2017/09/22

インタビューと座談会

 朝日新聞のウェブ版「&30」で「働かない、訳でもない。文筆家・荻原魚雷が高円寺で実践する『半隠居』のほんとうのところ」というインタビュー(文・金井悟)をしていただきました。
 隠居願望はあるけど、働かないと食っていけない――というニュアンスを絶妙にまとめてもらったとおもっています。『閑な読書人』(晶文社)に収録したものの、ほとんど反響がなかった隠居エッセイに着目してもらえたのも嬉しかった。
 仕事に限った話ではないが、何事も個人差というものがあって、人によって「できる範囲」はちがう。このインタビューで喋った「半隠居」は、あくまでもわたしの理想であって、正しい生き方とは考えていません。甲斐性なしであることは自覚しています。
 フリーランスの仕事も楽ではない。仕事をしすぎて生活が荒んだり、からだを壊したりしたら元も子もない。だから、なるべく自分のペースで働きたいというのが本音なのだが、そうすると貧乏になる。もっと働くか、お金をつかわない工夫をするか。わたしは後者を選択した。今の生活だっていつまで続けられるかわからない。
 
http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2017092037371.html


 それから『屋上野球』Vol.3の「特集 野球はラジオで」の「野球をラジオで聴くのが大好きだ!」という座談会(木村衣有子さん、退屈男君)に出席。わたしはBSやケーブルテレビに未加入なので、野球はほとんどラジオで聴いている。
 ひいきの球団が負けたとき、いちばん悔しいのがラジオだ。ラジオ派のわたしはこの号はすごく読みごたえがあった。
 今年のヤクルトは語ることなしという状況で……この座談会以降はひたすらファームの応援をしている。たぶん、二年後くらいには強くなっているはず。ペナントレースだけが野球ではないというのは、弱小球団(九〇年代をのぞく)ファンの矜恃でもある。

2017/09/21

京都・高松記

 九月十七日、台風接近中だったが、新幹線で京都に行く。雨は降ってなかったので、バスで古書善行堂。善行堂の山本さんが選者になった『埴原一亟 古本小説集』(夏葉社)の話を聞いて、三重県の高校生が作った『詩ぃちゃん』という詩の冊子を受け取る。

 埴原一亟は、はにはら・いちじょうと読む。古本屋を営みながら、小説を書いていた。一九四〇年~四二年にかけて、芥川賞候補三回(「店員」「下職人」「翌檜」)。室生犀星は、「一寸いいけれども、文章が非常に拙くて、息絶え絶えに書いているようなところがあるナ」と「下職人」を評した。むしろ、「息絶え絶え」感こそが、素晴らしい。
 善行堂のあと、丸太町のギャラリー恵風の二階で開催中の林哲夫さんの油彩画展を見に行って、ホホホ座の三条大橋店に寄って、六曜社でコーヒー。
 松本清張著『対談 昭和史発掘』(文春新書)がおもしろい。鶴見俊輔さんとの対談でGHQの話をしている(いつか紹介したい)。夜七時、ファニィで東賢次郎さんと待ち合わせ。飲んでいるあいだに豪雨。次の日、三ノ宮から船でいっしょに高松に行く。ジャンボフェリー、快適だ。

 高松に着くと『些末事研究』の福田賢治さんがお出迎え。Nöra(ノラ)というお店でお茶を飲んでから、仏生山温泉。魚のうまい居酒屋で酒。福田さん、子育てしながら、畑もやっている。高松暮らし、楽しそう。仕事と遊びの境目がないみたいなことをいっていた。

 翌日は小豆島。船の中で東さん、福田さんと座談会。ふたりとも東京で二十年くらい暮した後、東さんは京都、福田さんは高松で文字通り悠々自適の生活を送っている。座談会でもそのあたりの話をいろいろ聞かせてもらった。
 森國酒造で日本酒を飲みながら、座談会の続き。高松に戻って、もり家でうどん。
 日常の交通手段に船がある暮らしはいいとおもった。

 高速バスで大阪に出て東京に帰る。高松から大阪や京都に行く場合、バスで神戸まで行って、そのあとは阪急を使ったほうが早いし楽——と福田さんに教えてもらっていたのだが、たしかにそのとおりだった。大阪市内に入ると、渋滞にまきこまれた。

 かっぱ横丁の「阪急古書のまち」が移転していた。

2017/09/15

トーマス・ブレークモア

 先日、『フライの雑誌』の堀内さんと飲んだとき、わたしが占領期のことに関心があるという話をしていたら、ロバート・ホワイティング著『東京アウトサイダーズ 東京アンダーワールドⅡ』(松井みどり訳、角川文庫)のことを教えてくれた。
 この本にはGHQで「ジャップ・ラヴァー」と呼ばれていたトーマス・ブレークモアの話が出てくる。ブレークモアは、フライフィッシングが好きで、養沢毛鉤専用釣場を開設した人物でもある。わたしも一度、堀内さんに連れて行ってもらった。

『東京アウトサイダーズ』の第七章「いいガイジン」では、トーマス・ブレークモアにかなりの紙数をさいている。

《GHQでの彼の任務は、「すでに完成されているこの国のシステムがアメリカ人によって破壊されるのを阻止すること」だったという》

 GHQのメンバーには、日本および日本人を見下している人もいた。日本語もろくに喋れない同僚も少なくなかった。ブレークモアはちがった。彼は一九三九年に来日し、東京帝国大学で法律を学んでいる。日本の法律書を日本語で読みこなせるのは彼くらいだった。
 ブレークモアは、アメリカ側が自分たちのシステムを日本に押し付けることに抵抗し続けた。

《日本はすでに立派な法体系があるのに、GHQはわざわざ前時代的なものにすげ替えようとした。もったいない話さ》

 いっぽう起訴前の容疑者を無期限で拘留する制度の改革には尽力した。明らかな人権違反だからだ。「日本人のためになる」改革は採り入れ、そうでないものは反対する。

 GHQ退職後は、日本語で司法試験を受験し、一九五〇年、東京に弁護士事務所を開設した。弁護士活動以外にも、フライフィッシングの釣場や五日市に農業試験場(東大の実習生に開放)を造った。その農地造りには、植村直己も参加していた。
 晩年、日本を去るとき、農地は生活クラブに委譲した。莫大な資産を売却し、日本研究を志す学生の奨学金財団設立にあてている。
 一九八三年にオープンした東京ディズニーランドの法律事務を担当したのもブラックモアだ。

 前回「幸運な占領」という小題をつけたとき、占領期の不幸な話もたくさんあることが頭によぎった。単純に考えすぎかなと……。

 ただ、占領期におけるアメリカ批判を見聞きするたび、仮に日本が戦勝国だったとして、ブレークモアのような態度を貫ける日本人がどれだけいたのだろうと考えて しまう。