2006/09/22

われ関せず

 最近は調子のいいときしか人と会わないよう心がけているので、外ではわりと元気なすがたを見せている(……とおもう)。
 でも基本は不安定である。天候にも左右される。とくに台風がだめだ。気温の変化にも弱い。
 日常生活においても「疲れをとる」「ストレスをやわらげる」ということの優先順位は高い。仕事よりも上にくる。

 人間社会というものは、たいてい弱い人、あるいは弱い立場にしわよせがいくようになっている。そのことに弱者は文句をいう権利がある。ただ文句をいうことによって、余計こじれてしまうこともある。
 だからなるべく社会のかたすみでひっそり生きてゆくのもひとつの手だろう。負け犬の発想といわれたら、そのとおりだとおもうが、自分の心を消耗させるようないざこざからは「距離をとる」という選択はあってもいい。

「そんな腰くだけの発想では、世の中はよくならない」という人は、なぜ自分はそういう弱腰で弱気な人を見ると、意見したくなるのかいちどよくかんがえてみてほしい。
 無意識の闘争本能が(自分の勝てそうな、言い負かせそうな)弱者に向かっているだけではないのか? あるいは弱い人の平穏な生活をかんがえず、ひたすら自分の意見を押しつけたいという気持はないだろうか?

 わたしも他人の生き方を干渉してしまうことがある。
「なにがしたいのか?」
「それでいいのか?」
「そのやりかたはおかしい」
 ついつい、そういうことをいってしまう。いわれたほうは「余計なお世話だ、ほっといてくれ」とおもう。自分がいわれたら、やっぱりそうおもう。
 そういうことをいろいろかんがえると、他人とどう関わればいいのかわからなくなる。

 ひたすら専守防衛でいこうと決めたこともある。自分からはいっさい他人を批判しない。ただし批判されたら、そのときは倍にしてやりかえす。でも倍にしてというのがよくなかった。たいてい泥沼になる。
 批判を受け流すという技もおぼえた。しかし受け流されたほうは、不満がのこるから、どうしてもそのあと関係がぎくしゃくしてしまう。
 どうすればいいのか?

 吉行淳之介に「追悼・立原正秋」というエッセイがある(山本容朗編『吉行淳之介 人間教室』実業之日本社ほか)。
 かつて『風景』という月刊の小冊子を主宰していた舟橋聖一と立原正秋がケンカしたことがある。立原正秋は『男性的人生論』(角川文庫)という著書で当時の文壇のドンであった舟橋聖一をはげしく批判、当然、舟橋氏は怒り、あちこちで立原氏を罵った(さっきまで、変換ミスで「立原氏」が「立腹氏」になっていた)。
 吉行淳之介は『風景』の編集長をしていたとき、立原正秋に原稿を依頼したことがあった。また舟橋聖一と亡父の吉行エイスケは親しい友人だった。つまりふたりのあいだで「板挟み」状態だった。

《私としては、立原の舌鋒にもいささか行きすぎを感じたし、舟橋さんにも言われるだけのところはあるとおもったので、「われ関せず」の態度をしていた。いや、むしろ編集会議においても、立原の名前を避けずに出していた。舟橋さんの死で『風景』は解散し、結局立原は『風景』と絶縁のまま終ったが、おわりの頃には舟橋さんは立原の話題にたいしても、厭な顔はしなくなっていた。もう少し時間があれば、和解が成立していたとおもう。
 このときの問題処理において、立原は私の態度を評価してくれたようだ》

 この吉行淳之介の態度を「したたか」と受けとる人もいるかもしれない。でも平然としているようで、内心とても困っていたのではないかとおもう。
 また「われ関せず」が、かならずしもうまくいくとはかぎらない。こればかりはケースバイケースなので、場数をふまないとわからない。舟橋対立原のケンカは、文士どうしの対等のケンカだった。どちらかいっぽうが反論できないような立場の人であった場合は、「見て見ぬふり」は後味がわるい。
 ただし、ヘタに気の弱い人があいだにはいると、どちらにもいい顔してしまい、どちらからも恨まれることになりがちなので、そういう人は「われ関せず」をとおしたほうがいいとおもう。

 いっぽう吉行淳之介の「追悼・舟橋聖一」では、舟橋氏のことを「大きな駄々っ子という感じ」と書いている。「大きな駄々っ子」という言葉には、困ったなあという気持もあるのだろうが、困りつつもおもしろがっているかんじがする。

 わたしは就職経験もなく、まわりの同業者や友人関係も「大きな駄々っ子」ばかりである。ようするに社会人としては「困ったやつ」が多い。だからトラブルも多い。どこかそういうことを楽しめないとやっていけない。
 無理難題をふっかけられて困ったとき、「大きな駄々っ子」という言葉をおもいうかべると、「しかたないか」という気持になる。
 
 疲れとストレスの話をするつもりが、脱線してしまった。
 人付き合いの悩みはつきない。たいていそれは疲れとストレスの元になる。それでしばらく距離をとると、そのうち元気になって、人恋しくなってくる。すると、また人付き合いのことで悩む。

 そのくりかえしで進歩なし。不徳のいたすところである。