原作、村田雄介漫画『アイシルード21』二十七巻(集英社)、谷川流原作、ツガノガク漫画『涼宮ハルヒの憂鬱』五巻(角川書店)、幸村誠『ヴィンランド・サガ』五巻(講談社)……。

2007/11/03

函館の朝市

 函館に行ったのはいつだったか。こういうとき日記をつけていればよかったなとおもう。
 青春18きっぷで仙台、盛岡、秋田、弘前の古本屋をまわりながら、電車で函館に行った。仙台は東北大学の寮、盛岡は二十四時間営業の漫画喫茶、秋田は駅前旅館、弘前は駅で野宿している。

 目的地は札幌だったのだが、時刻表をみると、函館から札幌まで鈍行ではかなり時間がかかることがわかった。
 当時は函館から札幌までの夜行電車(夜行ミッドナイト。現在は廃止)があったのだが、全席指定で切符が買えず、結局、その日は函館駅の待合室のようなところに泊ることになった。
 駅の待合室には四十、五十人いた。明け方、駅のまわりを散歩した。駅からすぐ函館港があって、朝までやっている飲み屋があってそこで飲んだ。座敷があって、うとうとしていたら「疲れているんだったら寝ていきなよ」と店の人が布団を貸してくれた記憶がある(あやふやな記憶だが)。
 どうにか特急で札幌まで行き、古本屋をまわり、北海道の大学で尿の研究をしていた友人(今は愛知県で薬局を営んでいる)の家に泊めてもらい、それから苫小牧まで行って、東京まで船で帰った。

 二十代のころは滞在時間よりも移動時間のほうが長い旅ばかりしていて、これといった観光もせず、古本屋をまわり、電車の中で本を読んだり、寝たりしていた。
 だから函館のことをおもいだそうにも、前述の居酒屋に泊めてもらったことしかおぼえていない。
 そういえば、函館市電(路面電車)に乗って、五稜郭公園に行った。ちかくにいせや書房という古本屋があって、文庫本を買った気がする。

『佐藤泰志作品集』の中に「函館の朝市」というエッセイがある。

《今私が父の仕事を手伝っているこの函館の朝市にも、夏のシーズン中はもちろん、四季を問わず観光客はおとずれるし、中には石川啄木ゆかりの地などを思いいれて、はるばるやってくる文学青年などもいるのだろうと思われる。(中略)私の父などは三〇年このかた朝市の地べたで、野菜売りのおばさんや海草や昆布を売るおばさんに混じって商売を続けてきた。わずか畳一畳分ほどの地べたでの商いであって、しかしそれを三〇年と考えると、実にしぶといと思ってしまう》

 この文章を読んで、わたしも朝市に行ったこともおもいだした。駅の待合室から、朝市に出かけ、せっかく函館に来たのだから、うまいものを食おうと、いくら丼を食った。それについてきたみそ汁がうまくて、おかわりした。
 もし佐藤泰志の『海炭市叙景』を読んでいたら、函館ロープウェイにも乗っただろう。残念ながらわたしは乗らなかった。市電の窓からロープウェイの看板を見た気がする。
 そんなことをおもいだしているうちに、函館に行ったのは、一九九四年八月だったような気がしてきた。
 なぜそうおもったかというと、北海道の友人と「吉行淳之介さんが亡くなったねえ」という話をしたおぼえがあるのだ。その友人も吉行ファンだった。

(追記)
 いろいろ記憶がごちゃごちゃになっている。たしか大学時代(一九九〇年ごろ)にも北海道に行っているはず。

2007/11/02

佐藤泰志作品集

 昨晩、古本酒場コクテイルで、中川六平さんとクレインの文弘樹さんと飲んだ。
 中川さんも、文さんも『思想の科学』という雑誌の編集者だった。わたしも二十代のころ編集部にときどき遊びに行っていたのだが、文さんとは時期がズレていて、昨日はじめて会った。

 共通の知り合いはいろいろいて、そのひとりが六平さん。京都の扉野良人さんもそう。
『思想の科学』は休刊しても、そのつながりは不思議と残っている。

 飲んでいる途中、古書現世の向井さんからコクテイルに電話があった。「外市」に出すための本を受け渡す約束をしていたのだ。いったん家に帰り、荷物を渡して、また店に戻ると、前田君がいた。
 中川さん、酔っ払って、前田君にからんでいる。
「大阪に帰って一からやり直せ」
「いやです。帰りませんよ」

 中川さんが帰った後、もう一軒、文さんとあかちゃんに飲みに行った。だいぶ酔った。

 そうそう、文さんは『佐藤泰志作品集』を作った編集者なのである。

 佐藤泰志は一九九〇年十月九日、四十一歳のときに自ら命をたった。
 一九四九年、北海道函館生まれ。「きみの鳥はうたえる」(『文藝』一九八一年九月号)、「空の青み」(『新潮』一九八二年十月号)、「水晶の腕」(『新潮』一九八三年六月号)、「黄金の服」(『文學界』一九八三年九月号)、「オーバー・フェンス」(『文學界』一九八五年五月号)が芥川賞候補、『そこのみにて光輝く』(河出書房新社、一九八九年刊)が三島賞候補になった。

「佐藤泰志作品集に寄せて」の中で、小山鉄郎さんは「文学は命がけですよ。少なくとも佐藤君にとって、文学は命をかけてのものだったじゃないですか」という江藤淳の言葉を紹介している。
 江藤淳は三島賞の選考委員で、佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』を強く推していたという。

 佳作だったこともあり、生活は楽ではなかった。

《十六年ほど前というと僕は二十四歳で、格別気負いもなく、ただ小説を書くことが自分の道だと思い定めていたところがある。アルバイト生活をしながら、夜帰って食事をすますと、ろくな会話もせず、あてのない小説を書き続けていた》(エッセイ「背中ばかりなのです」)

 大学卒業後、印刷会社、大学生協の調理員、梱包会社など職を転々とし、三十二歳のときに「職業訓練校の建築家に入り、大工になるための訓練を受ける」とある。
 年譜のところどころに「自律神経失調症」「自殺未遂」「文芸ジャーナリズムからほされる」「アルコール中毒」といった言葉が出てくる。生きがたい人だったのだとおもう。しかし、その小説は美しい。

 いわゆる少数の熱心な読者に愛される作家だった。

(……続く)

2007/10/29

神田古本まつり、そして外市

 昨日、福岡から帰ってきて、今日は午前中から洗濯、掃除と家事をこなし、昼から神田古本まつりに行く。平日だと、人もそんなに多くなくて、ゆっくり本の中身をチェックしながら買える。

 二十六日から二十八日までの古書会館の即売展のほうは見れなかったけど、青空掘り出し市の品ぞろえは例年と比べていいような気がした。秋山清の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』(思想の科学社、一九七三年刊)の署名本が四百円で売っていた。ひょっとしたらたくさん客が来たとおもわれる日曜日の翌日の月曜日は狙い目なのかもしれない。

 神保町でも携帯電話で値段を調べながら古本を買う若い人も増えた。あんまりいい気分ではない。ある店の均一は本を上下に積んでいるから、底のほうの本も見たかったのだが、携帯セドリ君がなかなか場所をゆずってくれない。ちょっと興ざめ。

 途中、神田伯剌西爾(ぶらじる)でコーヒーを飲む。そうそう、このあいだまでずっと「伯剌西爾」を「伯刺西爾」と書いていた。「剌・ラツ」(正)と「刺・シ」(誤)なのだけど、パソコンの字が読みにくくて自分では判読できない。

 まもなく池袋往来座の第5回「外市」がはじまります。わたしも参加します。今回は本と手作りのアクリルたわしを販売。値段は二百円。洗剤なしでもきれいに落ちるし、スポンジたわしよりもずっと長持します。限定十個。早いもの勝ち。

 古本の値段つけはこれから。今回のメインゲストは吉祥寺の古本屋さん。前回の西荻窪につづいて「おに吉」と「わめぞ」の夢の共演です。あと中央線沿線からは友人のインチキ手廻しオルガンのオグラさん(元・青ジャージ、800ランプ)も、CD、豆太郎グッズ、手づくりの絵本などを出品する予定。さっき電話したら「何もせずに寝てばっかだよ」といってました。『オグラBOX 3枚組』(MIDI Creative)、売れるといいなあ。

 第5回 古書往来座外市〜吉祥寺より愛をこめて〜 約25名参加、往来座の外壁にズラリ2000冊! 雑貨、ガラクタも販売。包丁研ぎの実演もあり。

■日時 11月3日(土)〜4日(日)  3日⇒11:00〜20:00(往来座も同様) 4日⇒11:00〜17:00(往来座は22:00まで) 

■雨天決行(一部店内に移動します) ■会場 古書往来座 外スペース(池袋ジュンク堂から徒歩5分) 東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階

▼メインゲスト 藤井書店(吉祥寺)、百年(吉祥寺)、バサラブックス(吉祥寺)

▼スペシャルゲスト 嫌記箱(塩山芳明)、古本けものみち(内澤旬子&南陀楼綾繁)、ハルミン古書センター(浅生ハルミン)、文壇高円寺(荻原魚雷)、伴健人商店(晩鮭亭)、ふぉっくす舎、不思議(はてな・千駄木)、やまねこ書店他、お客様オールスターズ(朝/Y‘s/おんじょろ)

▼わめぞオールスターズ 古書往来座(雑司が谷)、立石書店(早稲田)、m.r.factory(武藤良子)、旅猫雑貨店(雑司が谷)、リコシェ(雑司が谷)、kika zakka(ベトナム雑貨・雑司が谷)、ブックギャラリーポポタム(目白)、貝の小鳥、琉璃屋コレクション(目白)、版画製作・展覧会企画 ぶくぶっくす(「buku」・池袋)、退屈男(名誉わめぞ民)、

▼「本」だけじゃないのです! 刃研ぎ堂(包丁研ぎ)、古陶・古美術 上り屋敷(会場では特選ガラクタを販売)、オグラ(手廻しオルガンミュージシャン・雑貨、小物販売)、こまものや(小物=バッヂ、コースターなど販売) 

■主催・古書往来座 ■協賛・わめぞ http://d.hatena.ne.jp/wamezo/

2007/10/28

ブックオカおぼえがき

 飛行機で福岡空港から地下鉄で天神に直行して、丸善、福家書店福岡店、ジュンク堂書店福岡店をまわる。
 気温二十五度。暑い。
 福岡に行く前日に、元リブロの人と飲んでいたのだけど、「博多は日本屈指の書店激戦区だよ」といっていたのは、ほんとうだった。

 今回のブックオカの目玉のひとつである「福岡の書店員65名が選んだ激オシ文庫フェア」を見る。

 いちばんのインパクトはこれでしょう。

〈『適当教典』高田純次(河出文庫)
 もし、高田純次が100人の村があったら……世界征服もやぶさかでない〉

                  丸善福岡ビル店 脊戸真由美

 この本、単行本のときは『人生教典』(河出書房新社)という題だった。わたしはこの本を読んで日当りのいい部屋に引っ越すことに決めた。人生、変わりましたよ、すこし。

 それから荷物を置きに東映ホテルへ。すぐちかくに書肆玄邑堂があった。はじめて入る古本屋は、棚が新鮮。店が細くて奥行きがあって、いいかんじだった。そのあとうどんを食う。

 しばらくホテルでくつろいでいたら、眼鏡の左側のツルのネジが折れる。
 旅先だから予備の眼鏡もない。かなり焦る。でもすぐちかくの地下街に眼鏡屋があり、無料で直してもらった。

 午後六時半からの丸善の南陀楼綾繁さんトーク「リトルマガジン・遊書日記」の前に、西新大古本まつりに行く。
 会場は、西新エルモールプラリバというショッピングセンターの七階催事場なのだが、昔、高田馬場BIGBOXの六階でやっていたときの古本市と雰囲気が似ていた。なつかしくてうれしくなる。
 天神に戻って、丸善の裏のほうの路地にある喫茶店で一息。
 西新の古本まつりでは『天神ストリート』(天神文庫、西日本新聞社)という本を買った。
 この本の中で、夏樹静子「蒸発 ある愛の終わり」、瀬戸内晴美「美は乱調にあり」、渡辺淳一「くれなゐ」、山村美紗「鳥獣の寺」、檀一雄「火宅の人」、椎名誠「モンパの木の下で 都市の貌」といった本の天神界隈の記述の抜粋が掲載されている。

《いま日本の街でもっとも活気があってイキオイがあってセンスがいいのは福岡だ》(椎名誠)

 話はそれたけど、南陀楼綾繁さんトークショーは、『プチブックレシピ リトルプレスの作り方』(毎日コミュニケーションズ)のyojohanさんもゲストで、いろいろ貴重な話を聞くことができた。

 そのあと、中華料理屋で今年のはじめごろ偶然、東京でお会いした福岡の名物(?)書店員のタカクラさんや石風社のFさん、numabooksの内沼晋太郎さん、貸本喫茶ちょうちょぼっこの福島さんたちと打ち上げ。鍋、うまかった。
 だが、場所も名前もおぼえていない。あともう一軒行って、ホテルに帰って熟睡。旅先ではよく眠れる。しかも早起きになる。

 二日目。とりあえず、荷物を天神のコインロッカーにあずけて、地下鉄で赤坂に。「おとなりキップ」というのが百円。福岡、バスも百円でいろいろまわれる。物価も安くて暮らしやすそうだ。あと地下街にもおどろいた。広い。
 駅ちかくの「レンガ」という店でコーヒーを飲む。

 けやき通りの「一箱古本市」。買った、買った、よかった、よかった、楽しかった。
 古本酒場コクテイルの常連で、今年福岡に引っ越したIさん(音羽館で働いていたこともある)とUさんも出品していて、山田稔さんの本など、いい本を並べていた。売り上げもけっこうよかったそうだ。ふたりとも元渋谷ブックファーストの書店員。
 今回いちばんの収穫は、竹中労の『自由への証言』(エフプロ出版、一九七七年)かなあ。はじめて実物を見た。うれしか。「週刊読売連載〈エライ人を斬る〉筆禍裁判の記録・私闘の論理」
 証言は、井家上隆幸、五木寛之、大島渚、今東光、松浦総三、丸山邦男、矢崎泰久。
 筆禍になった原稿は「佐藤寛子・庶民ぶるネコなで声の権勢欲夫人」。佐藤寛子はグラビアアイドルではなく、佐藤栄作の妻ですね。蛇足。

 途中、南陀楼さんのかわりに店番をする。場所は「ブックスキューブリック」(もし将来、町の本屋さんをやりたいとおもっている人は必見かも。福岡県外でも注目のミニ書店)の前。お隣さんは、以前これまた高円寺の古本酒場コクテイルで会ったことのある女の子。箱をみると、田中小実昌の『ぼくのシネマ・グラフィティ』(新潮文庫)がある。これ、持ってなかった。ブックカバー、おまけしてもらう。「古本UMA」と書いてある。
 店番中は、スタンプラリーのハンコ押しが忙しい。子どもがいっぱいくる。あとちょっとしたトラブルも発生。不思議な女性がいきなりわたしの隣に座り、南陀楼さんの本を勝手に片付け、自分の本を並べはじめ、カバンからカッターナイフを出して……。ちょっと怖かった。

 店番のあとは、入江書店、痛快洞、バンドワゴンをまわる。入江書店は、正統派の古本屋。近所にあったら通いたい。入江書店のちかくの「博多さぬきうどん」もうまかった。ここはまた来たい。
 痛快洞は、買わされた。いっぱい買ったら、割引してくれた。あとバンドワゴンは地下にある。迷った。安岡章太郎の『驢馬の学校』(現代史資料会)が買えて満足。ずっと読みたかった本を旅先で買えるとうれしい。
 一箱古本市の打ち上げは「東方遊酒菜ヌワラエリヤ」。店主の方は建築家だそうで、店内の天井まである本棚(高そうな本がいっぱいあった)は壮観だった。
 焼酎を飲んでいるうちに、わけがわからなくなる。
 そのあと中華料理屋(場所、おぼえていない)で、また焼酎。どんどん濃くなる。最後のほうはストレート。そのあと南陀楼さん、福島さん、内沼さんとこの日家に泊めてもらう約束をしていたIさんとUさんともう一軒(※1)行ったのだが、睡魔におそわれ、注文した飲み物がくる前に寝てしまう。一日中歩きどおしだったからなあ。

 そのあとIさんとUさん宅に一泊。
 地下鉄七隈線(この地下鉄、電車好きはいちばん前の車両に乗るべし。運転席のしきりがないから、地下鉄の中がよく見える)で早朝、天神に向い、コインロッカーで荷物をとり、中洲川端まで散歩。天神中央公園でぼーっとする。「新たなポテンシャルをたくわえて中洲ゲイツ、再始動」という看板を見て、わたしも再始動しようと心に誓う。
 まだすこし時間があったので、地下鉄で博多駅に出る。福岡交通センタービルのバスチカ商店街をうろうろ。バスチカ。響きがかっこいい。太郎うどんでかけうどん。この店、ラーメン屋とつながってるのだけど、早朝はうどん屋だけ営業している。

 スカイマークで東京に帰る。早い、飛行機。でも旅情なし。
 来年も行きたい。二泊三日はぜんぜん足りん。今度はラーメンも食おう。あと中洲の屋台も。

 家に帰ると、原稿の催促が……すみません、仕事します。
 というわけで、これから小杉湯につかってきます。今日は漢方薬草の湯。

(追記)
※1 古本喫茶coffinでした。南陀楼綾繁さんのブログにて判明……。

2007/10/25

福岡へ

 明日からブックオカに行きます。昨年、書肆アクセスの畠中さんから、ブックオカの話を聞いて、今年はなにがあっても行こうとおもっていた。今回の目当ては、けやき通りの「一箱古本市」(二十七日)と「第3回 西新大古本まつり」(リブロ西新店共催)。

 それで飛行機の格安チケットをとる。
 スカイマークで東京・福岡間往復で二万円ちょっと。新幹線で大阪に行くより安い。知らないうちに、世の中こんなことになっていたのか。プラス三千円でホテルに一泊というプランもある。二泊三日のうち、一泊しか予約できなかったけど、まあ、なんなんとかなるでしょう。
 ひさしぶりだなあ、九州。
 二十一世紀になってから、はじめてかも。

 前に取材で行ったときは、新幹線分のチケット代をもらって、青春18きっぷで行ってその差額で、一泊二日の予定が二週間くらい滞在した。単に、電車賃なくなって帰れなくなったのだけど、飲み屋で知り合ったおじさんにキャバレーに花を届けるアルバイトを紹介してもらって、なんとか東京に帰ってくることができた。

 ほんとうにいいところだなあ、とおもった。

2007/10/22

エルゴスム書店

 日曜日、ひさしぶりに渋谷に行った。スクランブル交差点が横切れず、人の波に流される。信号変わるの早いよ。あれじゃあ、おとしより、渡りきれないよ。移転したばかりのブックファーストに寄ると、人でいっぱいだった。レジも混んでいた。地下にあるせいか、棚の配置のせいか、方向感覚がおかしくなる。働いている人はちょっとたいへんそうだ。

 話はかわるが、昔の高円寺文庫センターの跡地には、来月「スマイルベーカリー」というパン屋ができることになった。本からパン。これはちょっと予想していなかった。

 それから今年二月に閉店した高円寺の絵本の古本屋「えほんやるすばんばんするかいしゃ」が八月に再開していた。
 二ヶ月くらい気がつかなかった。不覚だ。

 すこし前に扉野良人さんから『SAGE(サージュ)』(一九八一年十一月号)という雑誌をもらった。
 この号では「全国書店マップ」(高橋雅彦)という連載で「中野・高円寺・荻窪・吉祥寺・国立・八王子」と中央線沿線の新刊書店と古本屋がとりあげられている。

《高円寺はごく庶民的な街である。
 新宿や吉祥寺と違って特に大きな書店はない。そのかわり、古書店がたくさんある。どの古書店も、知識欲旺盛な若者で賑わっている。
 駅前には小ぎれいな新刊書店が多いが、奥に入っていくとい、気取らない感じの古本屋が多くなる》

 地図にはいくつかまちがいだとおもわれる箇所があったが、それにしてもずいぶん変わったなとおもう。
 駅前の新刊書店がなくなった。南口の二階建の湘南堂書店もなくなったし、北口の現代書店は今はブックスオオトリ。建物は新しいマンションになっている。
 北口庚申通りのダイワ書店と大五郎書店、南口すぐの邦文堂書店は記憶にない。
 古本屋でいうと、北口の佐藤書店がなくなった。レジのうしろのガラスケースに芥川賞、直木賞作品が並んでいて、詩の関係の本も充実していた。本の値段は安くはなかったが、ときどきほりだしものがあった。
 まったく知らない古本屋もある。北口のエルゴスム書店は聞いたこともなかった。注釈には「初版本ばかり集めた。『本キチ』のための古書店」とある。

 エルゴスム書店かあ。コギト・エルゴ・スム。我おもうゆえに我在り。

 でも、もう店はない。

2007/10/19

詩と逃避

 先日『石神井書林目録73』で注文した『岩礁』第34号黒田三郎追悼号(一九八〇年四月二十日)が届いた。
『岩礁』は静岡県の詩の同人誌。「岩礁」同人による「哀悼 黒田三郎」には「氏が晩年の十年間、『岩礁』の同人として、詩、評論を寄稿下さり、常に温かい励ましの言葉をもって、地方の一同人詩誌に、格別の御厚情を示されたことに、私たちは、心からの感謝を捧げます」とある。
 黒田三郎の没後、思潮社から刊行された『流血』(一九八〇年五月)という詩集の表題作「流血」も『岩礁』に発表されたものだ。その手書きの原稿の写しもこの追悼号に掲載されている。

《何と多くのことが
 「という」だとか
 「ということである」だとか
 そんなふうに
 過ぎ去ってゆくことか
 やがて
 黒田三郎「という」
 飲んだくれがいて死んだ
 「ということである」
 というふうに
 そんなふうに
 僕らの日々は過ぎつつある》

 これが詩集『流血』では、

《黒田三郎「という」
 飲んだくれがいて
 死んだ「ということである」》

 となっている。

 ほんのすこしのちがいだけど、印象が変わっている。
 どちらがいいか、意見がわかれるところかもしれない。どちらでもいいという意見もあるだろう。
 どうも仕事の予定が詰まってくると詩が読みたくなる。

2007/10/14

秋も一箱古本市

 午後三時ごろ、「ちょっと根津のほうに行ってきます」とアルバイトを抜けだし、「秋も一箱古本市」に行く。
 地下鉄千駄木駅から「アートスペース・ゲント」、「貸はらっぱ音地」、「ライオンズガーデン」、「宗善寺」、「パール・オステリア・コムム」の順で駆け足でまわって、根津駅から仕事場に戻る。ほんとうは午前中に寄ってから、仕事に行くつもりだったのだが、寝坊してしまった。
 本はゆっくり見ることができなかったけど、お祭り気分が味わえて満足する。
 一箱でなんとなく買った田村隆一の『詩人からの伝言』(メディアファクトリー)がおもいのほかよかった。帰りの電車の中で読んでいたら、止まらなくなった。C・D・ルイスの詩が生まれるときの話について語っているところがあって、詩の「種子」が育ち、詩が生まれる瞬間までには、数日、ときには数年かかることもあると。

《いいかい、このプロセスがない限り、ある一篇の詩がいかに巧妙に正義を歌ったり、愛を讚えても、またモダーンな意匠で書かれても、真の意味でそれは「詩」ではないんだよ》(一篇の詩の誕生)

 詩の話なのだが、いろいろ考えさせられる。どうしても仕事の原稿を書いているとスピードが求められる。これが意外と消耗する。仕込みに時間がとれなくなって、ときどき自分のペースを見失う。もっとじっくり文章の「種子」を育てながら書いていきたい。むずかしいことだが。

 夜は、大阪から一箱古本市にも参加していた「BOOKONN」の中嶋大介さんと古本酒場コクテイル。先日のまほろばの古本市のときも出店していた。コクテイルのあと、夜中十二時すぎ、高円寺の「ZQ」に寄る。翌日、いっしょに西部古書会館の古書展に行く。

 今日の夜は東小金井のザ・チャンプルー海風で東京ローカル・ホンクのワンマンがある。この秋『生きものについて』というニューアルバムが出た。名盤ですよ。

2007/10/13

風邪かも

 風邪かな、秋の花粉症かな。ずっとくしゃみ、鼻水が止まらない。酒を飲むと、ひどいことになる。というわけで、ひさびさの休肝日。
 のんびり旅がしたい。ゆっくり本が読みたい。時間をかけて文章を書きたい。そうおもいつつ、なかなかそうできない日々が続いている。ここのところ、家事も投げやりだ。

 アルバイトで事務(雑用係ともいう)をやっているのだけど、先日、仕事の一部をワープロからパソコンに切り換えることになった。
 このワープロからパソコンへの移行作業が、おもいのほか時間がかかる。家ではMacをつかっているので、ウィンドウズにも慣れないといけない。ただ移行してしまえば、この先、ちょっとは仕事が楽になりそうだ。
 今悩んでいるのは、たとえば十枚の原稿があって、そのうちの一枚だけ印刷するという方法がわからない。

 調子がわるいと、環境のせいにしてしまう。ちゃんとした仕事場があれば、もっと原稿が書けるかもしれないとおもったり……。
 おそらく仕事場の問題よりも、スケジュールの問題のほうが大きいのだ。
 今後は月に何日かは体調がわるい日があることを前提に予定を組むことにする。

 しめきりの日って、なんで同じ時期になるだろう。週明けの月曜日。土日がいつも仕事でつぶれる。金曜日までに書いてしまって、土日を休みにすればいいとおもうのだが、それができれば苦労しない。

2007/10/10

秋のまほろば古本市

 十月八日、京都の秋のまほろば古本市。行き帰りのこだまの中では『麻雀放浪記』を読もうとおもっていたが、当日、気が変わって、開高健の『白いページ』(1〜3巻、角川文庫)にする。これも電車向きの本だ。そのかわりといってはなんだが、一乗寺の萩書房で臨時増刊号『プロ麻雀 追悼全特集・阿佐田哲也の世界』(銀星出版)を買う。まあまあ、いい値段だったけど、旅先だから太っ腹になっている。
 前の日から扉野良人さん宅にお世話になる。そして前日もまほろばで飲む。
 
 朝方、大雨が降っていたけど、開始の午後十二時半ごろ、ちょうど雨がやんだ。途中、晴れ間さえも見えた。「扉野くんの念力」(山本善行さん談)はさすがである。

 当日“わめぞ”の名物の前掛け(「古本暮らし」の刺繍入り)をして会計係をする。スリップをぬいて、計算して、お釣りを渡す。そうした作業にまったく慣れていなくて、お客さんに話しかけられても、余裕のない、ぎこちない対応に終始してしまった。ああ、うう、あうあう、すみません。

 場数をふまないとなあ。
 
 古本市はたのしかった。あっという間だった。時計をみるたびに、予想していた時間よりも一時間くらい早くすすんでいる。時計が壊れているんじゃないかとおもったくらいだ。
 それから山崎書店さんからもらった「京都古書店繪圖」は素晴らしい出来です。
 ご来場のみなさま、ありがとうございました。

 夜はオグラさんのライブ。現在もツアー中。はじめのうちは大丈夫かと心配になるくらい、おそらく打ち上げで疲労困憊の様子だったけど、本番になると、いつものオグラさんに戻っていた。ライブにはうわさの「豆太郎」(人形)も参加。

 今日以降のオグラのライブ日程。
●10/10(水)鳥取 La Queue(ラ・キュー)
●10/11(木)島根 EURUS(ユーラス)
●10/13(土)宇部市DUO
●10/14(日)山口湯田温泉 Organ's Melody
(「オグラのヒミツ」 http://www.lilyfranky.com/reg02/index.html)

 翌日、早起きできたら、大阪の古本市も行きたかったのだけど、午後十二時すぎまで目がさめず……。
 次回の関西行のときは、大阪方面もゆっくりまわりたい。
 そうそう、まほろばのライブの打ち上げで、わたしとオグラさんがいたテーブルには、高円寺と阿佐ケ谷在住の人、三日前に新高円寺から京都に引っ越してきた人がいた。みなさん、初対面。京都にいる気がまったくしなかった。ほんとうに不思議な店。

 これから『サンパン』の原稿の仕上げ作業。
 なんとか朝までには。

2007/10/06

多少の雨ならやります

 秋のまほろば古本市が当初は雨天中止の予定でしたが、「多少の雨なら軒下で決行します」との連絡がありました。

 オグラ単身赴任ツアー"秋"「オルガンとフルホン PART II」
 日時 10月8日午後7時30分より
 場所 まほろば
 京阪電車出町柳駅下車川沿い北へ徒歩15分、電話075-712-4191

 同日12時30分〜17時30分、まほろば前ガレージにて「秋のまほろば古本市」
 Mr. オルガ、荻原魚雷(文壇高円寺)、貸本喫茶ちょうちょぼっこ、萩書房、山崎書店、cafe de poche、modernjuice古書部 、小山さん、イノウェイ、BOOKONN、すむーす堂、ガケ書房、stockroom、ゆうぞうさん、ふくちゃん、トンカ書店、全適堂、トランプ堂、アトリエ箱庭、堀部篤史(恵文社一乗寺店)、山本善行堂

『古本病のかかり方』文庫化

 一昨日の晩、筑摩書房のOさんと講談社のNさんと神宮球場に行く。ヤクルト横浜戦。
 鈴木健選手の引退試合。鈴木選手は一九七〇年の早生まれなのでわたしと学年は同じ。同世代の野球選手の引退はさみしい。最終打席、鈴木選手は十五球粘ってヒットを打った(泣きそうになった)。試合も三対一でスワローズの勝利。いい夜だ。
 なぜ三重県民なのにスワローズのファンなのかというと、幼稚園の年中のときのクラスが「つばめ組」だったから。
 テレビでプロ野球のナイターを見ていて、父に「スワローズ」というのは「つばめ組」って意味だと教えられた(気がする)。

 神宮球場のライトスタンドで筑摩のOさんから、岡崎武志さんの『古本病のかかり方』(ちくま文庫)の見本をみせてもらう。
 わたしが生まれてはじめて書いた「文庫の解説」も載っています。題は「古本病のこじらせ方」。

 それで高円寺「古本酒場コクテイル」にて「古本診療室 『古本病のかかり方』文庫化記念」の岡崎さんのトークショーがあります。

 10月16日(火) 午後7時開場 7時30分開演
 ゲストは石丸澄子さん(文庫の装丁)とわたし(解説)です。
 チャージ1000円

 予約は古本酒場コクテイル(電話03ー3310ー8130)まで。

2007/10/03

阿佐田哲也の文庫、続々刊行

 京都で開催される秋のまほろば古本市に向けて、神保町のJTBでぷらっとこだまのチケット(往復)を買う。ドリンク引換券付で九千八百円。のぞみよりも約三千円安い。こだまだと東京駅から京都駅まで約三時間四十分。のぞみよりも一時間二十分遅い。つまり、ぷらっとこだまで京都にいけば、時給三千円ちかくのアルバイトをしたという計算になる。ん?

 それはさておき、電車の中で何を読むか。
 今度の京都行きでは、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』(角川文庫、全四巻)を再読しようかと考えている。
『麻雀放浪記』といえば、今月十日に文春文庫から「青春篇」と「風雲篇」が刊行される。

 文春文庫の『麻雀放浪記』かあ。持っているけど、ほしい。というのも、阿佐田哲也の『新麻雀放浪記 申年生まれのフレンズ』(文春文庫)と同じ背表紙で『麻雀放浪記』が本棚に並べられるからである。
 しかし角川文庫の『麻雀放浪記』と『ドサ健バクチ地獄』が並んでいる姿もなかなかよいのだが。
 わたしは阿佐田哲也の文庫の中では『ギャンブル人生論』(角川文庫)をいちばん再読している。年に一度はかならず読む。

 さらに阿佐田哲也の新刊情報。
 なんと、小学館文庫から「阿佐田哲也コレクション」というシリーズが刊行されるのだ。

 第一弾(十月五日発売)は、『天和をつくれ』(結城信孝編)。
《惜しまれた突然の死から18年。いまなお熱烈なファンの支持を誇る「雀聖・阿佐田哲也」の作品を隔月で発刊していくシリーズ第1弾! 表題作「天和をつくれ」に加え、「パイパンルール」「競輪円舞曲」「新春麻雀会」など、読み応え満点の短篇ギャンブル小説を8本収録。麻雀、競輪、ルーレット等のギャンブルを題材に、そこに生きる“人間”たちの駆け引きや人生模様が、時におかしく、時に哀しく、描き出されている》(小学館ホームページより)

 その後の刊行予定は次のとおり。

『ばいにんぶるーす』(二〇〇七年十二月刊行予定)。
『ヤバ市ヤバ町雀鬼伝 三〇〇分一本勝負』(二〇〇八年二月刊行予定)
『ヤバ市ヤバ町雀鬼伝 ゴールドラッシュ』(二〇〇八年四月刊行予定)
『先天性極楽伝』(二〇〇八年六月刊行予定)
『雀師流転』(結城信孝編・二〇〇八年八月刊行予定)
『[麻雀名人戦自戦記]これがオレの麻雀』(結城信孝編・二〇〇八年十月刊行予定)
           *
 読みかけの阿佐田哲也の『ギャンブル放浪記』(角川春樹事務所)が行方不明になっている。かれこれ一時間以上、探しているのだが、出てこない。昨日、琥珀で読んでいたところまではおぼえている。店に忘れてきたか。いや、それはない。

 ほんとうに阿佐田哲也の文庫が続々と復刊するのは嬉しいかぎりである。
 色川武大の文庫の復刊はあるのか。
『花のさかりは地下道で』(文春文庫)、『虫喰仙次』(福武文庫)、『唄えば天国ジャズソング』(ちくま文庫)、『明日泣く』(講談社文庫)、『小説阿佐田哲也』(角川文庫)、『ぼうふら漂遊記』(新潮文庫)あたり。

 旅先には、色川武大のエッセイ集も持っていきたくなった。『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店)かなあ。
 それにしても『ギャンブル放浪記』はどこに行ったのか。
 気になって仕事がまったく手につかない。

(追記)
……『ギャンブル放浪記』は、翌日アルバイト先の机の上で無事見つかりました。

東京銭湯お遍路MAP

 昨晩、北口の琥珀でコーヒーを飲んだあと、小杉湯に行って一風呂浴び、帰りに『東京銭湯お遍路MAP』(編集・草隆社、発行・東京都公衆浴場業生活衛生同業組合)を購入する。三百円(税込)。
 銭湯MAP、有料になったんですね。発売は五年ぶりだ。
 高円寺エリアには北口になみのゆ(高円寺北三)、小杉湯(高円寺北三)。南口に宮下湯(高円寺南四)、第三宮下湯(高円寺南三)、弁天湯(高円寺南三)、香藤湯(高円寺南五)、杉並湯(梅里一)がある。

 わたしは学生時代から三十歳まで風呂なしアパートに住んでいた。引っ越しのときは、いつも北口のなみのゆと小杉湯のちかくで探した。この二つの銭湯は、深夜一時四十五分まで営業していて、終電で帰ってきても風呂に入れるからだ。
 なみのゆは日曜日の朝風呂、小杉湯はミルク風呂がある。

『東京銭湯マップ94』のときは、一六五〇軒の銭湯が掲載されていたのだが、二〇〇七年版の『東京銭湯お遍路MAP』は九三五軒になっている。
 この十数年のあいだに高円寺界隈だけでも、高円寺浴場(高円寺南二)、つかさ湯(高円寺南四)、谷中湯(高円寺南五)、稲荷湯(高円寺南一)、千代の湯(梅里二)が閉店した。
 また早稲田通りをこえた隣の中野区大和町の銭湯もずいぶん減った。大和町には、若松湯(大和町一)、光湯(大和町二)、藤の湯(大和町三)、鶴の湯(大和町三)、大和湯(大和町四)と五軒の銭湯があったが、現在は大和湯と若松湯の二軒しか残っていない。

(二〇〇七年現在、東京二十三区の銭湯の軒数ランキング。カッコ内は一九九四年の銭湯マップの数字。【】内はその順位)

一位   大田区   73(120【1】)
二位   江戸川区  60(98 【4】)
三位   足立区   58(103【2】)
四位   葛飾区   57(102【3】)
五位   板橋区   54(84 【6】)
六位   世田谷区  48(84 【6】)
七位   墨田区   44(73 【8】)
同七位  北区    44(85 【5】)
九位   荒川区   42(70 【11】)
十位   台東区   41(57 【15】)
十一位  豊島区   40(63 【14】)
十二位  杉並区   38(73 【8】)
十三位  品川区   37(71 【10】)
同十三位 練馬区   37(65 【12】)
十五位  江東区   34(55 【16】)
十六位  新宿区   33(52 【17】)
同十六位 中野区   33(64 【13】)
十八位  目黒区   20(37 【18】)
十九位  渋谷区   18(30 【20】)
二十位  文京区   15(31 【19】)
二十一位 中央区   11(14 【21】)
二十二位 港区     8(13 【22】)
二十三位 千代田区   4(4  【23】)

 一位はあいかわらず大田区だが、減少数も四七軒で最多。杉並区は八位から十二位に……。
 こうしてみると、次の銭湯マップが出るころには、何軒くらい残っているのか心配になる。

2007/10/02

なんだか単調

 もらいものの圧力鍋でカレーを作ってみる。圧力鍋、楽だ。短時間で肉がやわらかくなる。具は、豚肉、たまねぎ、にんじん、じゃがいものよくあるカレー。あと大豆の水煮をいれる。
 まだ圧力鍋の加減がわからず、いつもより水っぽくなる。おそらく、野菜の水分のせいだろう。
 カレーを作っているあいだ、来週の「秋のまほろばの古本祭」のための古本の値付したり、パラフィンがけをしたり、中古レコード屋に売るためのCDを整理したり、風呂場で髪を切ったりしているうちに夜になる。

 原稿がまったくはかどらない。

 最近はボー・ブラメルズの『トライアングル』(一九六七年)というCDをずっと聴いている。サイケ調のフォーク・ロックの名盤。バーズが好きな人なら、気にいるとおもう。地味だけど。

 古本酒場コクテイルで飲んでいたら、インターネットの古本屋の古書桃李さんから、格安で臼井吉見の本を十冊ほど一括で売ってもらえることになった。

 すこし前に臼井吉見の『自分をつくる』(ちくま文庫)を読んで、この明治生まれのリベラルな教養人をちゃんと再評価したいとおもっていたところだった。

『自分をつくる』は、読書論が何篇か収録されている。

《すぐれた本というのは、はっきりしてますよ。時間という、偉大な批評家に合格したのが、すぐれた本です。われわれのような人間の生き身の批評家なんてものは、いい加減なもので、まちがったことばかり言ってますが、時間というのは、ごまかしがきかない。ある時期に見のがされたような、いい加減な本でも、時間という厳しい批評家の手にかかると、悪いものは必ず退けられ、いいものだけが必ず残る》(「乱読のすすめ」)

《そしてもう一つ申し上げると、できるだけ全集を読むということ、好きな作家がいたら、生涯で一冊ぐらいしか残していない小さな作家でもいいから、全部読むことが大事です。手紙も日記も皆読んでしまう。そうなると、一つの山に登ることになります。すると、もっと高い山や低い山が見えてくる。自分が山の上に立って、はじめて高い低いがはっきりわかってくる。これが読書というもので得られる、大事なことではないかと思います》(「小説ばかりが読書ではない」)

 臼井吉見は、編集者になる前は長野で学校の先生をしていて、上京したのは三十八歳のときだった。
 わたしも来月で三十八歳になる。そうです。人間、いくつになっても、新しいことに挑戦できるのです。

 とはいえ、今日も高円寺の南口の古本屋めぐりをして、本のパラフィンがけ。北口の琥珀でコーヒー。
……これといった変化なし。 

2007/09/27

古本祭の季節

 八月中旬ごろ、秋花粉の兆候がすこしあったのだけど、その後、ぴたりとおさまっていた。「あれ、治ったのかな」とおもっていたところ、今週のはじめにやっぱりきた。
 漢方の小青龍湯を飲みながら、仕事をする。

 火曜日、昼間、打ち合わせで神保町。神田伯剌西爾。不定期だけど、某出版社PR誌で連載をすることになりそう。そのあとダイバーの「ふるぽん秘境めぐり」に行く。最終日手前だったけど、けっこういい本が残っていた。
 ある数行のためだけに中井英夫の『銃器店へ』(角川文庫)を買う。

 夜、西荻窪の友人が働いている飲み屋に行くと定休日だった。そのまま南口のスコブル社に行くと、有本倶子編『山田風太郎疾風迅雷書簡集』(神戸新聞総合出版センター、二〇〇四年)があった。
 数日前にアマゾンで買うかどうか迷っていた本だ。
 そのあと「昼本市」でおなじみの柳小路通り飲食街の夜九時半開店の古本も売っている「ethica(エチカ)」で軽く飲む。二回目。いつやっているのか知らなかった。狭い店だけど、二階もあり、ハートランドさんの古本を置いているそうだ。ひさびさにマッカランを飲んだ。

 昨日もまた神保町。ねじめ正一の『荒地の恋』(文藝春秋)が発売されていた。北村太郎と田村隆一の「あのこと」も出てくる。もちろん鮎川信夫も出てくる。傑作の予感。月末の『サンパン』の原稿を書きおえてから、ゆっくり読みたい。

 それから来月、京都のまほろばで飲み友だちの手回しオルガンミュージシャン、オグラさんのライブと古本のイベントがあります。

オルガンとフルホン part2
(オグラの単身赴任ツアー)
●10月8日(月・祝)
会場 京都 まほろば
◇京阪出町柳駅下車徒歩15分または京都バス蓼倉橋下車徒歩すぐ

〒606-8103
京都市左京区高野西開町15(北大路川端下ル400m) ニシキマンション1F
TEL 075-712-4191
開演:19:30〜
チャージチャージ1200円+order

★昼間(12:30〜17:30)店前ガレージにて「まほろば秋の古本市」を開催。
参加者:Mr. オルガ、荻原魚雷、貸本喫茶ちょうちょぼっこ、萩書房、山崎書店、cafe de poche modernjuice古書部 、小山さん、イノウェイ、BOOKONN、すむーす堂、ガケ書房、stockroom、ゆうぞうさん、ふくちゃん、トンカ書店、全適堂、トランプ堂、アトリエ箱庭、堀部篤史(恵文社)、山本善行堂。

……そうそう、このイベントは扉野良人さんの企画です。

 それから今日から早稲田の青空古本祭。わたしは初日、午前中から行く予定。
 あと立石書店でも「第1回 わめぞ青空古本祭」があるそうだ。
■日時
9月27日(木)〜10月2日(火)
11:00〜19:00ごろ(初日20時まで!)
■場所
立石書店 店内一部棚(穴八幡宮本殿側出口すぐ下)
■参加者
外市ブラザーズ
古本けものみち(南陀楼綾繁)/ふぉっくす舎/退屈文庫(退屈男)/旅猫雑貨店/リコシェ/古書往来座/bukuぶっくす/朝/Y's/

■主催・立石書店/後援・わめぞ 

 これも行かないと。アルバイトの帰りにできれば寄りたい。

2007/09/23

斎藤古本屋

 先週の西荻窪の「昼本市」で、山田風太郎の『風眼抄』(六興出版)を買った。中公文庫版はもっていたのだが、六興出版小B6シリーズは、なぜか所有欲をそそられる。

 この『風眼抄』には、「ある古本屋」というエッセイがある。山田風太郎のエッセイの中でも、好きな作品だ。
 山田風太郎は「斎藤古本屋」から本を買っていた。

《斎藤古本屋といっても、そういう古本屋の店があるわけではない。たった一人のかつぎ屋である。私のところばかりでなく、あちこちの作家のところへ出入りしていたようだから、御存知の方は御存知かも知れない》

 この古本屋は、青森県生まれで、山田風太郎よりも十何歳か年上。少年時から神田の古本屋の小僧をし、戦中はシベリアに出征し、戦後、ずっと店を持たず、ひとりで古本を仕入れては、作家や学者の家に訪問販売し、生計を立てていたそうだ。
「斎藤古本屋」は、山田風太郎に昼食はコッペパンだけだといった。

《終戦からしばらくの間、私はまだ学生で間借り、向こうはコッペパンの付きあいであったが、そのうち私が独立して家を持ち、十年ごとに書庫が倍の広さにひろがってゆくのを、彼はわがことのようにうれしそうに眺め、かつ、ときに憮然たる表情になっていることもあった》

 わたしは古本のかつぎ屋という商売のやり方があることを、このエッセイではじめて知った。
 何十冊もの本を風呂敷で包んで売り歩く。
 さすがに今、こんな古本屋さんが家に来たら、びっくりするだろう。
 古本のかつぎ屋だったおじさんは、何冊くらい本を持ち歩いていたのだろうか。一日何軒くらいの家をまわっていたのだろうか。

 このおじさんにキャスター付のカバンをプレゼントしたい気持になった。

 今月は山田風太郎エッセイの読書月間みたいになってしまったが、徐々に、からだにその感覚が作用しはじめているようだ。すくなくとも、酒量は増えた。
 ただ山田風太郎の座右の銘の「やりたくないことはやらない」という方針は、今の生活には適用できそうにない。
 やらなければ滞ってしまうことを片付けた後のすっきりした気分はけっこういいものだ。そんなふうに無理やり自分に言い聞かせながら、この連休も仕事する。

 ちょっと荷物を軽くしたい気分である。

2007/09/07

風太郎一過

 関東に台風が上陸中、山田風太郎を読む。頭がぼーっとする。背中がだるい。中学三年生のときに自転車で転んだ。そのときにできた左足のひざの傷が痛くなる。

《文壇とは縁を持たない巨匠、生まれながらの反近代主義者、そして学ぶべき戦中派》

 関川夏央は『戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)の中で山田風太郎のことをそう評した。

 布団の上に横たわったまま、数頁読んでは、テレビの台風情報をぼーっと見る。本来、ごろごろしながら、本を読むのは楽しいはずなのだが、集中力が欠如しているとあんまりおもしろくない。
 でも山田風太郎の晩年のインタビュー三部作を読むときは、膜がかかったような、ぼんやりした頭で活字を追うのもわるくない。インタビューだから、読もうとおもえば、さくさく読める。一冊読むのに二時間もかからない。でも『ぜんぶ余禄』(角川春樹事務所)はどういうわけかなかなか読み進めることができない。

 それで寄り道して『戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)を読んだのだが、そこでおもいがけず、山田風太郎の次の言葉に出くわした。

《ぼくは山本夏彦さんを尊敬しているんだよ。昔、辻潤や武林無想庵のことを小説に書こうと思ったことがある。戦前戦中のあんな時代に、われわれとは全然別の人生を送った男たちがいる。そこにひかれたのだが、山本さんが当時そういった人々のごく身近におられたとは知らなかった。で、傑作『無想庵物語』を書かれたので、あきらめたわけだ》

 この夏、わたしは山本夏彦の全著再読を試みていたのだが、仕事が忙しくなって、中断していた。

 山本夏彦のコラムは、鮎川信夫、田村隆一といった「荒地」の詩人も愛読していた。学生時代にお世話になっていた玉川信明さんからも「山本夏彦は読んだほうがいいですよ」といわれたことがある。
 もちろん本になっているものはことごとく読みあさり、たちまち夢中になった。
 二十五歳のときに手紙を出して、会いにいったこともある。そのとき『ダメの人』(中公文庫)のサイン本をもらった。
 山田風太郎のこの発言は、読んだはずなのに完全に忘れていた。

 次は山本夏彦の再読だ、と心に決める。
 その前に『ぜんぶ余禄』は読みきろうとおもっているが、語られている内容は『戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)とかなり重複している。
           *
 一夜明け、今日もまた早起する。
 台風の被害はおもったほど大きくなかったようだ。
 台風のニュースが気になるのは、子どものころ住んでいた長屋がしょっちゅう雨漏りしたせいかもしれない。あと停電もよくあった。
 『ぜんぶ余禄』は、とりあえず読了したが、読んだはしから内容を忘れてしまうような本だとおもった。

 色川武大の『怪しい来客簿』は読みましたかとの質問に山田風太郎は「なんだかよくわからなかったな。みんな、わかったのかな」と答えているのがおもしろかった。
 結局、自分の関心のあることしか頭に残らないということか。

2007/09/06

台風と風太郎

 台風九号接近。朝六時すぎに外に出ると、ものすごい湿度。コンビニで煙草を買い、店を出たとたん、眼鏡がくもって前が見えなくなる。
 いつもならこれから寝る時間なのだが、今日は早起してしまった。台風、雷の日は生活リズムがおかしくなる。

 山田風太郎読書週間はまだ続いている。といっても、小説ではなく、晩年の聞き書やエッセイばかりなのだが、作家としてどうこうではなく、「あ、これでいいのか」とおもわせてくれるような、とぼけた発言がたくさんあって、読んでいるうちにこんがらがった考えがすっきりしてくるのだ。

 山田風太郎の『いまわの際に言うべき一大事はなし。』(角川春樹事務所)には、パーキンソン症候群にかかって入院中も、ずっと煙草を吸い続け、酒を飲んでいた話が出てくる。

《酒を飲む、タバコをのむのが良くないといわれても、これで七十五まで生きてきたんだから(笑)。七十五にもなれば、いろんな病気が出るのは当り前だと、僕は思っているから》

 髪をとかしたことがない、歯は一週間に一遍しか磨かないとも書いている。

 あとインタビュアーが司馬遼太郎や遠藤周作、丸山真男のことを聞くと、「読んでいない」とか「そういうのに僕は全く縁がないんですよ」とか、どうでもよさそうに答えている。

《しかし、自分でもよくこれで小説家を続けてきたものだと思う。現代作家のものをまったく読まずに……》

 考えてみるまでもなく、何でも知っていて万能である必要なんてまったくないのだ。
 山田風太郎は人間あるいは歴史にたいするゆるぎのない認識のようなものを身につけていて、それですべてをまにあわせているようなところがある。

 中学生時代に、学校で禁止されていた映画を見て、ヨーロッパの文学を多読したという。

《僕はそれを元手にして一生食っているようなもんだ(笑)》

 もちろん、どこまでホントかどうかはわからない。戦中の日記を見ても、山田風太郎の読書量は、半端ではない。芸事やスポーツは十代のころに才能、それからその才能がどこまで伸びるかということが決まってしまうような気がする。せいぜい二十代前半までか。
 といっても、何もしなければ、どんどん鈍ってしまう。知識を増やのではなく、もっと根幹の、思考力とか感覚とかを鍛える方法はないものか。
 なにをすればいいのかわからなくなっている。

 明日は『ぜんぶ余禄』(角川春樹事務所)を読むことにする。

2007/09/03

第4回「外市」を終えて

 最近、あんまりゆっくり古本屋めぐりをしていない。中古レコードもほとんど買っていない。
 古本屋や中古レコード屋めぐりには、たっぷり時間をかけて探し、すこしでも安く買うというのがその醍醐味なのだが、仕事に追われて、日中おもうように歩き回れなくなると、なかなかそうもいかない。
 その分、古本イベントになると、衝動買いしてしまうのである。

 池袋の往来座「外市」の初日。この日も午後から仕事がはいっていたのだが、本やら雑貨やらを見て、手にとっては棚に戻しをくりかえしながら、気がつけば、いっぱい本を買っていた。
 本だけでなく、「旅猫雑貨店」のアルミの洗濯ばさみ、「kika zakka」でベトナムのカバン、あと「上り屋敷」が出品していた三葉虫の化石も……。

 二日目は、にわとり文庫さんの「王将こけし」を買う。
 将棋盤の上にこけしがいて、そのこけしが王将の駒を支えているというシュールな置物なのだが、案の定、家に帰ると「なんでこんなの買ってきたの」と妻に怒られる。

 今回の二日間の売り上げは一万三千五百円(三六冊)。往来座の瀬戸さんが制作した「三面キューブ」バージョンの「ホンドラ」を搭載した新型「ホンドラベース」のおかげか、前回ほど追加補充をしなかったのに、同じくらいの金額になった。

 打ち上げ会場は、武藤良子さんの個展「茫々」も開催中(〜九月八日)のブックギャラリーポポタム。
「ふぉっくす舎」さんの料理と自家製梅酒(七年もの)がうまくてびっくりした。
 NEGIさん店できるよ。

 ポポタムの外で喫煙組と今後の「外市」で何を売るのか作戦会議をする。
 なぜか「時代は雑貨だ」という話になる。

 わたしも次回は本じゃないものを売ってみようかな、とおもっている。

2007/08/31

風太郎と色さん

《うーん、人生とはひと言でいうなら「偶然」だな。だいたい、人類が発生したのも偶然らしいんだがね》(山田風太郎著『コレデオシマイ。』講談社+α文庫)

 この数日、電車に乗るときはずっと山田風太郎のエッセイを読んでいる。

『山田風太郎エッセイ集成 わが推理小説零年』(日下三蔵編、筑摩書房)刊行以来、『風眼抄』(中公文庫)、『半身棺桶』(徳間文庫)、『死言状』(角川文庫、小学館文庫)、『あと千回の晩飯』(朝日文庫)、『風太郎の死ぬ話』(角川春樹事務所)を立て続けに読んだ。

『コレデオシマイ。』は、晩年のインタビュー集のひとつ(『いまわの際に言うべき一大事はなし。』、『ぜんぶ余禄』角川春樹事務所など)。山田風太郎、聞き手、森まゆみ『風々院風々風々居士』(ちくま文庫)、関川夏央著『戦中派天才老人・山田風太郎』(ちくま文庫)という聞き書の名著もある。

『別冊新評 山田風太郎の世界 〈全特集〉』や『BRUTUS図書館 風太郎千年史』(マガジンハウス)、世田谷文学館で開催された『追悼 山田風太郎展』のカタログもファンであれば、入手しておきたい文献だろう。

 ちなみに、わたしは色川武大(阿佐田哲也)の文章がきっかけで、山田風太郎のエッセイを読むようになった。

《現在までのところ、山田さんにとって傍系の仕事の観があるエッセイの類は、完全に愛読者であって、真似しようにも真似のできない面白さである》(「山田風太郎さん」/『阿佐田哲也の怪しい交遊録』集英社文庫)

 編集者時代の色川武大は、山田風太郎の担当者だったこともある。
 山田風太郎の原稿をもらいに行くとき、電車にのらず、汗だくになって走ってとりにいった。

《たしか、ある夏の早朝であった。夜なかにタバコが切れて、私はタバコ屋がひらくのを待ちかねて、そのころ住んでいた世田谷三軒茶屋の町へ出ていった。すると、まだあまり人通りのない大通りを、交叉点の方から、頭から湯気をたてて、息せき切って走って来る青年がある。だれかと見ると、色川氏ではないか。——》(「阿佐田哲也と私」/『山田風太郎エッセイ集成 わが推理小説零年』)

 タクシーにも電車にも乗らず、走ってきた色川武大に「なぜそんなことをしたんだ」と山田風太郎は訊いた。

《電車になど乗ってゆくと、原稿は出来ていないかも知れない。もし二本の足で走ってゆくと、天がその至誠を哀れんで、原稿が出来ているにちがいない、と考えたからだという》(同文)

 さらっと書いているが、異様なエピソードである。
 走って原稿をとりにいく話は、さきほど引用した『阿佐田哲也の怪しい交遊録』の「山田風太郎さん」にも出てくる。

《山田さんは選ばれた人間、私はただの男、そう思っていたのである。
 それでも、たとえただの男でも、私は私で会社のために努力しなければいけない。山田さんに関係のない形で、なにか努めてみたい。
 私はヘンなことを考えた。電車に乗って、ただ漫然と楽チンにお宅へ伺って原稿を貰うというのでは、私の努めるところがない。そんなことだから原稿が貰えないのだ。
 私は出版社を出ると、走って、山田さんの家まで行った。神田から、三軒茶屋の先まで、汗みどろで走ったのである》(「山田風太郎さん」)

 しかも行きだけでなく、帰りも色川武大は走った。読めば読むほど、変だ。
 編集者は作家の原稿をとらなければならない。中には苦しまぎれに威嚇の手でとろうとする編集者もいる。

 山田風太郎は、走る色川武大のことをこんなふうに分析している。

《思うに色川さんは、いかに苦しがってもそういう手には出られない編集者であったろう。攻撃的でない性格の人は、しばしば自虐的になる。この暁の疾走はその現れにちがいなかった》(「阿佐田哲也と私」)

 色川武大に「走る少年」(『虫喰仙次』福武文庫)という短篇がある。

《楽あれば苦——。本当にそうだと思う。ぼくのように、半人前の人間はそれでなくたってわるいことばかり起きがちなのに、楽など味わったら、次は苦にぶつかるにきまっている》

 学校にバスで通う少年は、こんな楽をするから、不幸になるのだという妄想にとらわれる。だから学校まで走っていく。当然、遅刻する。怒られる。

《楽あれば苦、というのが怖い。どんなことがあっても、うかうかと楽をしてはいけない。ぼくはいつも、苦の中にいて、次は楽だと思いたい》

 色川武大が「楽あれば苦」といった理屈(理論?)をこねあげていることにたいして、山田風太郎が「攻撃的でない性格の人は、しばしば自虐的になる」と説明しているのは、なんともおかしい。
 そんな山田風太郎のことを色川武大は「人間のかぐろい部分を、観賞的に捕まえられる人である」とも述べている。

2007/08/27

阿波踊り

 高円寺は阿波踊り中(八月二十五日、二十六日)、今住んでいる住居の周辺は踊り人のたまり場になっていて、さらに通行規制やらなんやらで、駅から家に帰り着くまでがたいへんだ。
 高円寺駅のホームに着くと、あちこちに酔っ払い。道にも酔っ払い。大将(焼鳥屋)は大繁盛だった。

 昨日は、昼すぎ高円寺西部古書会館の古書展(二日目)に行く。
 小沢信男『昭和十一年』(三省堂)、野原一夫『編集者三十年』(サンケイ出版)、草森紳一『旅嫌い』(マルジュ社)など、いい本がいろいろ手頃な値段で買えた。お祭りムードにのせられ、花田憲子の『あんたが一番! 負けん気女房の奮戦記』(カッパホームズ)も買ってしまう。沢田亜矢子が推薦文を書いていたり、子どものころの花田勝、光司の写真があったり、ある種のマニアにとっては、しびれる本かもしれない。

 夕方、あずま通りの台湾料理で持ち帰りの焼きそばを買う。この時期、阿波踊り以外に、近所のあずま通りでは大道芸フェスティバルもやっている。ベリーダンス(?)の踊り子の集団とすれちがい、たいまつでジャグリングをしている人をながめ、占い師の前を通りすぎるうちに、シラフで歩いているのがバカバカしくなり、屋台で酒を買って、のみながら歩く。

 部屋に帰るもずっと太鼓の音、やっとなー、やっとなーの声。毎年のことなのでもう慣れた。

 ウイスキーを飲みながら、新刊の山田風太郎の『わが推理小説零年』(日下三蔵編、筑摩書房)を読む。単行本初収録のエッセイ集である。山田風太郎もウイスキー党だった。
 この本には「阿佐田哲也と私」「雀聖枯野抄」「親切過労死」と色川武大のことを書いたエッセイも三本ある。
 色川武大が山田風太郎について書いた文章と山田風太郎が色川武大について書いた文章をすりあわせたら、そのズレがたのしめそうだ。

 眠くなってきたので今日は寝ることにする。

2007/08/23

ちょっと告知

 神保町から東京メトロで家に帰る途中、早稲田で下車する。どうでもいい話であるが、神保町から早稲田まで四駅(東京メトロ半蔵門線、東西線)、早稲田から高円寺までも四駅(東西線、JR総武線)なのだ。
 東京メトロの東西線は、都内の古本屋(神保町、早稲田、中央線沿線の古本屋)をつなぐ日本屈指の「古本沿線」といえる。

 早稲田で途中下車して、立石書店にて、九月一日(土)、二日(日)の第4回往来座「外市」のチラシを受けとる。
(くわしくは「わめぞblog」を参照してください)

 今回の「外市」は、西荻窪から音羽館とにわとり文庫が参加するそうだ。
 つまり「おに吉」(荻窪・西荻窪・吉祥寺)と「わめぞ」(早稲田・目白・雑司が谷)の夢の共演(?)というわけだ。
 もちろん「文壇高円寺」も一箱で参加します。
 音羽館は七年前の八月十八日にグランド・オープン。早いなあ。もっと前からあるような気がするのだが。
 さっき古書現世の向井透史さんの昔の日記を読んでいたら、音羽館に「弟子入りしたい」と書いてあって笑った。

 それはさておき、立石書店からふらふらと早稲田の古本街を歩いて、古書現世に行くと、リコシェの阿部さんがやってきて、「河内紀 音と映像の仕事」というチラシをもらう。

河内紀 音と映像と仕事
  〜耳をすます、眼をこらす〜

場所 一角座
住所 台東区上野公園東京国立博物館敷地内
電話 03-3823-6757
座席数 150

9月4日(火)−9月9日(日)
『ツィゴイネルワイゼン』 (144分)
監督:鈴木清順 脚本:田中陽造 音楽:河内紀 製作:荒戸源次郎
出演:原田芳雄 大谷直子 大楠道代 藤田敏八
12:30/15:30/18:30
9/8(土) トークライブ 鈴木清順監督・河内紀

9月11日(火)−9月17日(月)
『陽炎座』 (140分)
監督:鈴木清順 脚本:田中陽造 音楽:河内紀 製作:荒戸源次郎
出演:松田優作 大楠道代 加賀まりこ 原田芳雄
12:30/15:30/18:30

9/15(土) トークライブ 菊地成孔・河内紀
9/16(日) トークライブ 上野昂志・河内紀

9月19日(水)−9月24日(月)
ドキュメンタリー「人間劇場」
『のんきに暮らして82年〜たぐちさんの一日〜』 (45分)
『八ヶ岳山麓 地下足袋をはいた詩人』 (45分)
演出:河内紀 製作:株式会社テレビ東京/テレコムスタッフ株式会社
14:30/16:30/18:30 二本立て上映
早稲田大学図書館・資料室で働き、古い演歌の研究を続けてきた田口親氏の日常の生活と、坦々と農業に取り組む詩人・伊藤哲郎氏を静謐に描いた、ドキュメンタリーの傑作。

9/22(土) トークライブ 坪内祐三・河内紀
9/23(日) トークライブ 秋山道男・南伸坊・河内紀

料金:前売鑑賞券 1000円
   当日鑑賞券 1200円
   リピーター  500円

前売鑑賞券は電子チケットぴあでも販売

……とのことです。

 古書現世から高田馬場まで歩いている途中、視界がぼやけ、手がしびれてきたので、水分補給しないとまずいとおもい、喫茶店(エスペラント)で休憩。古書現世で買った石原慎太郎の『息子をサラリーマンにしない法』(光文社カッパホームズ)をぱらぱら読む。
 気象予報士、政治家、芸術家……。いちおう有言実行。
 ちなみにこの本、推薦文を黒川紀章が書いている。カバーデザインは宇野亜喜良。

 そのあと、古本酒場コクテイルに「外市」と「河内紀さん」のチラシを置きにいって、家に帰ると、晶文社の宮里さんから電話があって、そのまま部屋飲み。下鴨納涼古本まつりの戦利品自慢などをして、いい気分になる。

『散歩の達人』9月号「荻窪 西荻窪」特集で「外市」メインゲストの音羽館、にわとり文庫も出ています。おすすめ。

2007/08/18

ボナンザと竜王

 仕事に追われつつ、新刊の保木邦仁、渡辺明著『ボナンザVS将棋脳』(角川oneテーマ21)を熟読する。ボナンザというのはトッププロと対戦した最強将棋ソフトだ。

 渡辺明さんは二十三歳のタイトル棋士。先日、行われた対局では、渡辺竜王は、ボナンザに勝った。それでもボナンザはかなり善戦した。
 渡辺さんは「コンピュータに負ける気がしない」という。しかし、チェスのコンピュータはすでにプロに勝っている。将棋のコンピュータでも、一手三十秒くらいの早指し戦だったら、プロ棋士でもかなり苦戦するらしい。詰め将棋は、もはや人間はコンピュータにかなわない。
 十年くらい前のインタビュー(アンケートだったかな)で、羽生善治さんは、コンピュータがプロ棋士に勝つのは「二〇一五年」と答えていた。もっと早くその日がくるかもしれない。

 ボナンザの開発者の保木邦仁さんは、一九七五年生まれで、物理化学の研究者で将棋はアマ五級だという。ほんとうにスケールの大きな思考をする人だとおもった。才気あふれる人というのは、こういう人なのだろう。文章や発言の端々から自分のやっている研究にたいする熱意が伝わってくる。
 
《何に役立つかを考えているだけでは、科学や技術の進歩はない。
 何に役立つかが簡単にわかるということは、すでにそれは既知の知識であり、予想の範囲内の技術であることを意味している。むしろ、実用的な意味では何に役立つかがわからないような知識を吸収して、それを使って時間をかけて新しい何かを生み出すことにこそ、大きな価値があると思う。(中略)多くの発見は、偶然によって加速されている。ただそのときに、その偶然の現象を理解できる知識を有していなければ、その事実は発見されずに見過ごされてしまう》

 何の役に立つのかわからない知識。
 一見、無駄におもえるようなこと。
 日頃からそういうことの必要を自分にいい聞かせておかないと、ついつい楽で効率のよさそうなものを求めてしまう。
 読書にしても、今やっている仕事に関係するような本ばかり読んでいると、だんだん自分の考えが窮屈になってくる。

 将棋の場合だと、手を深く読んだり、たくさん読む力に関しては、二十代がピークだといわれている。
 渡辺さんは、「コンピュータのようにしらみつぶしに、読める範囲にあるすべての手を読む、ということは人間にはできない。だから無駄な手を読まず、どう捨てるかが大切になってくる。読めないから読み筋を絞る、全部を読もうとすることは非効率的で、無駄な読みをいかに早く捨てるかが勝敗を分けるカギになる」という。

 無駄な手を読まずにすませるためにはどうすればいいのか。渡辺さんは「将棋の勉強はまず量が大切」だという。

《質が変化する前には量の積み重ねが必ずある》

 渡辺さん、まだ二十三歳なんだよなあ。すごすぎる。
 そのころのわたしは週休五日のアルバイト暮らしでした。

(付記)
 朝五時すぎ、散歩したらひさしぶりに外が涼しかった。

2007/08/14

下亀と下鴨

 十日(金)
 下鴨納涼古本まつり前日、のぞみで京都へ。京阪で四条に向い、すこし散歩。暑い。六曜社でアイスコーヒーを飲んでから京阪で出町柳に行く。
(京都では、京阪電車にしか乗っていない気がする)
 近代ナリコさんの案内で、下鴨神社そばのyugue(ユーゲ)という店に行く。いい店。料理もうまい。しばらくして、扉野良人さんがやってきて、軽く飲んでから、「まほろば」に行く。恵文社一乗寺店のNさんも合流。

 十一日(土)
 午前中、下鴨神社の納涼古本まつり。植草甚一の本(対談集、読本、ワンダーランド)を格安で買う。出雲から下鴨神社に直行した南陀楼綾繁さんの荷物があったので、いっしょに扉野良人さんの家にいって、わたしはそのまま休憩する。
 近所のショッピングセンターに行って、すがきやのラーメンを食う。
 三時ごろ、ガケ書房の下亀納涼古本まつり(わたしも出品。ダンボール二箱)に行くと、東京組がたくさん来ていた。ちょうど、ふちがみとふなとのライブがはじまる。
 そのあと、出町柳の東山湯で汗を流す。ビートルズの曲が流れる銭湯。前から気になっていたのだ。
 出町柳前のカミヤ珈琲店(ここも京都にくるとかならず寄っている)で涼んだあと、もういちど下鴨神社で二百円本を中心に十数冊買う。途中、QBBの久住卓也さんに会う。ほんとにここは京都か。
 それからsumus友の会。二次会は、扉野さんのお寺。二十人はいたか。山盛りのそうめんがあっという間になくなる。これがまたうまかった。そのあとまた、まほろばで飲む。長い一日であった。

 十二日(日)
 午前中、下鴨神社に寄ってから、近鉄電車に乗って、三重県鈴鹿の両親の家に行く。
(あまりの暑さに奈良行は断念)

 近鉄鈴鹿線の平田町駅に、鈴鹿ハンターとアイリスというショッピングセンターがあるのだが、アイリスのほうが来月で閉店になる。アイリス内の「地域でいちばん安い店」がうたい文句のオンセンドという店が閉店セールをやっていたので、Tシャツ、下着、靴下などを買い込む。
 鈴鹿ハンターのゑびすやでうどんを食う。ここのうどんは夢に出てくるほど、食いたくなる。そのあとハンター内のボンボンという喫茶店でコーヒーを飲む。
 ハンター内のリサイクルショップで、本が一冊五十円均一で売っている。岩崎書店の「SF世界の名作」シリーズが、函付のきれいな状態でまとめて売られていた。荷物が重かったので、マースティン『恐竜1億年』(福島正実訳、田名綱敬一画)だけ買った。

 家に帰ると、「今日はここ数日でいちばん暑い」と父がいう。とはいえ、風が涼しく、湿度が低く、ふつうの夏といったかんじ。
 両親の家は、エアコンもなく、パソコンもなく、ビデオも、電子レンジもない。電化製品のレベルは、完全に昭和で止まっている。
 子供のころから家にある扇風機がいまも動いている。

 テレビを見ていたら、母に突然「茶髪にしたろか」といわれる。どうも東京の人は、みんな茶髪だとおもっているようだ。家にいるあいだ「右から左へ受け流す」の歌をエンドレスで唄い続けている。かなりうっとうしい。

 昔はキレイ好きだったのに、部屋が雑然としている。そんなに買いだめしなくてもとおもうくらい、水やお茶のダンボールが積んである。老化現象か。
 京都で買った本は、東京に宅配で送ってしまったので、家にあった向田邦子の『六つのひきだし 「森繁の重役読本」より』(文春文庫)を読んだ。この中に「エ・バ・ラ」という料理が出てくる。「エッグ・アンド・バター・ライス」の略。ようするに、バターいりのたまごかけごはんなのだが、しょうゆじゃなくて塩をふる。こんど作ってみよう。

 翌朝、家を出て、途中、四日市で下車、それから名古屋に出て、東京に帰る。仕事がたまっている。
 林哲夫さんの『古本屋を怒らせる方法』(白水社)が届いていた。

 早くも秋の花粉症の徴候が……。
 いつもは八月下旬くらいからなのだが。薬代、稼がないと。

2007/08/10

どこかに書いてあった

 八月十一日(土)から下鴨納涼古本まつりとガケ書房の下亀納涼古本まつりに合わせて、京都に行きます。
 毎年暑さでぼーっとなるので、今年はおでこにアイスノンシートを貼って挑むつもりだ。忘れないようにカバンに入れとこ。
 あと十一日(土)には「sumus友の会」もあります。

 時間 午後六時〜
 場所 Dylan-II(ディラン・セカンド)
 京都市中京区木屋町蛸薬師上ル下樵木町192 樵木ビル4F TEL 075-223-3838

 荷造り終了。あとは電車の中で読む本を選ぶのみ。

 青柳いづみこ、川本三郎監修『「阿佐ケ谷会」文学』(幻戯書房)を持っていきたいが、ちょっと重いので断念する。この本は中央線沿線の喫茶店めぐりをしながらゆっくり読んだほうがいいだろう。
 ちょうど新刊の常盤新平著、中野朗編『国立の先生 山口瞳を読もう』(柏艪舎)を読み終えたばかりなので、一冊は山口瞳の本を持っていきたい。

『酒呑みの自己弁護』(新潮文庫)か『月曜日の朝・金曜日の夜』(新潮文庫)か、上下巻だけど『世相講談』(角川文庫)もそろそろ再読したい。『旦那の意見』(中公文庫)も捨てがたい。迷う。

 最近、新刊本を読んで、古本が読みたくなることが多い。
 長年お世話になっている重里徹也さんの近刊の『文学館への旅』(毎日新聞社)を読んだときも、黒岩重吾の『どぼらや人生』(集英社)と『どかんたれ人生』(毎日新聞社)を再読した。
 黒岩重吾のエッセイは二十代のときに夢中で読んだ。わたしの切実な読書体験のひとつといってもいい。

『どぼらや人生』の「あとがき」で黒岩重吾は「人間が苦難の道を持つことがいいかどうかは、私には結論が出し難い。喰べることが脅かされる生活というものは、人間の心をどうしても浅ましくする。そして、それは場合によっては、その人間にとって二度と立ち上がれない程の危険を伴うものである」と書いている。
 黒岩重吾は、貧乏だけでなく、二十七歳のときに大人の小児麻痺にかかり、手足の動かない生活が三年くらい続いた。

《全身麻痺の大病に罹って以来、私は憔悴し、精神的にまいり掛けると、こん畜生、馬鹿にしやがって、と自分の衰弱に対して、猛然と腹が立って来るのである。
 つまり、“どかんたれ奴!”と衰弱に対して闘志を燃やすのである》 (「書けない夜」/『どかんたれ人生』)

『文学館の旅』によると、二〇〇五年九月に、奈良県立大宇陀高校内に「黒岩重吾の世界」室ができたそうだ。土、日は一般公開だから、十二日(日)に京都から近鉄電車で郷里(鈴鹿)に帰る途中寄れるかも。夏休み中もあいているのだろうか。いちおう電話番号と住所をメモしておこう。

 山口瞳が『男性自身』シリーズ(たぶん)のどこかで、黒岩重吾のことにふれていて、小説になる題材をエッセイで書いているのがもったいないといような記述があった。それがどこに書いてあったのかわからない。記憶違いかもしれない。
 また山口瞳のエッセイの中で「小説の勉強がしたい」と書いていた。それもどこに書いてあったのか見つけられない。

 文章の勉強がしたい。その勉強の方法がよくわからない。それがわかれば、苦労しない。単純に考えれば、いい文章をたくさん読むことに尽きるような気もするが、たくさん読むよりも、一冊の本を時間を書けて読んだほうがいいのかもしれないともおもう。
 部屋にこもって本を読んでいるより、外で遊んだり、友だちと酒を飲んだほうが勉強になることも多い。
 つまり、わたしの考える勉強というのは現実逃避とほとんど同じ意味である。

 今、ちょっと山口瞳の『男性自身 素朴な画家の一日』(新潮文庫)をぱらぱら読んでいたら、わたしが探していた文章とはちがうけど、次のような記述が見つかった。
 山口瞳が二十代のころ、同人雑誌の仲間としゃべっていて、「病気になったほうが勝だなあ」という話になった。

《病気になりたいというのは、病気になれば本が読めるからだった。勉強できるからだった。そのように、私たちは生活に追われていた。アクセクして働いていた。また、本好きでもあった。(中略)ここ三年間病気をすれば、確実にアイツを抜ける。そんなふうに思った。小説家にかぎらず、病気に罹って、就職せずに、読書家になり、博覧強記の人になってしまったという例は多いのである》(「病人になりたい」)

 山口瞳は随筆は小説のように、小説は随筆のように書けというようなことを書いていた。これまたどこに書いてあったかわからない。

2007/08/05

一年

 八月三日(金)、仕事帰りにウィークエンド・ワセダに行ってきた。初日午後七時スタートは、ほんとうによかった。中央線の住民としては夜から古本屋めぐりをするのは、めずらしくない。
 夜の早稲田の古本街は新鮮だった。わたしは週何日か神保町界隈で仕事(アルバイト)をして、東京メトロ東西線で高円寺に帰る。それが午後七時前で早稲田の古本屋はその時間にはたいてい閉まりかけている。
 夜、早稲田界隈で古本屋が開いていたら、途中下車する回数は格段に増えるとおもう。たまにでもいいから、夜間営業してほしい。

 立石書店から古書現世の順でまわった。ひさびさに買ったなあ。池袋の往来座出品のベトナムのかごはさっそくつかっている。
『HB』の創刊号も買った。特集は「高田馬場から考える」。

 橋本倫史さんの「さよなら古書感謝市」では、BIGBOXの古本市の敷居の低さ、棚の雑然としたところを評価している。

 図書館と新刊書店(あと今ならAmazonも含めてもいい)を主に利用しているいわゆる「本好き」は、かならずしも古本屋通いをするわけではない。古本マニアになると、知らず知らずのうちに敷居が高くなってしまうところがある。

 昔、『彷書月刊』の田村さんが、古本屋通いをはじめた人が、古書会館に行ったり、目録で本を買うようになるのは、ほんのごくわずかだというような話をしていた。そういう意味で、たしかにBIGBOXの古本市は、古本の初心者が気軽に行ける古本市だったなあと、今さらながら惜しまれる。

 雑誌作りも古本稼業も、商売である以上、儲かる、儲からないという問題は切実だとおもうけど、目先のことだけではなく、未来の読者、未来のお客さんを作ることもおなじくらい大事なことだとおもう。

 先日も若い編集者とそんな話をしていた。たしかに今雑誌を買うのは、五十代以上かもしれない。だから年輩の人向けに雑誌を作ればそこそこ売れる(という計算は成り立つ)。もちろん読者と共に齢をとってゆく雑誌はあってもいい。そういう雑誌も必要だとおもう。でもそれだけではいけない。

 古本屋にしても、マニア向けの部分と初心者向けの部分、たぶん両方必要なのだとおもう。
「敷居の低さ」と「雑然」。気にしていても、つい忘れてしまう。ものを作っていても、あるいはなにかを蒐集していても、ついつい「洗練」にむかってしまう。そのせいかどうかはわからないけど、行きづまってしまう。
 同じような日常をくりかえしてうちに、ある種の慣れというか、あんまり深くかんがえずに、なんとなくやりすごせてしまうようになる。
 目先の仕事も大切だけど、とりあえず、何の種をまくのかを決めずに畑を耕しておくことも大事かなと……。

 ブログ「文壇高円寺」をはじめてちょうど一年になります。これからも地味に続けていきたいとおもっています。

2007/08/03

仮病

 個人差はあるとおもうが、三十歳をすぎると、いろいろからだにガタがくる。しめきりが重なった翌日は、首を左に倒すと痛い。腰もだるい。一日や二日では治らない。そのまま次の仕事にとりかかる。
 つまり、万全な体調で仕事ができることのほうがめずらしいのだ。年に数日あるかどうかだ。
 二十代のころのわたしは、調子がわるいと休んだ。調子がわるくなくても、わるくなりそうな予感がすると休んだ。仮病というものは、今はそれほどひどくないけど、ここで休んでおかないと、後々つらいことになりそうだというときにつかうこともある。

 わたしにはモンゴルからやってきた二十代半ばのドルジ青年を批判する資格はない。大相撲は巡業が多すぎる。あんなことしていたら力士寿命が短くなるだけだとおもう。
 スポーツ選手は、からだが資本だ。心もそうだ。

 故郷でサッカーをしていたときの横綱は、ほんとうに楽しそうだった。もちろん、日本相撲協会からすれば、許しがたいことなのかもしれないが、力士を目指す若い人は減るいっぽうだろう。

2007/07/25

耕治人

 すこし前に『文庫で読めない昭和名作短篇小説』(編集協力=荒川洋治、新潮社、一九八八年)を高円寺の西部古書会館の古書展で見つけ、この一週間くらいパラパラと読んでいた。
 すると先週の山本善行さんの「古本ソムリエの日記」で均一台でこの本を買ったという話が出てきた。

 また先週、東京堂書店で荒川洋治さんの講演会があり、その日荒川さんは「今日は耕治人の話をします」と宣言した。その数時間前にわたしはたまたま耕治人の『料理』(みき書房)を古本屋で買っていた。講演中、おもわず前の席に座っていた退屈君と隣の席にいた元『QJ』の編集長で現『dankaiパンチ』の森山裕之さんに「これ」と自慢した。

 以上のような理由から、わたしは耕治人の小説を読みはじめた。古本屋通いをしていると、そういうことがたまにある。いつも不思議におもう。

『文庫では読めない〜』には、耕治人の「この世に招かれてきた客」という短篇も収録されている。詩人の千家元麿のことを書いた小説である。品切になっているけど、講談社文芸文庫の『一条の光/天井から降る哀しい音』にも収録されているので、文庫で読もうとおもえば読める。

《千家元麿は貧しかったが、それは生活能力が乏しかったためではない。単なる無欲のためでもない。原因はもっと深いところにあるような気がした》(「この世に招かれてきた客」)

 千家元麿の詩集は、古本屋で何度か見た記憶があるが、買ったことはない。ちゃんと読んだこともない。ただこの詩人の名前は、荒川さんの講演で強く印象に残っていた。
 耕治人の小説の中に、千家元麿の色紙の文句が紹介されている。

《私達は神に招かれて
 此世へ来た客だ
 不服を言はずに
 楽しく生きるものには
 大きな喜びがある》

 そしてこの色紙を見ながら、「私」は「いい気なもんだ!」とおもう。

《お客なら、あげ膳すえ膳で、うまいものを食べていればいいわけだ。「客」と言うのが気に食わなくなったのだ》

 以来、三十年あまり、この色紙を目にふれないまますぎた。ところが、ある日「私」は「突然閃くものがあった」という。
 その閃きは、千家元麿の貧乏と無欲の謎に関するものだった。

 この色紙の文句は『蒼海詩集』の「客」という詩が元になっている。

《私は神に招かれて
 此世に客に来たのだ
 私は生まれたのを喜ばなくてはならない
 生まれたことを思つて
 私は嬉しくて嬉しくてたまらない》(抜粋)

「この世に招かれてきた客」では、千家が、出雲大社の宮司の一族であるというエピソードが出てくる。でもこの詩の「神」について、「私」は「日本の古い神とも外国の神とも違うものだ」と言いきる。その根拠はわからない。
 小説を読み終わると、千家元麿というひとりの詩人が、自分の中にもやもやとしたかんじで残る。

『文庫で読めない〜』の耕治人の解説は、野坂昭如が書いている。
 おもわず全文引用したくなるくらい、好きな文章だ。

《耕治人の小説を読むと、不思議なことに、ぼくは片付けものをしたくなる。自分の部屋の、積み上げられた雑誌類はもとより、いつかは必要になるかもしれぬと、未練がましくそろえた資料の如きものから、書籍まで、片付けるとはつまり棄てる作業が主で、いちおうの撰択は働くものの、そして結局、小説とは関係なく、当然、処分されてしかるべき雑物だけが、処分されて、ただの整頓に終ってしまうのだが、書物に限らず、衣類や、文房具、その他こまごまとした身辺の小物にも、廃棄衝動は及び、こちらは目に見えて、さっぱりと、いわば小奇麗になる》(野坂昭如「喜んで去る」)

 わたしもある種の本を読むと、蔵書を減らしたくなる。たくさんの本に囲まれている安心感と同時にたくさんの本に囲まれていることによって、読みが散漫になっているのではないかという気持になる。
 とくにいい詩といい小説を読むとそうおもう。
 ちなみに「この世に招かれてきた客」の「私」の家には本棚がひとつしかなかった。

 野坂昭如の解説には、次のような一文もあった。

《私小説というものは怖ろしいもので、もっとも、百篇の世界的文学を、小品ひとつで吹っとばしてしまう、これをしても力とはいえない、妖かしに近い、呪術めいたものを備えている》

 耕治人の小説は「今」とか「時代」とか「世の中」とか、そういったものとはまったく関係ない。でもその関係なさゆえに、引きこまれてしまうのである。
 引きこまれつつ、ここには自分の居場所はないなあともおもう。うまくいえないけど、そこは耕治人だけの世界なのだ。
 野坂昭如は、「妖かし」「呪術」という言葉をつかっているけど、「洗脳」といってもいいかもしれない。
 本を読んでいるうちに、作者と感じ方、考え方が同調してしまう。そういう瞬間はとても気分がいい。作者に共感すればするほど、むしろ共感できない部分を無理にでも探して、逃れたくなる。
 これは私小説だけにかぎったことではない。その人の考え方や感じ方を受け容れて、ときには影響されつつも、どこか違和感が残したい。その違和感をなくしてしまうことが怖い。

 どうしてか。「この人には何をいっても無駄だなあ」というゆるぎなさを身につけたくないからだ。
 だからこそ、耕治人のように時間をかけて、あれこれ自問自答する作家に魅了されてしまう。しかし最近いつもそこに落ち着いてしまって、だんだん自分がゆるがなくなっていた。気がつくと、同じパターンの自問自答をくりかえしてしまう。
 そこから先になかなか進めない。

「この世に招かれた客」の冒頭のほうにこんな文章があった。

《私はそれまで千家を、無欲な人、金銭に恬淡な人、いくらかダラシない人、というふうに考えていたのだ。
 詩壇でもそんなふうに受け取られていたようだ。それで知らないうちにその影響を受けたのかもしれないが、長いあいだ千家に接し、千家の生活を見てきて、その考えを訂正しなければならないと思ったことはなかったのだ。
 千家元麿は昭和二十三年三月に死んだから、死後十九年間も、彼に対する私の考えは変わらなかったわけだ。
 十九年のあいだにその観点から、私は彼についていくつかの文章を書き、小説も書いた。
 私はそのことに責任を感じたのだ。自分の至らなさを詫びたくなったのだ。
 私は新しい立場から千家元麿のことを書かねばならない、と思った》

 文学には自分の「観点」をくつがえす作業というのがある。その作業がない文学はおもしろくない。でもそのことを忘れていた。いや、その作業からちょっと逃げていた。
 いくつもの偶然が重なり、今、この時期に耕治人の短篇を読めたのは運がよかったとおもう。

2007/07/20

バランス感覚

 ひまさえあれば、そして忙しいときでも、いつも考えている問題がある。
 以前も書いたことだけど、「お金と時間」のかねあいをどうするかってこと。仕事が忙しくなると、お金は入るけど、遊ぶ時間がなくなる。仕事がひまになると、遊ぶ時間はあるけど、生活が困窮する。
 そのちょうどいいかんじはどのあたりなのか。長年、考えつづけているにもかかわらず、なかなかわからない。いや、「わかる」と「できる」はちがう。

 わたしの場合は、フリーライターなので、仕事の量を自分でコントロールしようとおもえばできなくはない。
 出来高制なので、書けば書くほどお金になる(……とはいえないな。資料を買いすぎて赤字になることがしばしばある)。
 ただしあまりにも忙しくなると、新刊書店や古本屋に行く時間も減り、本を読む時間も減り、その結果、わたしのような書物に依存しながら仕事をしている書き手は、原稿が書けなくなってしまうということにもなる。
 それ以上に、毎日がつまらなくてしょうがないという気分になることのほうが深刻だ。

 過去何年間か振りかえってみると、仕事が忙しい時期よりもひまな時期のほうが楽しかったような気がする。過去の記憶は都合よく改竄されてしまうものだけど、自分がいちばんつらかったとおもう時期は、しめきりが重なって睡眠時間もとれず、酒を飲むひまも、古本屋めぐりもできなかったころなのは、まちがいない。

 でもそういう時期があったからこそ、その後、「あのころのつらさをおもえば今はまだまし」とおもえる余裕を身につけることができたともいえる。無駄ではなかったとはおもう。まあ、そういうこともあって、二十代の若者に会ったりすると、「おれも君たちくらいのころはけっこう働いたよ」みたいなことをいってしまったりするのだけど、その仕事がいやになるほど働いた時期は半年ちょっとで、二度とあんな経験はしたくないとおもっているわけだ。
 年輩の人の説教は、話半分だとおもったほうがいい。

 お金と時間のバランスは、何を幸せとするかで変わってくる。
 わたしの場合は、あまり仕事に追われず、寝たいときに寝て起きたいときに起き、週五、六日くらい古本屋や中古レコード屋をまわって、喫茶店でコーヒーを飲んで、酒を飲んで、年に二、三回、二泊三日くらいの国内旅行ができれば、幸せだなあとおもうのである。
 そのために自炊をしたり、衣類を買わなかったり、髪を自分で切ったり、ちまちま倹約することは苦ではない。

 つまり地方から都会にやってきて下宿しているひまな学生のような暮らしがわたしの理想なのかもしれない。ほどよく金欠で、腹が減っているからメシがうまくて、酒にありつけたときに心からうれしい。ほんとうは、そのくらいのお金と時間のバランスが充足感があるのではないか。

 意識してやろうとしてもうまくいかない。なぜだろう。

2007/07/18

青い部屋の詩人

 なんとなくやる気がでない。理由はわかっている。
 飲みすぎだ。昼夜逆転生活がさらに逆転して、ふつうの早寝早起の規則正しい生活になっているのだが、ものすごくだるい。時差ボケのようなかんじといえばいいか、頭がまわらず、ぼーっとしている。

 それで横になってテレビを見ている。新潟県中越沖地震のニュースが流れている。昼夜逆転生活なんて、電気が止まったら、それでおしまいだ。完全に文明依存体質である。災害の備えもとくにしていない。急に水とかロウソクとかの買い置きでもしとこうかという気になる。いい気なものだともおもう。

 夕方、チャンネルをかえたら、不運というほかない境遇の女性が駆け込み寺の尼僧のところを訪れる番組がやっていた。

 二十代前半の女性はホストクラブ通いがやめられない。尼さんは、夢とか才能とか、そういった生きる支えを見つけなさいという。お説教というよりは、親身に語っているかんじだ。女性もその言葉に感激して泣いている。

 人生相談は、言葉よりもいかに親身になれるかが大事なのかもしれない。彼女がこのままホストに散財しても、なんにも残らない。いや、借金が残るか。だから尼さんは、将来のために無駄遣いをやめて貯金しなさいという。

 わたしも、夢とか才能とか、そうした漠然とした曖昧なものを心の支えにしていたりするわけだが、それはとても不安定なのである。それより日々のなんてことのない、ただただ平穏な生活に喜びを見出すことができたらいいなあとおもう。もちろん、それも簡単ではない。しかも地味だ。

 水道ひねって水が出るだけで、喜んだりはできない。どこかの貧しい国のように川で洗濯したり、井戸まで何キロも歩いて水をくみにいったりしなくてもすむことに感謝することもなく、ぶつくさいいながら、毎日食器を洗っている。

 夢とか希望とかいったものは、元気なときにはいいのだが、そうじゃないときは、負担になる。ヘタに励ますと、余計に落ちこませてしまうこともある。

 ほんとうに弱っているときの支え。自分は無力だなあとおもうときの支え。貯金か。

 夜中、『吉行理恵レクイエム「青い部屋」』(吉行あぐり編、文園社)を読んだ。昨年五月四日に六十六歳で亡くなって、そのちょうど一年後に出版された本である。

 自費出版の詩集『青い部屋』に兄の吉行淳之介が附記を書いている。その中に中学二年生のときの吉行理恵の作文が全文掲載で紹介してある。この作文は吉行淳之介がずっと残して置いたもので、そのことは書いた当人も知らなかったことだという。

《一つの事をしていてもお姉さんには出来ても私は姉より取柄がないのだから出来なくてもしかたがないという気持が起って来る。こんな気持でいては人間は成長しない。私はこれから心も体も成長して行かねばならない。私はもう少しすれば出来る事を途中でやめる癖がある。それも直さなくてはと思う》

 詩そのものには感心しなかったと吉行淳之介はいうが、この作文を読んだとき、詩を書く必然のようなものがあるとおもったともいう。

《目の前は真白です
 それというのも 貧血を
 わたしが起こしていることに
 誰も気づいてくれないから

 まして倒れてしまうなんて
 私には出来ません
 人のお世話になることが なんとなく
 きらいだから》
      (「きっかけ」抜粋)

 中学生のころの作文もこの詩も、同じ人物の、同じ心の場所から出てくる言葉だ。
 こういう人には気休めの言葉は通じない。

2007/07/10

ウイスキーと読書

 たくさんの人と会って、喋って、飲んだあとは、ちょっと気がぬけてしまうというか、浮かれすぎた自分をおもいだし、恥ずかしくなるものだけど、まあそういうことがあってこその人生だなともおもう。日常のペースをとりもどすために、いつも通りの家事をして、散歩して、喫茶店でコーヒーを飲んで、ほんのすこしだけ仕事のことを忘れて、くつろぐことに専念する。
 こういうときに読みたいのは、やっぱり編集工房ノアの本だ。

 富士正晴の『狸ばやし』(一九八四年)の「詩集の話」というエッセイ集を読むことにする。

《この頃はひどくくたびれて、仕事が余りしたくなくなる。それを無理にすると、もっとくたびれてウイスキーをのんで、そのくたびれを忘れることになる。しかし、そのウイスキーをのみすぎて、次の日はウイスキーのくたびれで、次の日の仕事が余りしたくなる。が、それはしなくては済まぬので無理にやる。するとくたびれて、ウイスキーを、とまあこんなことで、仕事とウイスキーと読書と電話がまだらになっているような日々がつづいていると、全くがっがりする》

 酒全般にそういう効能があるのかもしれないが、わたしもウイスキーを飲むと疲れがとれるような気がする。疲れといっても、体ではなく、頭のほう。仕事のあと水割を二、三杯、さくっと飲むと楽になる。ただし、飲みすぎると、次の日がつらくなることは、富士正晴の書いているとおりだ。

(……以下、「会社の人事」と改題し、『活字と自活』本の雑誌社に所収)

2007/07/09

書肆アクセスフェア

 今日七月九日(月)から七月三十一日(火)まで神保町のアクセスで第五回書肆アクセスフェア「荻原魚雷の選んだ書肆アクセスの20冊」を開催しています。アクセスで取り扱っている本の中から、わたしの好きな本と雑誌を選んで並べてもらうという企画です。
 期間中、お買い上げの方には小冊子もプレゼント。

■書肆アクセス
〒101-0051
千代田区神田神保町1-15
TEL 03-3291-8474
■営業時間
月・火   AM10:00〜PM6:00
水・木・金 AM10:00〜PM7:30
土     AM11:00〜PM6:30

 さて、昨日一昨日の池袋の古書往来座の第三回「外市」が無事終了。二日間雨も降らず、涼しくて、ほんとうによかった。「文壇高円寺」の売り上げは一万四千円。売り上げ冊数は五十四冊。今回も「ホンドラベース」で出品した。

 浅生ハルミンさんとのワメトークはシラフで挑むつもりだったけど、極度の緊張ゆえ、退屈君に白角の水割(缶)を二本買ってきてもらい、開演前に一本、対談中も飲みながら話すことになった。いちおうタオルで隠していたんだけど、途中から完全にバレていた。

 中学時代、校舎の中をバイクが走っていたり、授業中、爆竹とロケット花火が飛び交い、窓ガラスがなくて冬ものすごく寒くて、教室の中でたき火をしていたという話はすべて実話。あと授業中、教室の後ろでシンナーを吸っている生徒もいたなあ。先生はまったく注意せず、シンナーを吸っていない生徒を「連帯責任だ」とかいって、往復ビンタをくらわせた。わけがわからない。いまだにおもいかえすと理不尽なことだらけだ。

 まあそんなことも笑い話にできる日がくると……。

 イベント会場の上り屋敷会館からもどると、古本ソムリエの山本善行さんと岡崎武志さんが来ていた。なぜか往来座のマンションの角にへばりついて上を眺めるのが流行する。

 打ち上げもおもしろかった。毎週月曜朝しめきりの仕事があるので、日曜日は水割三杯までと決めているのだが、「まあ、いいか、今日は」とおもって飲みまくる。

 その後、神田川の面影橋に笹を流しに行く。
 タクシーで高円寺に帰り、三時間ほど寝てから朝まで仕事する。なんとか原稿も書き終えて、午後三時すぎまでまた寝る。

2007/07/06

外市とワメトーク

 七月七日(土)、八日(日)に第三回往来座の「外市」に今回も「文壇高円寺」として一箱参加することになりました。

※わめぞblogから転載
「外、行く?」
第3回 古書往来座外市〜わめぞ七夕、外に願いを!〜

■日時
7月7日(土)〜8日(日) 
7日⇒11:00〜20:00(往来座も同様)
8日⇒11:00〜17:00(往来座は22:00まで)
■会場
古書往来座 外スペース(池袋ジュンク堂から徒歩3分)
東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階
http://www.kosho.ne.jp/~ouraiza/

■メインゲスト(大棚使用約200冊出品)
古本ソムリエ 山本善行 http://d.hatena.ne.jp/zenkoh/
山本善行(やまもと・よしゆき)
1956年、大阪市生まれ。古本エッセイスト。「エルマガジン」にて「天声善語」を連載中。著書に「古本泣き笑い日記」(青弓社)、「関西赤貧古本道」(新潮新書)。

■わめぞ古本屋軍団(大棚使用約200冊出品)
古書往来座(雑司が谷)http://www.kosho.ne.jp/~ouraiza/
古書現世(早稲田)http://d.hatena.ne.jp/sedoro/
立石書店(早稲田)http://d.hatena.ne.jp/tate-ishi/
■わめぞオールスター(小棚 or 一箱)
武藤良子(雑司が谷)http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/5403/
旅猫雑貨店(雑司が谷)http://www.tabineko.jp/
リコシェ(雑司が谷)http://www.ricochet-books.net/
ブックギャラリーポポタム(目白)http://popotame.m78.com/shop/
琉璃屋コレクション(目白) 版画製作・展覧会企画
退屈男(名誉わめぞ民)http://taikutujin.exblog.jp/
■一箱スペシャルゲスト
岡崎武志堂 http://d.hatena.ne.jp/okatake/
蟲文庫(岡山) http://homepage3.nifty.com/mushi-b/
嫌記箱(塩山芳明)http://www.linkclub.or.jp/~mangaya/
臼水社(白水社有志)http://www.hakusuisha.co.jp/
ハルミン古書センター(浅生ハルミン)http://kikitodd.exblog.jp/
文壇高円寺(荻原魚雷) http://gyorai.blogspot.com/
「朝」(外市アマチュアチャンピオン)
北條一浩(「buku」編集長)http://www.c-buku.net/aboutbuku/index.html
貝の小鳥 http://www.asahi-net.or.jp/~sf2a-iin/92.html
伴健人商店(晩鮭亭)http://d.hatena.ne.jp/vanjacketei/
ふぉっくす舎 http://d.hatena.ne.jp/foxsya/
他、往来座お客様オールスターズ

 さらに八日(日)はイラストレーターの浅生ハルミンさんと「ワメトーク」に出演します。司会は古書現世の向井透史さん。

■ワメトークvol.2 『古本暮らし』刊行記念「三重県人!〜わたしたちが東京に来るまで〜」
14:00〜16:00(開場1:30)
■会場
上り屋敷会館 2階座敷
東京都豊島区西池袋2−2−15
地図はコチラです。→http://f.hatena.ne.jp/wamezo/20070413174217
■参加料 600円
■定員 40名

 昨日、向井さん、浅生ハルミンさんと古本酒場コクテイルで打ち合わせ。向井さん、インタビューうまいなあ。すっかり忘れていたことをずいぶんおもいだした。
 わたしが鈴鹿市で、ハルミンさんは津市出身(くわしい場所は当日ハルミンさん特製の地図を参照)です。
 おそらく東京の人からすれば、信じられないような話がいろいろ出ることでしょう。
 ハルミンさんの衝撃の生い立ちとか……。

 定員、まだまだ余裕があります。
 お時間のある方はぜひ来てください。よろしくおねがいします。

2007/07/02

詩を必要とする人

 辻征夫が詩人になろうと決意したとき、「そういうことは趣味として余暇にやれ」といわれた。
 詩人は職業ではない。ならば、詩は?

 前回とりあげた追悼詩にしても「鮎川さん」という名前を見て「鮎川信夫」だとわかる人向けの詩である。「鮎川さん」が「上村さん(仮名)」だったら、あの詩はどうなるのだろう。

《隅田川の
 いまはない古びた鉄柵に手を置き
 日暮れの残照に黒々とうなだれている
 1965年8月の上村さん(仮名)
 あなたがぼくに
 はじめて本をくれたのは
 たぶんこの写真が撮影されてから
 ちょうど一年後の夏でした
 本の名は『プレイボーイ入門』
 いつも ぼんやりしていて
 女の子と遊び歩くこともなく
 失業ばかりを繰り返して二十代の半ばを
 ふらりと越えてしまったぼくの肩を
 ぽんと叩くような感じであなたは
 《あげるよ》と
 ひとこと言ったのでしたが
 あんなに まったく
 役に立たなかった本もありませんでした》

 上村さん(仮名)は、二十五歳の辻君の上司で、たまにはこういう本でも読んで、女の子と遊ばなきゃというようなノリで『プレイボーイ入門』を手わたす。
 辻君は役に立たなかったといいつつも、そのときのことをとても鮮明におぼえている。
 上村さんは仕事にきびしい上司で、新入社員の辻君にとっては、あこがれの存在でもあった。

 鮎川さんを上村さん(仮名)にしただけで、「だからなんだ」という詩になってしまう。でもこのとぼけた詩の行間には、ものすごい情報量が隠されている。

「1965年」と算用数字を縦書の詩で横に表記するやり方は、鮎川信夫の詩の模倣だと辻征夫はいう。
 詩の中におけるふたりの関係も知っている人にしかわからない。そしていちばんわからないのは、なぜこれを詩にしなければならなかったということだ。
 散文ではなぜいけなかった。詩人だから詩を書いた。だが辻征夫は、エッセイも小説も書く詩人である。俳句もやった。
 でもこの詩の情報量をエッセイで書くとすれば、何倍もの長さになるだろう。辻征夫はそうしたくなかった。詩人、あるいは鮎川信夫に関心のある人にしかわからない詩にしたかった。
 詩人鮎川信夫を知らない一般の読者にもわかるような追悼文は書きたくなかった。

 内輪にしか通じない詩。その批判はあって当然だ。当時の難解な詩が多いといわれた現代詩の世界で、辻征夫はわかりやすく、やさしい言葉の詩を作っていた人でもある。そんな辻征夫が、わかりやすい言葉でものすごくわかりにくい詩を書いた。
 鮎川信夫の追悼詩は、こうでなくっちゃいけない。と、いろいろ理屈をこねることができるが、たんなる気まぐれかもしれない。

《どんな世の中になっても(詩人や作家が爪はじきされず、それどころかアコガレの眼で見られたりする世の中、という意味であるが)、詩人とか作家は、やはり追い詰められ追い込まれて、そういうものになってしまうのが本筋ではあるまいか、と私はおもう。人生が仕立下ろしのセビロのように、しっかりと身に合う人間にとっては、文学は必要ではないし、必要でないことは、むしろ自慢してよいことだ》 (「文学を志す」/『吉行淳之介エッセイ・コレクション3』ちくま文庫)

 高校生で詩の道を志し、二十代半ばすぎまで転職をくりかえした辻征夫も、やはり詩や文学を必要とする人だった。
 詩では食えない。そんなものは趣味や余暇でやればいい。でもそういう考えをすんなり受け容れられる余裕があれば、そもそも詩人にはならないだろう。

 詩人は、どんな世の中になっても、たとえそれで食えなくても、詩を書くことさえできれば生きていけるというようなギリギリのところで、選択するしかない職業である。

《本当のことをいえば、わたくしたちのこの日常生活は、はなはだ散文的でほとんど詩を必要としない面もあります。人々の心が詩の世界に歩みより、詩に近づくことができるのは、ごく特別な場合だけで、われわれの方から求めて接近しないかぎり、詩は無縁の状態に置き去りにされます》
   ( 「生活の詩」/鮎川信夫『現代詩入門』飯塚書店)

 詩を必要とするのは「ごく特別な場合」というのは、吉行淳之介がいうところの「仕立おろしのセビロ」が身に合わないというたとえにも通じるだろう。
 鮎川信夫は「(生活には)その内容のいかんによらず、それが習慣化してしまうと、一様に頭も尻尾も見わけがつかない循環作用に化してしまう、そんな眩惑をおこさずにはいられないような性質」がひそんでいて、そういう生活を送っているうちに神経が麻痺し、感情もかわき、思想は画一化して退化の一途をたどるという。

《こういったことは大変スムースに、意識の内部で進行していくので「なんだか前にくらべると、少し生活のキメが荒くなったみたいだが、多分おとなの仲間入りするようになったからだろう」ぐらいの自覚で終ってしまうのが普通です》(生活の詩)

 普通の大人は詩人を志す若者に「そういうことは趣味として余暇にやれ」と助言する。あるいはもっときびしく「そんなふざけたことを考えているひまがあったら勉強(仕事)しろ」というかもしれない。

 わたしが詩を読むのはあくまでも「趣味」にすぎない。でも単調な生活を送っていると、感覚が麻痺してくるようで不安になる。ほうっておくと、貧乏性ゆえ、思考が効率と損得勘定に向かい、どんどん無駄なことができなくなる。
 無駄なことができなくなると、さらに感覚が麻痺してくる。
 ただし、そうした刺激は別に詩でなくてもいいではないかといわれたら、そのとおりなのである。生活のキメが荒くなったときの清涼剤のような役割ということであれば、映画、小説、漫画、音楽、ゲーム、スポーツ、ギャンブル、旅行、買物、恋愛でもいいわけだ。

 そんなさまざまな娯楽の中で、どうして詩(なんか)を読んでしまうのか。
 ひまだからか。でも忙しくて仕事に追われているときほど詩が読みたくなるのだが。

 やっぱり現実逃避ですかね。でもそれもまた別に詩でなくてもいいわけだし、うーむ。

2007/06/28

それからえーと

 辻征夫は明治大学卒業後、職を転々とし、一九六六年四月、思潮社に入社した。最初の仕事は、鮎川信夫の『詩の見方』(思潮社)の担当だった。
 最後に辻征夫が鮎川信夫の姿を見たのは、黒田三郎の追悼の会だった。
 会場は満員で中に入れず、待合室に案内される。

《そこに鮎川信夫氏が一人だけ、入口に背を向けてベンチに腰を掛けていたのである。「こんにちは」と挨拶すると、鮎川さんも「こんにちは」と例の屈託のない声で言い、私は邪魔にならないように斜めうしろのベンチに腰掛けた》(「鮎川信夫氏と『長兄』の死」/辻征夫著『ロビンソン、この詩はなに?』書肆山田)

 辻征夫は「私が書くのは単なる詩であって、それがどういう部類に属するものか、考えてみても別段おもしろくない」といっている。また「現代詩」という呼称も捨てて、「詩は、詩という一語で充分である」ともいう。

《ライト・ヴァースといわず敢えて詩といわせてもらうが、詩はかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないだろうか》(「滑稽と悲哀」/『ゴーシュの肖像』書肆山田)

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/06/23

打ち荷

 来週からすこし忙しくなりそうなので、その前に山田稔著『影とささやき』(編集工房ノア)を読むことにした。

 天野忠のことを書いた「融通無碍」とエッセイがある。大野新の「『私』を軽くした分だけ『融通無碍』になって、短い作品のまわりの余白がひろくなった」という天野忠作品の解説をふまえつつ、こう述べる。

《私的、日常的なことがらを素材にしながら、「私」を自然に越えている》 

 また松田道雄のコラムにあった「打ち荷」という言葉に触発され、天野忠の詩を論じる。打ち荷というのは、難破した船が危機をのがれるために積み荷の一部を海に棄てることだそうで、「病気と貧乏に明け暮れした生涯を通じて、詩人はそのときどきに『打ち荷』を忘れず、身軽さを保ち続けてきたのではないだろうか」という。

 打ち荷。いい言葉を知った。「私」を軽くする。これまで何度となく身軽になりたいという願望を書いてきた。ライトヴァースへの関心も突き詰めるとそこに行き着く気がする。できれば文章もなるべく軽くしたい。ものを減らし、予定を減らし、生活を軽くしたい。

 本が増えると、広い部屋に引っ越したいという欲がわいてくる。その欲を利用して仕事に励むこともあるのだが、仕事が忙しくなると今度はのんびりできなくなる。

 かれこれ十年以上もこの問題で堂々めぐりしている。

 そういえば、山田稔さんの『ああ、そうかね』(京都新聞社)にも「融通無碍」という言葉が出てくる。「文の芸」と題したエッセイで小沼丹の『珈琲挽き』(みすず書房)について次のようにいう。

《小沼丹の文章のもうひとつの特徴は人称代名詞を用いない点にある。これは徹底していて、この随筆集のなかでわずかに「僕」、「われわれ」が一、二度出て来る程度である。「私」も「彼(女)」も使わず、それで文意があいまいになることはない。自他の境が取っ払われた融通無碍の世界で読者は寛がせてもらえる》 

 今の作家だと石田千さんがそうかもしれない。

 たまに主語なし文章を書こうと試みるのだが、どうもしっくりこない。

2007/06/21

気分のいい生活

 なんだか生活のリズムがおかしくなっている。睡眠時間が毎日数時間ずつズレてしまう。その結果、洗濯物がたまったり、未整理の資料が増えたり、自炊の回数が減ったりして、今、気持がすさんでいる。
 とどこおりなく家事がしたい。いや、そうじゃない。掃除をしたり、メシを作ったり、アイロンをかけたり、手抜きしようとおもえばいくらでもできることをなるべくていねいにしたいのだ。なんだろう、この欲求は。

 そんな気分のときに、森茉莉の『私の美の世界』(新潮文庫)を読んでいたら、いろいろ考えさせられた。どうして森茉莉のエッセイを読んだのかというと、その本が目の前にあったからにすぎない。
 この本の「ラアメンとお茶漬け」というエッセイで、森茉莉は「インスタントラアメン」や「家庭電化」などの生活の合理化なんてものは、世の中を味気なくするだけで、合理化によって余暇ができたとしても、なんにもなっていないのではないかと問いかけ、次のようにいう。

《ラアメンで倹約した時間で睡眠を摂って、会社へ駆けつけたら、どんな素晴らしい仕事がその分だけよけいに出来るかというと、大したこともないらしいし、(生活のかかっている、すごいヴェテランは別)奥さんがインスタント昼食で浮かせた時間で、読書会をやって、エロでなさそうな小説を読んで、感想を交換しても、手芸をしてデパアトに出品したとしても大したことはない。(中略)
 欧羅巴(ヨーロッパ)の主婦は、アメリカの主婦が紙ナフキンを使い捨てにするのとちがって、上等の、一代ずっと使えそうな、木綿のナフキンに刺繍をして使っていることだし、又欧羅巴の主婦は勤めのために忙しくて、自分で料理が出来ないと不機嫌になるそうである。少し位手がかかっても、生活の底に格調のある、気分のいい生活をした方が、結局はほんとうの合理的生活なのだと、わたしは思っている》

 森茉莉のいうような格調のある暮らしは、はじめから望んではいないけど、多少家計をきりつめることになっても、ゆっくり料理をしたり、掃除をしたりする余裕がほしいとおもう。

 そんなに仕事もしていないし、(森茉莉の嫌いな)電化製品の世話になっているにもかかわらず、いつも時間が足りないかんじがするのはなぜだろう。忙しいなあとおもいながら、だらだらテレビやインターネットを見たりしているのがいけないということはわかっている。
 ぐうたらしているせいで、家事がめんどうくさくなって、「なんでおればっかり」とおもいながら、食器を洗ったりしているのもよくない。
 気分がよくないから、仕事にとりかかるのに時間がかかり、だらだらしてしまうから、時間がなくなる。ほんとうはなくなっているのは時間ではなく、充足感なのかもしれない。別に誰からほめてもらえなくても、ゆっくりていねいに仕事や家事をしたあとは、不思議と気分がいいものだ。

2007/06/17

昼市に行く

 毎月第三日曜日恒例の西荻窪(柳小路通り飲食街)の昼市に行ってきた。もちろん「昼本市」が目当てなのだが、飲んじゃうよ、ここにきたら。尾道ラーメンも食った。うまい。楽しいなあ、昼市。

 バサラブックスの福井さんに挨拶。松本剛の『甘い水』(上下巻、原案協力/板垣久生・講談社)を手にとると「これはいいですよ」とすすめられる。もちろん買う。わめぞの武藤良子さんに外市のチラシもらう。都電の絵、すばらしい。袋が破けそうになるくらい本を買ったけど、二千円ちょっと。

 夜、飲み屋でしか会ったことのない人と昼間に会うと、ぎこちなくなるのだが、それもまたよし。途中、退屈君と西荻界隈の古本屋をまわり、どんぐり舎でコーヒー。

 今日、買うかどうか迷いつつ買った本に『これからの家事』(主婦と生活社、昭和四十年)がある。生活のリズムがおかしくなったら、とにかく家事だ。この本の中に「アイロンのいらない布地をフルに使って労力を省く」と書いてあった。常々、そういう布地の服がほしいとおもっているのだが、いまだその見極めができない。古着屋に行くとおじいさんが着ているような夏用の麻混の長そでのシャツを探す。似たようなシャツしか買っていないはずなのに、洗濯するとしわくちゃになるのとならないものがある。さらに似たようなシャツなのに、通気性のいいのとよくないのもある。

 シャツとズボンはどのくらい持っていればいいのか。昭和四十年の基準ではワイシャツは五枚(一枚は正式用)、ズボンは冬一着、春・秋・夏兼用が二着。下着は三枚(予備一枚)、靴下は六足と書いてあった。そのくらいでやっていけるとおもうと、ちょっと勇気づけられる。

 それにしても昭和の家事は奥が深い。たとえば、しょうゆがカビたら脱脂綿でこすとか、みそがカビたら油でいためてダシをいれて鉄火みそにするといいとか、湿ったのりは天ぷら、カビた昆布も揚げて塩をふれば酒の肴になるらしい。しょうゆ、カビがはえるのか。知らなかった。

 家に帰って洗濯。一時間でほぼ乾く。夜七時すぎ、ちょっと涼しくなったので、今度は夜の散歩に出かける。あずま通りの一度も店内に入ったことのないお好み焼屋の店先で持ち帰り用の豚モダンを買う。

 松本剛の『甘い水』は読んでいて苦しくなった。いや、まいった、すごいとしかいいようのない作品だ。読みおわって三時間くらいたってもまだ余韻が……。最初の頁を読みかえして、またぞくぞくする。一九八八年にデビューして単行本は三作のみ。今年『甘い水』と『すみれの花咲く頃』が講談社BOXから復刊。ファンキー末吉原作の『北京的夏』も復刊の予定とのこと。

2007/06/13

仮題

 酔っ払って、懐中時計をなくしてしまう。外出用の時計はこれしかない(携帯電話はもっていない)。
 この日は、中野のあおい書店に行って新刊本をチェックしてこようとおもっていたのだが、連日の深酒でへろへろになっていたので、家に帰って昼寝をする。起きたら、夜の十時半だった。
 飲んで寝て、飲んで寝て、なにもできずに一日がすぎてゆく。でも起きていたからといって、有意義な一日になるとはかぎらない。よくありがちな二日酔いの後遺症の「かっこわるいなあ、はずかしいなあ」というおもいが軽かっただけでもよしとしよう。

 翌日、あおい書店に行って、一時間くらい、店内をうろうろした。好きな書店にいるとそれだけで元気になってくる。ありがたいことだ。

 中野ブロードウェイの鉄道遺失物を売っている店に懐中時計を見に行くが残念ながらなかった。いったん家に帰り、高校の入学祝いに買ってもらった腕時計があったかもしれないと小物入れをあさっていたら出てきた。二十年以上前の腕時計が。ルック商店街のおもちゃ屋で電池交換し、そのまま青梅街道に出て阿佐ケ谷まで歩く。夏の暑さにからだを慣れさせるには歩くのがいちばんいい。

「第二回 永島慎二遺作展」開催中(〜六月十九日)の喫茶室コブでアイスコーヒーを飲み、ガード下を通って、途中、十五時の犬に寄り、竹宮惠子の『アンドロメダ・ストーリーズ』(原作光瀬龍、講談社コミックス、全三巻)を買う。

 ある日、知能の発達した機械が飛来し、人間を支配する。その支配方法は、人間に幸せな夢を見せること。そして機械の支配に王家の双子の姉妹が立ち向かうという『マトリックス』みたいな話だ。といっても『アンドロメダ・ストーリーズ』のほうが二十年くらい早いのだが。

 自分のおもいどおりの夢を見ることができる機械があったとする。最低限の栄養を摂取できるようなシステムもあって、ただひたすら夢を見ている状態……というのは、はたして楽しいのか。

 たとえば、本好きの夢とはなんだろう。

 自分の読みたい本が読み放題という状態だろうか。たぶんちがう。苦労して探すとか、金欠のときにかぎってほしい本が目録にいっぱい出ているとか、まったく知らない作家の本だけど、なんとなく買って読んでみたらおもいのほかよかったとか、いろいろしんどいことを経験することで作品のよさがわかるとか、仕事をしなきゃいけないのに漫画を読んでいるときの後ろめたさとか、そういうことをぜんぶひっくるめて読書はおもしろいわけだ。

 でも『アンドロメダ・ストーリー』のように、現実が荒廃しきっていて、新刊書店も古本屋もない世界だったとしたら? 現実の世界は本がなくて、冷暖房もなくて、食うや食わずの窮地。いっぽう仮想現実の中には古今東西の本があふれていて、寒さも暑さも飢えもない。

 迷うかも、それなら。

 そういえば、竹宮惠子は『地球へ』でも、コンピューターが進化し、神のような存在になって、人間を管理する未来を描いていた。

 機械の発達は、便利になってよい。でも人間のなにか、生物としてのなにかが失われていくような気もする。
 それこそ仕事に関していえば、わたしの場合、家にひきこもりっぱなしでも、どうにかなってしまうようになった。本もインターネットで注文し、編集者とはメールでやりとりできる。
 そんなふうになって、まだ十年ちょっとだ。
 十年前とくらべて、自分は変わったのか。微妙だ。同世代の編集者にいわせると、かえって忙しくなったという意見のほうが多い。
 わたしもハードディスクレコーダーに録りだめしているアニメを見るのに忙しい。

2007/06/10

今日はオルガンとフルホン

 今日(10日)の夜は、高円寺の古本酒場コクテイルで手廻しオルガンミュージシャンのオグラさんと「オルガンとフルホン」(東京編)というイベント(午後7時30分〜、チャージ1500円)をします。

 先月、京都のまほろばでやった「オルガンとフルホン」の打ち上げで、「せっかくライブなんだから朗読とかすれば」とオグラさんにいわれ、「じゃあ、次のコクテイルのときは新作を書いて読むよ」とこたえてしまった。
 ちょうどメルマガの「早稲田古本村通信」の新連載(タイトル未定)の第1回目の原稿を考えているところなので、ためしに書いたものを発表しようかどうか思案中。

 朗読しようとおもって読み直すと、文章の接続詞や語尾が気になる。「だけど」にするか「だが」にするか「なのだが」にするか。文章の場合も音やリズムがあり、言葉のかたさ、やわからさ、重さ、軽さ、早さ、遅さ、あと活字になったときの文字のバランス(見映え)など、内容だけではなく、そういうところに自分の好みや癖がけっこう出るものだ。

 オグラさんの歌詞は、声と言葉がすごく合っている。メロディーも酔っ払ったかんじで、酒を飲みながら聴くと気持がいい。

《誰かがどこかでくしゃみして
 夜空が少しちぢんだ
 三寒四温をくり返し
 季節はまた流れて行くが

 口約束が まだ残ってる
 ボトルの酒が まだ残っている

 友よ 果てなき夢の途中
 また あの酒場で逢おう》
      ( 永遠の酒 /『オグラBOX3枚組』より)

(追記)
 結局、朗読はせず。しかも「早稲田古本村通信」にも発表せず。まあそのうちどこかで。

2007/06/08

青春の反逆

 松尾邦之助の『青春の反逆』(春陽堂書店、一九五八年)がどうしても読みたくなったので、インターネットで検索したら、「古書ことば」にあった。数年前、古書現世の向井さんに「古書ことば」のYさんを紹介してもらって、たちまち魅了された。なにかを一所懸命伝えようとするのだけど、その説明が細かすぎて、わけがわからない。でもそこがおもしろい。いったい彼にはこの世界がどんなふうに見えているのかとても気になる。
古書ことば 売れない本の紹介」の中にもそのおもしろさがちらほら出てくる。 話のまくらが絶妙に不条理でついひきこまれてしまう。とぼけているようで深い。

 注文した翌日『青春の反逆』が届いた。この本の中で松尾邦之助の半世紀で「哲人アン・リネル——思想の新地平」という一文がおさめられている。

《わたしは、アン・リネルを読み、アナーキストは、何はさて、モラリストであり、その後読んだスティルナアの『唯一者とその所有』にしても、辻潤のいうように、すべてこれらが最高の倫理学書であることを知るようになった。一般の日本人には、こうしたモーラルの感覚があまりに低く、まず、ここから出発しなくては、すべてがダメの骨頂だと思った》

 学生時代、辻潤訳の『唯一者とその所有』(自我経)を読んだのだけど、当時はほとんど理解できなかった。思想や哲学といったものは、どうも自分には向いていないのではないかとおもっていたのだが、最近また気になりだしている。ひょっとしたら、今ならすこしはわかるのではないか。あとなぜ辻潤がスティルナーにあれほどいれこんだのか、そういう気持で読んだら、この本はきっとおもしろく読めるのではないか。
 そうおもいつつ『自我経』(改造社)をひらいてみたが、数頁で挫折する。

 アン・リネルへの関心も、思想というより、「不必要な必要物」という、なんかちょっとへんな言葉にひっかかりをおぼえたにすぎない。ずっと心にひっかかったまま、ひっかかりっぱなしだ。

 個人主義という思想は、好きな人はものすごく過大評価するし、それをあまり好まない人は、ものすごく過小評価する。
 松尾邦之助も、ある講演でひたすら個人主義の倫理について語りつづけたあと、「でも所詮、個人主義はエゴイズムでしょ」みたいなことをいわれて、ガッカリしたというようなことを書いていた。
 個人主義について論じることは無駄ではないとおもうが、不毛な議論におわることが多い。
 自分の生きたいように生きればいい。自分が生きたいように生きていこうとすれば、当然のように周囲と摩擦が生じる。それを回避しようとしたり、調節しようとすれば、それなりに倫理観や平衡感覚も磨かれてゆくとおもう。

 最初から周囲や習俗に合わせようとするのではなく、まずは自分のやり方で行けるところまで行ってみる。その結果、協調性のようなものを身につけざるをえなくなったとしても、それはそれでやむをえない。
 かつて自分からすれば、今のわたしは妥協ばかりして、自分の生きたいように生きていないように見えるだろう。
 その昔、「おまえはアナキストじゃなくて、ただのリアリストだよ」といわれたことがある。それは当っているとおもう。でもわたしのことをリアリストといった知人は、親元にいて生活に困っていなかった。

 自由なんてものは、その人の才能、能力にみあった分しか得られないのではないかというおもいがわたしにはある。制度上の不平等や不自由という問題もあるけど、今はそれ以前の話をしているつもりだ。
 アン・リネルは六十歳くらいまで学校の先生をしていた。いちおう生活の保証があったわけである。その上で、個人主義を貫いていた。アン・リネルが教職に就かず、文筆だけで生活していたら、七十歳すぎまで、その哲学を深める活動をつづけることができただろうか。

 もっとも、今のおまえは妥協して守るだけの価値のある生活を送っているのかと問われたら、「いや、それはその」と口ごもるほかない。

(……未完)

2007/06/07

拾い癖

 昨日の朝、高円寺文庫センターの前を散歩したときに通りかかったら、本棚の下の引きだしのようなもの(白色、車輪付)が落ちていた。「ご自由にお持ちください」とあったので、おもわず拾ってしまった。
 本棚の下の引き出しのようなものは、縦四十五センチ、横八十センチ、高さ三十センチくらい。なにかにつかえるとおもったのだが、置く場所がない。なんで拾っちゃったんだろう。

 そのあと昼から神保町めぐり。暑い。わたしは一年中、長そでシャツを着ているのだが、この日自分がもっている服の中でもっとも薄い麻のシャツを着ていた。この先、もっと暑くなったらどうすればいいのだろうかとおもいながら、神田伯剌西爾(ぶらじる)でアイスコーヒーを飲む。すずらん通りのたつやで牛丼。牛丼は百円値上がりしていた。オーストラリアの大干ばつの影響だそうだ。といっても、三五〇円。午後三時すぎだったけど、客はわたしひとり。神保町では、たつやの牛丼か小諸そばの香味豚うどんしか食っていない気がする。

 帰りに早稲田で途中下車して、古書現世の向井さんとニュー浅草で飲む。指定席かとおもうくらい、いつも同じ席に案内される。今月から早稲田古本村通信の連載をはじめるのでその相談。タイトルもなにも決めていない。たぶん、ゆるい枠で自由に書かせてもらうことになりそう。

 古書現世で川崎彰彦の『私の函館地図』(たいまつ社)を買った。もともと二百部の小冊子の増補改訂版。長谷川四郎の跋文もはいっている。ちょっと前に津野海太郎の『歩くひとりもの』(ちくま文庫)を再読したのだけど、この本にも川崎彰彦をのことが出てくる。

 あと本棚の下の引き出しのようなもの、ほしい人いる? 古本屋の均一台にはぴったりかも。

2007/06/05

わかっていながらそれが出来ない

 松尾邦之助の本を再読していたら、『癡人の独語』にアン・リネルのことが出てくるとあったので、『辻潤全集』(五月書房)の三巻を読むとにした。

《松尾君はアン・リネエルを「パリの辻潤」と呼んだが、勿論ジュルナリストの気転? で、誰も真面目にとるものはないであろうから安心するが、自分の考え方が彼に似ていることは少しも不思議とするに足りないばかりか、かなり共通的なもののあることだけは事実である》(「自己発見の道」/『癡人の独語』)

 辻潤は、アン・リネルを「インディビジュアル・アナアキスト」、つまり「無政府個人主義者」であるが、「系統はストア派」で、「ストイックの精神抜きにしては彼の所説を論ずることは出来ない」という。

 アン・リネルの話はさておき、辻潤の『癡人の独語』はなんど読んでもいい。読むたびに感化される。似たようなことをおもったり、書いたりしていることに後から気づくことがよくある。

《生きることになんの疑いも持たず、普通の習慣に従って無心に生きられたらどんなに気楽だろう、と自分はいつでも思うのだ。しかしそれが自分にはいつの間にか出来なくなってしまっているのだ。
 なにかしら漠然と物を考えているのが自分の生活の大部分になってしまっている。実行する能力が次第に減殺されてゆく——これはたしかに健康によくないことだと自分は十分わかっていながらそれが出来ないのだ》(「癡人の独語」/同書)

 昨日から今日にかけて、目的もなく、といっても、ぼんやりしているわけでもなく、起きているあいだ、ずっと考えごとをしている。
 休むときに休み、働くときに働く。そういうふうに気持をすぐきりかえられるようになりたい。仕事のときは、遊ぶことを、遊んでいるときは、仕事のことを考えてしまう。
 ずっと意識が散漫で、道を歩いているとき、路上に止まっている自転車やバイクにぶつかってばかりいる。シラフなのに。辻潤にいわせると、意識が散漫になるのは酒精中毒の症状だというが、ほんとうだろうか。

 気分転換しようと、高円寺の北口を散歩する。まもなく高円寺文庫センターが庚申通り移転する。今住んでいるところからはちょっと遠くなる。でも巡回ルートだからいいや。「琥珀」(上京以来、通いつづけている喫茶店)でコーヒーを飲みながら、『癡人の独語』を読む。なんでこんなにおもしろいんだ。

《人間というものはつくづくダメなものだ−−−これが現在の自分のありのままの感想なのであるが、勿論ダメなのは「人間」でなくて「自分」なのはわかりきっている。なにしろひどく叩きのめされたような気がして、頭があがらずひたすら降参している姿である。生きている間は所詮どうにもなるものではない》(「天狗になった頃の話」/同書)

 どうにもなるものではないなら、どうでもいいやという気分になったので、帰りにあずま通りのZQに寄ってみた。この店、かならずいいものがある。チャド・アンド・ジェレミーの「ビフォー・アンド・アフター」というCDを手にとりジャケットを見たとたん、これは買わないと一生後悔するとおもい衝動買い。
 英国のフォーク・ハーモニー・デュオの一九六五年のアルバム、ジャケ買いするの、ひさしぶりかも。
 これは誰がなんといおうと自然かつ必要な欲望だ。そしてチャド・アンド・ジェレミーは予想以上によかった。休日向きCD。

……なんか散漫だな。ここのところ、ずっとそうだ。うわのそら。充電期間とおもいたい。

(追記)
 その後、チャド・アンド・ジェレミーにすっかり魅了される。「The Ark(邦題:ノアの箱船)」は素晴らしい名盤だった。

自然でもなく、必要でもない欲望

 仕事の原稿を書き上げて寝ようとしたら、眠れなくなったので、なんかちょっと書いてみようとおもう。
 おそらく今日もまたとくに予定のない日にありがちなことをするだろう。つまり部屋を掃除して、洗濯して、食料品を買い物して、古本屋をまわって、喫茶店で本を読んで、酒を飲んで、家に帰ることになるだろう。

 あんまりものは持ちたくないが、知らず知らずのうちにものが増えてゆく。

 学生時代、「現代のソクラテス」といわれたアン・リネル(1861-1938)に関する本の中に、彼の部屋の壁は床から天井まで本にうめつくされていたが、そこには「不必要な必要物」は何もなかったというようなことが書いてあるのを読んだ。
 アン・リネルの部屋には敷物がなく、着ているものも百貨店の「つるし」で売っているような質素な服だったという。
 当時は文学よりも、哲学や思想の本ばかり読んでいた。古典だけ読んでいればいいんじゃないか、そんなふうにおもっていた。今でもたまに頭がごちゃごちゃしてくるとそうおもう。

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/06/04

グーグルアース

 今更の話題かもしれないけど、グーグルアース、おもしろすぎる。簡単にいうと、衛星画像をはりあわせた精密な地球儀。どんどん地表に近づいていくと、建物や車まで確認できてしまう。先月、京都で扉野さんに教えてもらって、ひまだったので、昨晩(あ、日付が変わってしまった二日の夜)十一時くらいにちょっとやってみようかなと……。

 まあ、最初はいま自分の住んでいるところを見て、それから生家をさがそうとしたら、雲がかかっていてよくわからない。とりあえず、目印の鈴鹿サーキットから中学のときの通学路をとおって、ようやくそれらしき場所が……自信なし。浜島の祖母の家にも行ってきた。小学六年の夏以来、二十五年ぶりだ。なつかしいなあ。

 こんなことやっている場合ではないのだが、北方領土とか竹島とか尖閣諸島とかも見た。中国にわたって、三国志ゆかりの地もまわってみた。もしそのころ、こんな便利なものがあったら、いくさも楽勝だったろうに、孔明も。
 大航海時代のルートを追いかけて、リスボンからマラッカに着いたころ、朝七時になっていた。これはいかん、自制心がきかん。アマゾン川だ、ナスカの地上絵だ、エベレストだ。上空十キロくらいの高度に設定して、北緯三十度あたりをゆっくり移動する。地形をずっと見ているだけでも飽きない。印があって、そこをクリックすると、その土地の写真も見ることができる。町や遺跡らしきものが見えたら、さらに高度を下げる。部屋にいながら世界旅行ができる。世界三大運河(スエズ、パナマ、キール)も遊覧してきた。百時間でも二百時間でも遊べそうだ。しかし、そんな時間は、そんな時間は、ないのだ。今は。

 そのまま起きつづけて、西部古書会館の古書展に行く。なにを買うかあまりかんがえず、五千円分買うことにする。 
 物欲がうすれると、勤労意欲もうすれる。

 軽く寝てから、中野の図書館に雑誌のバックナンバーを調べにいったが、貸し出し中だった。図書館で雑誌の貸し出しをするのはまったく意味ない。即刻やめてほしいとおもう。いつも無駄足になる。日比谷図書館まで行くかどうか三分くらい悩んだが、めんどうくさいので家に帰る。

2007/06/01

都会と田舎

 なぜか、最近、海とか山とか川とか……いや、田んぼでも畑でも用水路でもいい、木とか草とか土とか岩とか、そういうものにむしょうに見たくなることがある。
 京都の友人の家でしばらくすごした。家から歩いてすぐのところに川が流れていて、大きな神社もあって、何の用もなく、ぶらぶら歩いているだけでも楽しくて、もうすこし自然の豊かなところに住みたいなあとおもった。

 田舎に住んでいたところは、そんなことはかんがえもしなかった。ひたすら都会にあこがれていた。でも東京に暮らして十八年、十九年とたつうちにだんだん自然にあこがれるようになった。たぶん田舎に引っ越したら、また都会に住みたくなるだろう。
 ようするに、いつだってわたしはないものねだりをしているわけだ。

 十年ちょっと前、建設関係の業界紙の仕事をしていたころ、いろいろおもしろい話を聞いた。
 この先、二十一世紀の公共事業はこれまでに人間の作ったものを壊して、なるべく自然に戻すための工事をすべきではないかという人がいた。
 たとえば、道路の舗装にしても、アスファルトではなく、砂利とか砂とか、なるべく自然のものをつかったり、コンクリートで護岸した川をもういちど自然に戻したり、そういうことにお金をつかったほうがいいという。
 その人は、水を吸収する砂の舗装の研究をしていて、子どもが裸足で歩ける道をどんどん作りたいと語っていた。

 そうなればいいのにとおもった。

2007/05/31

うだうだした時間

 朝五時半すぎ、そろそろ眠くなってもらわなきゃ困るのに眠くならない。
 まあ、いいかとおもっているうちに六時になる。
 午前七時には眠りにつきたいのだが、その気配がみじんもない。
 そうこうするうちに腹が減ってくる。
 腹がふくれたら、眠くなるか、それともますます目がさえてしまうか。
 ちょっとした賭けだな。

 でもメシを作るのがめんどうだ。
 コンビニでなんか買うか、駅前の立食いそばに行くか。
 ここで外出したら、また眠りから遠ざかってしまいそうだ。
 どうしたものか。

2007/05/28

猟奇王とネットカフェ

 深夜、近所の漫画喫茶に行った。雑誌をチェックしたり、コピー機(一枚二十円)したり、仕事部屋がわりに使っている。
 深夜の六時間パックだと千円くらいで泊まれるところもある。サウナやカプセルホテルより安い。
 旅先ではよく宿がわりにしていた。おそらく漫画喫茶での宿泊日数だけならひと月は軽くこえるとおもう。自慢ではないが、二十四時間営業のコインランドリーに泊まったこともある。

 テレビのドキュメンタリー番組で「ネットカフェ難民」を見たとき、川崎ゆきおの『小説猟奇王 怪奇ロマン派怪人譚』(希林館、一九九八年四月刊)をおもいだした。

『小説猟奇王』には、ファミリーレストランで三ヶ月生活している男が出てくる。男の名は、怪傑紅ガラス。紅ガラスは猟奇王のライバルである。

 紅ガラスは猟奇王と次のような会話をかわす。
「貴様を追いかけ続けていた。こんなところで出会うとはな」
「お互い場違いな場所じゃな」
「まあな……だが私はこの場所に馴染んでいる。今では生活の場だ。いや、正しくは居住者とでもいうべきか」

 紅ガラスは、三ヶ月前にビフテキを注文し、その後は水とセルフサービスのサラダでどうにか飢えをしのいでいる。

「この店は二十四時間営業で、エンドレス営業じゃ。そして私は客であり続けるわけだから、当然この席に座り続ける権利を獲得しておる。おかげで雨露もしのげるし、横になって寝ることもできる。さらに起きたあとは洗面所で歯も磨けるし、タオルで体も拭ける」
「つまり、居ついておるわけか」
「アジトと呼んでもらいたい」

 かつて紅ガラスは正義の味方だった。しかし生活に追われてそれどころではない。猟奇の帝王、猟奇王の境遇も似たようなものだ。
猟奇王はいう。
「確かにそうだ。正義だ、悪だ、と宣言して走っている余裕などない。存在しているだけで、目一杯だ。それはわかっておる。それはわかっておるが、それを肯定してしまうのはあまりにも寂しいではないか」

『小説猟奇王』が出た一九九八年ごろ、定収入になっていたPR雑誌が廃刊し、テープおこしのアルバイトで食いつないでいた。ほんとうに「存在しているだけで、目一杯」だった。
 さらに風呂なしアパートの隣の部屋にすこしヘンなおじさんが引っ越してきて、毎晩壁を蹴られたり怒鳴られたりするようになった。

 自分の生活を守るには金がいる。
 生活のたて直しのためにタバコを減らし、自炊を増やすことを決意した。本やレコードを売りまくった。
 とにかく心が休まるところに引っ越したかった。
 ちょうどそのころ友人に「どうせなら風呂付きの部屋に引っ越せば」といわれた。

「家賃が高くなるけど、その分、仕事しようって気になるよ」

 ほんとうにそうだった。風呂なしアパート住まいのときは、しょっちゅう気のむかない仕事を断っていた。しかし風呂付の部屋に引っ越してからは、そうもいかなくなった。生活を維持したいという目標が、勤労意欲につながることを知った。

 働いて、家賃を払う。働いて、メシを食う。
 いまだに月末、家賃を払うと、今月ものりきったという気分になる。

(……続く、と書いたが続かなかった。すみません)

2007/05/27

まほろばとコクテイル

 京都二泊三日、古本屋と書店をかけあしでまわり、飲みっぱなしの六十時間。途中、寝たり食ったり河原でぼうっとしたりもした。連日、晴天。最高気温は三〇度ちかくなる。

 二十二日は午後六時に六曜社で扉野良人さんと待ち合わせをしていたのだが、すこし時間があったので古本屋をまわっていたら、キクオ書店を出てちょっと歩いたところで、扉野さんとばったり会う。
 六曜社に行ってコーヒーを飲んで、細い路地の奥のほうにある店でお酒を飲んで、木屋町通りのわからん屋でオグラさんのライブを見る。
 四十一歳のオグラさんが、二十三歳の若いミュージシャンと共演する。年の差十八歳。オグラさんは彼らが生まれる前から人前で歌っていることになる。

 二十三日に京都のまほろばでオグラさんと「オルガンとフルホン」というライブと対談をした。オグラさんは「単身赴任ツアー」で五日間、飲み続けている。

 ライブはほんとうによかった……とおもう。そして「盛り上がらないトーク」とオグラさんの前ふりではじまったオグオギ対談は、オルガンの話もフルホンの話もせず、貧乏話と酒の話に終始した。マイクから離れるたびに「もっと近づかなきゃだめだよ」とオグラさんに注意される。

 オグラさんとはじめて会ったのは、高円寺の南口の神社の前の公園だった。十年くらい前か。阿波踊りのときだったか誰かの誕生日会だったかは忘れた。その後、長年のご近所付き合いを経て初共演となった。

 滞在中、扉野良人さんにはほんとうにお世話になりっぱなしだった。

 二十六日は高円寺の古本酒場コクテイルで出版記念パーティー。
 司会は石田千さん。石田さんの最初の単行本の『月と菓子パン』(晶文社)も中川六平さんが担当者だった。
 お祝いの言葉とお酒とおいしいものをたくさんいだたいて、どうしていいのかわからなくなるくらいうれしくて、ずっと酒を飲んでいた。
 
 喜びを表現するのはむずかしい。感謝の気持もそうだ。
 いろいろありがとう。
 狩野さん、おつかれさま。

 最後は午前三時くらいまで部屋飲み。楽しかったです。

 酒がすこしずつぬけて、日常がもどってくる。
 まあ、日常といっても、本を読んで酒を飲んで現実逃避ばかりしているわけだけど……。

 これから西部古書会館にいってこようとおもう。

(追記)
 六月十日(日)に古本酒場コクテイルでオグラさんといっしょに「オルガンとフルホン」(午後七時くらいから)を開催します。
 青ジャージ、800ランプ時代の曲も演奏してもらう予定なのでファンは必見です。

 詳細はまた後日。

2007/05/22

収集人生

 荻窪のささま書店に行った。いろいろ本を買ったけど、その中でも高木実の『小さな地図への旅 地図切手の世界』(旺文社文庫)がおもいのほか面白くて、名曲喫茶ミニヨンで読みふけり、家に帰ってからも熟読した。

 小学生のころ、切手ブームでわたしも当時は記念切手を集めていた。すぐ飽きた。でもとくに切手マニアではなくても、この本はたのしめるにちがいない。
 どんな小さなことでも深くほりさげていけば、おのずと広い世界に通じる。そのことを証明しているような本なのだ。

『小さな地図の旅』は、切手のなかでもさらに「地図切手」についての本である。著者は地図の描かれた切手のコレクターである。「地図切手」をテーマに一冊の本を書き上げてしまうことも驚きだが、「地図切手」から歴史から国際情勢(竹島問題や西沙・南沙諸島問題など)まで、話題は縦横無尽におよび、コレクションについて思索は、あらゆるマニアに共通する普遍性に達している。

“解放区切手”と称される中国東北地域の地図が描かれた切手がある。一九四七年九月一八日に発行された中国内戦中の中共解放区でつかわれた切手だそうだ。旧満州地図の描かれた切手は、文字通り“幻の切手”だった。世界中の切手コレクターのバイブルといえるようなアメリカのスコット社のカタログにもこの地図のことは書かれていない。
 それはなぜか。

《このスコット・カタログには、全世界のありとあらゆる切手が簡潔に解説されているが、ただアメリカの国情が反映されていて、アメリカと国交のない国々の切手は掲載されていない》

 それゆえニクソンが訪中した一九七二年の版までは、「新中国と中共解放区の切手は一枚たりとも紹介されなかった」のだという。この本が刊行(単行本は一九八一年)されたころの東西冷戦構造も、切手収集家に大きな影響を与えている。

 正直、絵はがきとかマッチラベルとか紙ものを集める人の気持がよくわからなかったのだが、コレクションへの情熱と知識が高まれば高まるほど、たった一枚の切手からでも、いろいろなことがわかることを知り、わたしは紙ものマニアにたいする考え方をあらためた。奥が深いんだ。
 よくよくかんがえてみれば、古本の収集にしても、函とかカバーとか帯があるかないかで、値段がぜんぜんちがってくる。文庫本なんかだと、カバーがないと売り物にならず、捨てられてしまうこともある。
 古書価についていえば、中身の活字よりもカバーや帯のほうが高いのではないかとおもうことがある。カバー付だと一万円以上する本が裸本だと千円くらいで売られているときがある。
 そうなってくると、古本は見かけが九割なのかもしれないとかんがえざるをえない。

《本来、収集などというものは、未完成な無限なものを、少しでも完成に近づけようと、コツコツと努力して追求し続けるプロセスそのものなのかもしれない。山あり谷ありのプロセスにじっと耐えていく持続性が不可欠であり、その追求過程を通して、思いもかけぬさまざまな体験や愉しみが派生してくるといえるのではないかと、一人心の中で独断的につぶやき続けている》(第一章 “集める”愉しみ)

 わたしもかれこれ二十年くらい古本を収集している。といって、コレクターというほどの情熱もなく、読んだ本はけっこう売ってしまう。でもあるジャンル、ある作家の本に関しては、すこしでもコレクションを完成に近づけたいというおもいはある。
『小さな地図への旅』を読んでいて、自分はまだまだだなあとおもった。
 いかに趣味への情熱の継続させるか。すでにそんなことを考えてしまうということは、その情熱は衰えつつあるということかもしれない。やみくもにあるひとつのジャンルを追いかける。でもだんだんその難易度があがり、行きづまってくる。そして停滞する。いつだってそうだ。あらゆるコレクションがそうだろう。

 コレクターの世界は、けっこう共通点が多い。
 切手コレクターは「コレクター本人の存命中、家族の者達は、自分達のものをあまり買ってくれないで、お父さんはあんな紙切ればかりにお金と時間をつぎ込んでという反撥感を、潜在的にせよ、持ち続けている」という。
 だからコレクターが亡くなると、遺族はこれまでのうっぷんを晴らすかのように「存命中の努力の結晶 」ともいえる切手コレクションを売り払ってしまう。そのおかげで「後続の切手コレクターにとっては、なかなか入手できない切手を収集するチャンス」もまわってくるのだ。
 古本も同じだなあとおもってため息が出る。

《自分がこの世との別れを告げる日まで、自分なりの何かを追求し続け、この世にいささかなりとも自己の存在証明としての足跡を残したいものだと思うのは、万人共通の願望といえないだろうか》

 その願望を実現するためには、一日二十四時間の中に「自己の関心事に対する自分一人の自由な時間を、それこそ強引にでも、割り込ませて、それを定常化させること」が必要だという。
 著者の高木実さんは、新日鉄勤務のサラリーマンで、会社勤めをしながら、ライフワークの「地図切手」収集に打ち込んでいる。

《宇宙の歴史からみれば一瞬ともいえる短い人生、この人生を自分なりに自己を完全燃焼させて悔いないものにしたいという願望だけは、哲学者に負けず劣らず私も強く抱き続けている》

 その自己の存在証明と完全燃焼の対象が著者にとっては「地図切手」なのだ。
 なんだかよくわからないが、勇気づけられる本だ。

2007/05/21

なんだかなあ

 忙しいわけでもないのに時間がほしいなあとおもう。忙しい人ならもっとそうおもうだろう。とはいえ、時間があったらなにをするのかというと、結局、ぼーっとしたり、散歩したり、掃除したりするだけだ。そういう時間がもっとほしいのだ。いくらあってもいい。

 用もなく電車に乗って、あまり知らない町の古本屋に行ってみたい。そういうことを最近あんまりしていない。どうしても神保町とか早稲田とか中央線沿線の中野駅から吉祥寺駅間とか、いちどに何軒も古本屋をまわれるところばかり行ってしまう。知らず知らずのうちに効率主義に毒されているようだ。

 知らない町の古本屋をたずねたら、その日が定休日で閉まっている。しかたなく、商店街を歩きまわって、どうってことのない喫茶店でコーヒーを飲んで、百円ショップをのぞいて、別にそこで買わなくてもいいようなものを買って帰るなんていうのも、わるくない気がする。
 帰りの電車で「なんだかなあ」とおもうのだけど、すくなくとも家でごろごろしているよりはましな一日といえるのではないか。

2007/05/20

銭湯

 疲れがたまっている気がしたので、洗面器にシャンプーと石鹸とタオルをいれて、ひさしぶりに高円寺の小杉湯(木曜定休)に行った。土曜日は変わり湯なのだが、この日はゆず湯だった。もちろんいつも通りミルク風呂もある。

 今、銭湯の値段は四三〇円だけど、わたしが上京した平成元年は二八〇円、しばらくして二九五円になった。当時は回数券を買っていた。高円寺で最初に住んだアパートも、その次に住んだアパートもなみの湯(土曜定休)と小杉湯の近くで、いずれの銭湯も深夜一時すぎに終電で帰ってきてもまだ営業しているので、ずいぶんお世話になった。
 自由業の特権をいかして平日の午後三時半に銭湯に行くと、多少いやなことがあっても、こんな時間にのんびりお湯につかれるんだったら、まあいいかなという気分になる。

 湯船につかりながら、「これからどうしようかなあ」なんてことをかんがえた。

 もちろん風呂上がりにすることといえば、酒を飲む以外ない。

2007/05/17

オルガンとフルホン

 ご近所付き合いをしている手回しオルガンミュージシャンのオグラさん(元・青ジャージ、800ランプ)がこんど名古屋、大阪、和歌山、京都で「単身赴任ツアー」というライブをやるというので、それにあわせてわたしも京都にあそびに行くことにした。

 すると左京区在住の扉野良人さんが「まほろばでも、オグラさんのライブできませんかねえ」と電話があった。「まほろば」というのは、昨年夏に高円寺の古本酒場コクテイルの常連客が大挙しておしかけた、京都なのにものすごく中央線っぽい雰囲気(トイレに阿佐ケ谷の飲み屋のポスターが貼ってあったりする)の店である。

 店ではコクテイルでライブをやったことのある薄花葉っぱのボーカルの女のコも働いている。
 この企画はぜひ実現させたいとおもい、さっそく、そのことをオグラさんにつたえると、即OKの返事。ただ「おれ、京都に知り合い全然いないだよ、ソロは無理だよお。たぶんお客こないだよ」とすこし弱気になっている。それであれこれ話しているうちに「まほろば」でわたしとトークショー&ライブという形になった。

「オルガンとフルホン」 オグオギ対談 まほろば
 5月23日(水) 
 スタートは19:30〜
 チャージは1200円
所在地  〒606-8103
     京都市左京区高野西開町15(北大路川端下ル400m) ニシキマンション1F
アクセス 京阪出町柳駅下車徒歩15分または京都バス蓼倉橋下車徒歩すぐ
電話   075-712-4191
(http://www.lilyfranky.com/reg02/index.htmlに「単身赴任ツアー」の詳報あり)

 飲み屋では何百時間しゃべったかわからないけど、人前でオグラさんと話をするのは、もちろんはじめてだ。わたしの声は小さくてかすれていて聞き取りにくいとよくいわれる。しかもあがり症だ。
 それで京都に行く前にいちど打ち合わせをしようということで昨晩コクテイルで飲んだ。
「どんな話しようか」
「今決めなくてもいいんじゃない。どうせ忘れちゃうよ」
「そうだね」
 打ち合わせ終了。
 そのあとオグラさんの未発表曲をいろいろ聴かせてもらう。おもしろくてヘン。

 そうこうするうちに、六月にコクテイルでもオグラさんとトークショー&ライブをすることになった。さらに酔っ払って、ふたりで高速バスに乗って、漫画喫茶に泊まりながら、お互いの本とCD(『オグラBOX3枚組』ミディクリエイティブ)を売り歩く全国巡業をしようかという話になったのだが、オグラさんは半分くらい本気でいっていたような気がする。

……この話のつづきは京都で。

2007/05/13

JT

 先週末、のどが赤くはれていたので風邪かなとおもい、用心して緑茶でうがいし、休み休み仕事をしていたのだけど、ふと気をぬいた瞬間、熱が出た。

 一昨日はアルバイトを休み、なんどか汗をかいたおかげで昨日はだいぶ楽になった。
 風邪をひいたら、なにはなくともリンゴジュースを買いに行き、ねぎとほうれんそうと卵の雑炊を作る。寝て起きたらすぐ食い、また寝る。たいていそれで治る。
 病人になると、気が弱くなる人もいるが、わたしは逆かもしれない。感情の抑制がうまくできず、怒りっぽくなる。そういう自分がまた腹立たしい。自分の感情をコントロールしたいという欲求がつよいのかもしれない。そうしないと、体力がもたない。しかし感情をコントロールするにも体力がいる。感情のコントロールに体力をつかうから、すぐ疲れるのかもしれない。

 風邪をひいたり、いらいらしたり、気持が沈んでいたり、疲れがたまっていたりするときに聴きたいレコードというのがある。
 アコースティックで声がやわらかくてテンポが早くない、地味なポップス。ようするに聴いているうちにちょっと眠くなるような音楽がいい。

 風邪をひくと、いつもジェームス・テイラーの「ワン・マン・ドッグ」というアルバムを聴く。効き目が薄くなると困るから、困ったときにしか聴かない。いちばん好きなミュージシャン、いちばん好きなアルバム、ふだんそういう質問をされると、なかなか即答できないのだけど、結局、自分が弱っているときに聴きたくなるミュージシャン、アルバムがそうなのかなあとおもう。

 長くつきあえる友人というのも、そういうところがある。

2007/05/08

居冷先生

 ああ、いかん、どうも心が弱まってる。きっと疲れのせいにちがいない、とおもい、なるべく余計なことをかんがえないようにする。

 低迷しているときの読書は古典にかぎる。いつもはたいていそういうときは『荘子』か『菜根譚』なのだが、たまには気分を変えて『抱朴子』(『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経 中国古典シリーズ』平凡社)を読んでみることにした。

 抱朴子(本名は葛洪。二八四−三六三)は、呉の人。序で、自分には生まれつきとびぬけた才能もなく、あくせく生きるのもいやだから、出世の道をあきらめ、貧窮の生涯に甘んじることにしたというようなことを述べている。


(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/05/07

第二回往来座「外市」

 五月五日、六日に行われた古書往来座の「外市」に参加してきた。
 初日はいい天気で午前中からたくさんの人がきていた。わたしは一箱古本市でも活躍した往来座特製の「ホンドラベース」(鯉のぼり付)を借りて古本を売る。一冊百円から三百円。
 午後一時から仕事でぬけて夜八時にふたたび往来座に戻る。

 午後九時前に向井さんに自転車を借りて、旅猫雑貨店にはじめて行った。
 萩原マリエの『ぼくのフライパン 男がつくる料理と知識』(新評社)をけん玉に成功して一割引で購入する。最近、自炊をサボり気味だったので気合をいれようかとおもって。
 雑司が谷は町並が昭和っぽくてのんびりしていてなごむ。いわゆるチェーン店もあんまりなく、小さな古い店が多くて妙に落ちつく。

 午後十時で初日の「外市」は終了。翌日の雨に備えて後片付け。大勢で本棚を移動したり、本を運んだり、文化祭みたいだった。
 帰りに古書現世の向井さん、立石書店の岡島さん、退屈君と居酒屋で軽く食事をする。ずっと働きづめの向井さんは眠りながら喋っている状態(それなのに話は妙に的確)で、店を出るとき、みんな入口とは逆にむかって歩いているのに誰も気がつかなかった。

 二日目はあいにくの雨。午前中からの活動になれてなくて頭がぼーっとしていて、東西線に乗ってしまったのに気づかず、高田馬場で山手線にのりかえて目白に行く。高円寺—目白間は本来なら百六十円で行けるのだが四百円もかかってしまった。
 この日は前の日に売れ残った本をすこしひっこめ、価値があるんだかないんだかわからないけど、探そうとおもうと苦労しそうな雑本を何冊か投入してみる。
 昼すぎいったん仕事のための家に帰る。のどが赤くなっていたので緑茶でうがいし、リポビタンDを飲んですこし横になる。体力のなさがうらめしい。夕方五時の撤収作業までにはなんとか回復する。

 売り上げは五十二冊で一万千百円。出店費の五百円をひいて一万六百円。このお金は大切につかいたい。
 この日も池袋で打ち上げ。翌日、午前中しめきりの原稿をかかえていたのでウイスキーの水割三杯までと決めていたのだが、たぶん、五杯くらい飲んだような。でも水割は『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)の塩山さん曰く「酒をスポイトでたらしたような薄さ」だったので、まったく酔わず。
 池袋駅から代々木駅まで行ってホームの階段を上り下りせずに総武線に乗り換える『ダンドリくん』(泉昌之)方式で帰る。新宿で乗り換えるより楽だし、席に座れる確率もはるかに高い。

 朝、なんとか仕事をかたづける。
 この二日間、まったく本を読まなかった。
 とはいえ、よく考えてみれば、ずっと古本屋にいて何万冊の本の背表紙を見続けていたわけだから、読んだ文字の量はそうとうなものになるのだが。

2007/05/05

阿佐ケ谷にて

 阿佐ケ谷でちょっとした会合があり、部屋でごろごろしていたらたぶん寝てしまうとおもい、午後一時半ごろ、家を出る。天気もよく、半袖の人がけっこういた。わたしは長そでのシャツにジャケットを着ていて、町中でひとり季節にとりのこされていた。
 風船舎に行くと、若い店長さんに阿佐ケ谷でパラフィン紙を安く売っている文房具を紹介してもらった。近所の文房具屋のパラフィン紙が十五円から三十円になったという話(「パラフィン」/『古本暮らし』)を読んで教えてくれたのだ。

 風船舎は、阿佐ケ谷の一番街という、けっしておしゃれとはいえない飲み屋街にあるのだが、店内もきれいで本の趣味も洗練されている。そんなお店で一枚十五円のパラフィン紙の話をして、「阿佐ケ谷のどこでごはんを食べますか」と聞かれたので、「ええと、南口だとはなまるうどん、北口だとなか卯です」と答えてしまい、人生の先輩(年齢だけ)として、これでいいのかと考えこんでしまった。でも店長さんは「ぼくもはなまるうどん行きますよ」といってくれたので親近感をおぼえた。

 菊地康雄の『青い階段をのぼる詩人たち 現代詩の胎動期』(青銅社、一九六五年)という本を買った。大正期のアナキスト詩人についてかなり頁をさいていて、知らない詩人がいっぱい出てくる。

 店を出て、文房具屋の場所をたしかめて(棚に「パラピン」と書いてあった)、こんどは北口を散歩する。
 ひさしぶりに阿佐ケ谷の名曲喫茶に行こうとおもったのだが、入口にオーディオ機器に影響を与えるため一部を禁煙にうんぬんという貼り紙があったのを見て引き返す。
 結局、喫茶プチに入る。ひょっとしたら外食費よりも喫茶店代のほうが高い生活を送っているかもしれない。
 かんがえようによっては貴族みたいだ。

 そうこうしているうちに午後四時前になったので、待ち合わせ場所の朝の五時まで営業しているそば屋に向かう。
 ちょうど岡崎武志さんと川本三郎さんが並んで入ろうとしているところだった。
 最初は熱燗を飲んでいたのだが、店員さんがまちがえてもってきた冷を「それ、飲みます」といって飲んで、店を出たとたん酔いがまわる。
 川本さんにいわれた「吉行淳之介や色川武大を古本で読む世代なんだねえ」という言葉が印象に残った。川本さんに「阿佐ケ谷だと、どこでゴハンを食べますか?」と質問したかったのだが、いいそびれてしまった。

2007/05/03

古谷サロン

 昨日は昼すぎに仕事に出かけるつもりが、起きたら不覚にも午後四時半だった。いつの間に寝てしまったのかそれすらもさだかではない。午後三時ごろに書肆アクセスに行くつもりだったのに着いたのは午後六時だった。午後七時ごろには帰宅しているはずだったのに高円寺に着いたのは午後九時すぎであった。
 これでは予定が立てられない。人と約束ができない。
 目覚まし時計をセットすればいいだけの話なのだが、どういうわけかそれができない。
 性格はどちらかというと几帳面なほうだとおもう。ところが、からだがいうことをきいてくれない。その結果、どうしようもなくルーズな人間になってしまうわけだ。
 しょうがないやつだなあとあたたかくみまもってくれる人間関係を頼りに生きてゆくしかない。そのかわり、わたしも他人の遅刻には寛容になろうとおもう。

 いろいろ反省した後、先日、古書往来座で買った古谷綱武著『弱さを生きる 希望を見失ない絶望したとき』(大和書房、一九七〇年五月)という本を読むことにした。
 カバー扉には「人間の弱さをはね返す知性と勇気!! 無力・苦悩とたたかう心得」と書いてある。
 今の気分にぴったりの本かもしれない。でもそんなつもり買ったわけではない。
 この本の「忘れられない友人」という章には、太宰治、中原中也、川端康成、大岡昇平といった作家が出てくる。

《二回目の同人会は、私の家でひらかれたが、その席で私は、太宰という男をはじめて見た。終始ほとんど口をきかないですわっていたが、和服すがたのきちんとした身なりをしていて、貴公子然とした印象が、きわだっていた。そして『海豹』の創刊号に発表されたのが、和紙二百字原稿用紙にきれいな毛筆の字で書いてい「魚服記」である。つづいて第二号から第四号まで三回にわたって「思い出」が連載された。これは四〇〇字詰原稿用紙にペン字で、しかしたたずまいのきちんとした文字の原稿だった。そういえば、太宰の毛筆の原稿は、その後も私は見たこともないし、「魚服記」は、はじめて出す原稿ではあり、大いに気どっていたのかもしれない。太宰にはそういうところがあった》(「太宰治との出会い」)

 さらに昭和三年に旧制成城高校文科の同級生だった大岡昇平の紹介で中原中也と知りあう。当然、小林秀雄とも会っている。
 その後、中原中也、小林秀雄と長谷川泰子が三角関係におちいり、いろいろあって、小林秀雄が家出をしたとき、古谷綱武は「ぼくも、小林捜しに東京の街をあるかせられた」という。

《小林を失った泰子は、東中野に住んでいたぼくの家のすぐ近くに、ひとりで下宿するようになって、小林の書きほぐしの原稿やメモのはいったカバン一つを、唯一の財産かのようにしていた。逃げ出した小林のことが忘れられなかったのであろう。一時は、一日に一度か二度はぼくの家にきて食事をしていたほど、時間をもてあますゆき所のない女になっていたのである》

 そのころ中原中也は、泰子がふたたび自分のもとに帰ってくるのではないかと期待していた。
 しかし、泰子は「中原をおそれ避けるようにさえしていた」とのこと。

《そのふたりが偶然ぼくの家で出会ってしまって、取っ組み合いの大げんかになったこともある》(「中原中也のこと」)

 こんな話が『弱さを生きる』という題名の本に書かれているとは、ちょっと意表をつかれた。大和書房の銀河選書はあなどれない。

 もう一冊、往来座で買った古谷綱武の『自分自身を生きる 日日を美しく生きるために』(大和書房)も今の仕事の上でたいへん参考になる話が書いてあった。

《本をよんでいると、ふと、ひらめきのように、自分にとってのある新しい考えが、心にわきおこってくることがある。読書は、心の活動に、そういうしげきをあたえてくれるものである。
 ぼくはそういうときには、本をおいてすぐに、そのひらめいてきたことをメモしておくことにしている。それは貴重なものなのに、一瞬に心をよぎっていって、あとになると、もう思いだせなくなっていることが多いからである。しかもそのひらめいてきたことのなかには、あとでよくかみしめてみるべき、自分をそだててくれる栄養がひそんでいることを、けいけんで痛感してきているからである。書評文でも、そのふとひらめいてきたことを書きこまれている文章には、お座なりでない、個性的な生気が光っているようにぼくはおもえる》(「読書その感想」)

 書評の仕事をしている身としては、たいへん有意義な意見だ。たしかに、自分の納得できるものが書けたとおもうときは、なにかしら、ひらめきのようなものがあったときのような気がする。
 ちょっとちがうけど、書店で本を見ているときも、中身はわからなくてもピンとくるものがあって手にとった本は、けっこうおもしろいことが多い。本棚の前を通りすぎようとすると、本に呼びとめられて、なぜだかわからないが、手にとらされてしまう。

 今回の古谷綱武の本はまさにそうだった。

2007/05/02

世界のわめぞ

 昨日もあいかわらずの昼起き、小雨がふっている。傘をさして都丸書房に行って、OKストアで買い物して、卵ピラフを食ったらまた眠くなる。
 午後六時すぎ、岡崎武志さんからの電話で起きる。
「ひょっとして寝てた?」
「あの、ちょっとだけ、うとうとと」
 目がさめたので、散歩に出かけ、今日はひまだなあとおもっていたら、古書往来座に行く用をおもいだした。
 もう五月だったんだ。
 家に帰って、これから向いますと古書現世の向井さんに電話し、電車に乗る。
 往来座につくと、向井さん、旅猫さん、リコシェさんも来ている。往来座の瀬戸さんから『詩人会議 増刊号 黒田三郎』(一九八九年二月臨時増刊号)をプレゼントしてもらう。写真がいっぱい。黒田三郎の手紙や講演録も付いている。これはうれしい。おお、天野忠のエッセイまで収録されている。すごい。

 往来座の外の均一棚から三冊、あと店内で阿佐ケ谷将棋会のメンバーでもある古谷綱武のエッセイ集(自己啓発本?)『自分自身の人生 日日を美しく生きるために』(大和書房)、『弱さを生きる 希望を見失ない絶望したときに』(大和書房)を買う。

 浅見淵の『昭和文壇側面史』(講談社文芸文庫)によると、浅見淵も(古谷氏と)「一時期、たいへん親しいつきあい」をしていて、尾崎一雄も下落合の古谷綱武の家の近所に引っ越し、「毎日行き来するように」なり、さらに丹羽文雄、壇一雄、中村地平、太宰治、木山捷平とも交流があったそうだ。

《古谷君は鷹揚で話好き客好きなところへ、生まれつき好奇心の強い感激家で、また、理解力も鋭敏で、ことに才能のある文筆の士を敬愛していたから、終始だれかれが出入りしてサロンのような趣きを呈していた。揚句の果ては、古谷君に生活的余裕があったので、賑やかな酒宴となった。いまから考えると、みんなの憩いの場となっていたわけで、それによってみんなはいかに力づけられたことか》(「古谷サロン」/『昭和文壇側面史』)

 今年の正月に京都に行ったとき、扉野良人さんとも、戦前の下落合、中野はおもしろそうだな、という話をしていたのだ。村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らの「Mavo(マヴォ)」のメンバーも下落合で飲んでたし……。もうすこし生活が落ちついたら、このあたりのことを調べてみたいとおもう。

 話がそれたけど、古書往来座で『古本暮らし』(晶文社)にサインをしてきた。識語も十種類くらい。ぜんぶおもいつき。最後の一冊は、机の上に合った日本酒のラベルを見てそのまま書いた。
「アルコール分15度以上」
 わたしはとても気にいっているのだけど、まわりの反応はあまりよくなかった。不安。
 でも往来座の奥の机は、居心地よかった。

 そのあと手羽先で有名な「世界の山ちゃん」に行く。新宿にあるのは知っていたが、池袋にもあったんだ。一九八八年ごろ、名古屋の予備校に通っていたときに、今池店にちょくちょく行ってた。十九年ぶり。
 山崎一杯四百円、安っ。でも酔っぱって味わからず。
 向井さんと「世界の山ちゃん」に対抗して「世界のわめぞ」案をかんがえる。
 いやあ、食った、飲んだ。
 そして家に帰ってすぐ寝る。
 昨日から今日にかけて二十時間くらい寝た計算になる。

2007/04/30

第4回一箱古本市

 日曜日、昼起きて西部古書会館の古書展を見たあと(つい習性で……)、不忍ブックストリートの一箱古本市に行ってきた。天気もいいし、人もたくさん来ている。
「谷根千」(谷中・根津・千駄木)は、ふつうに町歩きするだけでも楽しい。
 出発はオヨヨ書林。景気づけに退屈文庫で久保田二郎の『ニューヨーク大散歩』(新潮文庫)を一冊。

 地図を見ながら歩いていると、次々と知りあいに声をかけられる。
「あ、こんにちは」
「どこがおもしろかったですか」
「なにかいい本、買えましたか」
 一箱古本市のようなイベントのおかげで、ほんとうにいろいろな人に会って話ができるようになった。それまでは古本祭に行っても、人とぶつかりながらひたすら古本を買うみたいなかんじだったからなあ。
 にぎやかでなごやかな新しい「古本文化」が誕生しているとおもった。

 喫茶「乱歩゜」に向かっていると、古書現世の向井さんと会い、「晶文社の宮里さんと退屈くんがいますよ」と教えてもらう。乱歩前では「森茉莉かい堂」さんで大岡昇平の『ゴルフ 酒 旅』(番町書房)を買わせていただく。

 そのあと「乱歩゜」で宮里さんと退屈くんと退屈くんの友だちと休憩していると、往来堂書店で『古本暮らし』(晶文社)を売っているのでサインをしてきてほしいと頼まれる。
 ハイ、よろこんで。
 とはいえ、人前で小学校高学年くらいのときに進歩が止まってしまった字を書くのはとても恥ずかしい。
 サインをすませ、店長に挨拶して逃げるように退散。途中、古本カフェ「BOUSINGOT」を見てから、古書ほうろうにむかう。あんまり荷物が重くなると困るなあとおもい、ブレーキをかけながら本を買っていたのだけど、古書ほうろうの前でスイッチがはいってしまい、「しのばずくんトート」の助けを借りる状態に。

 ほうろうの店内で古本を見ていたら古書往来座の瀬戸さんに会う。
「いい店だねえ」
 とわたしがいうと、
「ほんと、なんか小股がきゅっとするかんじですよね」と瀬戸さん。
 ですよねといわれても、わけがわからん。

 ほうろうでは、大木實の詩集『故郷』(櫻井書店)を買う。初版ではなく三版。序文は高村光太郎。後記には、尾崎一雄の名前も出てくる。

《いちどでいい
 聲をあげてこころから笑つてみたい
 
 それだけである
 それだけのことが私を悲しくする》( 願い )

 店を出て、ふらふら歩いていたら、書肆アクセスの畠中さん(すでに酔っ払っている)と会い、いっしょに「貸はらっぱ音地」に行く。
 お酒も売っているし、高野ひろしさんの写真展もやっているし、包丁とぎもやっているし、古書往来座の一箱はとんでもないことになっているし……。
 ここだけで月一回くらい小さなお祭りをやってもいいんじゃないかとおもうくらいよかった。
 あまりにも居心地がよくて完全にくつろいでしまう。
 おかげでほとんどの会場をまわることができず。計画性なし。

 午後六時からの打ち上げまですこし時間があったので、根津神社にふらっと行ってみたら縁日をやっていた。タコ焼きを買って、神社内の露店を見ていると、橋幸夫(と若草児童合唱団)の『子連れ狼/刺客道』(ビクター)のシングルレコードがあるではないか。値段は四百円。おもわず、手にとり、小島剛夕の描いたジャケットに見とれていたら、店のおじさんが「二百円でいいよ」という。もちろん買う。
「しとしとぴっちゃん・しとぴっちゃん・しとぴっちゃん」で有名な曲(作詞・小池一雄)だけど、二番のでだしは「ひょうひょうしゅるる・ひょうしゅるる・ひょうしゅるる」で、三番は「ぱきぱきぴきんこ・ぱきぴんこ・ぱきぴんこ」って知ってた?
 ちなみに「ぱきぴんこ」は、霜をふむ音である。

 根津神社から不忍通りふれあい館に向かって歩いていくと、「大阪の狆」あらため「高円寺の狆」こと前田青年が「今、仕事終わって来たところなんですよお」とかけよってくる。
 自分があまりしらない町の路上でこんなに知人に会うのはおもしろい。
 前田君といっしょに会場にはいり、各賞の受賞を見る。
 会場を出て、売り上げ点数二位の「犀は投げられた!」のメンバーと小宴会をする。
「わたしも売り上げ点数二位になったことあるんですよ。第1回の一箱古本市で」
「店の名前は何だったんですか?」
「……文壇高円寺です」

 さあ、次は「外市」だ。

 わたしも「わめぞ」(早稲田、目白、雑司が谷)の第二回外市の一箱ゲストとして参加することになりました。

「外、行く?」 第2回 古書往来座外市 〜軒下の小さな古本祭〜
日時:5月5日(土)〜6日(土) 雨天決行!
初日 5日 11:00〜22:00
二日目6日 11:00〜17:00(往来座は22:00まで営業)

場所:古書往来座
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3丁目8-1ニックハイム南池袋1階 古書 往来座
電話番号:03-5951-3939(電送番号同)

 会場では『古本暮らし』のサイン本も発売する予定です。

2007/04/28

古本暮らしのこと

 単行本『古本暮らし』(晶文社、一七〇〇円+税)が出ました。
 はじめての単行本です。

 晶文社ワンダーランドに「散歩は古本屋巡礼」(「出版ダイジェスト」(二〇〇七年五月一日号)の「散歩は古本屋巡礼」をもとに改稿)というエッセイが掲載されました。
          *
「神保町ライター」という言葉がありますが、どちらかというと、わたしは中央線沿線の古本屋ばかりまわっているフリーライターです。

 このたび『古本暮らし』(晶文社)と題する本を書きました。古本屋通いをはじめたのは高校時代、最初は大正アナキズムに興味を持つようになったのですが、そうすると新刊書店ではなかなかそのての本が売っていないので、どうしても古本屋に行くしかなく、しかも当時、三重県の田舎に住んでいたため、電車に乗って、名古屋や大阪や京都の古本屋に行ってました。

 十九歳で上京後、『評伝辻潤』などの著作で知られる玉川信明さんと知り合い、アナキズムから辻潤、辻潤から吉行エイスケ、さらにその息子の吉行淳之介、それから第三の新人や同世代の「荒地」の詩人といったかんじで詩や文学に興味がひろがっていって、だんだん古本屋通いも本格化し、気がついたときにはかなり重度の活字中毒になっていました。

 上京してしばらくして高円寺に住むようになったのですが、この界隈だけでも二十件以上の古本屋や古本を売っている飲み屋、古着屋、古道具屋、レンタルビデオ屋があり、さらに西部古書会館で月に三回くらい古書展が開催されていて、中央線沿線の中野駅から吉祥寺駅のあいだに百軒以上の古本屋があり、そのあたりを毎日のように巡回しています。もちろん神保町、早稲田の古本街、京都、大阪の古本祭にも行きます。年間三百六十日くらい古本屋に通っているかもしれません。仕事中も古本のことばかり考えています。

 二十代はずっと食うや食わずの生活で、原稿の発表場所は、ミニコミや同人誌、小出版社の雑誌が中心だったので、年収百万円をきることもよくありました。こんなに食えないのによくやめなかったとおもいます。

 そんな自分の人生の転機になったのは、高円寺のある飲み屋で知り合った岡崎武志さんに『sumus』という京都で発行していた書物同人誌にさそっていただいたことです。そのことがきっかけで、古本や文学のことを書くようになり、四年前に『sumus』に発表したエッセイを林哲夫さんに『借家と古本』(スムース文庫)という小冊子にまとめてもらいました。
 この冊子はすぐ完売し、しばらく品切になっていたところ、こんどは高円寺の古本酒場コクテイルの狩野俊さんがぜひ復刻したいといってくれて、昨年秋に増補版が出ています。

 そうこうするうちに、今回の『古本暮らし』の単行本の話が決まりました。編集者は中川六平さん。中川さんは、坪内祐三著『ストリートワイズ』、高橋徹著『古本屋月の輪書林』、内堀弘著『石神井書林日録』、田村治芳著『彷書月刊編集長』、石田千著『月と菓子パン』(いずれも晶文社)などを手がけた名(迷?)編集者ですが、そんな中川さんに最初の単行本を作ってもらえたことは、ほんとうにうれしくおもっています。

 もともと中川さんとも十数年前に高円寺の飲み屋で知り合いました。数年前に「編集の仕事を手伝ってくれよお」という電話があって、飲むことになって、いろいろ話をしているうちに、中川さんが新人の本が作りたいというので「じゃあ、わたしの本はどうですか」というような流れで出来たのがこの本です(くわしくはあとがきを読んでください)。

 装丁は間村俊一さん、装画は『sumus』の林哲夫さんにお願いしました。ふたりは大西巨人の『神聖喜劇』(光文社文庫)などを手がけ、わたしの「古本道」の大先輩にもあたります。

『古本暮らし』を簡単に説明すると、高円寺在住のひまな中年男が町を散歩して古本を買ったり、部屋の掃除をしたり、自炊したり、酒を飲んだりしている日常をつづったエッセイ集です。
 天野忠、鮎川信夫、色川武大、梅崎春生、尾崎一雄、神吉拓郎、小島政二郎、十一谷義三郎、辻潤、西山勇太郎、庄司(金子)きみ、古山高麗雄、山田稔、吉行淳之介といった詩人や作家も登場します。

 当り前のことですが、本を買えば、本が増えます。部屋の壁はすべて本、床も本、そして台所や玄関、トイレにも本……。

 さらに本を買うとお金がかかります。本を買うために仕事をすれば、本を探す時間と読む時間がなくなります。
 古本マニアにとっての永遠の葛藤といえるでしょう。わたしもまたひまさえあれば、生活と仕事の両立、読書と仕事の両立についてかんがえてばかりいて、そんなことを考えているあいだに仕事をするか、本を読めばいいのにとおもうこともよくあります。

 本を買うために、上京以来、髪もずっと自分で切り、外食もほとんどせず、服もめったに買っていません。いまだに携帯電話もなく、車の免許もクレジットカードもありません。

 長年そういう生活をしているおかげで、倹約の知恵と家事のノウハウだけでは身につけることができました。
 洋服ダンスは、いつも二、三割空けておくのが理想とよく整理術の本に書いてありますが、同様に、本棚もいつも余裕のある状態にしておけば、本もすぐ見つかるし、気持よく本が買えます。しかしそれがおもいのほか困難であることは、本好きにとってはいうまでもない悩みです。
 おもいきった処置が必要なのはわかっているのですが、おもいきるための心の準備はなかなかできないのです。

《本も売ったり買ったりしているうちに、自分がほんとうに必要とする本がわかってくるのかもしれない。でもそれがわからないうちは手あたりしだいに買うしかない。
 なにを残し、なにを売るか。バランスをとるのがいいのか。偏ったほうがいいのか。ひとつのテーマを追いかけるのがいいのか。なんにでも対処できるように懐を深くかまえていたほうがいいのか。
 なにかしらの制約を自分で決めないときりがない。
 向き不向き、要不要。その見極めはとてもむずかしい》(「要不要」/『古本暮らし』に所収)

 限られたお金と時間と本の置き場所をどう有効に活用するかということは本好きにとっての切実なテーマです。
 わたしは、本を読むことによって、知識を増やすだけでなく、自分の考えを深めたり、感覚を鍛えたりしたい。そういう意味では『古本暮らし』は、自分中心の読書のすすめになっているかなとおもいます。

 とはいえ、毎日古本屋に通っていると、読書にたいする飢餓感がうすれてきますし、いろいろな本を読んでいるうちに、それなりに目が肥えてしまって、なかなか自分を満足させる本を見つけることがむずかしくなります。
 好きな作家の本をたいてい読みつくし、未読のものはあと残りわずか。その残りわずかの本は、当然、入手難ということになります。読書家ならかならず経験する、そうした低迷、停滞をどう乗りこえるか、もしくはやりすごせばいいのかということもこの本のテーマになっています。
 あと、どうすれば古本屋に高く本を売ることができるかという長年の経験をふまえたコツのようなものもいろいろ書いたつもりです。