2024/03/15

釣り人の移住計画

 三月三十日(土)から県立神奈川近代文学館で「帰って来た橋本治展」開催。六月二日(日)まで。亡くなったのが二〇一九年一月二十九日だから、もう五年になる。——文学展が開催されることを知らず、『フライの雑誌』の最新号(130)で「川は娯楽である 橋本治の時評から」というエッセイを書いた。二〇〇四年十月に起きた新潟中越地震と川の話である。

 同号の特集は「釣り人の移住計画」——全頁すごい。読みどころばかり。届いてから毎日読んでいる。移住する。当初考えていなかったことが次々と起こる。それでも決断し、新しい生活をはじめる。移住という選択の中には「釣り」が入っている。文中の小見出しに「人間いつ死ぬか分からない」なんて言葉も出てくる。

「東京から香川へ移住した2名の怪人対談」(大田政宏さん、田中祐介さん)で、田中さんが「自分は、仕事ばっかりしている皆が、何が楽しくて生きてるのか分からないです。釣りのために仕事するんじゃないですか」という言葉が印象に残った。
 趣味のために仕事する——それでいいのだ。わたしもそうおもっている。しかし仕事より趣味を優先しすぎると生活が苦しくなりやすい。そのバランスをどうとるか。そんなことばかり考えている(考える時間があるなら、遊ぶか働くかしたほうがいいのだが、どういうわけかそれができない)。

「東京から香川へ」の対談では移住してからの仕事のことも語り合っている。

《田中 地方の中小零細企業はほとんどがワンマンのオーナー会社です。移住者が勤めるのはなかなかつらいと思います。
 大田 手に特別な職があるならいいけど、未経験者が地方でカフェやそば店をやるのは無理だと思います。まず最初に就職先を決めておく、ある程度規模の大きい会社を目指す。仕事が順調でないと釣りも楽しくないから》

 わたしも地方に移住した知り合いが何人かいる。いずれも動きながら考える、あるいは動いてから考えるタイプだ。
 一時期、わたしも移住というか、二拠点生活を考えていた。決断できぬまま月日が流れ、気持がしぼんで今に至る。

2024/03/10

清戸道

 日曜の正午。いい天気。部屋で動かずに考え事をしていると気が滅入ってくるので、妙正寺川のでんでん橋を渡り、野方経由江古田散歩。高円寺から江古田までふらふら歩いて一万歩くらい。
 野方駅の北口の商店街を抜けて環七を歩く。豊玉氷川神社に寄る。豊玉陸橋の目白通りあたりで東京スカイツリーがちらっと見える。
 snowdropで高田宏著『雪日本 心日本』(中公文庫、一九八八年)、百年の二度寝で海野弘著『伝説の風景を旅して』(グラフ社)など。『雪日本 心日本』の「雪国考」、読み出した途端、引き込まれる。
 治療施設に入っている認知症の老人の話——。

《老人はむかし漁師であった。そのことを知った治療担当者が、ためしに老人を車にのせて海辺を走ってみたのである。ぼんやりとした老人の顔に生気がもどり、口からは失っていた言葉が切れぎれに出てきた。目に入る海の光景と肌にふれる潮風と耳にきこえる波の音と鼻に吸いこむ磯の匂いと、そしてそれらの感覚のすべてをつらぬく海の時空の感覚のようなものが、衰えしぼんでいた老人の脳をゆさぶり動かしたのであろう》

 そうした逸話のあと、京都生まれ石川県育ちの高田宏は「私は、私がボケ老人になったとき、雪の上に連れていってもらいたいと思う」と書いている。わたしは何だろう。自分の感覚を呼び覚ます場所——西部古書会館か。

『伝説の風景を旅して』は「八百比丘尼の若狭路」「山陽路と三年寝太郎」「小栗判官と熊野路」など、伝説伝承の地をめぐる旅の本。付箋だらけになりそう。

 江古田のスーパーみらべるでカクキューの味噌などを買う。珈琲林檎はしばらく休業か。残念。江古田浅間神社に富士塚(江古田の富士塚)があることを知る(ただし富士塚に登拝できる日は限られている)。
 江古田駅南口の「清戸道」石碑と案内板がある(練馬区の数ヵ所あり)。清戸道は東は江戸川橋(文京区関口)、西は清戸(清瀬市)に至る。道に沿って千川上水が流れていたので「千川通り」とも呼ばれる。
 清戸道を歩いて桜台駅、そこから関東バスで高円寺に帰る。

2024/03/08

大正の作家

 木曜日、珍しく早起きしたので午前十時すぎ、西部古書会館初日。両端の棚が混雑していたので中央の棚から見ると、宇野浩二著『文學の三十年』(中央公論社、一九四二年)があるではないか。早起きしてよかった。リーチ一発ツモの気分だ。
 過去何度となく背表紙を見てきたのだろうが、手にとったことはなかった。興味がないと目に入らない。目に入っても手にとらない。たぶん本にかぎった話ではない。

 単行本は冒頭の六頁が写真。巻末に写真解説もある。装丁は鍋井克之(天王寺中学時代からの宇野浩二の友人)。

 古木鐵太郎著『大正の作家』(桜風社、一九六七年)の「宇野浩二」を読む。

《宇野さんは話好きだ。いったんなにか話し出すと、口を突いて出るような感じである》

《宇野さんの話を聞いていると、よく脇道にそれていって、はじめの話はどこへ行ってしまったのかと思うようなことがあるが、長い話の後に、ぐるっとまわって再びもとの話にもどってくるから面白い》

『大正の作家』の巻末に大河内昭爾の「跋 古木鉄太郎」が収録されている。

 古木の没後刊行された『紅いノート』の記念会に谷崎潤一郎の『痴人の愛』のモデルといわれた小林せい女史がいた。

《小林せい女史は宇野浩二氏の「文学の三十年」(中央公論社刊)にも出てくるが、それには芥川竜之介、宇野浩二、久米正雄、里見弴氏らにかこまれた写真まで掲載されており、大正文壇では相当派手な存在だったことが想像できる》

 この写真について『文學の三十年』では「人物は、むかつて右から、芥川、せい子(当時の谷崎潤一郎夫人の令妹)、宇野、里見、久米、である」と解説している。

 よくあることだが、わたしは『大正の作家』に『文學の三十年』という書名があったのに読み飛ばしていた。
『文學の三十年』は大正から昭和初期にかけての文学の世界が描かれている。自分が文学に興味を持ちはじめたとき、この本の中に出てくる人物はほとんど故人だった。そうした作家が二、三十代の若々しい姿で登場する。百年前の文学が身近におもえる。

 菊富士ホテル時代、宇野浩二はそのころ時事新報の記者だった川崎長太郎と親しくなる。宇野は川崎の師の徳田秋聲の(当時の)恋愛小説をよくおもってなかった。

《それで、その事を川崎にいふと、そのたびに、川崎は強く反対した。しかし、いくら川崎が反駁しても、私も飽くまで自分の意見を述べた。ところが、私がいかに理を説きつくしても、川崎は決して彼の反対意見を撤回しなかつた。(中略)ずつと後に、川崎が、その頃の話をして、あの頃は、誇張していへば、帰りに、悲憤の涙をながした、と云つた》

 相手が大先輩だろうが、文学に関しては意見を曲げない。川崎長太郎らしい。
 その後、川崎長太郎は一九二四(一九二五?)年に「無題」を書いて作家として世に出る。宇野は川崎の小説を読み、彼の苦労を知る。

《川崎のために、心の中で、杯をあげた。——》