2006/10/23

低人雜記

 やっと秋の花粉症がぬけたとおもって調子にのって毎晩飲んでいたら、風邪をひいてしまう。またまたいろいろ不義理をしてしまう。

 布団の中で『石神井書林古書目録』の「モダニズムの詩1/マヴォの周辺・アナプロ他」の頁を読みながら長考する。
 
 西山勇太郎著『低人雑記』(無風帯社、昭和十四年七月刊)が出ているからである。
 序文は辻潤が書いている。辻潤がらみの本を追いかけると、ほんとうに破産しかねないので、いつも強めにブレーキを踏んでいるのだが、これはほしい。百円均一の文庫本が五百冊くらい買える値段だ。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/20

安吾百歳

 昼間から酒が飲みたくなるが、ぐっとこらえる。これだけはガマンしている。
 二十代半ばのとき、自由業者の友人と将来のことを話していたとき、「昼から酒を飲むのだけはやめよう」という結論になった。
 そのころ近所の公園でいつも昼から酒を飲んでいたのである。
 やっぱり自制心と向上心だ。
 規則正しく、ちゃんとした生活をしたい。自分のコンディションをつねにととのえ、仕事以外の時間はひたすら勉強するような暮らしにあこがれる。
 そこで問題になるのは、勉強とはなにかということである。
 たとえば、本を読むことは勉強になるのか?
 本を読んでいると、勉強しているような気になるが、ひたすら現実逃避しているともいえる。

 仕事で昔のことをやるなら、「なぜ今○○なのか?」ということをはったりでもいいから、説得する必要がある。
 でも「なぜ今?」といっても、今がいやだから、古本や中古レコードが好きだったりするわけですよ。
 もちろん、生誕百年、没後百年といった区切りの年をつかう手はある。

 今日二〇〇六年の十月二十日は、坂口安吾の生誕百年である。
 あと竹中英太郎も十二月十八日が生誕百年である。
 すっかり忘れていたが、吉行エイスケも生誕百年だった(五月十日)。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/15

囲碁随筆

 古本屋めぐりの醍醐味のひとつは、なんとていっても「掘りだしもの」を見つけることだろう。
 ほぼ毎日古本屋をのぞいているが、手にとった瞬間、「おお、これは」と感激にふるえるような本にはなかなかお目にかかれない。日ごろの善行が足りないのかもしれない。

 先日、神保町をふらふら歩いていて、いつものようにぶらじるでお茶を飲もうとおもい、その前に三冊五百円の均一コーナーを見ていたら、ひさしぶりに「おお、これは」という本があった。

 榊山潤編『囲碁随筆 碁苦楽』(南北社、昭和三十七年十月)である。
 わたしは碁将棋の随筆には目がない。碁のルールもわからないのに囲碁随筆が好きなのだ。
『碁苦楽』は、榊山潤編『囲碁随筆 碁がたき』(南北社、昭和三十五年十二月)の続編である。『碁がたき』はすでに入手していたが、『碁苦楽』のほうは、はじめて見た。

 執筆者は、徳川夢声、梅崎春生、大岡昇平、江崎誠致、小沼丹、高木彬光、近藤啓太郎、小田嶽夫、尾崎一雄といったそうそうたる顔ぶれである。
 かつての文壇は、囲碁、将棋がとても盛んだった。しかも、碁将棋をめぐって、おとなげないケンカをしていたりして、とてもおもしろい。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)

2006/10/10

受け身の生活

 二十八歳のときだった。
 ある日、近所の喫茶店でハンバーグランチを注文した。子供のころから、ハンバークが好きだった。
 しかし食後、胃がもたれた。半日くらいむかむかした。
 その日以来、ハンバーグだけでなく、トンカツや天ぷらも、体調がよくないと受けつけなくなってしまった。
 しだいにこってりしたものより、あっさりしたものを好むようになった。

 こうした味覚の変化は、まず音楽の趣味にも影響をおよぼしはじめた。
 ロックをあまり聴かなくなった。熱唱するボーカルがだめになった。アコースティック系のポップスばかり聴くようになった。
 ドン・クーパー、ピーター・アレン、ジェイムス・テイラー。だいたい一九七一年から一九七三年くらいに集中している。たまにロックのCDも買うが、いわゆるソフトロックとよばれるジャンルに偏っている。手当たりしだいに聴いて、だんだん同じものばかり聴くようになって、以前とくらべて、レコード、CDを買わなくなった。

 二十代の終わりごろ、読書の趣味も変わった。「淡々とした」とか「飄々とした」とか形容されるような作風を好むようになった。
 尾崎一雄にはじまり、木山捷平や小沼丹を経て、梅崎春生を読み、そのあたりで足が止まった。気がつくと再読ばかりしている。

 ほぼ毎日、古本屋か中古レコード屋をまわる。本ばかり買う時期、レコードばかり買う時期が、交互にやってくる。
 低迷期を経て、しばらくすると、また琴線にふれるものがあらわれる。

 三十代以降、自分のアンテナというかセンサーだけでは、すぐ行き詰まってしまうので、友だちがすすめるものを読んだり、聴いたりすることが多くなった。
「あれ、けっこうおもしろかったよ」
「じゃあ、読んでみようかな」
 最近教えてもらったのは、コーリイ・フォードの『わたしを見かけませんでしたか?』(浅倉久志訳、ハヤカワepi文庫)という本。ユーモア・スケッチの第一人者だそうだが、海外文学にうといわたしはまったく知らなかった。

 デパートやレストランでなかなか店員に気づいてもらえない。タクシーも止まってくれない。

《ひょっとすると、わたしは存在しないのかもしれない。ここにさえいないのかもしれない。わたしは紹介された相手が、つぎに会ったときにわたしをおぼえていたためしがない》(「わたしを見かけませんでしたか?」)

 かなり好きなタイプの作品だ。
 こちらの趣味のツボのようなものを心得ている友人がいるとたのもしい。
 映画に関しては、主体性を捨てた。二十代のころから人にすすめられた作品をビデオで借りて観る生活をしている。

 それでもときどき、三ヶ月にいちどくらいハンバーグを食いたくなる。挑戦という気持もなくはない。もう若くないという現実を受け容れるのには時間がかかる。

2006/10/03

三十五歳定年説

 菊池寛は編集者は三十五歳(三十歳だったかも?)で定年といっていた。きびしい意見である。
 自分をかえりみると、新しいものにたいする反射神経は鈍ってきたなとおもったのは三十歳前後だった。

 CDの新譜を買う枚数があきらかに減った。もともと中古レコードが好きだったということを差し引いても、新しいものがわからなくなった。お金をつかわなくなった。

 自分の年齢プラスマイナス十歳くらいの考え方、感覚はなんとかわかる。ただプラスマイナス二十歳がわかる人というのはすくない。本人はわかっているつもりでも、ズレている。
 三十五歳は、四十五歳と二十五歳の感覚はなんとなくわかる。でも十八歳、二十歳の感覚となると、ちょっとあやしくなってくる。
 年輩の人で話しかけやすい人と話しかけにくい人がいる。自分の父親と同じくらいの年齢なのに、いっしょになってふざけたり、冗談がいえたりする人がいて、そういう人はちょっとすごいなあとおもう。貫録はまったくないんだけど、特殊な能力だとおもう。

(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)